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第十八話 想いは、ただ風の如く

(一)

 男の寝息は不規則で、時折呻き声に似たものが混じっていた。目覚めが近いらしい。

 毛布がかかった胸が上下を繰り返している。呼吸は苦痛を訴えるようにたまに荒くなるが、しばらくすると元のリズムへと戻る。

 男の胸には包帯が巻かれ、左肩までをしっかりと包み込んでいた。男の左腕は、肩先から消失しているのだ。その包帯の下にたっぷりと塗り付けられている薬草の匂いが、その部屋の空気中に溶けている。

 やがて、寝息と呻き声の比率が逆転し、呻き声とは違うはっきりとした言葉に近いものが、その口から飛び出した。

 「化け物……っ!!」

 寝具を剥ぐようにして、男が右手をついて上体を起こした。

 男は身体こそ人間(マヌ)のものであったが、頭部は青毛の猿である。だが、瞳よりも白眼の部分が目立つ目は人間(マヌ)に近い。

 男――エナクは眼を見開き、肩で呼吸をしていた。悪夢を見ていたことは聞くまでもない。魔神族(ダイヤ)の男、バレンシスが変身した魔獣に襲撃された記憶は、これからもエナクを苦しめるのであろう。

 エナクの頬の辺りの肉が削げ落ちて見える。彼は数瞬、落ちくぼんだ眼で周囲を見回した。自分がどこにいるのかわからないようである。

 そこは土の壁に囲まれた空間であった。土を練り固めて四角い直方体を造り、それを積み上げる。そうしてできた壁と壁に丸太と板を渡して天井を造り、その上に土を塗って屋根を造った民家だ。

 ザワ村に建つ家のひとつである。その部屋の内部でエナクは眠っていたのだ。

 見上げてみれば、壁と屋根の隙間からは星空が見える。すでに日は落ちて夜になっているらしい。

 エナクは視線を落として床の上に置かれた灯り皿の小さな火を眩しそうに見つめ、また小さく呻き声をあげた。

 「痛みますか……?」

 気づかうような声がエナクにかけられた。エナクは声のした方向へと顔を動かす。

 「おまえ……」

 掠れた声がエナクの口から洩れた。エナクの前には、肉の小山のような大きい男が腰を下ろし、心配そうにエナクを見ている。

 茶色の短髪から垂れ気味の耳を生やし、いかにも柔和そうな顔をした男。ただ、その鼻はひしゃげた豚のもののような形状をしている――ボルドはエナクの意識がはっきりするのを確認すると、ほっとしたような息を吐いた。

 「目が覚めたようね」

 すぐ近くから女の声がした。エナクはそちらの方向へも顔を向ける。彼の顔は、すでに自分がどこにいるのかを理解した顔つきだ。

 ボルドの右後方、エナクから見て足元の方に、膝をついて自分を覗き込んでいる女が見える。赤毛を逆立てて、尖った狼の耳を生やした青い瞳の女性――シエラがそこにいた。

 奥の壁際には、片膝を立てて腰を下ろし、鋭い視線を向けてくる短い金髪と長い耳を持った青年――テージンの姿もある。

 ボルドは手元に置いた水筒の中から木の器に水を注ぎ、それをエナクに差し出した。

 エナクは右手で器を受け取ると、貪るように中の水を飲み干す。立て続けに三杯飲んだ後、ようやく空になった器をエナクは床に置いた。

 「……そうか、俺は助かったのか……」

 「とりあえず、はね……」

 シエラが重々しく呟く。それを聞いたエナクは、身体のあちこちの痛みを思い出したように、苦しそうに顔を歪めた。と、同時に自らの身体に巻かれた麻布と手当ての跡に気づく。

