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第四話 濁鬼

(一)

 広々とした朝の草原を風が渡ってゆく。

 秋の気配を含んだ、冷たい爽やかな風であった。

 なだらかな起伏を持つ草原は、一面の緑で覆われている。

 夏の間の陽光をその中に蓄えた、生命力に満ち溢れた緑であった。

 遥か遠くには、山脈の峰が淡く緑に霞んで見える。

 青く澄み渡る大気の中に、陽光が微粒子となって煌めいているようだった。

 草原を吹く風の中に、宮本武蔵は立っていた。後頭部で無造作に結んだ総髪が、風に揺れている。

 彼は軽く眼を閉じて、大気の中に溶けた緑の生命力をゆっくりと呼吸していた。

 呼吸法の一つ、外気法である。大気に満ちる清新の気を体内に取り入れ、循環させているのだ。この呼吸法を行うには、夜12時から正午迄の、『生気』と呼ばれる時間帯が良いとされている。

 だが、あまり武蔵は気にしてはいなかった。理屈はともかく、朝の澄み渡る空気を胸一杯に呼吸すれば気分が良い。武蔵はこの時間が好きだった。

 それは、朝の空気だけが目的では無い。

 武蔵はゆっくりと眼を開く。琥珀色の瞳に穏やかな光があった。背後から、そっと草を踏み分ける音が聞こえた。

 「ごめんなさい。邪魔をしてしまったかしら?」

 風の中に聞こえる鳥達の鳴き交わす声の様な、涼やかな声がした。

 振り返った武蔵の視線の先に、微笑みを浮かべたルーナが立っていた。

 昼間の旅姿の僧衣ではない。

 白い絹を身に巻き付けていた。布には様々な刺繍が施されており、金細工が縫い付けられている。首や腕にも、宝石や金銀の飾りを身に付けていた。

 朝の光の中で、美しい金髪が黄金の如く煌めく。側頭部から生えた黒曜石の光沢を持つ角も、首元と両腕の翡翠の鱗も、宝石のような輝きを放っていた。

 深い海のような碧い瞳は優しげな光を湛えて、武蔵を見つめている。

 武蔵は何故かルーナの顔を直視出来ずに、顔を青空に向けた。首元が紅く染まっている。

 何時だったか、立ち寄った寺で見た、天竺の絵に描かれた天女がそのまま現世に現れたのかと思った。勿論、口に出しては言えなかったが。

 内心、赤くなった顔を見られていないか、武蔵はひやひやしていた。

 ルーナはそんな武蔵の様子を見て、くすくすと笑っていた。


 草原の中から、灰色の岩が突き出していた。

 武蔵とルーナはその上に二人で座り、風に吹かれながら空を見上げている。

 「空の青さは、この世界も、ガイラースも同じね……」

 ルーナの口調が、常とは違い、穏やかなものとなっている。

 普段は気丈に振る舞おうとしているのだろう。武蔵と二人だけの時は、ルーナは素の表情を見せる。そんな時、彼女は見た目通りの若い女性としての態度になる。

 「天竺よりも、南蛮よりも遠い国かあ。おれも行ってみたいなあ」

 武蔵が、顔一杯に子供のような、うきうきとした笑みを浮かべて言う。

 ルーナは、そんな武蔵の表情が好きだった。こういう時、彼は自分よりも年下に見える。

 「あなたは不思議な人ね」

 ルーナがしみじみと言う。

 「そうかあ?半蔵や蛍殿からは、“剣の事しか頭に無い”とよく言われるぞ」

 「ふふ」ルーナが小さく笑う。「今みたいに、子供みたいにはしゃいだり、他人の事で一生懸命になったり、女性や子供にはとても優しいけど、悪い奴には鬼みたいに怒ったり……私の為に命懸けで闘ってくれたり」

