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第二十三話 力の代償 前編

(一)

 轟!!

 と、強烈なパワーを有したオグルの巨体が、颱風のようにボルドに向かい突進してきた。

 凄まじい速度だ。身長三ローナ(三メートル)、体重四〇〇サンカン(四〇〇キロ)の巨躯が生み出した速さとは、到底思えない。

 ボルドは横に跳び、アントニオへの反撃を試みた。

 が――

 突撃前のほんの一瞬、思考を廻らせていたことが災いした。反撃をするには間に合わない。

 「――ちぃっ!!」

 ボルドは上へ逃れようと跳躍をした。身体が勢いよく上方へ舞う。

 しかし、掴まれた。地を蹴った右足だ。右足が、左足より僅かに遅れて宙に跳ねあがってゆくところを、アントニオの右手に掴まれたのだ。

 次の瞬間、壮絶な速さで下方へ振られた。頭部から、思い切り地面に叩きつける動きだ。

 ボルドの毛髪が首筋から逆立つ。恐怖からではない。

 ――そうか、こんなに容赦のないやり方をするものなのか。

 この勢いで叩きつけられたら、熟れた果実よりも簡単に自分の頭部は潰れ弾ける。そして周囲一面に脳を撒き散らすことになるだろう。

 いいぞ。それでこそ、だ。戦いは、殺し合いとはこうでなければ――!

 ボルドの口元に、禍々しい笑みが深く刻まれていた。

 強靭な筋肉の束が、力を溜め込みたわむ。凄まじい力が、自分の腕に生まれてゆくのがわかる。

 ボルドは宙で上体をひねり、両手を地面に叩きつけた。地面が陥没するほどの、圧倒的な破壊力だ。その衝撃が、アントニオの強力が造り出したスピードを完全に殺していた。

 しかし次の瞬間、再びボルドの身体が持ち上げられてゆく。

 アントニオの腕の筋肉が、奇形の大樹を思わせる形に大きく膨らんだ。もう一度、今度は反対側の地面に叩きつけるつもりなのだ。

 芸のない奴だ。同じ手を二度も喰らうか――!

