第二十四話 雷雨 後編
(一)
四人の眼前には、洞窟の壁面に出来た裂け目が、大きく口を開けていた。
洞窟は横に長い構造になっている。裂け目があるのは、ボルドたちが焚き火をした場所からは、光も届かず死角になっていた場所だ。
裂け目の下には、小鳥が落ちていた。それはすでに紙片へと戻っていたが、まるで火に当てられたかのように、全体が焼け焦げている。
「何故、こんなことに……」
シエラが、紙片を見下ろしながら呟いた。
「この裂け目だ……」エナクが、ぼそりと口にした。「ここから漏れてくる、瘴気にやられちまったんだ……」
松明をかざして、内部を覗き込むと、どうやら裂け目は想像より遥かに長く、広いらしい。
「ここね……」
「気をつけて……」
ボルドの声に小さく頷いてから、シエラがゆっくりと裂け目に近づく。
微かに、風が吹いている。黒々と口を開けた裂け目から、濃い闇色をした風が吹き上げてくるのだ。
その風が、そろり、とシエラの肌を掠める――。
「……ッ!?」シエラの顔が歪んだ。「この、臭い――っ!!」
「臭いが、どうかしたのか!?」
テージンが、シエラの隣から裂け目へと顔を近づける。
「ぐうっ……!!」
微かに甘く、そして重く濁った臭い――
腐臭、血臭、屍臭――。風に含まれているのは、そのどれもであった。
身体の芯から、濁った風に曝される皮膚の表面へ、怖気が氷水のように染み出てくるようであった。
「し、知っている……」
ボルドが、引き攣った貌で呟いた。
そうだ。シエラも、テージンも憶えがある。あの臭いだ。
ザワ村の、青い屋根瓦を葺いた館。そこから漂う、どろりとした粘着質な、濃い腐臭。その奥で見た、夥しい数の、首の無い動物たちの屍骸――。
気がつくと、全員の身体が細かく震えていた。
「どうやら、あんたら全員、この臭いに憶えがあるみてえだな……!」
エナクが、歯を軋らせながら言葉を発した。恐怖のあまり、鳴りそうになる歯を、必死に噛み合わせているのだ。
「俺はよ、この粘つくような空気に心当たりがあるぜ……。ああ、これは、例え百回死んでも忘れられねえよ。この濁気はよお……!!」
エナクが、砂利を吐き出すような貌で言葉を続けた、その時であった。
全員の足が踏む岩の感触が、不意に別のものへと変化していた。
それは柔らかく、熱い肉の塊を踏んだようであった。
しかも、その肉は、溢れるような血を含んでいる。まるで、生きた獣の腹を引き裂き、その中へ思い切り足を突っ込んだかのようだ。
「――ッ!!」
ボルドの口から、声にならない、高い笛のような音が洩れる。
どくん、と、心臓の鼓動が、巨大な臓腑の中で脈打つ感触が、足から直に伝わってくる。
「幻覚だ!!」
テージンの鋭い声が、全員の耳を貫いた。
眼を見開くと、足下は血塗れの肉塊ではなく、硬く冷たい岩盤へと戻っている。
しかし、その岩が、ぐにゃりとうねった。
いや、岩そのものではない。岩の表面を、いつの間にか夥しい数の“蟲”が這い回っていたのだ。
――蟲!?