 「こいつは、おまえが……?」

 ボルドはエナクの質問には答えず、ただ柔和な顔で微笑しただけであった。その後を受けたのはシエラである。

 「感謝しなさいよ。ボルドはあなたのために、食事まで用意してくれたんだからね」

 テージンは無言のままであった。ボルドは困ったように眉を寄せると、水筒の傍らに置いた皿へと手を伸ばす。皿の上には、甘い芳香を放つマンゴーの果実が乗っていた。

 「外の果樹園か取って来たんです。干し肉はまだ食べられないでしょうけど、これなら喉を通るかなって思って……」

 ボルドはそう言いながら、腰の袋から小さい短剣を取りだし、マンゴーの実を二つに割った。強い果実の芳香が部屋の中に満ちる。

 「とにかく、今は少しでも食べて、体力を取り戻してください」

 ボルドは短剣の先で、丁寧に切り分けた果肉を刺して、それをエナクに向かって差し出した。

 エナクは戸惑ったような表情を浮かべ、マンゴーの果実とボルドの顔を交互に見る。そして、右手を伸ばし、エナクは果肉の刺さった短剣を受け取った。

 しばらくの間、エナクは無言でボルドの切り分けたマンゴーの実を食べていた。そして、四つ目の実を口にした時である。

 「おまえよ……、どうして俺を助ける?」

 不意の質問であった。ボルドはそれが自らに向けられたものであることは理解しているが、咄嗟のことで反応ができない。

 「俺はよ、昨日おまえに散々ひでえことをしたんだぜ。いや、昨日だけじゃねえ。この任務が始まってからずっとだ。豚だのグズだの言いたい放題でよ、理由もなしに殴る蹴るも当たり前だ」

 エナクは短剣を床に置いて、ボルドを見た。

 「そんな俺を、どうしておまえは助けるんだ? 命令で仕方なくってか? それとも弱った俺に親切にして優越感に浸りてえか?」

 エナクの顔に皮肉気な笑みが浮かんだ。それを見て、シエラが顔色を変える。

 「エナク! あなたはどうしてそんな考え方しか……!」

 思わずシエラが腰を浮かしかけた時であった。

 「そんなのじゃありません」

 そっとシエラを手で制しながらボルドが言った。静かで穏やかな声であったが、その奥に強く硬いものを秘めた響きがある。

 「上手く言えないかもしれませんが……」

 ボルドは言葉を探すように、少しの間宙へ視線を彷徨わせてから語り始めた。

 「僕は昔から顔のせいで……身寄りのないこともあって、ずっと他人から虐められてきたんです」

 「――――」

 「だからって、その境遇に慣れたわけじゃありません。正直に言えば、あなたにされたことにも腹は立っています。……でも、それをあなたを見捨てる理由にするのは、少し違うと思うんです」

 エナクは黙って横を向いている。しかし、ボルドの言葉に耳を傾けているのは確かなようだ。

 「別に『心まで負けたくない』とか、そんな立派な理由じゃありません。ただ、僕は顔も頭も悪くて、社会的な地位も低いけど、それでも何か自分に自信を持ちたいと、ずっと思っていました」

 ボルドは己の裡側に存在する、想いの欠片を拾い集めるように言葉を続けてゆく。

 「教えてくれたのは、同じ孤児院の子供たちでした。彼らの眼は本当に濁りがなく透き通っていて……その眼を見ていて思ったんです。せめて、この子供たちの眼を真正面から見て、自分のことを話せるようになりたい、と」

 「…………」

 「今だって僕は情けないままです。虐められてもやり返せないし、シエラ様に頼ってばかりだし……。そんな僕だけど、たったひとつだけでも人として正しいことをしたんだって、そう子供たちに言えるようになりたいんです。だから、命令されたとか、優越感とか、そんな理由であなたを助けたんじゃありません。そうすることが正しいと思ったから助けた……。それだけです」

 そう言うと、ボルドは眼を細めてはにかんだ表情を浮かべた。

 いつの間にか、ボルドのすぐ近くにシエラが寄ってきていた。彼女はボルドの背に、そっと手を添えている。

 テージンは片膝を抱えたまま、壁と屋根の間に見える夜空を眺めている。しかし、届いてくるボルドの言葉に耳を澄ましているようでもあった。

 「へっ……。おまえさんよ、本当にバカがつくほどお人好しだな……」

 ボルドの笑みにつられるように、エナクの口から笑いが洩れた。

 「いや、バカは俺だ。俺たちの方が大馬鹿野郎だったよ。なあ、ボルド……」

 それは、これまでエナクが浮かべていた暗く歪んだ嗤いではない。これまでの彼には見ることのできなかった、どこか晴れ晴れとしたような笑みであった。



(二)

 あれは何年前であったろうか?

