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第四部 『金剛神』 第二十一話 覚醒

(一)

 ヒマラヤザクラが散っている。

 風もないのに、無数の花びらがはらはらと枝から離れてゆく。

 途中で急に冷え込んだせいか、この年のヒマラヤザクラは長く花をつけていた。その花が、ようやく散り始めている。

 わずかな風が吹くだけで、音もなく舞い散る花びらの数が一段と増える。それはサクラが人々に、とめどなく動いてゆく天地の流れを、ほんの一時だけ眼に見える形として現しているようであった。

 ボルドは草の上に寝転んで、春風に身を任せながら、さらさらとした瀬音を聴いていた。

 貧民街(スラム)の外側を流れる河川の合流地点である。目をうっすらと開ければ、草の間から標高八千ローナ(八千メートル)を超える結界山脈(シーマーバンダ)の巨大な岩峰がそびえている。

 ボルドは人気のない河原のその場所から、雪を頂く山嶺を背景にして煌めく水面を眺めるのが好きであった。

 雨季にはまだだいぶ時期が空いているが、それでも草の中に身を沈めていると、生命を内側に蓄え始めた草の豊潤な香りが鼻から入り込んでくる。

 鼻――。そう意識した瞬間、思わず自身の鼻に手が伸びてしまった。

 ボルドの鼻は人のものではない。豚と似た形状の鼻だ。しかも、石で何度も叩いて潰したようにひしゃげた形をしている。

 この鼻がボルドを孤独にした。

 物心がつく頃からずっと苛められていた。優しい言葉をかけてくれる者など誰もいない。両親の顔も知らなかった。

 ボルドの記憶は、貧民街のゴミ捨て場で残飯を漁っていた頃から始まる。幼少時より、ボルドは人一倍身体が大きかった。身体が大きい分、大量に食べる。とにかく口に入るものなら何でも食べていたのだ。

 その姿はまるで餓鬼のように見えたことだろう。いくらでも食べ、その分身体はどんどん大きくなる。夜寝ていると、自分の骨がみしりみしりと音を立てて大きくなってゆくのがわかるほどだ。十代になる頃には、もう背丈は大人ほどになり、全身にたっぷりと肉がついていた。

 ただでさえ目立つ巨体だ。しかも異相と言える風貌である。同じ貧民街に住む浮浪児にさえ、ボルドは受け入れられなかった。彼らは化け物でも見るような眼でボルドを見て、口々に彼を罵りながら石を投げつけてくる。

 人は弱い。

 それをボルドはよく知っている。自分自身が弱いからだ。

 人は弱い自分を認めたくない。だから、自分よりも弱い者を探す。弱いから、自分より弱い者を見下そうとする。力で屈服させようとする。そうして、自分は強いと思い込もうとしているのだ。

 人とはそういうものだ。

 だが、ボルドはそれができなかった。

 人を裏切る。人を騙す。人を妬む。人を憎む……。それが、どうしてもできない。

 虐げられることはとても恐ろしい。殴られるのは大嫌いだ。だから、そんなことは他人にはとてもできない。できないのは、自分が臆病者だからだ。やり返す度胸もないから、自分は弱いままなのだ――

 仕方がない。と、ボルドはいつの間にかそう考えるようになっていた。解決策は唯一つ。どれだけ罵倒されても、暴力を振るわれても、ひたすら我慢をする。

 痛みと悔しさに涙したところで、余計に相手は自分を虐げる。経験上そのことに気づいていた。

 苛められても、殴られても、石を投げられても、ボルドはただ黙って耐え続けた。自然と口数は少なくなり、性格も暗くなってゆく。友人と呼べる存在は誰もいない。ボルドは孤独であった。



(二)

 ある日、ボルドは浮浪児のひとりに声をかけられた。同じ年頃と思われる、金色の髪と瞳を持つデーヴァ族の少年だ。艶のない髪の下から尖った両耳が覗いている。

 「おまえ、石をぶつけられても痛くないんだって?」

 「……うん」

 ボルドは嘘をついた。石をぶつけられて痛くないはずがない。痛みに耐えているだけだ。平気なふりをしているだけだ。

 答えた途端に、ごつん、と額に石がぶつけられた。金髪の少年が、握っていた石をボルドに向かい投げたのである。

 「痛くないよ」

 そう言った口の中に、鉄臭い味が広がる。額から血が流れ出し、顎先まで滴っていた。

 「痛くない……」

 顔を血塗れにしながら、それでもボルドは微笑んでみせる。

 「わぁっ!!」

 叫び声をあげて、金髪の少年はその場から逃げ出してゆく。

 ボルドは少年の後ろ姿を、哀しそうな瞳で見送っていた。


 次にやって来た時、デーヴァ族の少年は、どこかの店からでも盗んで来たのであろうか、その手にパンを持っていた。

 そして少年はひとりではない。周囲には同じような年頃のガルダ族やキンナラ族の少年少女たちを連れている。

 「また、あれをやってみせてくれよ」

 デーヴァ族の少年が言う。

 「……あれって?」

 「石で叩いて、血を出してみせてくれよ」

 あれは僕がやったんじゃない。君が石をぶつけたんだ――

 そう思ったが、口には出せない。ボルドが黙っていると、デーヴァ族の少年はパンを差し出した。

 「やったら、こいつをやるよ。腹減ってるんだろ?」

 「…………うん」

 足下に落ちていたレンガを拾い、ボルドは自分の頭を叩いた。この前よりも大きな音がするように、手に力を込める。

 がつん、と鈍い音が頭の中に響き、一瞬意識が遠くなった。しかし、ボルドは続けて二度、三度とレンガで頭を打ち続ける。

 「な? すげえだろう?」

 デーヴァ族の少年が仲間たちに得意気に話す声が聴こえる。その内に、ボルドの額から血が流れ始めた。

 「痛くないよ」

 レンガを打ちすえる手を止めて、ボルドは少年たちに向かい笑ってみせた。泣き出しそうな顔を無理矢理に歪ませた、情けない笑顔であったと自分でも思う。


 少年たちが帰った後、額の血を手で拭いながら、ボルドはひとりでパンを食べた。ふっくらと柔らかいそれは、血と涙の味がした。

 それ以降も、何度かそのような“遊び”が続いた。

 当時、ボルドは自分が馬鹿にされているのだとは思わなかった。いや、あえてそのことを考えまいとしていた。皆は自分と遊んでくれている――そう信じようとしていたのかもしれない。