いや、ただの蟲ではない。“それ”は、シエラたちの見知った蟲の群れではなかった。
蛙の姿に似たもの、蜥蜴の姿に似たもの、さらには、人や獣の顔を持つ“蟲”もいた。上を向いた人面、獣面の両脇から触手が生え、岩の表面を這い回っている。
「ロ、ギ……! 汚蟲だ!!」
エナクが、最早悲鳴と同質の叫び声をあげた。
そう、その場にいた全員が思い出していた。
エナクは、自分自身の見た光景を。そして、ボルドたちは、エナクから聞いた、“その時”の話を。
本来、無害なはずの大気を漂う気が、濁気の影響で凝結し、形を持った汚蟲。それが現れた時――。
あ゛ァアぁア゛ァア゛ア゛ぁぁァ……
豪雨の彼方から、不気味な、この世のものとは思えない声が聴こえてきた。
人ではない。獣でもない。他の何物ともつかぬ、おぞましい叫び声。
ギィいいぃぃィイイィィ……
聞く者の精神に牙を立て、ざりざりと削り取ってゆくかのような感覚。
暗く冷たい汚泥の淵へ、少しずつ飲み込まれていくような恐怖。
「この、声は……!」
ボルドが掠れた声で呟いた。
あの夜。
ザワに到着する前夜。
巨大な蛭に取り憑かれた男と戦った後、闇の奥から響いてきたもの。
この世の、ありとあらゆるものに対する、血も凍るような怨嗟の響きが込められた声――。
異変に、最初に気づいたのは、シエラとテージンであった。
「何……!?
「何か、来やがる……っ!!」
ふたりが、ほぼ同時に視線を洞窟の外側へと向ける。続いて、エナクとボルドもそれに気づいた。
雨が地を激しく打つ中で、その音は、おそろしいほど鮮明に、四人の元へと届いてくる。
ぼちゃ……
どぷ……
水音が響いてくる。何かが、水の中に身を投ずる音のようであった。
目を凝らすと、濁流と化した川の向こう岸で、何かが蠢いている。
ひとつやふたつのものではない。無数の気配――。夥しい数の“何か”であった。
湿った音、引き摺るような音。そのようなものが、数百、数千と蠢く音。
ひとつずつであれば、この雨音に掻き消されてしまうだろう。だが、その数があまりにも多い。無数の音が重なり合い、洪水のような響きを持ち、こちら岸まで届いてくるのだ。
どぶり……
びちゃ……
勢いよく飛び込むような音ではない。這うように、大蛇が水の中に入るように、川に身を投じた“何か”が、ゆっくりと近づいて来る。
――ゆっくりと、近づく?
ボルドの背筋に、凍てついた刃物を突き刺したような感覚が襲いかかる。
あの激流の中を、どうやって渡って来る? それに、あの音は、まるで浅瀬を渡って来るかのような音じゃないか――
「おかしいわ」シエラが、川の方を睨みながら言う。「水の量が減っている……!」
ボルドの感じた疑問に、他の者も気づき始めていた。雨の勢いは少しも弱くなった様子はないのに、轟音をあげていた濁流は、いつの間にかその音を消している。
天からは、巨大な肉食獣の唸り声を思わせる音が轟いている。雷が、すぐそこまで近づいてきているのだ。
稲妻が光った。
光芒の中に、一瞬、周囲の風景が浮かびあがる。
次の瞬間、天を裂き、地を震わせるような雷鳴が響いた。
一瞬――。ほんの一瞬ではあるが、全員が“それ”を見ていた。
「ぐうっ……!!」
言葉にならない呻きが、喉の奥からテージンの口をついて出て来る。
ぐちゃり……
湿った音が、すぐ近くで聞こえた。“何か”が、ついに洞窟の付近まで這い上がって来たのだ。
「見たかよ……」
エナクが、歯を割れるほどに食い縛りながら言った。
見た。皆が、その光景を見ていた。
全身が震えている。“逃げねば”と、思う。だが、身体が動かない。
