第二十二話 荒ぶる魂 前編ー記憶ー
――それは、遥かな古の記憶――
冷たく澄んだ大気の底に、大海の如き草原が広がっていた。
――黎明。
豊饒の光が、深海の静寂に押し包まれた虚空へと満ち始めてゆく。
見上げた空に金色の光が差し、厚い雲が虹色に染まる。そして、最後の星が光を失ってゆく様を、ボルドは静かに見つめていた。
眼を閉じている。風の音を聞いている。
ボルドの意識は肉体を離れ、白く輝く天空へと舞い上がってゆく。
いつしか下界は遠く霞み、ボルドの魂は遙かな高みを、なおも高い虚空へと吹き上げられていった。
ひとかきごとに心は浮き上がり、大地との距離が増してゆく。
風に舞い上げられ、蒼天が近づくにつれて、天地の中へ自分自身の存在がほどけ、やがて全てがひとつになる――
不意に、ボルドは自分に力が加えられ、躯が下へと運ばれていくのを感じていた。
やがて、心は虚空を舞う羽毛のように、ふわりと肉体に舞い降りる。
風を感じる。光を感じる。裸足の下を滑る草の感触が快い。
ボルドは、そこが慣れ親しんだ草原であることを改めて感じていた。同時に、自身の背後から草を踏みしめる音が近づいてくることも――
丘は村の外れにあった。丘、と言うよりは山に近い。
裾の雑木林から頂にかけて、なだらかに草が這い上がり、頂上付近には太い楡の古木がある。
ボルドはその根元に立ち、背を幹に預けていた。
充分に雨を吸い込んだ丘の上を、澄んだ風が渡っていく。頂上への傾斜一面に、青黒い草の葉先が波のように続いてゆく。
葉ずれの音、風の音、虫の羽音、それらの常は気にもとめない密やかな音達。それが、今日はあまりにも美しく、鮮明に耳から体内へと響き渡るのだ。
ああ、これらのありふれた風景が、細やかに聴こえる音が、いかに儚く尊いものなのだろう――
その事実に初めて気づき、ボルドの口元には自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「金剛王よ、やはりここにいたのだね」
――?
考えたのは、ほんの一瞬だった。
そうだ、神武金剛王。それが僕の名前だ。
この声も知っている。背後から、草を踏み分けてきた声の主――。ボルドは背後へと振り返る。
異形の人物が草原の中に立っていた。その姿は、人間ほどの大きさがある巨大な蛙であった。
四つん這いに近い姿勢ではあるが、その雨蛙にも似た巨大な蛙は、後脚のみでしっかりと草原の中に立っている。
躯には黒い僧衣をまとい、左手には錫杖を握っていた。
蛙は時折、顎下を風船のように膨らませながら、金色の球状の眼でボルドを――そして彼の後方に在る遥かな虚空を見ている。
――青骸王。
そう、この人は青骸王だ。
我々、武龍鳳艦隊の中でも屈指の聖仙術師。
そして、自分は神武金剛王。同じく武龍鳳艦隊の戦士だ。
ボルドは改めて自身の身体を眺める。
下半身には裙子(くんす=僧侶がつける、ひだの多い巻きスカート状の下半身用の衣服)。鍛え抜かれた鋼鉄を彷彿とさせる裸の上半身。肩口まで伸びた銀髪。削り出した岩のような両腕には金色の臂釧(ひせん=二の腕につけられたブレスレット)が耀く。施されるのは武龍鳳艦隊の紋章、火炎に包まれた黒龍――倶利迦羅龍王だ。
そうだ。全て見覚えがある。
――見覚え? どうして僕は、この光景を知っている……?