 五年、十年――はっきりとした年数は思い出せない。恐らくその頃、自分の年齢は十歳くらいであっただろう。

 そうウルガは記憶している。だが、その年齢すらも正確ではない。なぜなら、彼は自分の産まれた日すら知らないのだから――


 “出来損ない”

 ウルガはそう呼ばれていた。物心つくよりずっと以前からだ。

 彼は幼い頃から奴隷として育てられていた。そこに至るまでの経緯など、当時の彼には知る由もない。

 しかも、ただの奴隷ではない。主人の命令のままに、生命をかけて闘う戦闘用の奴隷であった。

 初めて殺したのは、同じ年頃の人間(マヌ)の少年だった。相手は人ばかりではない。飢えた虎だった時もあれば、巨大な蛇であったこともある。

 当時のウルガには、生き延びて何がしたい、という目的はなかった。ただ死にたくなくて、眼前の相手を殺し続ける日々が繰り返されてゆく。

 それが、いつからであろうか。闘いの度に身体に負う傷よりも、自分が生き延びるために他者を殺す――その時に生じる胸の痛みの方が、ウルガにとって遥かに辛く苦しいものとなっていった。


 ある日、ひとりの少年をウルガは殺した。

 相手は、ウルガよりも年少と思われる黒龍族の少年であった。

 ウルガと違っていたのは、彼には母親の記憶があったことだ。幼い頃に村から拐われて、奴隷にされたらしい。

 『いつか自由になって、母親の元へ帰りたい』と、少年はいつも口にしていた。そうなれたらいい、と、ウルガも思っていた。

 だが――

 幾多の血を吸い赤黒く変色した砂の上。いつもの闘技場、いつもの殺し合いの空間――

 ウルガの目の前には、黒龍族の少年がいる。

 「さあ、殺し合え! 生き残った方を自由にしてやる!」

 でっぷりと太り、脂ぎったナーガ族の主人は、嗤いながらウルガと少年に言い放った。

 ウルガの正面で、少年は剣を握ったまま、今にも泣き出しそうな顔でがたがたと震えている。

 「やらなければ、二人とも殺すぞ!!」

 気が動転していた少年は、その一言で眼を吊り上げ、叫び声をあげながらウルガに斬りかかってきた。

 全てが始まる前、ウルガは、この少年になら殺されてもいい、と思っていた。それは紛れもない真実だ。自分が死ぬことで、この少年が母親に会えるのならば、それでもいい、と――

 絶叫を迸らせながら、少年はウルガに向かい剣を振り下ろした。しかし、踏み込みが足りず、剣の刃先はウルガの肩を浅く切っただけであった。

 その瞬間、ウルガの意思とは関係なく、反射的にその肉体が反応していた。

 それからどうなったのか。それはウルガ自身が知っている。知っているが、思い出したくない。思い出したくないが、こうして月日の経った今も、ありありと思い出してしまう。

 それは闘い続けて生きてきた結果、細胞にまで染み込んだ本能のようなものだ。

 大量に出血し意識が遠のく状態でも、気がつけば相手の心臓を貫いていたこともある。

 ウルガの意思に反して動いた身体は、少年の振り回す剣をかいくぐり、次の瞬間には少年の背後へと回り込んでいた。

 両脚が肉食獣の顎の如く少年の胴体を捕らえて地面へと倒し、両腕は大蛇のように少年の首へと素早く巻きつく。

 “だめだ――!!”