理由はわかった。何故、水の勢いが弱まったのか。
“奴ら”だ。川を渡り、こちら岸へ迫り来る“奴ら”。
川の対岸を埋め尽くすほどの数で、溢れんばかりに濁流へと押し寄せ、川の流れを塞き止めていたのだ。
強い腐臭が全員の鼻を突いた。脳の奥を穿られるような、物理的刺激に近いほどの凄まじさだ。
「そん、な……」
陰惨な光景に、シエラが消え入りそうな声を洩らす。
“それ”は――
首の無い、獣たち。
臓物を、裂けた腹から引き摺る犬。
下半身の千切れた牛。
黄ばんだ骨を露わにした猿。
頭部を切断され、腐敗した、蛇、狼、馬、羊、山羊――。
あの、広間に積み上げられていた屍体たちであった。
(二)
胴体に続き、水の中から這い上がって来たものがある。無数の、獣の首だ。
ザワ村にあった、館に積み上げられていた屍体の山。呪法に用いられたそれらの屍体は、全て首が切断されていた。
その首も、岸の岩や草に歯を当て、地を噛みながら這い上がり、舌と歯を使い這い寄って来る。
犬の首の多くは、自らの胴に啖らいついている。首の無い犬の胴は、自分の皮に頭をぶら下げて歩み寄って来るのだ。
猿の屍体は、その手に腐敗した自分の頭部を抱えている。空洞と化した眼孔には、蛇の首が幾つも蠢いていた。
牛や馬の巨大な影も、それらの中に混ざっている。
腐り落ちた腹から黒ずんだ腸を引き摺りながら、首の無い馬が近づいて来る。
身体中に、無数の狼の首をぶら下げた牛が歩いて来る。
どの獣の首も、ぎらぎらとした眼をボルドたちに向けている。変色した眸が、薄墨を溶かしたように暗く淀んだ大気の中で、妖しい緑光を放っていた。
「あ、あ、あ――」
ボルドが声を洩らし、その場から退がろうとした瞬間、
「下手に動くな!!」
エナクがそれを制した。
反射的にボルドは立ち止まり、視線だけをエナクに向ける。
「動いた奴から、襲われるぜ……」
全身から滝のような汗を流しながら、エナクが言う。
「で、でも……」
ボルドがそう言った時には、洞窟の入口まで、屍獣の群れが迫っていた。
炎の灯りの中で、犬の首たちが嘔々と吠える。
首には体が無く、肺に空気を溜められない。その吠え声は、ごぶごぶと血泡が立つような音だ。
地を這う無数の屍獣の首が、餓々と歯を噛み鳴らしながら、わずかな呼気で吠える。吠えると、腐り果てた顔から顎が外れ、骨と肉片が地面にばら蒔かれる。
川を渡る屍獣の群れは次第に数を増して、洞窟の周囲を一重、二重と囲んでゆく。
「畜生――!」
テージンが歯を軋らせながら屍獣たちを睨んでいた、その時、
「頼みがある」エナクが、懐から数枚の紙片を取り出しながら言った。「おめえらの髪を一本ずつ、使わせてくれ」
エナクが取り出したのは、人の形をした紙片であった。
「それは何なの? エナク」
屍獣の群れに注意を向けながら、シエラが訊く。
「人形さ……」自身の頭髪を引き抜きながら、エナクが答えた。「説明してる暇は無え。俺のやる通りにしてくれ」
エナクはベルトに差したナイフを引き抜くと、刃先で自分の指先を浅く切りつける。
「少量で構わねえ。自分の血を糊代わりにして、髪を人形に貼り付けるんだ」
地面に置いた人形に、エナクは自分の頭髪を指先に浮いた血の玉ごと押し付けた。
その言葉に従い、ボルドたちは自身の頭髪を人形へと貼り付ける。
一連の作業が終わると、エナクは洞窟の外側へと向かい、人形へ息を吹きかけた。
人形は風に乗り、丁度立ち上がるような状態で足が地面に触れる。
普通であれば、そのまま倒れてしまうだろう。しかし、
「ああっ……!」
ボルドが声をあげた。
皆の視線が注がれる中で、人形が地面の上を歩き出したからである。