 「ルーナと高珍老師は、おれの命の恩人だからな。二人に会わなければ、おれは、あのまま濁鬼〈ローガー〉になっていたさ……」

 武蔵の眼が、遠いものを見る目付きになった。ルーナが無言で眼を伏せる。

 「空を見ているとな」

 空気を変えるように、明るい口調で武蔵が話す。

 「老師に教えられた、『この世界の全てのものは“気”の様態の一つである』という話が、何となく理解出来る気がするなあ」

 「『“気”の一元論』ね。私達の世界を成り立たせている、“気〈プラーナ〉”と“魂〈ルン〉”の関係……」

 「理屈は色々と説明されたがね。おれはどうも、そのような細かい話より、こうして自分が自然の一部であると感じながら空を見上げている方が、よっぽど納得出来るなあ」

 武蔵の見上げる空に、雲が流れてゆく。

 「あなたらしいわね」

 ルーナは、そんな武蔵を見て、優しい笑みを浮かべた。






 そこは森の奥に在る、滝の淵であった。

 淵の中には武蔵が立っている。上半身は裸だ。陽焼けた、逞しい肉体を外気に晒している。

 武蔵の正面の岩の上には、高珍が座している。顎下の豊かな白髭を撫でながら、口を開いた。

 「よいか武蔵よ。この世に存在する全てのものは、生物、無生物の区別無く、“気”によって成り立っておる。我々人も、この岩も、その草も、全てはこの世界を満たす“気”の一時的な姿に過ぎん。人は人の姿をした“気”であり、草は草の姿をした“気”であるという事なのだ」

 「はあ」

 武蔵は、分かったような、分からないような、気の抜けた返事をする。

 「おぬし、全然分かっとらんだろう」

 「いきなりこんな話をされて全て理解出来たら、刀を捨てて僧にでもなりますよ」

 武蔵は困ったように太い眉を寄せて笑うと、頬を掻いた。

 「ま、そりゃそうじゃのう」

 高珍は苦笑すると、自らが座している岩を指差した。

 「この岩は、一見するとひとつの塊に見えるが、実はそうではない。質感の異なるいくつもの小石が集まったものじゃ。その小石も、様々な大きさの異なる砂粒から出来ておる」

 「ふうむ」

 武蔵は足下の水面に手を入れ、水底の美しい砂を手に取った。その砂を右手から左手へとこぼしながら、興味深そうにその動きを見ている。

 「その砂粒も、よく見れば様々な形の小さな粒の集まりである事が分かるじゃろう。その粒もまた、更に細かく小さな粒の集合体じゃ。そうして、その粒はどんどんと、際限無く細かくしていく事が出来る」

 「すると、どうなるのですか」

 武蔵の眼が好奇心を帯びてきた。高珍はそれを見て、満足気に頷く。

 「分かりやすく言えば、目に見えない程小さな“粒”にまで行き着く事になる。それを“粒”と呼んで良いかは分からん。それこそ、十人いれば、十通りの呼び方が有るわい。天竺ではそれを“極限まで微小なもの”と説明しておるな。それを漢語では『極微』と訳しておる。そしてこれも、言い方は様々であろうが、その“粒”は一つ一つが、ごく僅かではあるが“力”を宿しておる。そうさな、気配、存在感、生命力……そう“いのち”が一番適当かのう。そのような“力”を宿した極微の粒が“気”の根元よ」

 「……つまり、我々人も、野の獣も、草木も全て、元を辿れば、その“気”から出来ていると……」

 「そういう事じゃ」

 「……やっぱり、何の事やらさっぱりですなあ」

 武蔵が照れたように、頭をがしがしと掻きながら答えると、岩の上で高珍がひっくり返った。

 「うおおいっ!人がせっかく説明してやったのに!!」

 「いや、そうは言いましてもなあ。元を辿れば同じ“気”であるのに、どうしておれは“獣”ではなく“人”なのかと。“草木”でもなく“人”なのかと思うと不思議でしてなあ」

 「それよ」

 高珍が膝を叩く。

 「それを決めておるのが、我々生き物の中に存在する“魂〈ルン〉”なのだ」

 「るん?」

 「例えるならば、ここでの役割は“見取り図”と“情報”よ。“魂”の見取り図を元に“気”で作られた体に、受け継がれてきた知識や記憶といった情報が加わる事で、それぞれの生き物の形態が決まるのだ。ま、“業”や“縁”というやつだな」

 「ふううむ……」

 武蔵は胸の前で腕を組み、しきりに頭を捻っている。

 「知識や記憶というのは、書物や口伝だけで無く、生まれつき受け継がれているものなのですか?」

 「“魂”は、“業”といった個々の生命体に関わる情報は勿論、遡れば時間と空間の全てに存在する情報とも繋がっているとされておる。ま、確かめた奴は知らんがな」

 武蔵の眉が八の字になっている。今にも頭頂部から煙が出そうだ。

 「頭の中が、こんがらがりそうですなあ……。それでは、死ぬとその“魂”はどうなるのですか?」

 「死とは“消滅”ではないからな。肉体が病や傷、寿命といったもので“気”の力を使い果たせば“魂”は肉体から離れる。そして“魂”は時間と空間の中へと還り、肉体であった“気”はいつしかほどけ、世界へと戻っていくさ」

