第二十三話 力の代償 後編
(一)
熱い。凄まじいほどの熱。
身体中が焼かれている。
外からではない。肉の裡側から、恐ろしいほどの熱気が全身を包んでいる。
“進め! ここで食い止めねば、奴等は全てを滅ぼすぞ!!”
絶え間なく、自分の喉から唸り声が洩れ出しているのがわかる。
ヒトの声ではない。獣の、人外の唸り声だ。
“毘折羅王軍一八〇万、童魔軍の螺旋因果破壊砲により全滅!!”
痛い。
頭の奥が痛い。
脳の奥に、重く熱い鉄の塊を刺し込まれているようだ。
“敵母艦、『子宮』級より、戦闘艦産出されました! 『眼球』級、『腕』級を確認! 数……不明です! 多すぎます!!”
呻く。呻くとその声が獣の唸り声になる。
自分の声か? 違う。自分だけではない。あちこちでも、魔獣が声をあげている。自分は、その数え切れないほどの魔獣の――怪物たちの一匹だ。
“西牛王隊二五〇万、巨濁鬼小隊と戦闘突入!!”
“駄目だ! 我々の攻撃は全て無意味だ! あらゆる法印兵器も聖仙術も、奴らの『無明劫洞』に呑み込まれてしまう!!”
周囲で叫んでいるもの、啼いているもの。彼らは人だ。かつて、人であった者たちだ。彼らが獣の声をあげているのだ。
今、目の前で獣の叫びをあげていた者が、いつの間にか黒い魔獣へと姿を変えていた。
嘔々と声をあげて、人々が人外へと変じてゆく。
怪物たちがひしりあげる声。それは苦痛のためではない。嘆きのためでもない。恍惚だ。これは悦びの嬌声だ。
人でなければ、獣ならば、殺すことをためらわなくていい。
自分の手で、思うさまに敵を殺すことができる。殺した者の血を、思う存分浴びることができる。
そう、獣ならば……。
“薬摩王隊より念信! 戦線より離脱の許可を求めています!”
“西牛王隊! 巨濁鬼小隊が造り出した高密度磁場空間に引きずり込まれました!!”
――いや、“獣”というのは正しいだろうか。
獣が、果たしてここまで殺戮と流血に悦びを覚えるだろうか。
“……このままでは敗ける。我々は、必ず敗北する……”
“金剛王様……”
“このままでは……”
――違う。
獣は、獲物を殺して喰べればそれでいい。そこまでだ。
“殺す”こと。その行為そのものに快楽を感じる存在。それこそが人ではないだろうか。
血に餓えているもの。殺戮を渇望するもの。
人の内部に潜んでいるこの衝動は、果たして“獣”と呼ぶべきものなのか。
そう、これまで自分が“獣”と呼んで恐れていた、人の宿す感情、本性。それは、魔物と――“鬼”と呼ぶべきものではないだろうか……。
“我らは人のままでは……、人としての存在を保ったままでは、決して奴らには勝てないのだ……!”
“こ……金剛王様、何を……?”
“『起神の法』……。そう、神の力を呼び覚ますだけでは足りないのだ、暁光王よ。我々に必要なのは神そのものになることなのだ……! たとえそれが……”
“――――っ”
“たとえそれが、鬼と……鬼神と呼ばれるものであったとしても……!”
