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第十九話 人外たちの都

(一)

 風が吹く度に、凍てついた砂塵が地を這ってゆく。

 気温は氷点下。路傍に幽鬼の如く立つ木々は残らず枯れ果てて、周辺には草一本、葉一枚の緑すら存在しない。

 見渡す限り、ただ荒涼寂寞とした砂磧の痩せ地がどこまでも広がっている。

 遥か向こうに、ガイラース国の結界山脈(シーマーバンダ)の連なりの影を望む空漠とした大砂漠――ガイラース国の西方に位置するグロスマムは、凍てつき寒風の吹き荒れる荒野に領土の大半を占められた国だ。

 空は常に晴れ渡り、天は果てしないほど高く限りなく蒼い。

 だが、その下に流れる河は残らず凍結し、水面から顔を出している岩の周囲にも白い氷がへばりついている。

 砂漠には大小いくつもの湖が点々と存在しているが、ある湖は水が完全に干あがり、またある湖は極度に塩分が濃縮された鹹水湖と化していた。

 結界山脈の峻嶺から吹き下ろしてくる寒風は、この土地を渡る者たちの体温を容赦なく奪う。馬上で動かずにいれば、数時間も経たないうちに身体は感覚を失い、やがて全身が凍りついてしまう。

 小高い砂丘より四方を眺望すれば、延々と横たわる砂漠帯の中に、古代の望楼が廃墟と化して点々と並んでいる姿が見えるはずだ。その光景は、見る者の心を耐え難い寂寥感で包み込む。

 視線を西方へと転ずれば、灰色の大地の遥か先に、上空を分厚い黒雲に覆われた峻険たる岩峰の連なりが望めるだろう。そして、それを見た者は、皆一様に顔を恐怖で引き吊らせ、口から呪いの言葉を吐きながら一刻も早くその場を立ち去ろうとする。


 『ネクロポリス』――そこは、古代の言葉でそう名付けられた、魔神族(ダイヤ)たちの住まう土地であった。



(二)

 暗い天より、雪は無尽蔵に降りてくる。

 雪は音もなく大地を埋め続け、地上に遺された文明の痕跡を消し去ろうとしているようだ。

 建物の死骸――

 見渡す限り、地上にはまともな形状を留めた建物はひとつもない。

 斜めに傾ぎ、崩れ、鉄骨を剥き出しにしたビルの残骸が、累々と地平の彼方まで広がっている。

 死の匂いを孕み、静寂が支配する空気の中を、ひとりの男が歩いていた。

 男は、黒く長い足元まで届くコートを身につけている。雪はそのコートの背にも、肩にも、そして男の髪にも降り積もっていた。それを払おうともせずに、男は歩き続けている。

 額にかかる白銀の髪、高く筋の通った鼻梁――若い男であった。

 一見しただけでは年齢の見当がつかない。二十歳から三十歳まで、どの年齢を当てはめてもいいような風貌をしている。

 眼は刃物ように細く鋭い。その眼の中心に、血の色が透けた紅い瞳がある。

 顔つきは高圧的なようにも見えて、同時に凪いだ水面のような澄んだ印象も見る者に与えた。

 頬が薄く、痩せていて、肌が蝋のように白い。皮膚の下に赤い血が流れているとはとても思えない白さだ。

 男が歩いているのは、半地下とも半地上ともつかない場所である。かつて地上に存在していた道路が、そのまま陥没して地下街の空間に落ちた――そういう場所であるらしい。

 雪は深々と降り続けている。気温はマイナス数十度になっているだろうか。だが、外界はすでに冬を終えている。しかも今は昼間のはずだ。

 夜と変わらぬ暗さ。そしてこの寒気。空一面を覆う黒雲のせいである。厚い暗雲が一年中天を塞ぎ、陽光を地表まで届かせないのだ。しかし、男は骨肉を貫くような寒さをまるで感じていないかのように、平然と歩みを進めてゆく。

 雪の上に残るのは男の足跡のみである。他には何者の痕跡もない。そして、降り積もる雪は間もなく男の足跡も埋もれさせてしまうだろう。

 暗雲で塗り潰された空。魂さえも凍てつかせるような冷気。大地に溢れる瓦礫の群れ。倒壊し、錆びた鉄骨の間からガラスとコンクリートの破片を散乱させたビルは、内臓を撒き散らし息絶えた巨人の屍体のようでもあった。

 『ネクロポリス(死者の都市)』――荒涼とした大地と空虚が満ちる大気。全てが息絶えた都市には、その名こそが相応しい。死と沈黙が支配するこの地は、途方もない年月の間、ありとあらゆる生命体の存在を拒み続けている。