 数日後――

 「おい」と、声をかけられた。いつものデーヴァ族の少年である。

 「ちょっと来いよ」

 誘われるままに、ボルドは路地裏へと連れていかれた。途中、ボルドはいつもと違う少年の様子に気づいていた。少年の顔には、恐怖にも近い緊張感がみなぎっている。“遊び”が行われるであろう場所も、普段はこのような路地裏ではない。

 「ねえ……」と、少年に訊きたかった。しかし、その一言を発する勇気がボルドには起こらない。

 痛いほどの沈黙が続く道程は、数ソウ(数分)が数キャン(数時間)にも感じられた。その時、

 「なあ……!」

 不意に少年が立ち止まり、ボルドに背を向けたまま声をあげた。

 顔は見えない。しかしその声色から、少年の精神が今にも千切れそうなほどに張りつめているのがわかる。

 「…………」

 結局、少年はボルドに何も言わなかった。ただ、震える拳をきつく握りしめ、自身の裡側にある何かしらの感情を押し殺したのであろう。

 「――何でもねえよ」

 少年は苦いものを吐き出すように言い捨てると、地を蹴りつけて再び歩き始める。

 その後ろを困惑した表情でボルドは追う。暗く淀んだ恐怖と不安が、粘る泥のように体を包んでいくのを、ボルドははっきりと感じていた。



(三)

 そこは、貧民街の一角に異物のように残された空き地であった。

 ここにはつい先日まで、違法に増築が繰り返された木造の集合住宅が存在していたのだが、火事を出して以来そのままになって放置されている。

 全焼した建物跡からは、焼け残った木材や家財などが貧民街の住人たちにより次々と持ち出されており、残っているのは炭化した一部の建材のみだ。

 つい先日まで燻り続けていた現場の空気中には、雑草の匂いに混じり薄く焦げついた臭いが立ちこめている。

 ――夕刻。

 すでに陽は大きく傾き、辺りに薄闇が満ち始める時間であった。

 空にはまだ光が差しているが、地上には大半が届いていない。西天へ降りてゆく陽光の照り返しにより、かろうじて明るさが残っている程度である。焼け跡の傍らに生えているピッパラ樹の頭に届く光も、あと一キャン(一時間)もしないうちに消え去るだろう。

 そして、忍び寄る夜気の中に潜むもうひとつの臭い――それは血臭であった。

 身を硬くして、無言のまま雑草を踏み分けボルドと少年は進む。進むに従い、血の臭いも近くなってゆく。

 不意にボルドは足を止めた。眼前の少年が立ち止まったからである。少年の前方には大きな(クスノキ)が生えていた。その下に人影が見える。

 樟の根元には四人の人間(マヌ)が立っていた。だが、四人ともこの貧民街で、いや、ガイラース国で見る人間(マヌ)とは明らかに違っている。

 身長は二ローナ近く、鍛え抜かれた体躯をしていた。髪は紅く瞳が青い。鼻も高く、肌の色が浅黒かった。当時のボルドには知る由もなかったが、彼らはガイラースより遥か西方の国――グロスマム国の男たちであった。

 男たちがボルドの知る人間(マヌ)と根本的に違うのは外見だけではない。四人とも独特な、暴力的なものをその肉体から発散させている。身体全体から刃物のような鋭い気配を立ち昇らせているのだ。

 彼らは上半身は裸体、いずれも手に抜き身の剣を握っている。腰布は濃い青色。腰に下げた赤い革鞘が、ボルドの眼にはひどく禍々しく映った。

 男たちの中で、頬に傷のある男がボルドと少年を一瞥した。それは感情のこもっていない、まるで路傍の石ころでも見るような視線であった。ヒトではなくモノを見る冷たい眼に、ボルドは思わず身震いをする。

 「ガキが来たぞ」

 頬傷のある男が声を発した。男は他の三人よりも頭ひとつ分背が高く筋肉が厚い。物質的な気の圧力が、むっと漂ってくるようであった。どうやらこの頬傷の男が、四人の人間(マヌ)の中でリーダー格らしい。

 頬傷の男の手には、太い鎖が握られている。その先を追っていくと、そこにはボルドと同じ年頃か、さらに年少の人間(マヌ)神民(マナ)の子供たちが、文字通り数珠つなぎになって捕らわれていた。この貧民街で見たことのある顔ばかりだ。しかも、ただの捕らえ方ではない。両腕は後ろにくくりあげられ、首輪から延びた鎖は前後の者同士でつながれている。これでは逃げることはおろか、遅れることも転倒することも許されない。

 「へっ……。本当に連れて来やがったぜ」

 「おら、立てガキども! お仲間だ!!」

 グロスマムの男たちは捕らえた少年少女たちを容赦なく足蹴にする。子供たちの衣服はぼろぼろに裂けて、裸足の足は血塗れになっていた。顔も全員が砂埃と血と涙で塗られている。

