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第二話 「半蔵」の名

 川を見下ろす街道の脇に、小さな茶屋があった。

 朝の早い時間だが、道には様々な人々の往来がある。

 手拭いを被り天秤棒を担いだ行商人、浪人風のくたびれた小袖の男、羽織を着た商人と思われる男とその女房、天蓋を被った虚無僧もいる。

 茶屋の前――街道に面した場所に大きくひさしが出ており、その下に二つ、縁台が並べられている。

 その台の一つに、深編笠を被った武士が腰を下ろし、茶を飲んでいる。

 名を矢十郎という。元は伊賀の忍びであった。

 大和柳生の庄は伊賀と隣接している。その為、柳生の道場には伊賀の里からの門下生も多く、繋がりは強かった。

 そして柳生宗矩が三十一歳で徳川家康の嫡子、秀忠の兵法指南役となると、彼は後に『裏柳生』と恐れられる影の組織を作り上げた。

 隠密を放ち諸藩の内情を探り、時には暗殺などの汚れ仕事まで行う。地方の一豪族に過ぎなかった柳生が、名だたる大名達と肩を並べるまでに至ったのは、宗矩の持つ裏柳生の力による所が大きい。

 その裏柳生の中でも役割には大きな差があった。

 主に諸藩の動静を探るのは、兵法指南の剣術として各地に広まった柳生新陰流の門人達の役目であった。彼等はその立場上表立って行動しやすく、各藩の行き来も容易である。

 それに対し、危険の伴う汚れ仕事は伊賀者の役目であった。


 かつて徳川家康を支えた伊賀同心の支配役、服部半蔵の名声は過去のものであった。

 家康に仕えた、世間のイメージする「服部半蔵」。彼は二代目である。名は服部正成。

 その後を継いだのが、三代目の服部正就である。

 彼は「指揮権を預けられただけ」の立場にもかかわらず、伊賀同心達を自分の家来の如く扱い、反発を招く。やがてそれは、正就の解任を要求する騒ぎにまで発展し、ついに彼は役目を解かれてしまうのだ。

 しかも首謀者を逆恨みしたあげく、無関係の者をその内の一人と間違い斬殺する愚行まで犯す。

 その裏には、伊賀同心を手に入れようとした宗矩の影があったと囁かれたが――真相は闇の中である。

 ともかく、その混乱に乗じ宗矩は伊賀者達までその支配下に置くことになった。そして、忍び達の運命は大きく変わってゆく。

 関ヶ原以降、忍びに求められる役割は変わっていった。

 必要とされるのは、敵情を探り、動向を分析し、知謀をめぐらせる事の出来る能力である。戦闘能力に特化した忍び達は、裏柳生の手足として生きるしか無かった。

 矢十郎は巧みな変装の術を持ち、情報収集が得意であった。その為、現在は伊賀者の中でも比較的上の立場にいる。

 ――見たか。勝ったのは、おれだ――

 かつては「変装など、戦働きの役に立つか」と揶揄された。

 矢十郎の中には、戦闘能力に長けた忍び達に対する優越感があった。

 矢十郎の隣、もう一つの縁台には、手拭いを被った行商人姿の男が腰を下ろしている。反対方向を向いており、互いの顔は見えない。

 矢十郎は行商人には顔を向けず、店の方向を向いたまま語る。

 「宮本武蔵は相変わらず、流浪の旅ですかな」

 「ああ……己の剣の腕を高める事しか頭に無さそうだ」

 口元をほとんど動かさない、忍び独特の方法で、行商人の男――半蔵は答えた。

 「ふん……。どれ程鍛えたところで、個人の力でどれだけの事が出来るものか」

 矢十郎の口調には、明らかに嘲るような響きがあった。

 半蔵は表情を変えず、ただ拳に力を込める。

 「しかしこれは、れっきとした裏柳生としての使命。お忘れ無き様に」

 「わかっている……」


 『二天記』によれば、武蔵は江戸において、柳生家の士という大瀬戸と辻風の両人と戦い、これを打ち破ったとしている。

 『二天記』の信憑性はともかくとして、廻国修行時代の武蔵が天下の御流儀として各地に存在した、柳生新陰流の門人と立ち合っていたとしても不思議は無い。

 そして、これはあくまで想像であるが、武蔵は江戸に立ち寄った際に、柳生宗矩がもはや徳川幕府の中枢に食い込み、武芸者とは別次元の存在であることを悟ったのではないだろうか。