 もし、この地に生きるものがあるとするのなら、それは――



 やがて、男の前方に一際巨大なビルの影が現れた。

 中ほどから崩れ、上部が消失しているにも関わらず、そのビルはなお高さにして六〇〇ローナ(六〇〇メートル)余りの威容を誇っている。

 先人たちの墓標と化した摩天楼へと向かい、男は積雪を踏み締めながら前進してゆく。

 周辺には何の音も聴こえない。耳を澄ませば、雪が降り積もり重なり合う瞬間の音さえも聴き取れそうなほどだ。

 その時――

 ふと、男が足を止めた。深々と降り続ける雪の中で、男はゆっくりと顔を上げて眼を閉じた。その姿は、遥か彼方より何者かが呼ぶ声に耳を傾けているかのようにも見える。

 あり得ないことだ。この死者の都で何者かの声を聞くなど――

 だが、微かに、しかしはっきりと、それは男の耳に届いていた。


 イィぃいィィいルルル……


 遠く、細く、囁くように、何処からか奇妙な笛のような音が響いてくる。


 ヒィいィイイぃぃぃィィ……


 高く澄んだ笛のような音。同時に、叫ぶような、歌うような響きを持つ音。それが、細く切れ切れに廃墟の中に届いてくるのだ。


 あアぁァァアァぁあァァァ……


 それは緩やかに伸び上がり、途中で旋律を変えていた。

 声だ。獣か、人か、あるいはそれ以外のものか。それはわからない。しかし微かに響いてくるそれは、紛れもなく生き物が発する声であった。

 胸が締めつけられるような、苦しくなるような旋律。その声が波のようにうねり、時に高くなり、時に低くなり、一瞬怒濤のような激しさで聞く者の心に押し寄せてくる。

 「ああ、なんと美しい……」

 男は小さく、囁くように言った。仰向いた彼の額の上にも雪は降り続けていく。だが、男はその場に立ち尽くしたまま、魅入られたように身動きひとつしない。

 やがて、その声は途切れ途切れとなり、白い静寂の中へ溶けるように消えていった。



(三)

 狭い、コンクリートに囲まれた通路であった。

 天井もまた、幾重にも重なったコンクリートの瓦礫と傾いだ鉄骨で塞がれている。

 崩れたビルの内部には外界の光が差し込むことはなく、辺りは真の闇に近い。だが、男は小さな灯りさえも持たず、悠然とコンクリートの間を歩いてゆく。

 人ひとりが、やっと通ることのできる狭い空間である。床にはガラスの破片やコンクリートの塊、歪んだ鉄材などが無数に散乱し、摩天楼の内部は巨大な迷宮と化していた。

 瓦礫の隙間は縦横無尽に組み合わさり、しばらく歩けば、たった今自分がどこを通ってきたのかさえわからなくなってしまう。

 ふと、男が足を止めた。

 男は横手の床に視線を向けている。その先にあったのは、半分ミイラ化した人の屍体であった。

 人――?

 その屍体には、明らかな違和感がある。

 屍体は服を身につけておらず、靴も履いていない。それはまだいい。屍体には頭髪がなかった。いや、頭髪はおろか身体にも体毛は一切生えておらず、皮膚は毒々しいまでのピンク色をしている。