「私を“呼んだ”のは青骸王ですか」
口が自然に動き言葉を発する。自分の意思ではない。まるで物語の映像を、登場人物の内部から眺めているかのようだ。
「名残惜しいのはわかる。だが、我々は一刻も早くこの星を発たねばならん……」
低く重い、呟きに近い声が青骸王の口から洩れる。蛙の口からとは思えない、滑らかな声音であった。
「……風が出てきましたね」
と、金剛王が言う。
「うむ……」
青骸王が応える。
金剛王は透き通った大気の奥に風の流れを探り、耳を澄ました。丘の下方から、村の人々が歌う声が聞こえてくる。
懐かしい歌だ。平和な、祭りの歌。
ひとつの歌が終わると同時に、別の歌が始まる。歌は時に高くなりまた低くなり、不意に途切れたりを繰り返しながら、風と混じり陽光を孕み延々と続いていく。
それは自身とは切り離された、別次元の音色のように聞こえた。
そう、すでに自分と彼らとの間には別の刻が流れているのだろう。それは永遠に交わることのない、隔絶された刻の流れだ。
確かな季節の中に在り続けていくもの。そして巡る季節と生命のむせかえる世界とは異質の場所へ。果てしない暗黒淵の宇宙へと旅立つもの――
歌がやみ、しばらくしてまた歌が始まる。神の戦士たちは、子守唄のようにそれを聴いていた。
「見よ、金剛王……」
青骸王の声には、風雨に晒された巨岩の如き重みがある。
「雲が動いておる……」
見上げれば、上空を覆う雲の腹が、凄まじい速度で東へ向かい動いていた。
「この丘は世界の“声”がよく聞こえる。同胞達の想いが、思念の粒子が時空を超えて、こちら側の銀河にまで流れ込んでおるのだ……」
雲はやがて見えない鉤爪に引き裂かれたかのように四散し、風のうねりはいつしか内部から歌声を吐き出していた。
「おお……! 感じるか、金剛王よ。同胞達の激情が、憤怒が、慟哭の魂想子が根元子に干渉し、この星の大気を震わせておる……!」
強さを増した風が、口元から青骸王の言葉を吹き千切り、虚空へとさらっていく。
「“門”が、開く……!!」
天を見据えた青骸王が、硬く重い声で呟いた。
風は熱気を孕みながら金剛王の背を叩く。どこかで低い、しかしはっきりとした声が囁く。
――殺せ
得体の知れない不安が、喉元につかえているかのようだ。絶叫すれば、それが激しくほとばしり出そうなほどに。
――殺せ
――殺せ!
――やつらを、この宇宙を喰おうとするものどもを、誰か殺してくれ!!
声が叫ぶ。恐怖と憎悪が波動と化したようなその響きに金剛王は戦慄する。
その時、金剛王の双眸は天に現出した“それ”を捉えていた。
「青骸王! 空が……!!」
赤黒い禍光に包まれた、大輪の毒花――
空に浮かぶ“それ”を言い表すならば、そのような表現であろうか。
雲の割れ目から透明な空が見える。そこには鳥の飛ばない空があった。村人達の歌も止んでいた。
その時、その地に生きる全てのものが見ていた。太陽の上に位置し、光さえも消し去ろうとする静寂と暗黒の空洞を――
巨大な、とてつもなく深い活火山の火口を真上から見下ろせば、恐らくこのような眺めなのだろうか。
太陽と同じ大きさの、どこまでも暗く深い穴――その奥底に、不気味に赤黒く光るものが蠢いている。それは粘菌のように少しずつ奥から這い出しながら、穴の輪郭から空をじわじわと侵食していく。
それは穿たれた傷口から粘度の高い血液がじっくりと染み出してくるようにも、天空へ徐々に亀裂が入ってゆくようにも見える。
総毛立つおぞましい感覚が、見る者全てを襲う光景であった。そして眩しいはずの陽光は、直視をしても全く眼を焼くことがない。光がいやに現実味を欠いて見える。あの穴は、光の粒子さえも飲み込んでゆくのであろうか。