 彼らのあまりに凄惨な姿にボルドは声が出ない。子供たちは人のものではないような顔色になり、生気の失せた暗い眼を向けてくる。その様に、ボルドの全身の毛が逆立った。

 「まさか――奴隷商――」

 そこまで言いかけてボルドは息を呑み、前方に立ち尽くすデーヴァ族の少年の背を凝視した。

 ボルド自身も、貧民街の大人たちが話しているのを聞いたことがある。

 人口が激増したガイラースでは、国を維持するためにとにかく戦線を拡大し続けている。しかし皮肉にも、それは同時に貧民街をも拡大する要因にもなっていた。

 戦争には莫大な金がかかるが、そのかわり勝てば相手の国から戦争に費やした以上の利益を奪うことができる。政治家や兵士たちはもちろん、職人や大工といった戦争に関わる建物や武器を生産する者、食料を運ぶための馬車を扱う者、馬車のために舗装道路を整備する者、従軍商人や娼婦たち――戦争に直接関わる者、関わらない者、全ての者が潤うのだ。

 だが、それでも貧民街はなくならない。戦争による一時的な好景気で失業者が減っても、それを上回る戦争難民が次々と流入してくるからだ。

 その中には、元兵士が身を持ち崩した者、戦線を離れた傭兵が野盗と化したような者も存在していた。彼らは貧民街に入り込み、手っ取り早く食う方法として犯罪行為に手を染める者が少なくない。貧民街の少年少女を奴隷として他国に売り払う――そういった事件も、最近急増している。

 帝都ブラフマーでは合法の売春街が存在しているが、人身売買や性的な奴隷の使役は違法である。だが、それはあくまでも壁の『内側』のことだ。『外側』の貧民街では取り締まりもろくに行われてはいない。頼る者のいない孤児たちは、犯罪者たちの格好の獲物となっていた。

 「へへ……、よく知ってるじゃねえか。そこの豚ヅラはよぉ……!」

 男たちのひとりで、頭を剃りあげたスキンヘッドの男が、にやりと歯を剥き出しにして嗤った。その言葉に、ボルドは全身の血が瞬く間に凍りついたような感覚に襲われる。

 「ど、どうしてなの? どういうことなの……?」

 ボルドは不安にしゃがれた声で、デーヴァ族の少年に訊ねる。

 デーヴァ族の少年は、全身をわなわなと震わせたまま、ボルドの問いには答えない。すると、今にも泣き出しそうな表情をしているボルドに向かい、スキンヘッドの男がねばつく嗤いを浮かべて歩み寄って来た。

 「まぁだわかんねえのかよ、この馬鹿豚が!!」

 男がわめいたかと思うと、ボルドは不意に体を前に折り崩れ落ちた。男の膝が跳ね上がり、ボルドのみぞおちに食い込んでいたのだ。

 「――――っ!!」

 下腹部から胸へ突き抜けた痛みの波によって、ボルドの呼吸が止まる。地に這いつくばったまま体をくの字に曲げて必死に息を吐こうとするが、わずかに息が洩れるのみで、すぐに息は止まってしまう。苦悶の波動に、ボルドは地に爪を立ててのたうつばかりであった。

 グロスマムの男たちは不気味な嗤いを浮かべて、ボルドの苦しみ悶える姿を見下ろしている。

 「てめえは売られたんだよ、そこのデーヴァ族のガキにな。あのガキ、俺たち以上の悪党だぜ。なんせ自分が助かるために、てめえを奴隷として俺たちに引き渡したんだからな。なあ、テージン!!」

 スキンヘッドの男の怒鳴り声に、デーヴァ族の少年――テージンはびくんと身をすくませると、顔を背けるようにうつむいた。その貌には怯えの色がはっきりと浮かび、死人のように青白くなっている。

 テージンの表情を目にした瞬間、ボルドは地の底に沈み込むような絶望感に襲われた。テージンの沈黙こそが、男の言葉を証明していたからだ。

 「そん、な――」

 ボルドの口から弱々しい呟きが洩れる。しかしスキンヘッドの男は、ボルドに現実を受け止める時間さえ与えようとはしなかった。

 「なにぶつぶつ言ってやがる!!」

 男はボルドの髪をわしづかみにすると、草の上から強引に引き起こした。頭髪がぶちぶちと千切れる痛みに声をあげそうになった瞬間、ボルドの顔面に熱いものが破裂した。男の拳が鼻先に叩き込まれたのだ。

 「……っが!!」

 ボルドは近くに生えていたブナの幹に後頭部を強打した。スキンヘッドの男は、なおも殴りかかってくる。

 「やめて、やめて――」

 呟くボルドの顎に再び拳が入った。次いでブナの幹から引き剥がされ、激しく突き飛ばされたボルドは再び地に倒れ伏せる。

 「そういやテージンが言ってやがったなあ! てめえ、石をぶつけられても平気なんだってえ!? だったら俺が試してやるよ!!」

 腹を蹴られ、顔を殴られる。蹴り出した男の爪先が、這いつくばったボルドの顔面にめり込んだ。

 「ぐぎっ!!」

 顔を押さえてボルドが横に転がった。口の中が生臭いものでぬるぬるしている。溢れ出した大量の血であった。鼻の方から回って来た血も混じっている。

 「あまりやり過ぎるな。壊れたら値段がつかんぞ」

 頬傷の男がスキンヘッドの男に声をかけた。

 「教育だよ、教育!! よく見とけガキども!! 俺らに逆らったらどうなるかなあ!!」

 ボルドを襲う暴力の嵐を目の当たりにして、捕らえられた子供たちの心は恐怖に支配されていた。今、彼らの脳裏には、自身に向けられた男たちの凄惨な仕打ちが鮮明に甦っているのだろう。