(二)
ゆっくりと意識が戻ってきた。
風を感じる。右方向からだ。ボルドは頭をその方向に向けようとした。
だが、動かない。動かそうとほんのわずかに力を入れるだけで、全身に激痛が走る。
頭、腕、指先――と、少しでも痛みの少ない箇所を探る内に、眼だけをやっと動かすことができた。
四方をレンガの壁に囲まれた、一辺の長さが五ローナ(五メートル)ほどの部屋。そこに置かれた木製の寝台の上に、自分は寝ているらしい。
ボルドから見て右側が窓だ。大きく開かれており、そこから風が入り込んでくる。
爽やかな風だ。風が入り込む度に、窓にかけられたカーテンが内側に膨らみ、風が弱くなるとまた元に戻る。まるで部屋が呼吸をしているかのようであった。
背中に当たる感触が心地好い。どうやら、厚手の毛織物を敷いてくれているようだ。目線を下に動かせば、白く清潔な布が胸元まで掛けられている。こんな寝心地の良い思いは生まれて初めてだった。
――声が聞こえてくる。
風により、部屋の入口に掛けられた扉代わりの布が舞っていた。その隙間から、低く圧し殺したような囁き声が届いてくるのだ。
ボルドは声のする方向へ、ゆっくりと眼を向けた。
三人。部屋の外には別の部屋が続き、そこに置かれた円卓を囲み、三人の人物が椅子に腰掛けているのが見える。
ひとりは――覚えがある。あの、アナンタと名乗った老婦人だ。
初めて見た時には気づかなかったが、落ち着いて見ると、彼女の首筋と腕に茶色の鱗が生えているのがわかる。視線を動かすと、背中がこんもりと盛り上がっていた。どうやら彼女は亀の特徴を有したマホラガ族らしい。
他の二人は知らない顔だ。
ひとりは女性。黄褐色の、背中まで届く長い髪。若草色のブラウスと紫色のサリーを身につけている。髪と同じ黄褐色の体毛が生えた両腕と、頬にも走る黒い横縞模様からすると、彼女は虎のキンナラ族であろうか。
もうひとりは、眼鏡をかけた小柄な男性だ。ずんぐりとした身体に麻の貫頭衣を身につけ、膝下まで丈のある茶色い腰布を巻いている。頭には、鍔のない小さな帽子を被っていた。頭の側面から大きく上方に伸びた耳からして、彼は兎のキンナラ族だろう。
声が聞こえる。
彼女たちが話す、密やかな声が。
“聞かれまい”とする声が――
「ありえない……。聖仙術にも、いわゆる『肉体強化』とされるものはあります。ですが、それは筋肉繊維の出力限界の一時的な強制解除、筋肉を支える骨格や皮膚の補強、筋繊維断裂により生じる痛覚の遮断など、複雑な術をいくつも組み合わせた高等術式です。大抵は術師数人によりひとりに――それも限られた箇所をごく短時間強化するという形式が基本です。いや、短時間でなければ、術を施される者の肉体が耐えられない……と言うべきでしょう。それほど危険な術なのです」
キンナラ族の男性が、動揺を抑え込むような低い声で話す。
『肉体強化』とは、肉体的にも精神的にも高いリスクを伴う術なのだ。術師と対象者の比率も非効率である。ごく稀に単体で術を使える者も存在したが、精神的な疲労が凄まじく、中には廃人同然になってしまった者もいる。そのため、神民の中で実際に術を使う機会は極めて少ない(ガンダルヴァ族やナーガ族など、多くの種族が優れた身体能力を持つため、術の必要性が低いということもある)。
「シュリー……、あの子の身体の変化は、『肉体強化』と呼べるレベルを遥かに超えているわ」
キンナラ族の女性が、キンナラ族の男性――シュリーに問いかけた。その声に、細い呻きが混じっている。
「そうだ、アドラー。彼の肉体は『強化』というより、『変質』……筋肉どころか、細胞の段階で造り換えられているのかもしれない……!」
シュリーの喉から、緊張感に満ちた“ひゅう”という高い息があがった。
「そんな……! そんなことが可能なの? それもオグルとの戦いの最中というと、ほんのわずかな時間ででしょう!?」
キンナラ族の女性――アドラーが、思わず腰を浮かしかけたらしい。木製の床を椅子の脚が擦る音が響く。
「――細胞レベルで生物の肉体を改造する術は、かつて研究されていたことがあるわ」
アナンタが、重く苦いものを吐き出すように言葉を発した。
「――――!」
息を呑むシュリー。彼の意を汲むようにアドラーがアナンタに言葉をぶつける。
「そんな……そんな馬鹿な! 細胞を、生命体としての在り方を換える研究は、紅宮の神官たちが禁じていたはず……」
「ガイラース国内ではないわ」
アドラーの言葉を、アナンタの硬い声が遮った。