「次元の境界が繋がった……! “奴ら”がこの宙域にまで侵攻しようとしてやがるんだ……!!」
若々しく、そして力強い意思の込められた声が、金剛王の後方から発せられた。
この声――。ああ、この声だ。そう、これも僕は覚えている。この人は――
「炎牙王。やはり“奴ら”は、我々武龍鳳艦隊の存在を認識していたようですな……」
青骸王が、天を睨んだまま応える。
「時空間を隔絶していようが、時間の問題ではあっただろうがよ……。だが、早すぎるぜ。間違いねえ。“奴ら”、ゴルカ銀河の同朋達を利用しやがったんだ!!」
こみあげる怒りを圧し殺した声で唸るように言いながら、炎牙王が二人の前方に立ち『門』を見上げる。
不動炎牙王――。ヴァイロ銀河最強の戦士だ。
金剛王の内部で、ボルドの意識と記憶が繋がってゆく。
上背が金剛王よりも頭ひとつ分は低い。歳はそう変わらないだろう。それどころか、炎牙王の方が幾分若く見えるほどだ。
だが、全身から立ち昇る気の圧力は凄まじい。まるで太陽を裡側に封じ込めたかのようである。
体格も見事にバランスが取れている。金剛王の肉体を鋼に例えるならば、炎牙王はしなやかな野生獣のようだ。
下半身に裙子をまとい、裸の上半身に天衣(てんえ=腕や体に巻きつける細長い飾り布)を巻きつけている。
炎のように赤く逆立つ頭髪。額には紅い宝玉が輝く、日輪を意匠した宝冠がある。
顔つきは、言ってしまえば平凡な若者と変わらない。十代後半から二十代前半ほどの歳に見える、ごく普通の青年だ。そう、本来彼は、愛敬のある笑みを浮かべ、仲間達と笑い合う戦いとは無縁の若者であったのだ。
彼がヒトの肉体に封印された神の如き力を目覚めさせた時――
『日の気道』と『月の気道』、双天の気道を支配した超戦士――
『明王』として覚醒する時までは――
その炎牙王の顔が変貌していた。険相である。その貌が、今にも鬼獣のような凄まじい面に歪みそうであった。
ゴルカ銀河を喰い尽くし、こちら側の銀河に『門』を開いた存在に対する激しい怒りが、炎牙王を鬼神に変えようとしているのだ。
「まさか――! 先ほどの思念の波動が……!?」
金剛王は、今も脳裏に刻みつけられた恐怖と憎悪の“声”を思い出していた。
「そういうことか……。滅ぼされる寸前の、同朋達が我らに向けた無念の“想い”。それをたどり、“奴等”はこのヴァイロ銀河の次元座標を特定したのか……!!」
青骸王が、重い声で苦悶を響きに滲ませながら言う。
「ああ……。だが、“奴等”はゴルカ銀河の同朋達を甘く見ていたようだぜ……!」
二人の視線が炎牙王に集まった。唇を噛んだ炎牙王の全身が、細かく震えている。
「馬鹿野郎が……! あんな糞ったれどもと心中しやがって……!!」
炎牙王は泣いていた。両眼から熱い涙を噴きこぼしながら、拳を血が滲むほどに強く握りしめている。
「むう……!」
と、青骸王が呻きながら天空の『門』を見上げる。金剛王も空を望み、そしてその光景を見た。
それは、恐ろしく華麗な光の爆発であった。
空に穿たれた暗黒の淵の底に、一瞬白光が煌めき、それがたちまち紅蓮の大炎と化して膨れあがったのだ。まるで、天空にもうひとつの太陽が産まれたかのようであった。
強烈な紅光が広がり、穴から滲み出ていた赤黒い亀裂を焼き尽くしてゆく。中心からは、さらに白く輝く炎が紅い炎の後を追うように、うねりながら輪を広げていった。
白炎が紅炎を追い越した瞬間、その巨大な炎輪の中で閃光が弾けた。蒼天をかき消すような凄まじい光が疾り、紅蓮の炎が暗黒の空洞を切り裂いたのだ。