 薄ら嗤いをへばりつかせた痩身の男が、手元の鎖を手繰り寄せながら声を発する。

 「この犬っころみたいに、めちゃくちゃにするんじゃねえぞ!」

 男の手にした鎖の先には、燃えるような赤髪を持つ少女がつながれていた。

 少女は、狼の特徴を有するキンナラ族であった。赤髪の間からは、赤毛に覆われた三角形の耳が生えている。だが、ボルドの眼で確認できたのはそこまでだった。

 少女の顔は両目が塞がるほどどす黒く腫れあがり、髪が血によって粘りついていた。とても元の顔を想像することができない。思わず目を背けたくなるほどの酷い姿である。

 服の袖は千切れて、脇腹や裾は大きく裂けていた。あらわになった肌には、赤いみみず腫れや青黒い打撲傷が無数に刻まれている。男たちに残酷なまでの暴行を受けたことは明らかであった。

 「けっ! そのガキが抵抗しやがるからそんな目に合うんだよ!!」

 スキンヘッドの男は草の上に仰向けに転がったままのボルドに唾を吐き捨てると、顔を歪ませて毒づいた。白眼には血の筋が絡み、瞳に暗い喜悦の色が浮いている。

 「おい、なんだこのガキ、震えてやがるぜ」

 男たちのひとりで、薄く尖った鼻を持つ男がテージンを見て大袈裟な声を出した。その隣にいた左腕に刺青をした男が、嘲りの笑い声をあげる。

 「見ろよ。こいつ、今にも小便垂れそうな面してやがる!」

 テージンは完全に場の空気に呑まれている。男たちの発する生臭い暴力の波動が、テージンを極度に臆病な小動物へと変えていた。

 ――違う。

 テージンはわかっている。自分は変わってなどいない。これは、自分がよく知っている自分自身に戻っただけなのだ。

 あの時、男たちに囲まれたあの時――

 恐怖のあまり精神のバランスが崩れてしまったのだろうか。それとも、普段は押し隠している本性が不意に現れてしまったのか。

 気がついた時、自分でも信じられないような汚い言葉を口にしていた。

 “おれの代わりになる奴を連れてくるよ。だから、俺を見逃してくれよ……”

 テージンの頭はもはや醒めきっていた。心の中には、ただ後悔だけがある。

 「へっ。今さらびびっても遅いんだよ。俺たちの手下になると言ったのはてめえだからな」

 刺青男の声がテージンの頭に空しく響く。

 その通りだ。男たちに近づいたのは、他でもない自分自身だ――

 何故、両親が自分を棄てたのか。理由はわからない。考えるだけ無駄だと、それだけはいつの間にか理解していた。

 そのようなことを考えるより、今日一日自分を守ることの方が重要だ。そのために覚えたのが、より強い存在に媚びへつらって生きることだった。

 情けないとは思わない。無力な子供である自分にとれる、最大限の生きる工夫だ。だから、グロスマムの男たちを見て、自分から声をかけたのだ。

 男たちの発する暴力的な雰囲気は、貧民街の中でも際立っていた。当然リスクも頭をよぎったが、結局“こいつらに従った方が得になる”と思ってしまった。より強い者に取り入ることができれば、自分はこの貧民街で有利に生きられる、と――

 始めのうちは、男たちも本来の目的は明かさず、用心棒などをしながらテージンに使い走りをさせていた。今考えれば、それは『品定め』の時間であったのだろう。

 テージンは男たちに言われるままに、身寄りのない子供たちの集まる場所も教えていた。

 男たちの真の狙いを知ったのは、それから間もなくのことだ。そして、テージン自身も奴隷として売り払う考えであったことも、その時に初めて知ったのである。

 全ては手遅れであった。

 もう取り返しはつかない。恐ろしいまでの絶望感がテージンを捉えていた。

 がくがくと震えそうになる脚をかろうじて堪えている状態だ。テージンはそこにへたりこみ、泣いて許しを乞うことができればどれだけ楽だろうと思った。もしそれで許してもらえるならば、この場で土下座することさえいとわないだろう。

 「よく見てろよ、テージン。俺らに大人しく従わなきゃどうなるか、こいつらを使ってよく教えてやるよ……!!」

 スキンヘッドの男の眼が、獰猛にぎらりと光った。

 テージンは、自分の運命がもはや自分ではどうしようもない状態に陥ったことに、ようやく気がついていた。



(四)

 「まずは、俺に逆らいやがった、この犬っころからだ!!」

 スキンヘッドの男は痩身の男から奪うように鎖を手にすると、力まかせに赤髪の少女を引きずり出した。少女の口から痛ましい悲鳴があがるが、首をねじ切らんばかりに食い込んだ首輪が、彼女の絶叫を呼吸ごと断ち切ってしまう。

 足下まで転がって来た少女の頭をめがけ、スキンヘッドの男は何の躊躇もなく己の右足を踏み下ろした。

 「えぎっ!!」

 少女が濁った悲鳴をあげる。耳と鼻からは細い血の筋が幾本も流れ落ちてきた。

 テージンを含め、周囲にいる子供たちは悪夢の如き光景に声も出せず、ただその身を恐怖に震わせることしかできない。

 少女の苦悶そのものを愉しもうとする邪念がありありと貌に浮かんだ男たちの姿は、この世のものとは思えぬ悪鬼のように、少年少女たちの網膜に映されていた。

 めきめきと、赤髪の少女の頭蓋骨が軋む音が不気味に響く。

 「た、す、け、て――」

 命の灯火と共に消えかけるような掠れた声を少女が発した。

 その時――

 「やめろ!!」

 大気を引き裂くような、悲鳴に近い絶叫であった。だが、それは男たちにとっては自分たちの愉しみを妨害する雑音に他ならない。

 「ああ――!?」

 声があげられた方向へ、スキンヘッドの男が血走った眼球を向ける。そこにいたのは、地面に膝をついた四つん這いの姿勢のまま――しかし、男たちへと強い視線を放つボルドの姿であった。