 手足のように見えるのは、胴体部分から生えた四本の捻れた触手だ。

 頭部には鼻も耳もなく、中央部分に白く濁った巨大な眼球と、その下に口と思われる縁に細かい牙の並んだ丸い空洞がある。

 男はおぞましい肉塊と形容できる“それ”に歩み寄り、腹部に目をやった。そこは乾いた樹の洞のように大きな穴が空いている。内臓が、ごっそりと消え失せているのだ。

 「これは、これは……」

 男の口から低い嗤いが洩れた。

 腹部の穴には、はっきりとそれとわかるような牙の痕跡が残っている。何ものかが、この屍体の肉を喰い漁った跡であった。

 人か獣か――あるいはそれ以外の“何か”が、この暗闇の中に潜んでいるのであろうか。

 そして、男は再び歩き出す。口元には薄笑いを貼りつかせたままだ。淡々と歩き進めるうちに、屍臭の溶け込んだ闇が、男の周囲を濃密に包んでゆく。

 行く手を壁のように遮っている、一軒家ほどもある巨大な瓦礫を廻った時であった。ふと、闇の中に奇妙な臭いが漂い始めた。

 獣の臭いである。濃い獣臭が次第に密度を増していくと共に、男の周辺を、凄まじいまでの飢餓感を孕んだ殺気と、無数の呼吸音が取り囲んでゆく。

 「ふふん」

 男が小さく唇の端を吊り上げた。

 前方の闇の奥に、ひとつ、ふたつと金緑色の鬼火のように、燐光を放つ光点が現れた。獣の瞳である。それが、瞬く間に三つ、四つとその数を増加させてゆく。

 「熱烈な歓迎ですねェ……」

 男が低く呟いた。すでに、獣の瞳は夥しい量となっている。

 「お気持ちは嬉しいのですが、生憎と私も忙しいのですよ……」

 男がそう言い終わらぬうちに、左右から獣の瞳が襲い掛かってきた。同時に、男の右腕が地から天に、左腕が横一文字に振るわれる。それは大気を切り裂く音が聞こえるほどの、圧倒的な速度で放たれた斬撃であった。

 右手は獣の瞳と瞳の中心を左右に断ち割り、左手は獣の首を切断していた。数瞬遅れ、湿った音を立てて二頭の獣が床に崩れ落ちる音が響く。

 男の指先では、一〇ハスタ(一〇センチ)ほどに伸びた爪が刃物のような輝きを放っていた。そこに絡みついた青い体液を紅い舌で舐め取りながら、男は自身が斬り殺した獣に目を向ける。

 そこに倒れ伏していたのは、先ほどの屍体と同様に、人とも獣ともつかない異形の生物であった。

 顔面を両断されていたのものは、クラゲのような透き通った皮膚を持つ、人の姿に似た生物だ。

 未だに脈打つ心臓や痙攣する筋肉の動きが、透明な肌を通してはっきりと見える。

 頭部は人間の倍以上もあり、鼻と口に当たる部分には、縦に大きく割れて牙の生えた肉の裂け目がある。頭髪は生えておらず、頭の上半分は外部に剥き出しとなった脳髄となっていた。

 首を切断された方は、まるで黒いゴムのような質感の肌を持つ生物である。

 手足に相当するであろう部位は存在しているが、そこに生えているのはビニールのような光沢を放つ棒状の長い突起物だけだ。

 頭部には耳も鼻もなく、頭頂部に巨大な人間の口と、その脇から生えたカタツムリのような眼球がある。

 「ランチならば、この御二人にしてください……」

 そう言い残し、男は再び歩き始めた。間もなく男の後方に、無数の異形たちがひしめきあう気配が満ちる。

 かつり、ごつり――

 異形たちの歯が、血肉を貪る音が暗闇から届いてきた。男が屠ったばかりの屍体を、仲間の異形たちが啖っているのである。

 「ごきげんよう、『ヘヤオス(見捨てられたもの)』の皆さん……」

 口元に微笑を浮かべたまま呟くと、男はさらに深い闇の底へと降りてゆく。

 男が目指すのは、遥か太古、摩天楼の地下深くに封印された場所であった。



(四)

 闇の中には、年経た土と死の臭いが充満している。

 男が足を一歩踏み出す度に、足下からは乾き切った枯れ枝と土塊を踏み崩すような音が響く。

 だが、男の足下の大地を構成しているのは土でも植物でもない。

 骸だ。夥しい数の人骨が、地表を白く埋め尽くしている。

 男の眼前に続くのは、人骨で造られた道であった。幅数十ローナに渡り、ある者は地に伏せるように、またある者は半ば土に埋まった状態で、その白い躯を無惨に晒している。

 数え切れないほどの骸で彩られた死の道は、地下室の遥か先まで続いていた。

 いや、ここは“地下室”などと呼んでいいレベルの空間ではない。男の前には、地平の彼方まで延びる広大な大地が広がっている。

 元々この大地こそが地上に存在していたが、それを覆い隠すように、現在地上にあるビル群が建設された――あるいは、そのような過去があったのかもしれない。

 この地下空間は、一体どこまで続いているのだろうか。

 起伏に富んだ大地には森林も存在し、視界の彼方には連なる山脈の影さえも見える。

 そもそも、なぜ闇に塗り潰されているはずの地下で、そのような光景を確認することができるのか。それは、数百ローナ上空に覆い被さる天井――死したビル群を支える地面に当たる部分の壁面が、微かな光を放っているからだ。

 奇妙な光景であった。広大な天空を地下に再現したかのような天井には、光源となる箇所がどこにも見当たらない。光るものがないのに明るい。強いて言うなら、天井や壁全体が等しく光を放ち、払暁を思わせる螺鈿細工にも似た真珠色の灯を造り出している。