「で、ではどこの国が……」
「西方の大国、グロスマムよ」
(三)
人体に秘められた力を引き出す研究は、この惑星マカにある大陸『クマリカンダム』各地で行われてきた。
大陸は大きく分けて五つの国に支配されている。
北方の『ビスステール』
東方の『リアエント』
南方の『ザライアン』
西方の『グロスマム』
中央の『ガイラース』
研究は五つの国それぞれが、独自の方法で行っていた。
惑星マカに降り立った人類の祖先『真人』が残した『遺跡』――それを基に発展したのが、先に挙げた五ヵ国である。
そして、『真人』とその文明を糧にした五ヵ国の歴史は、幾つもの謎を内包していた。
惑星マカの先史時代おける資料は極めて少ない。『遺跡』に遺された数少ない文献によれば、『真人』と呼ばれる生命体は現代とは全く異質の遥かに進んだ文明を持っていたが、マカに降り立った後は何故かそれ以上の発展をすることはなかった。
彼らはまるで自らの文明を放棄するかのように、優れた知識と技術を衰退させていったのだ。
マカの先史時代とは、文明をゆっくりと磨り減らしていく時代でもあったと言えるだろう。
また、『遺跡』が大陸内に距離を持って存在していた点にも疑問が残る。
かつて各国で行われた調査の結果、『遺跡』が同時期にこの惑星に存在したことは確実である。しかしそれらは何らかの意図を持つかのように、全く別方向の文明の痕跡が遺されていたのだ。
ガイラースにおいて絶大な影響を与えた知識となると、やはり『気』と『魂』に関するものであろう。
万物を構成する『気』と『気』の形態のひとつである元素。その元素の結びつきに、『魂』を原動力とした『精神力』で干渉することにより、超自然的な現象を引き起こす聖仙術。
生命体の全身に張り巡らされた『気』の通り道である『気道』。そして気道の中で最も重要な、脊椎に沿って延びる『シュムスナー』、そこに螺旋状に巻きつく『日』と『月』。更に『気道』を封印する『念輪』を解放するための『起神の法』。
これらの知識はガイラースにおいて古代より探究されてきたものだ。
だが他の四ヵ国において、何故かこれらの知識は廃れたままだ。特に『起神の法』においては、四ヵ国で禁忌とさえされている。
それと引き換えにするかのように、他国はガイラースと別のアプローチにより『真人』の遺した知識を貪欲に吸収していった。そして社会が発展してゆくにつれて、知識と思考の違いは徐々に他国のそれに対しての否定、拒絶――ついには国家間の敵視にまで行き着いてしまう。
いや、そもそも真人たちがマカに降り立った時から、すでに真人たちの中で対立があったのではないだろうか。それ故、『遺跡』はお互いから遠ざかるように位置していたのではないか――。
真相はまだ語るべき時ではない。
ともかく、グロスマムにおいて研究されていたのは、生命体としての在り方――誕生の過程や仕組みそのものから変えてしまうことだ。
ガイラースにおける神民の誕生にも、かつてそれに近い研究がされていた可能性は高い。だが、神民はあくまでも人類の持つ進化の可能性を引き出したものである。グロスマムでの研究は、人類を全く別種の存在にすることが目的であった。
グロスマムに存在した遺跡から発掘された数々の研究――その中で重要とされたものが、生命体を構成する細胞の内部に存在する螺旋構造体である。
グロスマムの研究者たちは、その構造体が人体を構成する六〇兆個に及ぶ細胞全てに存在し、生命体は構造体に記された『情報』に基づいて形づくられ、機能していることを明らかにした。
二頭の竜が絡み合う姿にも似たそれは、奇しくも『双竜』と名付けられる。
双竜は互いを鎖状の『綱』により繋がれ、そこには四つの因素が記されていた。それこそが生命体の設計図ともいえる『四像の卦(配列)』である。
四像の卦(配列)
双竜=陽・陰の二種
四像=赤陽・白陽
赤陰・白陰の四種
陽・陰それぞれの竜には四像が並んでいる。四像は陽・陰とで結合し、二体の竜が結びつくことで双竜は二重螺旋構造を形成している。双竜を一冊の書物に例えるならば、四像は四種の文字で書かれた文章に当たるだろう。この『文章』の内容が『眼球』によるものならば眼球を、『筋肉』に関するものならば筋肉を――と、生命体は発生の段階で双竜に記された情報を基に、自身の身体を形成していくのだ。
では、生物がその形態を“変化”させていくこと――すなわち『進化』とはどのような起こるものなのか?