 「もう、やめろ。その足を離せ……」

 堅く食いしばった白い歯が見える。歯の間から血の混じった紅い飛沫を飛ばしながら、それでもボルドの眼はスキンヘッドの男を見据えていた。

 「てめえ――。なんだその眼は!!」

 喉の奥で低く唸ると、スキンヘッドの男の顔が怒りで赤く膨らんだ。男はボルドに走り寄り、その顔面を思い切り蹴りあげる。血が飛び散り、ボルドが仰向けに転がった。その顔に、男が連続で拳を叩き込む。容赦のない、体重を乗せた重い拳であった。

 きりきりと、歯が音を立てている。テージンは眼前の光景を見ながら歯軋りをしていた。

 身体中の血が、今にも煮えたぎりそうだった。何もできない自分がたまらなく情けない。自分で自分をくびり殺したいほどの衝動に、テージンは襲われている。

 いつの間にか、テージンの口からは号泣がほとばしっていた。テージンは、その叫びが自分の喉から洩れていることにすら気づいていない。

 そして――

 大量の血を口から吐き出すと、両手を体の左右に広げ、ボルドは仰向けになったまま動かなくなった。微かな呼吸音以外、その口からは何も発せられてはいない。いや、その呼吸音さえも途切れ途切れに消えかけている。

 ボルドの姿を見た赤髪の少女の細い悲鳴が、高く夕闇の大気を貫いた。

 男たちの嘲笑が、少女の悲鳴をかき消すようにあがり――その声が不意に止まった。すぐ目の前に、白い金属光を放つものを見たからだ。

 山刀(ククリ)である。それをテージンが握り、男たちに向けていたのだ。



(五)

 がくがくとテージンの膝が震えている。恐怖に引きつった顔からは血の気が失せて、歯はかちかちと音を立てて鳴っていた。

 ――何故、自分はこんなことをしているのか?

 テージンは自分で自分のしたことが信じられなかった。遅かれ早かれ、自分はもうおしまいだ。しかし、大人しくしていれば、少なくとも今この場で命を落とすことはないだろう。自分も男たちにとっては『商品』であるからだ。

 だが――

 ボルドの姿が、あれだけ殴られ、傷つけられてもなお、赤髪の少女を守ろうとするボルドの姿がテージンを突き動かしてしまった。

 自分で意識したことではない。そして赤髪の少女の叫びを聞いた瞬間、何か電流のようなものが全身を貫き、気がついたら山刀を構えて男たちに向けていたのだ。

 「……へえ。面白いじゃねえか、テージン」

 スキンヘッドの男は歯を剥いた獰猛な笑みを浮かべて呟いた。テージンの握る山刀が白光をはねるのを、男はニヤニヤとしたまま剣も構えずに見ている。

 「知らなかったぜえ……。おまえがそこまで馬鹿だったとはよお」

 まるで、山刀の刃が眼に入らないかのように、スキンヘッドの男はのしのしとテージンに近づいて来た。

 「てめえ、自分が何したかわかってんだよなあ……」

 男が言い切る前に、ものも言わず猛然としてテージンは男へ斬り込んでいく。そのテージンの眼の先に、凄まじい光が飛び込んできた。それは自分の持つ山刀の光ではなく、その前に平然と顔を差し出したスキンヘッドの男の眼光であった。

 「この糞ガキが!!」

 野獣のような吠え声とともに、男の足が深々とテージンの腹に突き刺さる。一瞬で息が止まり、悲鳴もあげられずテージンは吹っ飛ばされた。そのまま仰向けに倒れるボルドのそばに落下すると、押し潰されたような呻き声を洩らし、腹を押さえて地面をのたうち回る。口と鼻からは、血の混じった大量の嘔吐物が溢れ出してきた。

 「どう、して――」

 荒い息遣いと苦痛を堪える呻きとともに、ボルドのか細い声がテージンの耳に届く。

 「どうして、逃げないの……? きみ、まで、殺され、る……」

 ――やはりボルド(こいつ)は馬鹿だ。こんなにボロボロになってまで、まだ他人(おれ)の心配をしている――

 「畜生……!」

 テージンは唇に歯を突き立てて、喉の奥から声を絞り出した。

 「おれだって、おれだってわからねえよ。でも、信じてくれよ。おれは、本当はおまえを巻き込むつもりはなかったんだ。なのに、あいつらが、怖くて……畜生……っ!」

 この涙は悔しさのためか、申し訳なさのためか。

 「あと、おまえに石をぶつけたのだって、始めは、そんなに悪いことだって思ってなかった。ただ、面白半分でやっちまったんだ。でも、痛くねえはずがないよな。殴られれば、こんなに痛いのに、苦しいのに……。ああ、何言ってんだおれ、こんな時に。でも、本当はおまえに、ごめんって言いたくて……」

 喘ぎながら、泣きながらテージンは言った。自分の想いを、言葉にできないものを、ひとつひとつ千切りながら吐き出すように――


 「殺す、か……」

 頬傷の男が、ぼそりと口にした。口の中にある味のない異物を、未消化のまま吐き出したような言い方だった。

 「目障りだな。もう殺してしまおう」

 人の命を奪うことに慣れた者が持つ、暗い凄みがその声色に含まれている。

 「アントニオを呼んで来い」

 影になった顔の中から、細い眼でボルドたちを燃えるように睨みながら、頬傷の男が尖り鼻の男に命じた。

 「へへ……。本気かよ。本気でこいつら殺す気だな」

 尖り鼻の男は歯を剥いて、引きつった唇を歪めた。笑おうとしたらしいが、あまりにも醜い心根を現したそれは、笑みの形にはなっていない。

 「おい、出番だぜアントニオ! てめえの好きなガキの肉だ!!」

 焼け落ちた集合住宅の跡地に向かい、尖り鼻の男が大声をあげる。すると、黒焦げになった建材を押し退けるようにして、死角となっていた部分からぬうっと巨大な影が現れた。

 どすどすと地響きを立てながら近づいて来たのは――体表に苔がびっしりと生えたような皮膚を持つ巨人族だった。身長三ローナ(三メートル)、体重四〇〇サンカン(四〇〇キロ)の凶暴な巨人、オグル種である。