 男が立ち止まったのは、その大地に現れた亀裂の前であった。

 亀裂、というより大地の裂け目――地平の先まで続く長大な谷だ。幅は視認可能な一番狭い部分でもおよそ数百ローナ。深さに至っては、底に光が届かず確認のしようがない。少なくとも、この地下空間の直上に建つ巨大なビルでさえ、縦に数十棟積み重ねても軽々と呑み込まれてしまうだろう。

 大地の暗黒を見つめる男の口元には微笑が浮いている。目には一切の感情を現さず、ただ口の端を吊り上げただけの歪な笑みだ。男は谷底の一点を見つめ、何事かを待っているかのようにも見えた。

 すると――

 黒々と深い谷底より、淡く白光を放つ球体がゆっくりと浮かび上がってきた。

 大きさは一・五ローナほどである。蜉蝣(カゲロウ)の翅のように透き通った姿をしており、中心から外側にいくに従い光輝は薄くなり、周辺は闇に溶けてぼうっと霞んで見える。

 その球体にはまるで重さが感じられない。風のままに、微風に揺られながら闇の中を漂っている。

 強い光ではない。だが、見つめているうちに魂が吸い込まれそうになる怪しく美しい白光であった。それが、あたかも呼吸をするかのように、緩い規則的な明滅を繰り返している。

 光球は深海に棲む未知の生物のように空中を浮遊しながら、ゆっくりと男の元へと近づいてきた。

 「む――」

 その時、男が短く声を発した。

 何気なく男が向けた視線の先――十数ローナほど離れた崖の先に、何か白い影のようなものが闇の中で浮かび上がっている。

 それは、正座をするような形で白い骸たちの上に座り込んだ老人であった。老人は両腕をだらりと脇に垂らし、首を前に突き出して両眼を谷底へと向けている。

 老人は全裸であった。全身が枯れ枝のように痩せ細り、骨の上に直接貼りつけたような皮膚も、茶色く濁りボロ布同然だ。とても生きているようには見えない。

 だが、老人は生きていた。よく気をつけて見ると、どんな微風よりも微かに、長い間隔を置いて、あるかなしかの呼吸をしている。

 頭からはほぼ全ての毛髪が抜け落ち、ほんの僅かの銀髪が頭皮にへばりついている。胸には肋骨がくっきりと浮き出て、腹部が抉り取られたようにへこんでいた。眼窩は窪み、その奥から水分を失った紅い瞳の眼球が今にもこぼれ落ちそうだ。

 水でふやけたミイラというものがあれば、まさしく今目の前にいる老人のようであるのだろう。人間の肉体を極限まで歳老えさせれば、このような状態になるのかもしれない。

 「こいつも、コールドスリープからの再生が失敗したのか……」

 男が低い声で呟いた。

 「今にも朽ち果てようとする身体で、それでも目覚めた者は全員この場所を目指すとは……。人というものは、本当に憐れなものですねェ……」

 男の口端には嗤いが張りついたままだが、その声には普段男が見せることのない、感情の揺らめきのようなものが含まれている。

 やがて、光球は男の直上へと浮かび上がった。その光球の下、地上に近い空間にもうひとつ煌めくものがある。

 何か細い、蜘蛛の糸のようなものだ。闇の中で銀光を放ちながら、数本の糸が揺らめいている。微風に身をゆだね、優雅な舞を舞っているようでもあった。

 銀糸の先端は音もなく伸び、男の直前まで来ている。それは死の気配に満ちた地下世界の中で、場違いなほどに美しく幻想的な光景であった。微風が運ぶ屍臭に思考力が麻痺し、この世のものではないものを見せられているように感じてしまう。

 そして、銀糸の先端が男の身体に触れた。

 途端に、風の中で音もなく揺れていた銀糸が、するすると生き物のように男の身体に巻き付き始める。同時に、宙に浮かぶ光球にも変化が現れた。淡い光であった輝きが増して、色も白から赤、そして青へと変色と明滅を繰り返し始めたのだ。

 光球が明滅をする度に、細い銀糸の中を矢のように光が走る。男の身体へと伸びた銀糸が、その光が通る時だけ暗闇の中にくっきりと浮かび上がった。それは、心臓が脈打ちながら血液を血管へと送り込む姿にも似ている。

 光球の明滅により、男の肉体より何事かの情報が読み取られ、それが銀糸を伝い光球へと送り込まれているらしい。

 その時――

 「ォオぉぉおォ……」

 破れた窓から風が吹き込むような、低く掠れた声が聞こえた。

 思いがけないことが起きていた。いつの間にか男のすぐ側に、あのミイラ同然となっていた老人が立っていたのだ。

 「むう……」

 低い呻きが男の口から洩れた。男も、まさかここまで老人が移動できるとは想像していなかったようである。

 無理もない。男の目から見ても、老人はすでに死人同然であったからだ。その姿は最早“生命力”などというものを超越している。

 一歩踏み出した老人の右膝が、乾いた音を立てて関節の向きとは逆方向に曲がった。頸は肩と平行になるほど左に傾いている。

 折れた部分の肉は裂けて骨も露出しているが、血は一滴も流れていない。乾き切ったその肉体は、明らかに生命活動を停止しているように見える。だが、なおも老人はその歩みを止めようとしない。