グロスマムの研究者たちは、まるで何かに取り憑かれたかのように、ヒトを更なる高みに至らせるための研究を続けた。
そして彼らは気づくのである。進化とは、「生命体の設計図である『四像の卦』が、世代を経るにつれて書き換えられていくこと」である、と。
『四像』は一つ一つの細胞に内包され伝達されており、子は、両親の生殖細胞にある『四像』のコピーを受け継ぐわけだが、そのコピーのごく一部に書き換えが生じる場合がある。
本来ならば、変異には生存や生殖に有利なもの、不利なもの、中立なものとが存在する。それらが自然淘汰され、長い年月をかけて変異を持つ個体の割合が集団の中で増減してゆく――その過程全体が、進化と呼ばれるものだ。
やがて、ある一部の研究者たちが言い出した。
変異が起こるのは、コピーミスが原因だけではない。人間の造り出した放射線や科学物質によって、『四像』が傷つけられることもある。こういった場合、通常は『四像』の修復機構が働くが、それでも完全に修復しきれず、変異が次世代に伝わることがある。
そう、変異とは――進化とは、ヒトの手で引き起こせるものなのだ――
(四)
「神をも恐れぬ発想だ……」
長い沈黙の後、シュリーが掠れた声で呟いた。その額には、幾つもの汗の玉が浮いている。
「グロスマム……、そこまでやるなんて……!」
吐き捨てるように言い放つアドラーの顔にも汗が流れている。だが、その身体に感じる温度は氷を刺し込まれたように冷たいものであった。
「グロスマムでは数え切れないほどの生物が、『双竜』に手を加えられていったらしいわ……。私も紅宮情報局に在籍していた時に入手した、ほんの一部の情報しか知らない。それでも膨大な数よ。でも、実験で生み出されたのは、ヒトとも動物とも呼べぬ異形たちばかりだった……。そして、彼らは見捨てられたもの――『ヘヤオス』と呼ばれ、今もグロスマムの地下深くに蠢いていると言われている……」
そこまで話すと、アナンタは深く重いため息を吐いた。
「あの少年は――」
しばらくの沈黙の後、アドラーがぼそりと呟いた。
「あの少年は、どうなるの……?」
力なく洩れたその言葉は、他の二人にも、そして自らに向けても発せられたように聞こえる。
「……さっき君が言ったように、本来ならこんな短時間で細胞が造り換えられるはずがないんだ。『情報』の変更が起こったとしても、酵素が再合成されて、新陳代謝で体細胞の新旧交替が終わるまではかなりの時間が必要なんだよ……」
シュリーが、ぽつりぽつりと吐き出しにくい小石にも似た言葉を呟いてゆく。
「あの少年の身体に、一体どれほどの負担が強いられていたのか……。それに……」
シュリーは一度言葉を呑み込んだ。それはあまりにも無慈悲な言葉であったからだ。
「それに、ヒトの細胞分裂の回数は制限されているんだ。分裂回数の限界が、ヒトに老化をもたらす。……老化は神民でも人間でも逃れることはできない……」
「――――」
アドラーは言葉が出なかった。力なく視線を彷徨わせ、やがてボルドの眠る部屋の方向を見ると、悲しげに顔を歪め視線を床に落とし沈黙する。
開かれた窓から、新しい風が寝室の中へと流れ込んだ。
若い、目覚めたばかりの新緑の匂いを含んだみずみずしい風だ。
だが、ボルドにはその薫りも、肌を優しく撫でる風の感覚も、全てが遠い世界のことのように感じられた。