 ガイラース国から見て結界山脈(シーマーバンダ)を挟んだ西側に位置する国、エフィソスは人口の九割をドワーフ族が占める国だ。

 そして、残り一割を構成するのが巨人族である。

 その名の通り体躯は巨大。人間に似た容姿を有する種族もいるが、単眼や蛇の胴のような脚を持つ者、複数の腕や頭部を持つ者など、人とはかけ離れた姿をしている種族も存在していた。

 外見上、危険な生物と認識されてしまうが、実際には理知的で温厚な者も多い。非常に優秀な金属精錬と鍛冶の技術を持ち、国の発展に貢献している種族もいる。

 しかし、中には好戦的て勇猛な種族や、ごく稀ではあるが凶暴で残忍な性質の種族が存在することも確かだ。彼らは本能のおもむくままに争いを求め、戦場においての戦いぶりは敵はおろか味方からも恐れられていた。

 特にグレンデル種、オグル種などは邪悪さが際立つことで有名である。粗暴な性格は頻繁に仲間割れを引き起こし、時に殺し合いや共食いさえも行う。戦えば自ら退くことはなく、恐れを知らず暴れるその姿は、まさに破壊と殺戮のみを目的とした存在だ。


 「知ってるか? こいつらオグル種ってのはよ、人の生肉が大好物なんだよ。このアントニオはなあ、『ガキの肉が喰えれば何でも言うことを聞く』って言ってよ。それで俺たちの用心棒になったのさ……!」

 痩身の男は、ゲラゲラと少し壊れたような笑い声をあげながら、ギラついた目付きで言い放った。

 アントニオが姿を現した途端、周囲に濃い血臭が充満する。その瞬間にボルドは理解した。この空き地に来た時に、自分の嗅いだ血臭は、こいつが放つものであったのだ――

 いや、違う。それだけではない。どこかが奇妙である。やけに生臭い腐臭。背の毛がそそけ立つような臭いを、目の前のオグル種は放っている。

 オグル種のアントニオは、全体的に緑色の皮膚をしていた。頭部が異様に大きく、全体的なバランスは五頭身ほどに見える。眼は白濁した球体を埋め込んだような形状であり、知性の輝きはなく虚ろだ。頭髪は生えておらず、蝙蝠に似た耳が側面から伸びている。鼻は瘤のように膨らんでおり、耳元まで裂けた口には巨大な鋸のような牙が覗く。

 粘土をでたらめに盛りつけたように腕や脚は筋肉で異様に盛り上がっているが、濃い体毛の生えた腹は風船のように膨らんでいた。

 そして、下腹部には股間を覆うようにぼろぼろの布が巻かれているが――その布の正体に気づいた時、ボルドは思わず強い吐き気を覚えて、そこに胃の内容物を全て吐き出しそうになった。

 なんと、アントニオの巻きつけた布は、人間(マヌ)神民(マナ)の皮で造られていたのだ。頭髪ごと上から下まで剥いだ生皮をつなぎ合わせ、自分の身体の上に巻いているのである。

 強烈な腐臭をまとわりつかせながら、アントニオは巨体を揺らしボルドたちに近づいて来た。口の中では赤い肉塊の如き舌が不気味に蠢いている。顎をがくがくと上下させて、アントニオは威嚇するように牙を噛み鳴らした。

 横たわるボルドの頬に、ひきつれが走っている。唇が震えていた。声を出そうにも、声が出ないなだ。アントニオは真っ直ぐにボルドの元へ向かって来る。どうやら、一番最初にボルドに目をつけたらしい。

 「ひぎっ……!?」

 ボルドが化鳥のような細い哭き声をあげた。顔がべとつくものでぐしゃぐしゃに濡れている。それが涙なのか、吐き出した胃液なのか、ボルドにはもうわからない。今すぐ赤ん坊のように両手両足を投げ出して泣きわめきたかった。萎えそうになる気力を振り絞り、よろめきながら立ち上がろうとする。だが、全身の力が入らない。指の爪が空しく地を掻くのみだ。

 オグルの足が地を踏み、その身体が草を擦る音が低い唸り声の後に続く。巨獣の荒い呼吸が喉を鳴らす音、それが夕闇の中で急速に大きくなってゆく。

 生臭い息がボルドの後頭部にかかった。アントニオがボルドの身体を跨ぐように真上に立っている。巨大な掌が、ボルドの頭をわしづかみにして無理矢理に地面から引き剥がした。

 ねちゃり、という湿った舌の音と、開かれた口から発する熱い呼気が、空気を伝わりボルドの背中に届いてくる。肌に張りついた汗の中から、ぞわっと氷の針のように、全身の体毛がそそけ立った。

 ひゅうひゅうという笛に似た音がボルドの唇から洩れる。先に突き出した掌が、何もない空間を泳ぐように掻いている。

 もがいた。ボルドは狂ったように両腕、両脚を振った。だがオグルの掌は、がっちりとボルドの頭を掴んだまま離れない。

 げらげらと男たちの嘲笑う声が、膜を張った部屋の向こう側から届くように遠く聞こえる。自分の口からどんな声があがっているのかさえわからない。

 周囲から押し寄せる無音、視界を塗り潰してゆく暗闇――


 “死”