四体の人形は洞窟の入口まで歩いてゆき、そのまま外へと歩み出ていく。そして――
人形が外へ出た瞬間、屍獣の首や胴たちが動いた。
一斉に夥しい数の屍獣が襲いかかり、人形を噛み裂き、引き千切り、ぼろぼろにしてゆく。
人形のあった辺りは、腐敗した首と胴体が重なり合い、醜悪な肉の小山と化した。
裂かれた紙片を山羊の首が呑み込む。呑んだ途端に、首の切り口から紙片が出てゆく。それを、今度は馬の首が啖らう。さらには馬の首めがけて、猿の首が歯を立てる――。
亡者たちが共食いを繰り広げながら、腐肉の山は周囲の屍骸を取り込み、一層巨大化してゆく。
「凄まじいな……」
テージンが、頬に流れた汗を手の甲で拭いながら言った。
「さっき見せてくれた、呪法の応用なの?」
大きく息を吐きながら、シエラがエナクに訊ねる。
「ああ。自分の名前を書くのも良いが、髪や血みてえに、本人の一部を使うのが、囮とするには一番だからな」
答えながら、エナクは屍骸の山から少しずつ距離を取る。
「よし、これで時間が稼げそうね。とにかく、ここから離れて……」
シエラが言いかけた、その時、
「み、皆!!」
ボルドが大声をあげた。
「馬鹿野郎! 奴らに感づかれるだろうが!!」
テージンがボルドの襟元を乱暴に掴む、が、ボルドは怯まずに叫んだ。
「違うよ! あれを見て!!」
ボルドは、川の対岸を指差していた。
全員が、弾かれたように対岸へと頭を廻らせる。そしてすぐに、ボルドが何を見たのかを理解した。屍獣で埋め尽くされた川の向こう岸に、巨大な人影が立っていたのだ。
人? 確かに“それ”は、巨大な人のような形をしていた。しかし、“それ”は人ではない。
動いている。巨大な人影の表面が蠢いている。
上空では、黒々とした、大蛇を思わせる暗雲の中で雷が疾り、空全体を不気味に発光させている。
電光が閃き、巨大な影が、その姿を浮かびあがらせた。
無数の腐獣が群がっていた。
首の無い胴体が、人の形に重なり合い、そこに夥しい数の首が啖らいついている。
ボルドたちの前に積み上がった腐肉の小山よりもさらに大きく、腐獣の巨人は膨れ上がってゆく。
肉の中から、どぼりと音を立てて、首の無い牛の屍骸が歩み出た。すると、それに覆い被さるように、さらに多くの屍骸が集まって来る。
首同士が牙を絡ませ、臓物を縺れ合わせながら、まるでそれ自体が、統一された意思を宿した群体のように――。
やがて、腐肉の巨人が、ゆっくりと前へ歩き始めた。
歩く度に、肉片や眼球、内臓の切れ端を撒き散らしながら、巨人は洞窟へと近づいて来る。
「冗談だろ……」
テージンが、巨人を睨みながら、後方に退がり始めた。
その時、ボルドの身体が、前方へと揺れ動いた。
「ボルドッ!?」
シエラがボルドを呼ぶ。しかし、彼は迫り来る巨人を見据えたままだ。
深く、息を吸う。左右に両足を開き、両手を握り、前屈みになる。
火だ。心臓部分に、燃え盛る火の姿を思い描く。
呼吸の度に、火が、熱が、激しさを増していく。炎が全身をほとばしり、肉を裡側から焦がしてゆく。
がつん、と、何かが背骨の辺りを突き上げた。
これだ。そうだ、この感覚だ。
強烈な波動の塊が、魂を根底から慄えあがらせる、圧倒的な破壊の衝動――――
「だめ!!」
シエラが両腕で、ボルドの腕を縋り付くように抱えていた。
「シ、エラ……?」
ボルドが、荒い呼吸の中で呟いた。
ほんの数瞬――。しかし、全身の力を奪われたかのようだ。
ボルドは膝を折り、大きく喘いだ。
「あの力を、使おうとしたのね」
シエラの声が震えている。
「だめ……」
シエラがその胸に、ボルドの腕を抱え込む。