 「『輪廻転生』というやつですかね」

 「そんな堅苦しい言い方でなくて良い。ま、水みたいなものさ。大地の水は陽の光で熱せられ、天に昇り雲になる。そしてまた、雨として水に戻り大地へ降り注ぐ。いくら姿形が変わっても、水そのものが消えるわけではない」

 「それでは“霊”というものは存在するのですか?」

 「“魂”を前提として考えれば、強い感情や思念によってこの世に残った“魂”の残骸よ。『祟り』なんてのは、その残骸に、生きてるやつの“気”が反応しちまった訳だな。そして、怒りや恐怖、憎悪といった特に強い感情によって、周囲の“気”の性質まで変化させてしまう程のものが……」

 「“濁気〈ローグ〉”ですな。では“濁鬼〈ローガー〉”とは、“気”が濁気により変化した“もの”という事ですか」

 「うむ。“生き物”という範疇からは、外れておるのう」

 武蔵は「むむう」と唸ると、眉間に皺を寄せる。

 「闘う方法は有るのですか。剣術とは、生き物相手の技術ですからなあ」

 武蔵の言葉に高珍の眼光が鋭くなる。身を乗り出し、今までとは違う重い口調で言葉を発した。

 「“気”には“気”で対抗するしか無い。ただし、こいつは使い方を誤ると、おぬし自身の命を確実に削る。……それでもやるか?」

 高珍の言葉をじっくりと呑み込むように、武蔵はしばし眼を閉じた。そして双眸に強い決意の光を宿すと、ゆっくりと頷いた。

 武蔵の視線を受け、高珍も口元に笑みを浮かべる。

 「よし……。まずはおぬしに教えた仙道の呼吸法を完全に習得せい。大気の中に存在する“気”を体内に取り込み、循環させる事が出来ねば何も始まらんからな」

 「はい!!」

 武蔵はゆっくりと、山中に満ちる清新の“気”を呼吸し始めた。





 「本来なら、闘う為の法では無いわ……。それに、人間〈マヌ〉の身で使うのは、あまりにも体に負担がかかり過ぎる。……私が、もっと闘えたら……」

 ルーナが悲しみを湛えた眼で武蔵を見る。

 「仕方無いさ“扶桑”の無いこの世界では、『聖仙術』は使えないのだからな」

 「ふそう?」

 ルーナが不思議そうな眼で武蔵を見る。

 「ああ、すまん。前にルーナから聞いた、ガイラースにある“太陽樹”の事さ。『無限に気〈プラーナ〉を産み出す天に浮かぶ大樹』というのが、昔聞いた、仙人の国にある不老不死の実を付ける扶桑の樹と似ていてな」

 「へえ……。この世界には、そんな形で伝わったのかしら」

 ルーナの碧眼が興味深そうに丸くなる。そんな彼女が実際の年齢よりもずっと幼く見えて、思わず武蔵は笑い出してしまう。

 きょとんとした表情で見ていたルーナは、笑い続ける武蔵に顔を赤くし、頬を膨らます。

 「……何よ!やっぱり人間〈マヌ〉のくせに生意気!!」

 そう言ってそっぽを向くルーナに、やはり笑いながら武蔵が「すまん、すまん」と声を掛けている。

 そんな二人のやり取りを、草むらの陰から見ている人影があった。

 「あの二人、良い雰囲気ですね。二人でこっそり離れて行くから怪しいと思ったら、やはりですね。ふふふふ」

 「お前、楽しそうだな……」

 生き生きとした表情で赤い瞳を輝かせた蛍と、隣でどこか疲れた表情をしている半蔵であった。

 「おい、やっぱ覗き見って良くねえんじゃねえか」

 「すっとぼけた事言わないで下さい。これはお二人の護衛です。護衛。私だって気は進みませんが、お二人の安全の為です。これは仕方の無い事なのです。なので、もっと近くに行きましょう。話の内容が聞き取れません」

 「お前絶対楽しんでるだろ」

 朝の陽光の中で、束の間の平穏な時が流れていた。





(二)

 眼前の宍戸梅軒から、凄まじい“気”の塊が、武蔵の全身に叩きつけられた。高熱の空気に晒されたような痛みが走る。

 黒い疾風と化した梅軒が、武蔵目掛けて左手の鎌を振りかざし突っ込んで来た。加速度を付けて膨れ上がる妖気が、爆風の様にぶつかって来る。

 破!!