 そのイメージがボルドの頭を支配した。その瞬間であった。

 ぶつり

 と、鋭いものが肉を刺し貫く音が、いやにはっきりとボルドの耳に届いた。

 自分の身体から――ではない。その音は自分の後方、そしてずっと下から聞こえてきたものだ。

 音の発した方向へ視線を走らせた時、ボルドはそこに思いがけないものを見た。

 テージンである。ボルドと同様に顔を恐怖に歪ませて、涙と鼻水、そして吐き出した胃液で汚しながら――それでもテージンは必死に歯を食い縛り、山刀をアントニオの脚に突き立てていたのだ。



(六)

 ボルドが見たのはテージンの姿だけではない。

 反対側の脚、アントニオの右脛に赤髪の少女が牙を立てていた。

 赤黒く腫れあがった顔の隙間にある少女の両眼――それが青い燐光を帯び、鬼火のように光を放っている。

 赤髪の少女の眼からも涙が噴きこぼれていた。身を引き千切らんばかりに荒れ狂う恐怖に全身を震わせながら、それでも両掌にありったけの力を込めて、少女はアントニオの脚にしがみつき牙を喰い込ませている。

 ボルドの両膝が地面についた。尻を持ち上げた姿勢で四つん這いになる。アントニオが巨大な掌を開き、ゴミでも放るようにボルドを投げ捨てたのだ。

 “馬鹿め……!”

 石を擦り合わせるようなアントニオの声がボルドの耳に届いた。首だけを後方に回し、ボルドは少女とテージンの姿を確認する。

 アントニオは少女とテージンを見下ろしながら、血溜まりを思わせる真っ赤な口を開いていた。その奥から、痰が絡むようなごろごろとした音が響いてくる。嗤っているのだ。テージンの山刀も少女の牙も、もとよりアントニオの肉はおろか皮膚すら裂く力もない。

 ごう! とアントニオの口から熱気と腐臭が噴き出し、テージンと少女の顔を叩いた。テージンの貌が強烈な恐怖に引きつり、少女が口の隙間から悲鳴をあげる。

 アントニオが白濁した眼を見開いた。憎悪に満ちた邪悪な青白い炎が瞳の中に噴きあがる。

 そこからの動きは、ボルドの眼に恐ろしいほどゆっくりと映った。ひどく鮮明に光景を捉えているのに、相反するように身体が全く動かない。まるで透明な鉛の海の中に、全身を放り込まれたようであった。

 削り出した岩のような腕をアントニオが持ち上げる。ボルドは動けない。全身の筋肉が堅く強張っていた。自分の身体ではないようだ。なぜ、こんなに身体が重いのか。深海の底で死にきれずにもがく獣はこのようなものなのか。

 ジャアアアアッ!!

 アントニオが吠えた。吠えながら、己の脚にまとわりつく虫を払おうとするかのように巨大な掌を左右に振り下ろす。ボルドの口から内蔵を振り絞るような悲鳴がほとばしるのと、破裂音に似た打撃音が響くのはほぼ同時であった。

 オグルの掌がテージンの顔面を掠める。掠っただけでも彼にとっては丸太で殴打されたに等しい。それでも運が良かったと言える。直撃ならば即死だ。

 ばっ、と血が噴き散り、テージンの端整な顔が血まみれになった。額が裂け、鼻血も出ている。折れた奥歯を吐き出しながら、テージンは仰向けに倒れた。

 赤髪の少女は咄嗟に手を放し、両腕で自身の顔面を覆った。だがそれは砲弾を紙で防ぐに等しい行為である。次の瞬間、爆風の衝撃波を受けたかのように彼女は十ローナ以上も吹き飛ばされた。

 受け身も取れず、ごっ、と鈍い音を立てて後頭部から落下すると、少女はそのまま動かなくなった。少女の両腕は骨が折れたのか、肘から先が不気味な角度で曲がっている。


 全てが、一瞬の出来事であった。



(七)

 ボルドは地に這いつくばったまま、茫然と“それ”を見ていた。

 “それ”――

 ふたつの身体。ふたりの人。テージンと赤髪の少女――

 テージンは仰向けに、赤髪の少女は顔を横に向けて倒れている。ふたりとも、屍体のようにぴくりとも動かない。

 「なぜ……」ボルドは呟いた。「どうして、みんな、こんな酷いことに……」低く、喉が鳴った。

 男たちの冷酷な哄笑が響いている。げらげらと声をあげて、テージンを指差している。にやにやと嗤いながら、血まみれの少女を見ている。

 アントニオはゆっくりと、地響きを立てながら赤髪の少女へと近づいてゆく。獲物をボルドから少女へと切り替えたらしい。やがて地面を伝う振動のせいで意識が戻ったのか、少女がうっすらと眼を開けた。そこに彼女が見たものは、自身に向かい手を伸ばす醜悪な怪物の姿だ。

 少女の口から高く細い悲鳴があがる。男たちの嘲笑う声が一段と大きくなった。

 そして――

 その場にいる誰もが気づいていなかった。

 ボルドの口から、押し殺した、低い獣のような唸り声が出ていることに。


 眼の奥が熱い。口から声が洩れてくる。どれだけ抑えようとしても止まることのない声だ。

 ボルドはゆっくりと立ち上がった。尖り鼻の男がそれに気づく。

 「おい、あの豚立ってきやがったぜ」

 「へっ……。何だよ、びびって震えてるじゃねえか」

 スキンヘッドの男が言うように、ボルドの全身はぶるぶると細かく震えていた。だが、ボルドの身体を震わせているものは恐怖でも痛みでもない。

 激しい怒りだ。強烈な激情が、ボルドの裡側で劫火の如く燃えあがっていた。

 許さない。

 こいつらは、こいつらだけは、絶対に――!!