 老人の唇から、しゅうう、と乾いた風のような音が洩れた。微かに動く口は、何事かを呟いているようにも見える。

 「無理ですよ……。そこまで劣化した細胞では、この『ドラシュトゥ(漂う監視者)』のゲノムチェックをクリアすることは不可能です。それは、あなた自身もわかっているはずだ……」

 ひどく優しい声で男が囁いた。

 その時、黒い孔のように見開かれた老人の目から、透明な涙が流れてきた。生命を最後の一滴まで奪われてしまったような身体のどこに、これだけの水分が残されていたのか。そう思わせるほどの涙が老人の両目から溢れ出ている。

 「――――」

 誰にも聞き取ることのできない微かな声を発し、老人は一歩踏み出した。その全身を、ドラシュトゥから伸びた銀糸がゆっくりと包んでゆく。

 そして――

 魂のない人形のようであった老人の貌に変化が現れる。その表情の中に混ざり始めたのは、明らかに苦悶の色であった。

 生きながら自分の肉を引き裂かれる苦痛の絶叫が、歯が抜け落ち紫色の舌が蠢く老人の口からほとばしっているかのようだ。この世のものでない激痛が老人の肉体を責め苛んでいる――

 もとより、それは老人の表情からうかがえるだけで、実際にはどれほどのものが老人の肉体を襲っているのかはわからない。

 老人の肺には、最早ほんの僅かな空気さえ取り込む力も残されていないのであろう。裂けるほどに開かれた彼の口からは、何の音も発せられてはいなかった。

 あるいは、老人は慟哭しているのかもしれない。濁った双眸からは、最後の生命を流し尽くすように涙が流れ落ちてゆく。

 唯一わかるのは、老人の肉体がみるみるうちに崩壊してゆくことだけであった。

 茶色く変色していた皮膚はさらに黒く濁り、表面に細かい亀裂が生じ、内側の肉ごとぽろぽろと崩れ落ちてゆく。

 砂で造られた彫像が風に削られるかの如く、老人の身体はこの世から消滅しつつあるのだ。

 「馬鹿が――!」

 男が吐き捨てるように言った。暗い声であった。その言葉がまだ口内に残る内に、男は老人に向かい右手を振るう。

 どちゃり、と湿った音を立てて、老人の顔に黒い塊がへばりついた。それは、人の掌ほどの大きさのある、毒々しい赤色の斑点がついた蛭であった。

 蛭は先端部の穴から緑色の細い触手を吐き出すと、その先を老人の耳へと侵入させてゆく。そして、相当量の触手が頭部へと潜り込んだ時、老人の顔に苦悶とは別の表情が生まれていた。

 老人の顔は、ぞっとするような笑いを浮かべていたのだ。

 己の内部で抑圧してきたあらゆる欲望、この世に存在する全ての快楽が自分のものになった時に、人はこれほどの表情を浮かべるのだろうか。

 人間の奥底に潜む、本人が目を背けたくなるような浅ましいものが、老人の笑みの中に剥き出しとなっている。

 「どうせ死ぬんだ。だったら、快楽に心を喰われたまま死ぬのもいいさ……」

 どこか意識して抑揚を抑えたように男は呟いた。

 やがて、老人の身体に巻きついていた銀糸が音もなく離れ、再び宙を舞い始める。同時に、朽ちた老木同然に変化した老人の肉体が、地面へと崩れ砕け散った。“それ”が元は何であったのか、もう誰にもわからないだろう。

 谷底から吹き上げる風により、朽ち果てた老人の亡骸が虚空へと散ってゆく。後に残されたものは、一握りの黒く変色した砂の固まりであった。

 しばらくすると、光球(ドラシュトゥ)の明滅の振幅が次第に緩やかとなり、やがて完全に白光を放つのみとなった。光球は男の直上より降下すると、ゆっくりと男の全身を包み込んでいく。

 そして男を内部へと呑み込んだまま、ふわりと光球が地上を離れ、再び宙へと舞い上がった。

 偽りの暁天へと吹き昇る風に逆らうように、光球は宙空をふわりふわりと浮遊する。そのまま、光球は黒々と顎を開いた暗黒の深淵へと降りていった。

 後に残されたものは、ほんの僅かな砂の小山のみであった。しかし、それも風に吹き散らされて消えてゆく。やがて、何事もなかったかのように、再び大地には空虚と静寂が満ちていた。