 武蔵は呼気を激しく発し、太刀を斬り上げる。二人の間の大気が、一瞬裂けるような音を立てて弾けた。

 ぎいん!!

 鋭い金属音が上がる。二つの気と刀身がぶつかり合った瞬間、梅軒の体は宙に跳ね上がっていた。目の前から消え失せたと思う程の素早い動きだった。

 しかし、武蔵の眼は正確にその動きを捕らえている。梅軒は、武蔵から5メートル程離れた草地に音も無く舞い降りた。

 「じゃああああっ!!」

 梅軒が炎のような呼気を吐いた。眼球は血の如く深紅に染まり、吊り上がっている。口が大きく開いていた。唇の両端が裂け、血が流れている。歯をがちがちと噛み鳴らし、顔には幾筋も血管が浮いている。悪鬼の顔であった。

 妖気が沸々と空気を煮えたぎらせながら、梅軒の全身から染み出していた。

 頭上の天は、その禍々しい“気”に呼応するかの様に、暗雲が立ち籠めている。

 梅軒の伸び乱れた髪が、ざわざわと風に揺らめいている。瘴気を含んだ風が武蔵に向かい吹いていた。その風を真正面から受け、武蔵は猛禽のような鋭い視線を向けている。

 「なんてえ殺気だ……。ルーナの姐さん達程、濁気を感じられなくても、全身を焼け付いた刃物で切り刻まれてるみてえだぜ」

 武蔵の後方に位置している半蔵も、冷たい汗を浮かべている。

 「濁気に取り憑かれた人間というのは、全てこれ程のものになってしまうのですか?」

 隣の蛍も同様に、梅軒の変化に戦慄を覚えていた。

 蛍の言葉にルーナは気付く。おかしい。自然発生した濁気に人間が影響を受けるのは分かるが、あの伊吉という少年の話では、梅軒という男は数日前まで村で一緒に生活していた筈だ。ここまでの影響が出るには早すぎる。

 「貴様の仕業か……!アバラ!!」

 ルーナの怒声に、梅軒の背後の朽木に取り付いている、異形の人影が哄笑を上げた。白い面から血走った眼球が突き出している以外は、何の表情も見て取れないが、その声には明らかにこの場にいる者達への嘲りが含まれている。

 「そうさあ。今頃気付いたか、ルーナよ。おれの“(ひる)”の力よ……!」

 アバラが枝の上にゆっくりと立ち上がる。身には黒い襤褸(ぼろ)をまとい、手足と仮面の下の頭部まで、全身に血と膿でどす黒く汚れた包帯を巻いている。

 首が異様に長い。1メートル以上もある。歪なのは首だけでは無い。手足の長さ、太さまでが不揃いなのだ。立ち上がった全身の骨格も不気味に歪んでいる。まるで、何人分もの人間の体の一部分を寄せ集め、無理矢理一人分の体を作ったような姿であった。

 風の中に異臭が漂っている。嗅ぐ者の肉体の中に、不快なものを育てあげる、吐き気を催す臭いである。それはアバラの肉体の放つ腐臭であった。

 アバラの仮面が僅かに上がる。そこから、黒く変色した肌が見える。唇が無かった。皮膚がえぐり取られたように、黄色く変色した歯が剥き出しになっているのだ。

 その口が、かっ、と開いた。真っ赤な口であった。口の中に血溜まりが出来ている。その中で、何かがのたくっている。

 “ごちゅっ”

 何かが血を溢れさせ、外に這い出て来た。長さは20センチ位有る。それがナメクジのように、アバラの顎を伝い這い下りて来る。

 それは巨大な黒い蛭であった。

 表面は膿に似た茶色い汁に濡れて光り、赤い血管のような筋が無数に走っている。

 “ぷぎいいい”