 武蔵がその後も、諸国を廻る修行の旅を続けた事からも、彼は単に「柳生と同じく高禄で大名家に仕官を」とは考えておらず、宗矩とは別の剣の道を追究したのではないか。

 ともかく、柳生の門人と戦ったからといって、武蔵が柳生に敵対心を抱いていたとは言えないだろう。

 京の吉岡一門との戦いとも状況は違う。

 当主が討たれた吉岡に対し、既に柳生は幕府の重鎮であり、相手はたかが一浪人である。

 むしろ裏柳生にとっては、都合の良い『口実』が出来たのだ。

 「柳生に仇なす恐れのある、宮本武蔵の監視。これ程の重要な任務を与えられるとは……。いやぁ、名誉な事でございますなぁ。正長殿……失礼、『半蔵』殿」

 矢十郎はあえて『半蔵』を強調した。現在も形としては、三代目正就が『半蔵』である。それを承知のうえで言っているのだ。

 仮にも主家に対する態度ではない。いや、既に伊賀者達の中では、服部家への忠義は無いに等しい。

 ――体のいい厄介払いだ――

 服部正長はそれを理解している。

 廻国修行をする浪人の監視など、明らかに「江戸に戻るな」と言われたも同然だ。しかし、今の自分は従う他は無い。

 矢十郎が立ち去った後も、服部正長はその場で拳を握りしめていた。いつしか、血が流れる程に……。




 街道を、ひとり服部正長――半蔵は速足で歩いている。

 武蔵達には先を急いでもらった。盗賊に拐われた村人達の為にも、のんびりしている訳にはいかない。自分の脚ならば、じきに追い付く筈だ。

 ふと街道沿いの田に目を向けると、黄金に染まりつつある稲が風に揺れて、まるで海原の様に波立っている。稲の姿を借りて、一瞬だけ姿を現した風を追うように、目線を大空へと移す。

 半蔵は眩しいものでも見るように眼を細めた。

 「なあ、蛍」

 半蔵は空を見上げながら、傍らに誰かがいるかの様に語りかけた。

 「はい……」

 若い女性の声がする。しかし周囲に人影は見えない。

 「おれは忍びに向いてねえのかもなあ」

 「……」

 「せっかく正体隠して武蔵の旦那に近付いたのによう、あっさり高珍のじいさんに見破られちまうしなあ。まあ、あれはじいさんが俺のじいちゃんと知り合いだったから、まぁ仕方無えか」

 半蔵は道端に生えている草を摘み取り、口の端にくわえる。

 「けどよ、おれにも運が向いて来たかもしれねぇ。旦那と一緒にいたらよ、どでかい事に巻き込まれちまったみてぇだ。この世にはルーナ達みてえなどえらい力を持つ奴等がいるんだ。それを手に入れればよ、再び服部家がのし上がるのも夢じゃねえ。それどころか、天下だって手に届く」

 「……」

 「正就の馬鹿にも正重(正成の次男)の腰抜けにも任せておけねえ。蛍、おれはよ、必ず『半蔵』の名を再びこの世に知らしめてやる。今は“自称”だがよ。『半蔵』と言ったら、このおれ服部正長の名を皆が思い出すようにしてやるぜ」