(五)

 一面の闇――

 深く濃厚な闇は物理的な圧力を持ち、みしみしと音を立てて押し寄せてくるようだ。

 男が光球(ドラシュトゥ)と共に、大地の裂溝へと下降し始めてから一体どれほどの刻が流れたのだろうか。

 一条の光さえ差し込まない地底世界――ここでは時間さえも、その動きを止めてしまったかのような感覚に襲われる。

 いつからか、男の耳には低い音が響いていた。

 遥か地の底から轟くように、重く、一定の周期を持ちながら男の鼓膜を振動させる音――それは、収縮し脈打つ心臓の鼓動に酷似している。

 初め、それはか細く微かな音であった。しかし光球が降りるに従い、その音はゆっくりと、そして確実に重量と密度を増加させてゆく。いつしかその音は、大気を、さらには男の全身さえも震わせるほどの強さとなっていた。

 ふと、闇の中に赤光が現れた。

 照明や生物の眼光ではない。それは細長く不規則に曲がりくねり、互いに絡み合う無数の歪な光だ。血の色にも似た不気味な光は、暗闇で夥しい数の蛇が蠢いているようにも見える。

 光は男の周囲に響く鼓動音に合わせ明滅を繰り返しながら、加速度的にその数を増してゆく。

 あたかも赤光が暗闇を浸食してゆくようである。そして、周りの空間が禍々しい光に埋め尽くされた時、そこには異様な光景が広がっていた。

 幅数百ローナに及ぶ巨大な大地の割れ目――その両壁を造り上げているのは岩石ではない、いや、正確に言えば、岩石の表層部が別の物質により厚く覆い隠されているのだ。

 “それ”は絶え間なく、小刻みに動き続けていた。ゆっくりと岩石の表面を這い、谷底からじわじわと登ってくるその姿は、とてつもなく巨大な粘菌やアメーバを彷彿とさせる。

 生物体であるのか、それとも金属や鉱物であるのか――半透明で黒い光沢を持つ表面からは全く判別ができない。熔解した金属のようにも見えれば、地表を流れる粘性の高い溶岩にも似ていた。

 “それ”の内部全体には、紅く発光する粒子がまるで生物の神経器官や血管のように複雑な回路を形成し、周囲に響く鼓動に合わせて明滅と脈動を繰り返している。

 闇を侵す毒々しい光と轟く鼓動音は、この這い回る物体が放っていたものだったのだ。

 男の顔には光球の表面を通し、紅い光が斑紋のように浮かびあがっていた。紅い光――そう、男の双眸と同じ紅い血の色である。

 「おお……! 偉大なる、偉大なる我らが希望、『イル・ガーン(混沌の天胎)』よ……!」

 男の深紅の双眸は狂喜に彩られ、貌には肉の内側から溢れ出した凶気の笑みが形作られていた。

 『イル・ガーン(混沌の天胎)』と呼ばれた存在、その正体とは一体何であるのか――

 今はまだ、深く厚い暗闇に閉ざされたままだ。

 だが、ひとつ確かなことがあった。それは、このイル・ガーンが明らかに“何か”産み出そうとしているということである。

 かり、かり――

 さり、さり――

 岩肌を這うイル・ガーンの先端部からは、まるで髪を歯で噛むような微細な音が聞こえてくる。

 今、男の眼前で人間の頭部ほどの大きさがある岩塊が触手に引き剥がされ、イル・ガーンの内部へと呑み込まれていった。岩は内部で紅い粒子に包まれると、瞬時に細かく分解されて消えてゆく。イル・ガーンが岩を喰ったのだ。

 岩石を少しずつ喰らいながら、イル・ガーンは先端から次々と黒い触手を伸ばす。その内部には本体より紅い粒子が流れ込み、徐々に触手は成長していく。そして触手同士が互いに結び付き、そこからまた新たな触手が生まれている。そう、イル・ガーンが行っていたのは、『移動』ではなく『増殖』であった。

 イル・ガーンの本体部分は、絶えずその形態を変えている。

 ある部分では、表面が盛り上がったかと思うと、突如内部から鈍い銀色の金属光を放つ巨大な円筒が複数本飛び出してきた。

 金属管一本には、人間が十人近く並びやっと手が回るほどの太さがある。それが大蛇の如く絡み合い、ひとつの構造物を造り出していく。ギ、ギ……、と軋む音を立てて隆起してゆくそれは、あたかも巨大な大砲のようであった。