 ボルドは宙を振られながら、掴まれていない左足で、自分の右足を捕らえているアントニオの右手首を強烈に蹴り抜いた。

 皮膚を破り骨を砕く感触が、電流のようにボルドの背筋を疾り抜ける。

 アントニオの口から苦痛の呻き声が発せられた。ボルドの左足の一撃が、アントニオの右手首を確実に破壊したのだ。

 アントニオが掴んでいたボルドの右足を放す。

 ボルドの身体がすっぽ抜けるような形で宙を舞った。すぐ先にはレンガの壁が立ち塞がっている。

 ボルドは両手両足を使い、垂直に立つレンガの壁面に四足獣のように四つん這いとなる姿勢を取り、投げつけられた衝撃を受け止めた。

 中途半端な形とはいえオグルの投擲だ。手足を突いた部分を中心にレンガの壁に大きな亀裂が走る。

 着地する間もない。ボルドに向かい、アントニオが再び突進してきた。巨大な口を目一杯に開き、鋸のような牙を剥き出しにして凄まじい形相で襲いかかってくる。

 地面に降りる、という考えをボルドは一瞬で捨てた。

 両足の爪先を食い込ませ、思い切りレンガの壁を蹴りつける。

 レンガの壁がボルドの蹴りに耐えられず砕け散るのと同時に、ボルドの身体は突進してくるアントニオに向かい跳躍した。

 空中で上体を竜巻の如く振るい、右脚を凄まじい速度で撃ち出す。ボルドの右脚の脛が、正面から迎え撃つ形でアントニオの顔面を強烈に蹴り抜いた。

 アントニオの鼻が大きくひしゃげ、周囲に岩を鉄槌で叩きつけたようた轟音が鳴り響く。

 鼻から大量の血を撒き散らし、アントニオが後方へと退がり膝を突く。ボルドは数ローナの距離を置き、地面に両手足を突いて降り立った。

 睨み合う。ボルドの真紅の眼光と、アントニオの白濁した眼光が宙でぶつかり合った。双方から放たれる殺意の圧力が大気に熱を帯びさせ、間に挟まれた空間を歪めていく。

 ――面白い。

 ボルドの口元が荒々しく歪む。

 俺と対等にやり合えているじゃないか。そうだ。こうでなければ面白くない。

 「……楽し、そう、だな」

 アントニオが、口から大量の血が混じった唾液を垂らしながら言った。右手でぐちり、と湿った音を立てて、ひしゃげた鼻を元へ戻す。

 言葉とともに、空気が血泡となって大量に洩れ出している。汚泥を煮立たせたような異形の声だ。唇の端から、赤黒い唾液が太い糸を引いて流れ落ちる。

 おぞましい姿だ。異様に大きな、身体全体の五分の一ほどもある頭部。頭髪は無く、蝙蝠のように伸びた耳。濃い体毛の生えた緑色の皮膚。下腹部に巻いた、ヒトの生皮でできた腰布。

 強烈な吐き気をもよおす醜い姿だ。悪寒が走る。だが、それはオグルの醜悪な姿からだけではない。この、裡側から襲い来る悪寒は――

 「怖い、か? おれ、が……」

 アントニオはそう言ってから、

 「やはり、な……」

 唇の両端を大きく吊り上げた。嗤ったのだ。

 「何が、やはり、なんだ」

 「同じ、だから、だ」

 じわり、とアントニオが近づいて来た。一歩、また一歩。

 「同じ、だよ。わかる、んだ。おまえ、は、おれ、と、同じ、なんだ。それを、認めるのが、怖いの、だろう?」

 「――――」

 「違う、のは、姿だけ、だ。格好だけ、は、ヒトのまま、かも、しれないが、中身、は、同じなの、さ……」

 アントニオがゆっくりと両腕を広げた。じわり、とまた一歩ボルドに近づいてゆく。

 「どう、した。おれ、は、丸腰、だぜ、」

 「――」

 「素手、で、やり合おう、じゃ、ないか」

 ボルドの口端がひくついた。意識しないうちに、そこが大きく歪み吊り上がっていく。

 「ああ……」

 熱い昂りが、精神と肉体に炎のゆらめきを立てさせる。もう、否定はしまい。

 心が猛る。筋肉が跳ねるように太さを増してゆく。その動きが、ぞくぞくするほどに心地よい。

 「殺し合おうぜ……!」

 牙を剥き、ボルドは低く言い放った。

 次の瞬間、雄叫びをあげてアントニオが突進してきた。己の巨体そのものを武器にした、爆風の如き攻撃だ。

 ボルドは逃げない。両腕を前方に突き出し、真正面からアントニオの突撃を受け止める。

 轟音。まるで、巨岩に大砲を撃ち込んだかのような衝撃音が轟く。

 真正面からの直撃。アントニオは、肉塊と化したボルドの無惨な姿をありありと思い描いていた。

 しかし、その想像は完全に彼を裏切ることとなる。

 眼前の光景を見た時、アントニオは驚愕の呻き声をあげた。ボルドはアントニオの突進を正面から受け止め、しかもその場から全く動いていなかったのだ。



(二)

 右手でアントニオの頭部を、左手でアントニオの右肩を押さえる形だ。

 ボルドの全身の筋肉が著しく隆起していた。歯を食い縛り、首筋には太い血管が浮いている。

 凄まじい力が、肉の裡側から無尽蔵に発揮されているようだ。溢れ出す力の片鱗が夥しい熱気へと変わり、全身からオーラのように立ち昇っている。

 「ゴアァアアアッ!!」

 アントニオの口から強い呼気がほとばしった。同時に、ボルドの顔面に向かいアントニオの左掌が唸りをあげて飛来する。鋭い爪が、牙を剥いた肉食獣の顎の如く突き出されていた。

 ボルドは右手をアントニオの頭部から離し、拳を振り上げ、アントニオの左手首を下から叩くようにしてガードを試みた。

 その右拳に強い衝撃があったかと思った瞬間――

 衝撃とは別の力に、ボルドの右腕は捕らえられていた。

 ガードのために振り上げたボルドの右手首が、アントニオの左掌に握られていたのだ。

 強烈な力であった。ヒトとは異質の、別種の生物が発揮する力だ。その力がボルドの右手首を掴み、思い切り引いた。引く動きに捻りが加えられている。右腕の靭帯と肉、骨を引き千切るための動きである。