 蛭が先端に有る穴から、緑色の粘液を飛ばしながら鳴いた。

 「うっ」

 蛍が思わず顔をしかめ、うめき声を出す。半蔵も顔色が悪い。額にふつふつと汗が浮いている。

 「我が体内で、濁気をたらふく喰らわせた蛭よ……。こやつに憑かれれば、どのような生物であろうと、たちどころに“気”を侵されるわ」

 アバラがにちゃにちゃと口内の血を滴らせながら話し、にいっ、と唇の無い口で笑った。

 「しかし、この男は中々しぶといなあ……。必死に濁気と闘っておるわ」

 梅軒が血涙を流している。己の内部を蝕むものに、懸命に対抗しているのだ。

 ひひひ、と不気味に笑うアバラの声が響いた。梅軒の足掻く様が、よほど可笑しいらしい。

 「きさま……!!」

 武蔵が、ぎりっと歯を軋らせる。その双眸が怒りに燃えていた。

 「おれに構っている場合かあ?」

 アバラの嘲るような声と共に、「げやあああっ!!」梅軒が気合を放ち、鎖を振り始めた。

 大気を裂く音が周囲に響き渡る。彼は左手で鎌を中段に構え、右手で鎖を振り回している。

 武蔵は脇差を抜き、両刀となった。左の脇差を中段、右の太刀を上段に構える。

 梅軒の鎖は、始め手元から50センチ程の長さであったが、回転するに従い徐々に伸びていき、今は2メートル程の長さとなっている。頭上で水平に回転させていた鎖が今は体の側面で斜めになり、ビュンビュンと空気を切り裂く鋭い音を発して回転の速度を増している。

 梅軒は鎖を回しながら、ジリジリと間合いを狭めて来た。分銅の間合いも少しずつ伸びてゆき、全身に殺気がみなぎっていく。

 ヂリ、と武蔵の左足の指が小石を踏んだ。

 瞬間、稲妻のような殺気が疾り、唸りを上げて分銅が武蔵の顔面に飛来した。

 反射的に武蔵は頭を傾けていた。思考よりも先に体が反応した。戦いの中で身に付けた動きであった。

 大気が焦げる程の恐ろしい風圧が、武蔵の右側頭部を襲った。分銅が僅かに掠め、皮膚が裂け鮮血が宙に舞う。

 ドゴオッ!!