 また別の場所では、触手同士が融け合った部分にいくつもの紅い割れ目が走り、そこに鋭い牙の生えた口が無数に出現した。

 口は粘液と奇声を撒き散らしながら、急激に周辺組織と共に膨れあがる。身体を造り上げていくようでもあったが、その姿は、溶けた筋肉組織から赤黒い内臓の覗くおぞましいものだ。

 腐食した身体に巨大な口の付いた怪物たちは、周囲のもの同士で激しく共食いを行い、原型を留めぬ肉塊と化してゆく。そしてその血溜まりからは、また新たな姿を持つ異形の怪物たちが次々と産み出されていく。

 他にも、機械や構造体の一部であるようなもの、生物の組織や臓器のようなもの――それらがイル・ガーンから次々と産み出される。そして、互いに融合と浸食を繰り返しながら、やがてゆっくりと同化を行いイル・ガーン本体の一部となっていくのだ。

 『混沌の天胎』が産み出そうとしているもの――それを明らかにする術は今はない。しかし、目指す場所は確かであった。

 地上だ。暗い地の底で増殖と変化を繰り返しながら、イル・ガーンはゆっくりと、そして確実に地上に向けて這い上がっている。

 いつの日か、イル・ガーンがその巨体を地上へと現した時――それは、この世界の全ての生命、いや、この惑星『マカ』そのものにとって、大いなる災厄が訪れた瞬間となるであろう。



 男を包んだ光球の前に、一条の光が現れた。

 横一線に伸びる、幅数十ローナに渡る光――それは、増殖と成長を続けるイル・ガーンの内部に存在する、ドーム状の構造物から放たれる光であった。

 有機物と無機物の入り混じる混沌体の中において、そのドームだけは明らかに人工物のようだ。

 半球型の外見をしており、球状の面を谷側に向けている。表面はイル・ガーンと同様の黒いガラス状の光沢を有するが、ドームの方は硬い金属の質感を備えていた。

 直径はおよそ一〇〇ローナはあろうか。光の帯は、その中央に沿って横一文字に開いた隙間から放たれている。接近すると、その隙間は高さが五ローナ以上もある巨大なものであった。

 光球は、隙間からドームの内部へと侵入してゆく。そして、強い白光が男の双眸へ飛び込むと同時に、男の身体からは全ての感覚が消失していた。



(六)

 男を取り囲む世界の全てが消えていた。

 目に映る光景が消失しただけではない。目に見えぬものも消えている。

 重力が消えた。両足で立っているという感覚も消えていた。それどころか、今自分がどの方向を向いているのか――縦なのか横なのか、天地の認識さえもできない。

 音、匂い、温度といった、自身の肉体が常に感じ続けているはずの感覚すら消失している。

 時間の感覚もない。一体、自分がどれほどの時間を体験しているのか。長いのか、短いのか。ほんの一瞬を永劫の刻と感じているのか、それとも悠久の刻を刹那と感じているのだろうか――

 前触れもなく、男の肉体に戻ってきた感覚は重力であった。同時に、自分が立っていると感じる肉体の感覚も甦っていた。

 足が硬い床を踏んでいる。大気を吸い呼吸をしている。自分の体内で心臓が脈打つ鼓動を感じる。

 男が立っていたのは、四方を白銀色の壁に囲まれた、正方形の空間であった。広さは一辺が二十五ローナはあるだろう。天井は先が霞むほど高い。

 壁の素材は石でも木でもない。表面には一切の凹凸がなく、滑らかな光沢がある。一見金属ではないかと思えるが、その表面は時折、水滴が落ちたかのように全体が波打つ現象を見せた。

 男がイル・ガーンと接触する前に通過した地下世界の天井――それと同様の未知の素材が、この部屋の壁には使用されているようだ。光源が存在せず、壁全体が光を放つ点も同じである。

 男は周囲を見渡し満足気な笑みを浮かべると、正面の壁に向かい歩き始めた。そのまま歩みを進め壁の直前まで来ると、男は立ち止まり壁に指先を押し当てる。

 指先から伝わるのは奇妙な感覚であった。指は確かに壁に触れている。だが、指先には何も感じない。硬さや柔らかさはおろか、“物体に触れている”という感触そのものがない。

 強いて表現するのなら、感じたのは温度のようなものだ。自分の体温と全く変わらぬ温度の空気が、壁となってそこに存在していたのならば、あるいはそのような感触を覚えるのかもしれない。そして、男が触れた瞬間に、正面の壁は消失していた。