 「はい……」

 「お前ら土蜘蛛一族も今のままじゃねえ。必ずおれに従っていて良かったと思わせてやる」

 「……はい。半蔵様」



 先を行く武蔵達に半蔵が追い付いたのは、街道沿いに生えた松並木の前だった。

 松並木の先は田が広がっている。少し離れた松の向かい側には、旅人の安全を祈願した地蔵があり、側には雲水姿のルーナと高珍がいた。

 「よう半蔵。蛍殿も一緒か」

 武蔵がにこやかに声をかける。

 「一応、気配は絶っていた筈ですが……流石ですね。武蔵殿」

 街道沿いの松の木から、人影が姿を現す。まるで木の影がそのまま人の形となり抜け出したようだった。

 現れたのは女の忍びだった。

 袖無しの柿渋色の小袖を身に付け、同色の伊賀袴を履き、脚絆を巻いている。

 後頭部で束ねられた明るい色の髪が、松葉の隙間から漏れる陽光を受けて赤い光を放っている。

 白い肌に、髪と同じ赤味を帯びた大きな瞳が印象的な、美しい顔立ちをしているが、その右目は常に閉じられている。

 右側の額から瞼の上を通り、頬の上まで通る一筋の傷があった。

 だが、残された左目には力強い輝きがある

 蛍は武蔵に向かいにっこりと微笑むと、再び松の木の影へと隠れ気配を絶った。




 忍者の源流は、滋賀、三重、和歌山に渡る紀伊山脈にあるとされる。

 人を寄せ付けぬこの山脈は、日本古来の土着の民達の土地であり、山岳信仰の対象でもあった。

厳しい修行を行う山伏は、過酷な山中を生きる術として多種多様な知識と技術を持つようになる。

 山の草木を調合して作る薬草の知識、法螺貝などを使った遠隔地でも可能な通信手段、仏教の影響を受けた、護摩の儀式から発展した火と火薬の技術など多岐に及んだ。

 やがて室町時代以降、紀伊の山々の周辺には、伊賀、甲賀、雑賀といった自治集団が現れる。更に山がちで平地の少ない独特の地形は、数多くの集落を作り出した。

 僅かな土地や水をめぐり争いが絶えず、人々は古くからの知識や山伏のもたらした技術などを独自に発展させていったのである。

 蛍の一族も、その様な集落の中でも特に異能の力を持つ一族であった。

 彼等は乱世の時代、その能力を存分にふるい、数多くの武将に仕えた。しかし時代が移り忍びの役割が変わるにつれて、徐々に居場所を失っていったのである。

 蛍が忍びとして独り立ちする頃、一族の数はほんの僅かとなっていた。

 異能の力は、今となっては同じ忍びからも恐れ、疎まれる。

 蛍の居場所はどこにも無かった。

 その彼女の主に名乗り出たのが、服部正長――半蔵である。彼は蛍の能力に大いに驚き、感心し、すぐに自分に仕えるように彼女に頼み込んだのだ。

 半蔵の言った「忍びに向いていない」という言葉。蛍も実はそう思う。下忍に頭を下げる主など聞いた事も無い。冷静な判断など出来そうも無い。基本的に人が良いのだ。あの人は。

 ――だからこそ、側についていたかった。

 「私も人の事は言えないか……」

 蛍は口元に笑みを浮かべ、小さく呟くと、半蔵の後を追った。



 「もう用は良いのか?」

 歩きながら武蔵が訪ねる。何の用だったのかは問わない。武蔵はいつもそうだった。

 「ああ」

 半蔵も短く答える。

 武蔵は顔を上げ、天翔る雲を見る。

 「何ものにも縛られず、あの雲のように自由になれたら良いだろうなぁ……」

 半蔵の方を向かず、ただ雲を見上げながら武蔵が言う。

 「そうだなぁ……」

 半蔵も空を見上げ答える。

 「けど、よ……」

 半蔵は足下の草に視線を移し言葉を続ける。

 「どんなに自由になりたくてもよ、生まれちまった場所は、そう簡単には変えられねぇよ……」

 「そうか……」

 武蔵は天を、半蔵は地を見続けている。

 「だが、草は誰かにそう生きろ、と言われたから生きているのではない。誰にも強制されずに、ただ己の生き方を全うしているだけだ」

 「生き方……」

 「どう生まれても、どれだけ周りの者から言われても、どれだけ時がかかっても、己の生き方は己で決めたいものだな」

 そう言うと武蔵は、にっと笑みを浮かべる。

 「旦那にゃ敵わねぇなぁ……」

 半蔵は大空を見上げ呟く。その顔には笑みがあった。


 風が天地の間を自由に吹き抜けていった。

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