 衝撃音と共に、武蔵の背後にあった杉の幹が、ごっそりと抉り取られていた。

 梅軒が鎖を引き戻すと同時に、武蔵は動いていた。迅雷の寄り身である。だが、それを予想していたように、梅軒も武蔵へと疾風のように突き進んで来た。

 「があああっ!!」

 梅軒の体が、獲物に襲い掛かる鷹のように宙に舞った。

 旋風のように、目まぐるしく回転しながら武蔵を刃が襲う。

 その攻撃のことごとくを、武蔵は二刀を振るい弾いている。金属同士のぶつかり合う激しい摩擦音が響き、火花が電光の如く散った。

 しかし、反撃をする余裕は無い。徐々に武蔵の体が後退していった。その顔や体には、鎌の刃で付けられた傷が幾筋も出来て、血が滲んでいる。

 後退する武蔵の背が何かにぶつかった。草地に立つ朽木であった。

 「ヒエイッ!!」

 怪鳥の叫びを上げ、梅軒の手から分銅が放たれた。

 武蔵は太刀を立てて防ぐ。刀身に鎖が巻き付いた。太刀を取られた武蔵が体勢を崩す。

 「ムサシ!!」

 ルーナが悲鳴に似た叫びを上げるのと、武蔵が右手の太刀を放すのが同時だった。

 分銅は太刀に絡み付いたまま、地面に落ちる。

 武蔵は脇差を右手に持ち換え、猛然と梅軒へ突進する。

 鎌が武蔵の首筋を襲った。その鎌を脇差で受け、斬り払う。鎌が手から弾き飛ばされた。

 同時に武蔵は肩先で激しく梅軒の胸を突き飛ばした。

 梅軒は背中から草の上に落ちたが、両手を突き一回転して立ち上がる。そのまま暴風のように、武蔵に向かい突っ込んで来た。

 武蔵は脇差を放り捨てると、突進して来た梅軒と正面からぶつかり合う。筋肉と骨が衝突する鈍い音が響く。

 武蔵の胴体に、梅軒の両腕が回されていた。凄い力が武蔵の肉と骨を締め上げている。人間離れした怪力だった。

 「ぐううっ!!」

 全身にありったけの力を武蔵は込めた。少しでも力を抜けば、その瞬間背骨が折れるだろう。みしみしとあばら骨の軋む音が聞こえる。

 「ムサシ!もうやめて!!このままではあなたが死んでしまう!!」

 ルーナの絶叫が響く。

 その声を受けて、半蔵と蛍が棒手裏剣を構えた。しかし、「やめろ!手を出すな!!」武蔵の声に動きが止まる。

 武蔵のすぐ前に、眼を剥いた梅軒の顔があった。憎しみに顔を歪めた鬼相であった。アバラの蛭が、武蔵を己の父を殺した野盗に見せているのだ。

 「哀しい顔だな……」

 滝のような汗をかき、空気を絞り出された顔は紫色に変わりつつある。だが、武蔵の瞳に宿っているのは哀しみであった。

 武蔵は自由な両腕をゆっくりと上げ、両掌を梅軒の左右のこめかみに当てた。

 哈!!

 左右の掌から、梅軒の頭部へと“気”を送り込む。

 びくん、と梅軒の身体がすくみあがり、武蔵を締め上げていた腕の力が緩んだ。

 「ぬう!!」

 アバラの口から、呻くような声が漏れる。

 「“癒気法〈カルナー〉”か――!」

 「何だよそりゃあ!じいさん!!」

 声を上げる高珍に、半蔵が尋ねる。

 「“気”を操作し、他者の肉体――傷や病巣といった、特定の部位に送り込む事で、肉体を癒す法よ。武蔵め、それを治癒では無く、取り憑いた蛭を直接叩く為に使いよった!!」

 武蔵は梅軒の体内を循環する気の流れを捉えていた。気の中に溶け込んでいる濁りを感じる。肉体の奥、体の中心に、濁気の塊がある――。こいつか!!

 破!!

 武蔵は、ありったけの“気”を濁気の中心に叩きつけた。二つの肉体の間で白光が爆発した。“気”が弾け、激しい飛沫となって散ったのである。

 梅軒の身体が膝から崩れ落ちた。眼を見開き、血涙が溢れている。顎が大きく上下に開き、口の端が切れて、血が流れている。

 その口の中で何かが動いた。舌では無い。それは黒い巨大な蛭であった。蛭が粘液を撒き散らし、のたうち回りながら口から出て来ようとしている。

 「おごぼおおっ!!」

 梅軒が声にならない叫びを上げる。蛭の体が気道を塞いでいるのだ。

 「ちいいっ!!」

 武蔵は梅軒の口の中に手を入れ蛭の体を掴むと、そのまま一気に引きずり出した。

 蛭の体長は1メートル程もあった。武蔵の放った“気”によって内部から破壊され、体表に無数の裂け目が出来ている。

 緑色の体液を流しながら、蛭は武蔵の右腕に絡み付いた。

 “ぴぎいいいいっ”

 先端の穴から体液を噴き出しながら、蛭が不気味な鳴き声を発した。蛭は武蔵の右腕を締め上げている。ぎちぎちと、肉に蛭の体が食い込む音がする。

 武蔵は左手を上げ、掌を蛭に向けた。

 吩!!