 ウルガがそう思うのと、両腕が少年の首を大きく捻るのは、ほぼ同時であった。

 あの、湿った布に包まれた枯れ枝をへし折るような音と感触は、今もウルガの耳と腕にこびりついたままである。

 少年の身体はウルガの腕の中でびくびくと痙攣し、じきに動かなくなった。

 「お母さん……」

 ごぼり、と血と共に吐き出した微かな声――それが、少年の最後の言葉であった。

 眼から光を失い、もの言わぬ物体と化した少年の姿を見ながら、ウルガはその場に立ち尽くしていた。その時、ウルガははっきりと聞いたのである。

 「ははは、見ろ! 出来損ないめ、わしの命令通り殺しただろう。賭けはわしの勝ちだなあ!」

 ナーガ族の主人は、高笑いをしながら客から金を受け取っていた。自慢気に「中々の見世物だったろう」と話す声も聞こえてくる。

 そう、主人は知っていたのだ。ウルガが少年と親しくしていたことも、ウルガと少年が闘えば、このような結果になることも。

 その瞬間――

 ウルガは、自分の内部に黒々と燃えている炎に気がついた。

 得体の知れない、これまで感じたことのない、何ものかへと向けられたどす黒い炎。それが轟々と激しい音を立てて、自分の裡側で燃え狂っている。

 それは、ウルガが生まれて初めて他者に抱いた、強烈な怒りと憎しみであった。



 闇夜の中で、ウルガは石の壁に張りついている。

 月明かりからは死角となっている場所だ。月光の造り出す青い影の中で、ウルガは気配を絶ちながら石壁を登ってゆく。

 自身の(ねぐら)である地下牢には、明かり取りの小さな窓しかない。入り口は分厚い木製の扉で塞がれている。

 主人はそれで安心していたのだろうが、その小さな、人の頭部ほどしかない窓からウルガは脱出したのだ。

 肩や腕、他にも身体の複数箇所の関節を外し、頭と胴体を同じ幅にして窓を通り抜けたのである。

 これまでのウルガならば、そのような発想などあり得なかったであろう。しかし、今のウルガには激痛に耐えてそれを行う、明確な目的と強い意志があった。

 黒い炎を瞳に宿し、ウルガは顔を上げた。眼前にそびえる石の壁――その先に見える窓の向こうに、ウルガの目指す場所がある。


 「起きろ……」

 耳元で囁く声がする。ゆっくりとナーガ族の主人は眼を開いた。

 間もなく、彼は自分を見下ろす双眸の光に気がついた。正面から自分を射抜く、深い底無しの淵のような瞳――

 侵入者の正体がわかった途端、主人は大声をあげようとした。だが、声が出ない。口からは、ひゅうひゅうと細い擦過音が洩れるのみである。彼の喉は、ウルガの左手により押し潰されていたのだ。

 ウルガはゆっくりと、甲虫の外骨格に覆われた右拳を振り上げた。目の前ではナーガ族の主人が、みっともなく涙と鼻水を垂れ流しながら、必死に声にならない声で命乞いをしている。

 情けない。この上無く情けない姿だ。これが、今まで自分たち奴隷の命を玩具のように弄んできた者の姿なのか――

 かつて主人であった男の醜態を目の当たりにした時、ウルガの心に沸き上がった感情――それは幻滅ではなく激しい怒りであった。

 “ふざけるな!!”

 きさまも死ぬのが怖いんじゃないか。ならば、なぜ奴隷たちを殺した。なぜ俺たちに殺し合いをさせた。なぜ俺にあの少年を殺させた。畜生、畜生! 畜生め!!

 ウルガの口から獣の叫びが放たれる。そして、渾身の憎悪が込められた右拳が心臓に向かい振り下ろされた。

 一撃目で胸骨が砕け、二撃目で拳は心臓に達した。大量の返り血が、ウルガの顔面を紅く染める。三撃目に振り下ろした拳は男の心臓を完全に叩き潰し、背中を貫通していた。

 血に濡れたウルガの顔から、新たな血がひと筋ふた筋と流れ落ちている。それは、彼の両眼から溢れ出る血涙であった。哀しみと苦しみを宿した血涙は、とめどなくウルガの眼から流れ続けてゆく。

 そして――

 ウルガはそのまま逃げ出した。行くあてなど無い。ただ、強くなろうと決めていた。

 強くなれば誰にも負けない。誰にも負けなければ自由に生きてゆける。自由ならば、もう誰も殺さなくていい――

 一条の光さえ射すことのない暗闇の底を、ウルガはただ独り走り続けていた。



(三)