金剛王が再び両眼を開けた時、空からは既に禍々しい『門』の姿は消えていた。そこには、ただ蒼い空があるばかりであった。
「『超銀河大紅蓮』……。生命体自身の存在そのものをエネルギーに変換する、我々神の戦士に残された最後の技……」
重く、苦い塊を吐くように青骸王が言った。言った途端に、彼は顔を伏せ低く声を詰まらせる。
声をあげず、その両眼から涙をこぼしながら、金剛王は静かに泣いていた。金剛王の魂を通し、彼の哀しみがボルドにも伝わってくる。
どれほど、ゴルカ銀河の同朋達は無念であっただろう。彼等は命に代えて、このヴァイロ銀河を守った。だがそれは、ゴルカ銀河の戦士達を――彼等の愛するもの、守るべきものを犠牲にしてのことなのだ。
その時――
空から朧な燐光が舞い降りた。
ひとつ、ふたつ――。その光はゆっくりと数を増し、やがて無数の燐光を放つ光の微粒子が、粉雪のように炎牙王達の元へと降り注いでゆく。
「見ろよ……。ダチ公が、俺達に別れを言ってやがるぜ……」
光の乱舞の中で、炎牙王がぽつりと呟いた。天を仰ぎながら、炎牙王は哀しげな笑みを浮かべている。涙はもう消えていた。
そうだ。
ボルドは思う。
この人は、この時から泣くことを止めたのだ。
これから彼は、限り無いほど多くの友の死を見ることになる。
だが、この人には――ヴァイロ銀河最強の戦士であり、武龍鳳艦隊の司令官であるこの人には、仲間の死を悼み、立ち止まることさえ許されない。
かけがえのない友が、笑って命を投げ出す様を、ただ黙って見守るしかない。それが、彼に課せられた宿命なのだ。
激情と慟哭を握り潰した拳から流れ落ちる血。あれが炎牙王の涙――
「友よ、また会おう……」
青空を仰ぎながら、炎牙王の発した別れの言葉。それは一陣の風に巻き上げられ、遥かな高みへと消えていった。
それは、強烈な記憶の奔流であった。
凄まじい圧力を持ったものが、自分の裡側にある。
ああ、こんな深い場所が自分の内部にあったのか。
深い場所から、遥かな深みから……。
肉視できるなら、それは星と星との距離に等しい。自分の内部にありながら、果てしない遥かな彼方――
ああ――
ボルドは突然の恐怖に襲われた。
もし“あれ”が出てきたら、自分はどうなってしまうのか。
“あれ”は記憶だ。
自分でありながら自分ではない、魂の内部に刻まれた古の記憶。
自分でありながら、現在の自分ではない意識。
“あれ”が出てきたら、その激流に自分のちっぽけな意思は押し流されてしまう。
金剛王と呼ばれた存在。それが完全に目覚めた時、この自分は、ボルドという存在はどうなってしまうのだろう。
恐怖――
やめろ。やめてくれ。
ボルドは意識の中で叫んでいた。
ありったけの力で記憶の門を閉ざそうとする。だが、その隙間から洩れてくる。
少しずつ、少しずつ。それが勢いを増してゆく。
――殺せ!
猛り狂う声がする。
――敵を殺せ!!
その声に、自分の意識がことごとく呑み込まれそうになる。
何がどうなってもいい。
敵を殺す。今、すべきことはそれだけだ。
煩わしいものは棄ててしまえ。
粉々に砕けて、全てどこかへ消してしまえ――
待て――!
悲鳴にも似た声が、ボルドの口からあがる。
待ってくれ。
だめだ。今はまだ、だめなんだ。
守らなければ。みんなを――
門を抉じ開けあふれ出る記憶の奔流の中で、ボルドは雄叫びを放った。
喉を天に向かい垂直に立てて、千切れんばかりの咆哮をあげる。
「ぐオぉぉォオアアアッ!!」
おおう……
どよめくような声が、激流の中からあがる。
「俺はボルドだ!」
叫んだ。
「俺には、守りたいものがあるんだ!!」
ボルドの口から、血のほとばしるような絶叫が放たれた。