 武蔵の体から、熱気の塊に似た高圧のものが弾けた。一瞬の白光の爆発が起こる。

 次の瞬間、蛭の体が爆裂四散した。周囲に黒い粘液が飛び散り、それは草地や武蔵の身体に付着すると同時に、白い煙を立てて蒸発してしまった。

 梅軒は口の端から血を流し、呆けた眼でその場に座り込んでいる。

 ――大丈夫か――そう武蔵は声を掛けようとした。だが、その言葉は出せなかった。

 「ぐはっ!!」

 ルーナ達の目の前で、武蔵は血を吐き出し膝をついた。脇腹を押さえている。先程の攻撃で、内臓が傷付いたのかもしれない。

 「ムサシィ!!」

 ルーナが武蔵に駆け寄る。その姿を見たアバラの眼が光った。

 「蛍!!」

 その瞬間、半蔵と蛍が動いていた。

 朽木の上から動こうとしていたアバラの身体が、がくん、と止まる。

 「むう?」

 身体が動かない。全身に何かが絡み付いている。目の前に細い銀光が見えた。それは輝きを放つ糸であった。

 細く強靭な糸が、無数の銀の軌跡をえがき、アバラの全身の動きを封じているのだ。

 その糸は、アバラの眼前にいる、蛍の指先から放たれていた。

 蛍の横を半蔵が駆け抜けてゆく。右手には忍刀が握られている。それを見たアバラの口が、大きく開かれた。

 「蛭かよ!」

 半蔵が叫ぶと同時に、蛍が左腕を宙に持ち上げ、手前に引いた。

 どん、と音を立てて、アバラの右腕が手首から地面に落ちた。どす黒い血が噴き出す。

 「ががっ!!」

 一瞬、アバラが動きを止めたと同時に、半蔵の左手から金属光が疾った。

 鉄針がアバラの眼と眼の間――面の中央に根元まで突き刺さる。

 「ぬがっ!!」

 アバラが頭を仰け反らせる。

 半蔵が跳躍し、蛍の糸を踏み台にして更に高く飛び上がった。アバラの頭上から、忍刀を構えて振り下ろす。

 「首を斬り落とせばよ!!」そう言いかけた時、半蔵の背筋に寒気が走った。

 突然、アバラの胸の部分が盛り上がり、身に纏った黒衣を引き裂き、鋭い爪を生やした“右腕”が飛び出して来た。

 「むううっ!!」

 半蔵は咄嗟に両脚を抱え込んだ。その真下を、大気を裂き異形の右腕が通過する。

 その腕を蹴り、半蔵の体が再び宙に舞った。

 「化け物があ!!」

 半蔵の忍刀が、アバラの眉間に突き刺さった。ずがっ、と、骨肉を断つ音が響き、刃が後頭部へと突き抜ける。

 そのまま半蔵は忍刀を手放し、アバラの背後の草地へと降り立った。

 肩で息をしている。一瞬の攻防であったが、半蔵は全身から汗を噴き出していた。

 「半蔵様!!」

 蛍が呼び掛ける。

 「大丈夫だ。蛍――糸を切れ!!」

 半蔵が叫んだ。アバラの上体が突如起き上がる。反射的に蛍は指先から伸びた糸を切り離し、後方へ跳んだ。

 アバラが口から大量の黒い粘液を吐き出し、それが寸前まで蛍のいた草地に振りかかる。凄まじい腐臭を発し、粘液のかかった草が溶けていった。

 「惜しい……」

 アバラの白い面が割れ、その下の顔があらわになった。

 眼と鼻と口だけを残し、他が全て隠れる様に包帯が巻き付けてある。その包帯は大部分が、赤黒いものと、黄色く濁ったもので汚れていた。

 瞼の無い両の眼球が剥き出しとなり、鼻も溶け落ち鼻腔が黒穴となっている。唇も剥がれ、黄色い歯が外気に晒されていた。頭部に巻かれた包帯の所々から頭髪が飛び出している。

 顔、と言うより、頭蓋骨に僅かの肉を貼り付けたようだった。

 アバラの体液で腐食した、半蔵の忍刀と針が頭部から抜け落ちると、不気味な顔を歪ませ、にいっ、と笑った。

 「良い連携じゃないか……。人間〈マヌ〉にしては中々のものだよ。おっと失礼、そちらのお嬢さんは、只の人間では無いようだね」

 「きさまに言われたくは無い……!」

 そう答えた蛍の姿は、先刻迄とは変化していた。

 柿渋色の筒袖から見える白い腕の肘までが、赤黒い毛に覆われている。

 指先からは白く鋭い爪が生え、その先端からは、先程切り離した銀糸が伸びている。糸は蛍の爪の先から生み出されていたのだ。

 赤毛の下の額には、縦に三つ並んだ緋色の真珠の様な眼が、左右に一列づつ。合わせて六つの眼が現れていた。隻眼の蛍は、残された左眼と共に、七つの緋い光をアバラに向けている。

 「蜘蛛か……。そう言えば、遥か昔、ガイラースからヤクシャ族の一部の者達が、マヌーシャ国へと渡ったと聞いたが……。そうか、人間共と交わり生き延びていたか。人外の身で、浅ましいものよのう」

 アバラは、ごろごろと咽に痰が絡まったような音をさせて嘲った。それに反応したのは半蔵だった。

 「黙りやがれ化け物が!!蛍を侮辱すんじゃねえ!!そもそもてめえが一番人外だろうが!!」

 「失礼な。おれの体は、ほぼ“人間”から出来ているよ。まあ、他人同士の寄せ集めだがね。それよりも良いのかね?おれに気を取られていても……」

 その時であった。この世のものとは思えない絶叫がほとばしった。

(三)