 「ぬうぅっ!!」

 ボルドは、その力に全身の筋肉を使い抵抗した。同時にがら空きとなったアントニオの右頬に向かい、左拳を叩き込む。

 圧倒的な力を宿したボルドの拳がアントニオの顔面に炸裂した。鈍い音が響く。アントニオの頬骨が砕け散る音だ。

 アントニオの頭部が、至近距離での爆発を受けたかのように、左上方に向かい撥ね飛ばされる。巨大な鼻と裂けた口から、大量の血と折れた牙が宙に吐き出された。

 アントニオの顔面の右側面に、大きな窪みが出来ていた。砕けた骨と牙が肉を突き破り、白く外部へと露出している。

 ボルドの目の前にアントニオの顔があった。血と肉片、砕けた骨とで、ずくずくになった顔が。

 唇がひくひくと動いている。血溜まりとなった顔の中から、開かれた左眼が――煮えた湯で熱せられたような、白く濁った巨大な眼球が、ボルドを正面から見据えている。

 その眼が語っていた。

 ――おまえも、殺した。

 無音の声が、心を抉り深い傷を造り出す。

 ――もう、おまえは、まともな世界には戻れない。こういう場所でしか、生きることが出来ない。

 「戻るさ……!」

 ボルドは言った。

 「戻れや、しない―――」

 「――っ!!」

 「もう、おまえは、戻れない。死ぬまで、殺し合い、苦しみ、足掻くが、いいさ……!」

 ボルドの口から狂おしい咆哮があがった。

 悲鳴に近い声が喉から洩れてくる。何を叫んでいるのか、声となっているのかさえ、ボルド本人にもわからない。

 アントニオが仁王立ちになってボルドを見ていた。半ば肉塊と化した顔で、ボルドを見ている。著しく変形した貌だ。最早、感情など読み取ることはできない。

 だが、その眼が嗤っている。それがボルドにはわかった。白濁した眼球が自分を嘲笑っている。

 何を否定しているんだ、と。中身はおれよりも血に飢えた化け物のくせに、どうしてヒトのふりをしているのだ、と――

 化け物は、アントニオではなく、俺の方なのだ。

 ボルドは、血を吐くような声で叫んでいた。

 「死ねええっ!!」

 その言葉は、誰に向かい放たれたものなのか――

 右掌の指を揃え、真一文字にそれを、アントニオに向かい剛槍の如く突き出す。

 ぶっつりと、何かを突き破る音が聞こえた。右腕が、熱い温度を持った物の中に潜り込んでいる――

 ボルドの右腕が、肘の辺りまで、アントニオの腹部に突き刺さっていた。ざあっ、と、アントニオの口から大量の血がボルドの顔面へと振りかかる。

 「――――」

 ボルドは呆然とした表情で右腕を引き抜いた。少し遅れて、アントニオの腹部の傷口から、大量の血と内臓が溢れ出る。血を含んだ肉が地面に落ちる湿った音が、恐ろしく鮮明に周囲に鳴り響いた。