「だめだよ、ボルド……。今は、私と逃げて、お願い……」
シエラの青い瞳が、哀願の光に濡れていた。
「シエラ……!」
ボルドは眼を閉じて小さく頷くと、シエラと共に裂け目へと向かう。
「お前ら、急げ!デカブツが来るぞ!!」
エナクが裂け目の前から、ボルドたちに向かい叫んだ。
巨人は、無数の眼球を光らせながら、川を渡り始めている。
ぶぢゅるる……
ごぶぢゅるる……
腐肉に埋まった首たちが吠えようとする度に、その口からは、血泡が噴水のように吹きあがる。
テージンが、先に裂け目へと入った。
一歩踏み入れた瞬間に、粘度を持った生臭い風が、全身にねっとりと絡みついてくる。
「糞が……っ! 明らかに、罠じゃねえか!!」
「なら、どうすんだ!? このまま、あの屍骸たちに喰われてえのか!?」
テージンの呻きに、後に続くエナクが高い声で応えた。
裂け目の天井は低かった。外側からはわからなかったが、数歩進むと、身を屈まなければならないほどの狭さになっている。元々あった入口の岩が崩れ、通路の下半分を塞いだらしい。
エナクたちに続き、シエラとボルドが裂け目に入る。入口下半分を塞いだ岩を、後ろ向きに登りかけたところで、いきなり、巨人が走り寄って来た。
「急いで!!」
後方から、シエラがボルドを岩の上へ引っ張り上げるように引き寄せ、そのまま洞窟内部へと転がり落ちる。
急な斜面ではない。落差は一ローナ(一メートル)ほどで、三ローナほどの長さの斜面が洞窟内へと繋がっていた。そこを、ふたりは転げ落ちたのである。
ふたりが起き上がろうとした時、激しい振動が岩壁を揺らした。巨人が猛烈な勢いで、裂け目の入口へと衝突したのだ。
裂け目から洞窟内部へ、大量の腐肉が飛沫となって降りかかる。
巨人は洞窟へ侵入しようとするが、崩れた岩が遮り、内部へ入ることができない。
ぎゅぢゃっ!!
びぢゅっ!!
どす黒く変色した血を噴出させながら、巨人の腕が隙間から内部に押し込まれてきた。
腕に絡み付いた首たちが、がちがちと牙を噛み鳴らす。
どぢゃっ、と湿った音を立てて、幾つもの首が地面に落ちた。それらの首は、地に歯を突き立て、四人の元へ這い寄って来る。
「入らせないで!」
シエラが革靴の爪先で、這いずって来た犬の首を蹴り飛ばした。
「ぼ、僕も!」
ボルドが駆け寄り、這って来た猿の腕を外に蹴り出す。
「おい、とりあえず、ここから離れて奥へ行った方が……」
同じく、山羊の首を蹴り飛ばしていたエナクが言いかけた、その時、
めきっ!
と、岩の割れる音が響いた。
それは、巨人の身体の圧力で、裂け目の入口に亀裂が入る音であった。
次の瞬間、裂け目の入口が崩れた。
岩と岩のぶつかり合う音がして、不意に洞窟内が暗くなった。外部からの明かりが遮断されたのだ。
崩れ落ちた岩塊が、裂け目の入口を完全に塞いでいた。
「く、くそうっ!!」
暗闇に、テージンの怒声が響いた。
(三)
岩の上に立つ人影が、その細い谷を見下ろしていた。
激しく横殴りに落ちてくる雨の粒に、谷の空間は埋め尽くされている。
滝のような雨滴越しに、人影は対岸に位置する洞窟を見ていた。
正確に言えば、ボルドたちが辿り着いてからの、一連の出来事を、である。
人影の顔には、笑みが浮いている。唇が持ち上がり、白い歯が覗いている。
人影は、女であった。
背が高く、白銀に耀く髪を腰下まで垂らした、美しい女だ。
女は、白い薄手の生地で作られたドレスを纏っている。ジゴ袖と呼ばれる、肩から肘までが膨らんだ袖が特徴のドレスだ。
胸元が大きく開き、臍下辺りまでの肌が露になっている。雨に濡れた白い生地が女の素肌に張りつき、女性らしい身体の輪郭線を強調していた。