 男の前方には、壁と同じ幅と高さを持つ通路が新たに出現していた。果てしなく続く真っ直ぐな直線だ。一体どれほどの距離があるのか、とても視認はできない。

 その通路へ男が足を踏み入れると、背後に再び白銀の壁が出現し、入口を塞いでしまう。通路に閉じ込められる形となったが、男は「ふん……」と口の端を吊り上げたのみで、僅かな動揺も示すことはなかった。

 男が通路を奥へ進もうと一歩足を踏み出した、その時であった。

 《アバラMRー4∞05の生体コードを認証。エフィソスよりの帰還を確認しました》

 抑揚のない、どこか機械的な女の声が通路に響いた。

 男はその場に立ち止まり、左側の壁面に視線を向ける。すると、白銀の壁に音もなく幾重もの輪が描かれ、巨大な波紋が広がった。そして、まるで水滴を落とす瞬間を逆再生するかのように、壁の内部より人の頭部ほどもある瑠璃色の球体が現れたのである。

 その球体は床から浮遊したまま滑るように宙を移動し、男の正面で静止した。紫がかった濃い青色の表面は滑らかに磨かれた宝石のようでもあり、不意に内部に液体を流し込まれたような揺らめく動きを見せることもある。

 「やあ、久しぶりだねベル……。ただいま。今、帰ったよ」

 男――アバラが球体にかけた声音には、まるで親しい存在に向けられたような温もりがあった。

 《――――》

 しかし、球体は黙したままアバラの声に応えない。

 「どうしたんだい?」

 《質問の許可を願います》

 球体の声には感情がない。あらゆる心の動きが欠如した音声だ。

 「ああ、どうぞ」

 《私の正式名称は『ベルセフォネQ624』です。先ほどアバラMRー4∞05の言った『ベル』とは一致しません。確認します。『ベル』とは私と同一と認識してよろしいのでしょうか》

 「…………」

 《アバラMRー4∞05より応答なし。質問を繰り返します。『ベル』とは私と同一と認識してよろしいのでしょうか》

 「そうか、ベル……。もう、君の自我は取り込まれてしまったんだね……」

 アバラは顔をうつむかせ、ぼそりと消え入りそうな声で呟いた。

 《アバラMRー4∞05より応答なし。質問を――》

 「ああ、そうだよ。君のことだ……。私はベルセフォネQ624をこれより『ベル』と呼称する。そして、『ベル』は私アバラMRー4∞05を『アバラ』と呼ぶ……。了承してくれるかい?」

 アバラは顔を伏せたまま、どこか力の抜けたような声で球体に語りかける。

 《了解しました。『ベル』は現時刻よりアバラMRー4∞05を『アバラ』と呼称します》

 「……ありがとう、ベル……」

 そう言うと、アバラは顔を上げた。口元には、彼が常時浮かべている嗤いが浮かんでいる。つうっと唇を左右に吊り上げて、眼が穏やかに細められた嗤いだ。

 しかし、その笑みはどこか歪な印象を見る者に与える。彼の笑顔を見ていれば、その奇妙さにすぐ気付くだろう。

 アバラの笑みは動かない。

 どのような笑みであろうと、感情の起伏に合わせ動きの変化がある。それがアバラの笑みには全く存在しない。それは凪いだ水面のように、一切の感情が排され静止した笑みであった。

 「ベル、これより座標白虎452Σ24に移動します。案内をしてください」

 『ベル』に呼びかけたアバラの声も、自身の笑みと同じく無機質なものに変化している。

 《了解しました。『アバラ』》

 抑揚のない声で返事をすると、ベルはアバラを先導するように距離を置いて前方を浮遊していく。

 後に続くアバラは、顔に張りつけた笑みを隠すように再び顔をうつむかせた。銀髪が額から垂れ下がり、正面からは彼の貌を窺うことができない。

 「そうだよなあ……。あんたらにとっちゃあ、人ひとりの存在なんぞ、演算素子の材料程度なんだろうよ。人間の脳を利用した超並列回路か……。いやいや、『真人(プルージャン)』サマのお知恵には頭が下がるねェ……」

 アバラの口調は、普段自身が用いる、どこか人を食ったような嗤いを含ませたものだ。しかし、彼の口の端は大きく歪み、きつく喰い縛った犬歯が剥き出しとなっている。

 「面白いじゃねえか……! ちっぽけな存在と思っていた人間が自分の喉笛に喰いついた瞬間、てめえらがどんな間抜けヅラを晒すのか……。この俺の眼で確かめてやるよ……!!」

 銀髪の隙間から覗くアバラの紅い双眸には、凄まじい憎悪の感情が燃えていた。




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