 「ぐ……、ひ、ひ……」

 アントニオの口から、低く、大量の血が絡んだ声が発せられた。それは断末魔の声であったのか。それとも、ボルドを嘲る嗤い声であったのか。

 たまらない恐怖が、ボルドの全身を疾り抜けた。血みどろになった顔から悲痛な叫びをあげて、ボルドは両の拳を滅茶苦茶にアントニオの腹部へと叩きつける。

 「違う!!」

 違う。

 違う。

 違う。

 ボルドは叫んだ。

 アントニオの腹の傷をめがけて、拳をでたらめに叩き続けた。

 拳がアントニオの腹の肉をずたずたに突き裂き、内臓を引き千切る。何撃目からだろうか、拳の先端が、背から外部へと突き抜け始めていた。

 そして――

 最後の一撃。右拳が完全にアントニオの胴体を貫通し、背骨ごと体外へと飛び出してもなお、ボルドはその場から動けなかった。

 アントニオに残された左眼が、血で粘りつくような視線をボルドに向けている。

 「ひ、へ、へ……」

 もう、アントニオの身体は、ボルドの拳が支えているだけであった。

 「化け、物、め……」

 そう言うと、アントニオの肉体は崩れ落ちた。腹の肉がぼろぼろになり、内臓の大半が周辺へ飛び散っている。地に倒れ伏したまま、その身体はぴくりとも動かない。

 アントニオは死んでいた。

 己が造り出した屍体を見下ろしながら、ボルドは血塗れの姿で嗚咽した。歯を噛んで、涙を流しながら、低い声でボルドは哭いていた。

 誰も言葉を発しない。

 テージンも、赤髪の少女も。周囲で怯えたまま身をすくませている少年、少女たちも。

 痛いほどの沈黙の中、ボルド深い慟哭だけが響いている。

 やがて――

 「おああっ!!」

 不意にボルドが膝を突き、

 「おがああっ!!」

 地に向かい、その口から何かを吐き出し始めた。

 黒く、粘いもの。腐臭のするもの。

 何度も何度も、背を曲げて、ボルドは吐き続けた。

 吐き終わった時――

 そこに膝を突いていたのは、鋼の肉体を持ったボルドではなかった。

 元の姿――ではない。

 その姿を見た時、テージンと赤髪の少女は自分の眼を疑った。

 これが、あのボルドか?

 ほんの僅かな時間の内に、ボルドの肉体は半分に縮んでしまったかのように小さくなっていた。

 頬の肉がごっそりと削げ落ちている。あの分厚かった胸が、嘘のように平たくなっていた。肋骨がくっきりと浮き出し、身体の両脇に垂らした腕は、枯れ枝のように細くなっている。

 変わらぬ大きさであるのは眼球くらいであろうか。肉が消失した顔の中で、その眼球だけが異様に大きく見える。

 その眼球が動き、テージンと赤髪の少女を見た。

 動いたのは眼だけで、手も足も、身体もぴくりとも動かない。

 口が微かに動いた。しかし、言葉が出ない。何事かを話そうとしているが、それはまるで虫の羽音のように、細く消え入りそうなものであった。

 赤髪の少女が必死に耳を澄ます。ボルドの口の動きからも、その言葉の意味を読み取ろうとする。

 に、げ、て――

 少女がボルドの言葉を頭の中で組み上げた、その時であった。

 がひゅう……

 獣の唸りにも似た声が、テージンと少女の後方から聞こえてきた。

 振り返った二人の眼に飛び込んできたもの。それは、細い血管の浮く眼を剥き、剣を構えたグロスマム国の男――アントニオを呼びつけた、痩身の男であった。

 男の顔は大きく歪み、頬がひくひくと痙攣していた。両眼は異様なほどに吊り上がり、膝立ちになったボルドを睨みつけている。男の視界には、テージンと赤髪の少女の姿は入っていない。

 男はゆるりと腰を落とした。ぶるぶると震える両手に、禍々しい光芒を放つ剣が握られている。

 「殺る」

 痩身の男が言う。

 「殺ってやるぞ、化け物め!!」

 男が叫んだ。

 その眼が異様に光っていた。何か、おそろしく不気味なものが、男の内部に育ちつつあるのだ。

 恐怖――ボルドの力が自らに向けられること。その恐怖が、痩身の男から正気を根こそぎ奪い取っていた。

 「――くそっ!!」

 テージンが叫び、少女は身を起こそうとする。しかし、男はすでに走り出した。もう間に合わない。

 痩身の男が首を左右に振りたくり、狂乱の叫びをあげてボルドに斬りかかろうとした、その時――

 「おやめなさい……!」

 広場に繋がる路地の先、その暗闇の中から、凛とした女性の声が響き渡った。



(三)

 広場にいた全員の眼が、その声の方向に向けられていた。

 それほど大きな声ではない。だが、その声は聞く者の耳に、そして心にはっきりと響くものだ。声を発した者の宿す気高い意志が、強く感じられるものであった。

 初めに赤髪の少女が感じたもの。それは大気の流れである。

 大気の中に折り重なった空気の層。それが、ゆるゆると微風のように動いている。風――と言うよりは、“気”の圧力に近いものかもしれない。声の主が意識せずとも、本人が有する圧倒的な気が、自然と体外へと流れ出ているのだろう。

 暗闇の中から歩み出た人物、それはひとりの老婦人であった。

 銀色に近い白髪を三つ編みにした、痩せた小柄な老婦人――その姿は、一見すると人間(マヌ)に近い。しかし、細い首と両腕に生えた茶色の鱗が、彼女を神民(マナ)であると示している。