そして、そのドレスよりもなお、女の肌の色の方が白かった。
闇の、白――。
女の肌の白さには、一滴の血の流れさえも感じられない。ただ、一面に闇と同質の白色が見えるばかりであった。
顔、首、腕、腹、足。何もかもが、白い。
天から落ちて来る月の光すらも、女の肌を透かして通り過ぎてゆくであろう。
女の、闇を溜めた紅い瞳が、ボルドたちの閉じ込められた洞窟を見つめていた。
その瞳からは、女の体内に潜んでいる底知れぬ闇黒が、今にも吹き零れてくるかのようだ。
真紅の瞳の下には、暗がりの中でもはっきりとわかるほどに赤い唇があった。まるで、たった今、人の生き血をたっぷりと啜ったばかりのような鮮やかさである。
その唇が、笑みを浮かべていた。見事なほどに、邪気の無い笑みだ。それが反って、この女を人成らざる存在として際立たせている。
女背後には、末利迦の樹がそびえていた。
不思議なことに、その樹の周囲には草が一本も生えてはおらず、黒々と湿った土が剥き出しになっている。
いや、それは土ではない。
女の周囲には、黒く濁った汚泥のようなものが一面に広がっていた。
強い腐臭が、その泥状のものから沸き上がっている。表面は煮えたように沸々と泡立ち、弾けた泡からは、芋虫にも似た、うねうねと蠢くものが次々と生まれてくる。
汚蟲だ。女の周囲には、汚蟲が溢れかえっている。
女の姿が、不意に歪んだ。実体化する寸前の濁気が、女の周囲で渦巻き、大気をねじ曲げているためだ。
凄まじいまでの瘴気の濃度である。異獣の臓腑が、女の周囲で蜷局を巻いているようであった。
ふと、女の両腕が動いた。
女は自分自身を抱き締めるように、身体の前面で腕を交差させ、自分の肩を掴んだ。
震えている。女の身体が、細かく震えている。
びくん、びくん、と、女の身体が弾かれたように、幾度も激しく痙攣した。
「ひひ……」
女が、笑った。
ひっひっひっ……
女の笑い声が響く。不気味な、喜悦の笑い声だ。
女は狂喜していた。裡から込み上げる激しい歓喜の波に、身体の震えを抑え切れず、天を仰ぎ髪を振り乱しながら、女は笑い続けた。
「見つけたぁ……!」
女の瞳は、欲情したかのように濡れている。
「会いたかったわぁ……。こんな所にいたのね、ボルドぉ……!」
笑い終えた女の唇から赤い舌が這い出し、自分の唇を、ぬらりと舐めあげる。それは、おそろしいほどに淫靡な姿であった。
「ああぁぁ……っ」
女が、上気した熱い吐息を洩らす。
「待っていてね、ボルドぉ……。すぐに、あなたのイオナが迎えに行くわぁ……!」
女――イオナは赤い唇を横に開き、白く尖った歯を覗かせた、凄まじい笑みを見せた。
その時――
天空より、雷火が疾った。
イオナの背後にある、末利迦の樹であった。
ばりばりと、蒼白く天を引き裂きながら、稲妻が末利迦の樹を貫いた。 雨と風の中に、イオナの姿が白光と同時に浮かびあがる。
次の瞬間――
イオナの姿が消えていた。
末利迦の樹は岩盤と共に崩れ落ち、下方に位置した屍獣の群れを押し潰してゆく。
巨大な飛沫があがり、激流が迸った。山の如く盛り上がった水が、川を埋めた屍獣の群れを圧倒的な力で押し流してゆく。塞き止められていた水が、遂に限界を超え、強大な洪水と化したのだ。
濁流は、全てを呑み込んでいった。
そこには、落雷を受けた岩盤が、新たな崩壊後の岩肌を見せているだけであった。
その岩を、雨と風が叩いている。
イオナの姿はどこにも無い。
だが、嵐の中には、イオナの高い笑い声が、天に向かい延々と鳴り響いていた。