 そこは石造りの部屋であった。

 周囲は巨石を積み上げて造られており、扉も厚い。これならば、内部の会話が外へ漏れることはないだろう。

 部屋の中央付近には、大きめの背もたれがある椅子が置かれ、そこに神官(イダム)の黒い僧衣を纏った女が座していた。

 彼女の名はリューズ。ヤクシャ族の族長である。

 歳は三十代半ばくらいだろうか。黒髪と炯とした眼を有するその顔は、額から触角が生えている以外は人間(マヌ)と変わらない。

 上半身もシルエットは人間のものだが、椅子の肘掛けに置かれた両腕は、ウルガと同じく甲虫の外骨格に覆われている。

 腰から下は見ることができない。下半身が見えないように、金糸の刺繍が入った布を腰に掛けているからだ。

 椅子の下には寝台の半分ほどの大きさがある台が設置されており、底には十字に組まれた合計四本の(ながえ)が付いている。リューズが移動する際には、奴隷たちがそれを肩に担いで、椅子ごと彼女を運ぶことになる。

 リューズの前には、彼女と同様に僧衣を身につけた七〇歳ほどの女――アナンタが立っていた。

 当時の彼女は、現役の紅宮情報局特殊戦闘隊隊長であった。今、この石造りの部屋には、リューズとアナンタの二人きりである。

 「リューズ様、お聞かせ頂けますか」

 アナンタが黒い瞳で、リューズの青みがかった灰色の眼を見つめながら訊いた。

 「何をですか……?」

 「本日、わたくしひとりを、ここまで呼んだ理由です」

 問われたリューズは、声を出さずにうなずいた。

 「アナンタ、あなたに会わせたい者がいます」

 低く、囁くような声でリューズが言う。その声に秘められた重苦しい響きに、アナンタの眼がいぶかしげな光を宿した。

 「何者なのですか……?」

 アナンタの問いに直接答えることなく、リューズは黙したまま自分の眼前に垂れ下がった紐を引く。すると、奥の石壁にある木製の扉が開かれ、そこから二人の人物が出てきた。恐らく天井から垂れた紐は外部と繋がっており、何らかの合図がされたのであろう。

 ひとりは黒い貫頭衣を着た人間(マヌ)の男であった。隷民(ダーサ)のようだが、体格が良く筋肉も張っている。どうやらリューズの乗る輿を担ぐ役目の男らしい。

 男は無言のまま部屋の内部まで歩いてくると、そこに立ち止まり左腕に抱えていた羊毛の絨毯を床に広げる。そして、右肩に担いでいたもうひとりの人物を絨毯の上に寝かせ、やはり一言も発しないまま部屋を出ていった。

 後に残されていたのは、麻布を腰に巻きつけた少年であった。

 歳は十代半ばと思われる。伸び放題の黒髪と浅黒い肌を有し、身体は痩せこけていた。そして、血と薬草の匂い。見れば少年の胸や腕には布が巻かれ、まだ新しい血が滲んでいる。

 少年は意識が無いのか、絨毯の上に仰向けになったまま眼を閉じて、浅い呼吸を繰り返しているのみである。

 「この少年……」

 少年の姿を見た時、アナンタの口からわずかではあるが、驚きの含まれた声が洩れた。その少年の身体は、右半身が甲虫の如き黒い外骨格に覆われていたからだ。

 「昨日の朝、やっと熱が下がってね。それからずっと眠り続けているのよ……」

 リューズはまるで独語のように、ぼそりと口にした。



 その少年が現れたのは、ヤクシャ族の都市『ヤマ』の西の外れに位置する小さな村であった。

 当時村は凶暴な豹の襲撃を受けていた。それも、ただの豹ではない。通常豹は大きくても一・八ローナ(一・八メートル)ほどだ。しかし、その豹は二ローナを優に超える巨大さだった。