 この場には、一見不似合いな、どこか上品な雰囲気を身にまとう人物であった。

 赤く染め抜き縁に金糸で葡萄と蔦の模様を施した布を、巻きつけるようにして身に着けている。首から肩には、緑地の布に格子模様がデザインされたスカーフを巻いていた。

 革製のサンダルを履いた足をゆっくりと踏み出してくる。足音は全くしない。左手に持った木製の杖を地に突く音だけが、低く静かに響いている。

 その姿、所作の全てに品がある。品、と言うよりは、風格とでもいうべきだろうか。老婦人はその身に、常人には見えない“気”をまとっているかのようであった。

 「その子に指一本でも触れることは、この私が許しません」

 老婦人はそう言うと、小さく顔を上げて痩身の男を見た。

 皺に埋もれた細い両眼が、真っ直ぐに男を見据えている。黒く、深い海を思わせる瞳だ。その奥には、鋭く、そして強い意思の光がある。

 「う――」

 喉で低く声をあげ、痩身の男が後方に身を引いた。老婦人の発する気の圧力に、男はすでに呑まれかかっている。

 だが、男の眼に映る小柄な老婦人の姿と、自身の積み重ねてきた浅はかな暴力の経験が、愚かにも痩身の男に本能の警告を無視させてしまった。

 痩身の男の表情が一気に険しくなり、刺々しい殺気が肉体から放たれる。常人ならば思わず怯んでしまうほどの暴力的な体臭である。しかし、老婦人が見せた反応は――

 「馬鹿ねぇ……」

 そう呟くと、困ったように眉を寄せて、薄く笑みを浮かべ首を小さく左右に振るというものであった。

 それを見た痩身の男の顔が、みるみるうちに紅潮してゆく。はっきりと口にせずとも、老婦人が自分を微塵も恐れていない――それどころか、何の障害にさえ感じていない。それに気づいたからである。

 痩身の男が怒りにまかせたまま前に動きかけたその瞬間、男はすぐに足を止めていた。

 男の顔の直前に、それまで老婦人が地に突いていた杖の先端があったからである。わずかに動いた素振りさえも見えなかった。瞬きするほどの瞬間に、彼女はそれだけのことをやってのけたのだ。

 そのまま前に進んでいれば、男は杖の先端に自分から顔を突っ込んでいる。もしくは、老婦人がその気で杖の位置を変えるだけで、男は自分で眼を突くことにもなりかねない。

 痩身の男の背筋に冷たいものが走った。

 男は思わず、左手で杖を払おうとする。しかし、その手は杖の先端に掠りもしなかった。男が手を動かすよりも速く、老婦人が杖の先端を引いていたからである。

 手を払う動作をしたことで、一瞬、男の胸が無防備な状態となった。そこへ――

 とん。

 と、軽い音を立てて、男の左肩甲骨の下を老婦人が杖で突いた。次の瞬間、

 「ひぃいぃいいぃっ!!」

 痩身の男の口から、高い笛のような声が噴きあがった。男はみっともない悲鳴を洩らしながら地面に転がり、身体をよじり呻き声をあげる。

 「あら、自分が痛い目にあうのは苦手なのかしら……?」

 老婦人が男を見下ろしながら、呆れたように声をかける。

 「あっぎっいっいいっ!!」

 男は返事もできずに、釣り上げられた魚のように身体を地面に擦りつけていた。大きく喘いでいる。痛みのため、呼吸もろくにできないらしい。

 「いい薬ね。あなたがこれまで他人に負わせた傷の痛み、その何百分の一でも味わいなさい」

 老婦人がそう言い終える時には、痩身の男はもうほとんど声を発していなかった。

 眼が半分裏返り、全身に大量の汗の玉を浮かせて、口からは泡を吐き出している。下腹部辺りに大きな水溜まりができていた。激痛のあまり、男は失禁をしたらしい。

 男が身体を痙攣させている姿を、あたかも打ち棄てられた塵屑を見るような眼で一瞥すると、老婦人はテージンと赤髪の少女たちの方へと顔を向けた。

 二人は呆気に取られた表情で老婦人を見ている。あまりの展開に、自身の傷の痛みさえも忘れてしまっているようだ。

 そんな二人の貌を見て、老婦人は柔らかい笑みを浮かべた。先ほどのものとは全く別物の、慈愛に満ちた母のような微笑みである。

 「驚かせてしまったわね。でも、もう大丈夫、安心して。私の名はアナンタ……。あなたたちの味方よ」


 “貧民街(スラム)の母”――アナンタと、ボルドたちとの出会い。運命の歯車が、またひとつ動き出す。




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