 その声に全員が視線を向けた。

 アバラを挟む形で蛍と半蔵。そこから数メートルの距離を空けて、武蔵と彼に寄り添うルーナ。武蔵の正面に梅軒と、その三人の元に走り寄る高珍がいる。

 叫び声は、その場にいる全員から離れた場所からであった。

 草地の奥、野盗達の根城であった小屋と、武蔵達との間の草地に一人の男が倒れている。

 男は野盗達の生き残りの新之助であった。

 顔と体が泥で汚れている。武蔵達が戦っている間に、縛られたまま這って逃げ出そうとしていたらしい。

 その新之助の口に、黒い巨大な蛭が半ばまで侵入していた。口と蛭の間に出来た僅かな空間から、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が漏れているのだ。

 「しまった……!先程のもう一匹の蛭か!!」

 高珍がそう言った時には、蛭は新之助の体内に完全に入り込んでいた。

 全員が息を呑んでその光景を見詰めていた。

 「おお」誰のものとも分からぬ声が呻いた。「あの男の顔が――」

 新之助の顔が、怖気立つような笑みを浮かべていた。人間の底に潜んだ、本人も目を背けるようなおぞましい欲望が、恍惚の表情の中に剥き出しになっているのだ。

 やがてその表情の中に、苦悶の色が混ざり始めた。生きたまま内臓を喰い散らかされるような苦痛の絶叫が、笑いの形が張り付いた口からほとばしっている。

 新之助が顔面から地面に倒れた。全身が細かく痙攣している。見る間に全身の筋肉が震え出した。皮膚の下で、筋肉が意思を持った別の生き物のように、ぼこぼこと脈打っている。急速に体毛が成長し始めた。

 「――いかん!!」

 ルーナに抱えられた武蔵が、荒い息を吐きながら声を出す。「“魂”が狂ったか――!!」

 目の前で、新之助であったものが変化していく。全身の肉が膨れ上がり、着物を引き裂いていた。裂け目から黒い獣毛が見える。首がめきめきと音を立てて伸び、口は耳元まで割れて赤く長い舌が踊った。

 「おいおい……、“るん”だか何だか知らねえけどよ……。誰でも良いから何がどうなってんのか教えてくれよ!」

 半蔵が顔を青ざめさせて、後ずさっている。

 「“濁鬼〈ローガー〉”よ……」

 武蔵を守るように胸に抱きながら、ルーナが言う。

 「魂の中の“業”が狂っておるのじゃ……」高珍が続ける。「人の子も、獣の子もな、母の胎内では皆、同じ姿をしておるのだ。魚、蛙、蛇、鳥、獣、猿と姿を変えながら、人の子は最後に人の姿となって出て来る。“魂”が“気”を導くのだ。人が人として生まれるのは、親から子へと“魂”の一部が受け継がれるからよ。だが、“魂”の中には、全ての生命の“業”が宿っておる……」

 「な…、な…?」

 「濁気により“魂”が狂えば“気”は在るべき姿を保ってはおられん。それどころか“業”さえも狂えば人でも獣でも無くなる。いや、“人でも獣でもある”と言うべきか……」

 「つまりよ」

 目の前で、“それ”はゆっくりと立ち上がった。

 「理屈はともかく、濁気に完全にやられると、こうなるって事かよ!!」

 異様な光景がそこにあった。

 象程の大きさの巨獣が、ぬうっと立ち上がった。

 胴体一面を、黒い剛毛が覆っている。腹の毛は下にまで垂れていた。

 太い腕の先には鋭い爪の生えた指がある。一見、それは熊の胴体のようであった。だが、下半身は爬虫類のそれである。熊の胴体に、蜥蜴(とかげ)の脚が生えているのだ。

 そして本来ならば、首の在るべき場所に、3メートル程の長さの蛇の首が生えていた。青緑色の鱗がびっしりと生えている。

 見上げると、巨大な蛇の頭部がある。しかし、鱗が無い。人間の肌を持った蛇だ。頭髪が有り、口からは人の歯が覗いている。

 “それ”は口を上下に大きく開け、鳴いた。人の哭き声とも、獣の吠え声ともつかない、聞く者の背に怖気を走らせる声であった。

 「濁鬼の産声よ!!」

 瘴気の風の中で、アバラの笑い声が渦巻いていた。

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