冷たく凍てついた金属にも似た、痛いほどの沈黙が続く――。
「いずれ――」
重々しい声音で、アナンタが言葉を発した。
「いずれ……、私の口からあの子に話しましょう。残された時間を少しでも望むように使うために……」
苦しげに、苦い塊を絞り出すかのような声に、アドラーとシュリーは言葉を失う。
それは、ボルドが助からないという事実を言外に示していたからだ。
一瞬、どよめきのような風の音が部屋を大きく揺り動かした。
数回、どう、と風の塊が屋根を叩きつける。その度に、はめ板や梁が暗さを増したように見える天井で、キイキイと不気味な生き物のように鳴き声をあげた。
――夢……じゃないんだよな……。
現実味を欠いた、どこか白昼夢を見ているような感覚だった。
ただ、呟かれた言葉の残響だけが、ひどく空虚に、そしておそろしいほど鮮明に、ボルドの心に刻み付けられていた。
(四)
東の空に、まだ光を放つ前の白い月が浮かんでいる。
夕刻ではあるが、まだそれほど暗くはない。黄昏の空には、薄い碧と濃紺――昼と夜とが淡く混ざり合っている。
あの事件より、一ヶ月後――。
ボルドは貧民街の外側を流れる河の土手を歩いていた。
没しかけた夕陽が土手に射している。付近より少し高い土手にはまだ陽が当たってはいるが、下方の川原は土手の陰になっており、そろそろと夜の闇が影を伸ばし始めていた。
ボルドは河を右手にして、下流方向へ歩みを進めていた。対岸の土手の先に見えるのは結界山脈の岩峰だ。山の陰に沈みかけた夕陽の放つ残光が、峰にかかる雲の腹を紅く染めている。
土手にはヒマラヤザクラが自生していた。
先月の初めには、まだ残っていた花が水面に白い花弁を散らしていたが、今はもう花弁は残っていない。
季節は巡る。樹々が纏う衣は青々とした若葉へと替わり、ボルドの上で風にその身を揺らしている。
ゆるい傾斜の上、下草の生えた地面を、素足でボルドは歩いていた。
体力はある程度戻っている。しかし、見た目はまだひょろりと背の高い、痩せた男としか見えない。顔はいつの間にか、潰れた豚の鼻を持つ以前の顔に戻っていた。
着ている麻の貫頭衣はだぶついており、今のボルドならば二人くらいはその中に収まりそうなほどだ。
幾分引き摺り気味の足で下草を踏んでいくと、大気の中に溢れている樹々たちの充実した気配に、今さらながら新鮮な驚きを覚える。
不思議な感覚だった。
ボルドには、世界が果てしなく遠退いていくように思われた。
季節の移ろいの中で、まるで自分だけが突き放され、取り残されていくようであった。
天地の狭間に在って、それらの調和から疎外されてゆく、例えようのない孤独感――。
――僕は、どうしたら良いんだろう。
――どうなりたいのだろう……。
昨日までの過去が重さを失う。
ボルドは危うい量感の肉体を、あてもなくただ前へと進ませた。それだけが、今ボルドにできることだった。
一歩ずつ地を踏む度に触れる大地の感触だけが、自分がまだ辛うじて世界と繋がっている証のように想われたからだ。
いつの間にか、陽は西の果てに没していた。
結界山脈の岩峰より陽光は天へと抜け、碧黒さを増した天に浮かぶ雲の腹を茜色に染めあげている。
そして、月が少しずつ輝き始めたその時――。
ボルドの歩む土手の下方から、一人の人物が姿を現した。
いや、正確に言えば“二人”である。