 骨が焼け爛れそうな怒り。圧倒的な熱量を持ったものが、身体の底で煮えたぎっている。それが、背骨を伝い持ち上がってくる。熱く灼けた血流が、全身を凄まじい速度で駆け回っている。

 肉が千切れそうだ。骨が今にも弾け飛びそうなほどに疼く。全身を震わせて、ボルドはこみあげてきた灼熱の塊を、絶叫に変えて吐き出した。



(八)

 グロスマムの男たちも、オグルのアントニオさえも、その場から動くことができなかった。

 赤髪の少女とテージンも、声も出せずに眼前の光景を、ボルドの姿を見ている。

 テージンが意識を取り戻したのは、強烈な気の圧力の高まりに全身を叩かれたからだ。エネルギーの暴風に、突如その身を晒されたようにテージンは感じていた。

 周囲で怯えながら見ているしかできなかった、捕らえられた子供たちも同様だ。彼らもまた、茫然としてボルドの姿を――その変化を見ている。

 風圧に似たものが、ボルドを中心にした周囲の者たちを激しく叩いていた。ボルドの全身が震えている。だが、それはただの震えではない。ボルドは震えているのではなかった。全身の肉が、肉そのものが動いているのだ。

 腕の肉がごりごりと音を立てて膨れあがっていく。首の肉がぐねぐねと動いている。腹の肉がぎちぎちと軋みながらせりあがってゆく。皮膚の下で、無数の大蛇が身をくねらせている――そのようにも見えた。

 「な……! 何なんだ、こいつは!?」

 頬傷の男が高い声をあげた。男の顔からは、涼しげな仮面がこそげ落ちている。

 ボルドの全身に筋肉の束が浮きあがっていた。それが蛇のようにうねる。うねりながら、その身を太くしていく。

 背、肩、胸、腹、脚――それぞれの筋肉が、意思を持ったもののように密度を増大させてゆく。ボルドの肉体は、まるで倍以上に膨らんだようであった。

 「ゴオぉおおオッ!!」

 ボルドが吼えた。先ほどまでの、どこか幼ささえ残した優しげな声ではない。低く轟くような、猛虎を彷彿とさせる声だ。

 捲れあがった唇に歯が見えている。肉食獣のように鋭く伸びた犬歯である。

 「ひいいいっ!?」

 刺青の男から悲鳴が洩れた。尖り鼻の男は膝をがくがくと震わせている。たまらなかった。ボルドが男たちを睨みつけているからである。燃えるような真紅の双眸が、男たちを鋭く射抜いていた。

 増大した筋肉がボルドの上衣を引き裂いていた。茶色い頭髪は白銀に染まり背中まで伸びている。

 絞りあげられた腹部は岩を削り出したような質感だ。胸の厚さが肩幅とほぼ同じに見える。その肩の筋肉が、耳のすぐ下にまで届いていた。

 二の腕の筋肉は女性の胴体より太いかもしれない。頬や顎下にあった肉は首へと移動し、まるで巨木の切り株のようだ。

 潰れた豚のもののようであった鼻も形を変えて、高く骨太な鼻梁が顔の中心に現れている。

 「あひっ!」

 情けない悲鳴をあげて、スキンヘッドの男は一歩退がろうとした。しかし逃げられない。すくんでしまい、足が動かないのだ。

 数十秒――。いや、一分か、それ以上はかかったかもしれない。いずれにしても、わずかな時間であった。

 「しゅううう……っ!」

 ボルドが重い呼気を吐いた。その肉体が、わずかな時間で一変していた。あの柔らかそうに見えた肉が、全て消え失せている。

 それは、まさに鋼鉄であった。鋼の感触を宿した凄まじい肉体がそこに出現していた。

 ゆっくりと上体を起こし、鋼鉄の巨人と化したボルドが虎の眼光を放つ。

 げはっ!!

 と、アントニオが吠えた。白濁した眼でボルドを睨みつけているが、その足が後退している。

 ボルドはまだ何の構えも動きも見せてはいない。ただ、そこに無造作に立っているだけだ。しかし、それだけでまるですぐ目の前に巨大な火球が出現したかのような圧力があった。

 首を左右にねじくりながら、ごう! と再びアントニオが吠えた。だが、ボルドの迫力にアントニオが怯んでいるのは誰の眼にも明らかだ。


 己の肉の裡に、ふつふつと熱くこみあげてくるものをボルドは感じていた。

 それは怒りである。憎しみでもある。それらを含み、なおそれらを超越したものだ。

 どうしようもなく血が騒いでいる。己の獣が目覚めかけている。

 ボルドはこみあげてくるその圧力に、今にも声をあげそうになっていた。声をあげれば、それは奔流となり、暴風となって、その瞬間自分の血肉が獣に変じてしまいそうだ。

 それを堪えている。全身の力と意思でそれを抑えている。

 だが――

 横たわり涙を流す傷だらけの赤髪の少女。倒れ伏し血まみれになったテージンの顔。鎖につながれ恐怖と絶望に支配された子供たちの姿――

 制御できない怒りの炎が噴きあげた。その瞬間、ボルドの中で何かが弾け飛んでいた。

 肉の底に潜んでいた獣性、記憶の奥に刻まれていた力――それが今、鎖を解き放たれたのだ。

 ぶちぶちと細胞が弾け、肉体が炎と化したような力が満ちる。それが、表皮を突き破り爆発した。

 「ぐオおぉォオアアッ!!」

 ボルドは咆哮した。ありったけの声で叫んだ。

 その声に大地は揺れ、空気が震えた。半ば物質化した気の圧力が暴風のように疾り抜け、大気を引き裂き周囲の建物に亀裂を生じさせる。

 それは壮絶な、巨龍の如き雄叫びであった。





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