一人は男だ。男は崩れるように、地面に膝を突いていた。と、言うよりも、今にも地面に倒れ込みそうな状態を、無理矢理に起き上がらせていると表現した方が正しい。
もう一人の人物は、その男の頭部をわしづかみにして、ボルドの正面に立っていた。
「君は……」
ボルドは思わず声をあげた。二人の人物双方に覚えがあったからだ。
「ボルド、久しぶり! ……私のこと、覚えてる?」
立っている方の人物は、赤髪のキンナラ族の少女であった。ボルドが助けた、狼の特性を持つ少女である。
外見は、あの時のみすぼらしい襤褸布同然のものではない。
チュニックと呼ばれる、ゆったりとした膝まで丈のある半袖のワンピースを着ている。
薄手の青い生地に、緑色と黄色の楕円形模様が規則的に配置された、絣布の鮮やかな衣装だ。下には青色のパンツをと黒い革靴を身に着けている。
髪はツインテールになるように首元で束ねられ、頭には光沢のある黒いスカーフを巻いていた。
「えっ……、と」
「あ、そうか。私の名前、言ってなかったもんね。私、シエラ! あなたの名前はテージンに教えてもらったのよ!」
そう言うと、シエラは朗らかな笑顔を見せた。八重歯が覗く、満面の笑みであった。
「……」
「――? どしたの?」
「あ、いや……、べ、別に……」
「? ?」
見とれてしまった――とは言えない。シエラの笑顔は、それほど魅力的であった。そしてボルドが戸惑っているもうひとつの理由は、彼女の姿が初めて会った時とはまるで違っていたからだ。
「あ、どう? この服! アナンタさんに作ってもらったの! ね、似合う?」
内側から込み上げる嬉しさを抑えきれないように、シエラはその場で一回りして見せた。
美しい模様だ。水面に浮かぶ孔雀の羽を思わせる柄だった。
――ただ残念ながら、彼女が掴む男の姿が、どうしても気になってしまう。
「あ、あの、その男は……」
おそるおそるボルドが尋ねると、シエラはその時やっと思い出したかのように男を見下ろした。
「あ、そうだ! やっとカリを返せたわよ、この男! ざま見ろってんのよ!!」
そう言うと、シエラは地に膝を突いていた男の頭を無理矢理上げさせる。
その男は、あの時甲高い悲鳴をあげながら逃げ去ったグロスマムの頬傷の男であった。
――とは言っても、その事がわかったのは、見覚えのある男の紅い髪と浅黒い肌、そして頬の傷を見たからである。
男の顔は原型をとどめないほどに腫れあがっていた。左右の瞼がどす黒く膨らみ、目が完全に塞がっている。頬には無数の痣ができて、面相が完全に変わっていた。
「ゆ、ゆ、ひ……」
男の口から、か細い虫の鳴くような声が洩れ出た。その唇の内側には、歯が一本も無い。
「ゆ、ゆ、ひ、て、……く、ら、は、い……」
――許してください。
そう言っているのだろうか。聞き取れないほどの弱々しい声でそう呟くと、男は土の上に両手を突いた。突いたように見えた。両腕は、肘から先があらぬ方向へ曲がっている。
「こいつね、まだ貧民街をウロチョロしていたのよ。ボルドのせいで“商品”が駄目になったから、少しでも取り返そうと、手頃な子供を探していたのね。ま、おかげでぶちのめしてやれたけど!!」
吐き捨てるように言うと、シエラは掴んでいた男の髪から手を放した。
「――ひっ」
顔面が変形した男が、四つん這いになってその場から逃げ出そうとする。
その尻に向かい、シエラは靴の爪先を思い切り蹴り込んだ。
殴り殺される豚のような悲鳴をあげて男は悶絶した。よほどの激痛であったのだろう。男は口から泡を噴き、完全に白眼を剥いている。
「――――」
ボルドは眼前で繰り広げられた光景に声が出ない。若干、口元が恐怖の形に引くついている。
「ざまあみろ」
荒い言葉を口にすると、シエラは軽い足取りでボルドの所へ戻ってきた。
「す、凄いね、君……」
ボルドの声には素直な賛嘆の響きがあった。わずかばかりの怯えも含まれているようだが。
「まあね。あの時は何日も食べてなくてフラフラだったし、多勢に無勢だったからね。でも、私が本気になれば屁でもないわよ!」
シエラは得意気に胸を張りながら、
「それにこの一ヶ月間、アドラーさんに鍛えてもらってたからね。私、スジが良いんだって!!」
と、続けた。言葉の中に自信が生まれ始めている、活力に満ちた声だ。知らず知らず、その声音につられるようにボルドの顔にも笑みが浮かぶ。
「……」
自分の顔をしげしげと見詰めるシエラの様子に、ボルドはやっと気がついた。
「――っ! ご、ごめん、笑ったりして。へ、変な顔だよね。ごめん……」
慌ててボルドは自分の顔を――鼻を覆い隠すように手をそえる。
「なんで顔隠すの?」
「――え?」
ボルドの前で、シエラは心底不思議そうな表情を浮かべている。
「だって、全然変じゃないよ。私、ボルドは格好良いと思うよ!」
にっ、とシエラは満面の笑みを浮かべた。彼女の有する天性の陽気がそのまま表出したかのような、朗らかな笑顔であった。
「――――」
「えへへ、たっぷり動いたらお腹減っちゃった! 一緒に帰ろ、ボルド! テージンも待ってるよ!」
呆けたようにシエラを見詰めたままのボルドの手を取り、一緒に行くことは承知済みとでもいうように、シエラは先に立って歩き出す。
「テージーン!!」
大きな声をあげて手を振るシエラの先――土手に立つヒマラヤザクラの幹の陰に、テージンの姿があった。
わずかに伏せられた顔の中で、上目がちにボルドとシエラの方を見詰めている。その眼がボルドの視線を受けた時、逃げ場を探すように宙をさ迷った。
涙は流れていない、でも、彼は泣いている。
テージンの貌を見た瞬間、ボルドはそう感じた。
固く結んだ口元、硬い表情。その取り繕った仮面の下から、今にも深い悔恨に歪んだ泣き顔が噴き上げて来そうな――。
「テージ……」
ボルドが声を掛けるのと同時に、テージンはその声を振り切るかのように背を向け、二人の更に前方を駆け出してゆく。
「テージン……?」
その後ろ姿を、戸惑いながら見送るシエラ。
「…………」
ボルドは喉奥まで出かかった言葉を呑み込むように、ぐっと歯を噛み締めていた。
何を言おうとしたのか。それは自分でもわからない。
怒りか、慰めか、同情か――。
そのいずれでもあるし、どれとも違うような気もする。
やがて、ボルドは歩き出した。つられるようにシエラも歩みを進める。手をそっと繋いだまま、夕暮れの中をゆっくりと。
後ろから歩いて来る神民や人間たちが、次々と二人を追い越してゆく。
ふと、ボルドは足を止めた。
空が広い。夕暮れの微風が二人の頬を撫でてゆく。
昼でもない、夜でもない、黄昏時特有の透明な時間。
不思議なほど明るく、どこか異様に澄んだ空気。
例えようのない自分の心と、今にも消え去りそうな自分の明日と似た儚い空気の中を、ボルドは再び歩き出した。