 豹は多くの家畜を喰らい、それを防ごうとした村人が何人も殺されている。

 豹は狡猾であり、幾人もの猟師や兵士が豹を狩ろうとしたが、逆にことごとくが豹に殺されていた。金属製の武器を身に帯びた者がいると、豹は身を隠し姿を現さない。藪の中を風下から音を立てずに接近し、一瞬でも気を抜けば、一気に五ローナ近い距離を跳躍し、一撃で獲物の頭部を噛み砕く。そして、次の瞬間には再び森の中へと消えてしまうのだ。

 その日も紅宮の兵士が殺された。これまでも兵士が何人も犠牲となっており、紅宮は派遣をかなり渋っていたのだ。それを村長が何日も頼みこみ、やっと村まで連れてきた兵士たちの一員であった。

 もはや紅宮からの増援は期待できない。村の猟師をこれ以上失えば村の経営が立ちゆかなくなる。

 途方に暮れていた村人たちに声をかけたのが、その少年だった。

 少年のことは、すでに村の全員が知っていた。

 村の入り口に生えた菩提樹の根元に、少年は数日前から幽鬼のように気配なく座していたからだ。

 ぼろぼろの布を身に纏い、暗い光を放つ眼を虚空へと彷徨わせる少年に、声をかける村人は誰ひとりいなかった。

 布から覗く少年の異相――中心で断ち割ったように、右半身を甲虫の外骨格で覆うその姿と、常に濃い夜の闇を周囲にまとわりつかせたような雰囲気に、誰も近づくことさえできなかったのである。

 「俺が囮になる。豹が出たら、兵士たちが出てきて奴を仕留めればいい」

 そう少年が言った時も、村人たちは戸惑ったように顔を見合わせるだけであった。そのまま少年が森へと歩を進めても、誰ひとり止める者はいない。

 「ちょっと!! あんた馬鹿なの!? 兵士が弓を射かける前に、あんたは豹の腹の中よ!?」

 少年に怒鳴りつけたのは、今回の豹狩りを実戦訓練の代わりにするため、兵士たちに同行していたマホラガ族族長の娘イライサだ。 美しい紫紺の髪と同じ色の、蛇の胴体を地団駄を踏むように地面に叩きつけるイライサを見ても、

 「そうかもな……」

 と、少年は他人事のように答えるのみであった。

 結局、そのまま少年の考えは採用されることになった。元々村には何の縁故もない者である。もし失敗しても、村にとっては何の影響もない。

 村の外れのマンゴー園で、少年は三晩豹が出てくるのを待った。しかし、豹は現れない。まるでこちらの策を見抜いたかのように、豹は姿を隠したままであった。

 戦闘の緊張感を持続させるのは難しい。四日目になり、イライサたちは一度作戦を練り直すことにした。だが、少年は村に戻ることなくマンゴー園に留まり続けた。

 そして五日目の夜、たったひとりとなった少年の前に、ついに豹がその姿を現したのである。


 「出た! 豹の奴が出やがったぞ!!」

 豹の吠え声を聞いた村人が、血相を変えてイライサたちの待機していた小屋へと駆け込んでくる。

 イライサは歯を軋らせて呻いた。なんという狡猾な奴だろうか。豹は待っていたのだ。少年がひとりきりになるのを。

 「もたもたするな! 豹を絶対に仕留めるぞ!!」

 イライサと兵士たちは武器を手に取り、小屋を飛び出してマンゴー園へと向かった。後には、武器代わりに鍬や鎌などの農具を手にした村人たちも続く。

 森の中を駆け抜けマンゴー園へと近づいてゆくと、奥から獣の唸り声が聞こえてきた。それだけではない。宙で噛み合わされる牙の鳴る音、肉と肉のぶつかり合う鈍い音が響く。奥で少年と豹が闘っているのだ。

 マンゴー園に到着した時イライサたちが見たのは、豹が少年に向かい跳躍する瞬間であった。同時に、低い位置から少年の右拳が豹の顔面に向かい疾る。

 少年と豹のふたつの影が、もつれ合い地に落ちた。上になっているのは豹だ。凄まじい勢いで頭を振りたくっている。だが、やられているのは少年の方ではない。

 豹の胴体を、少年の両脚が強烈な勢いで挟みつけていた。離れたイライサたちの耳にも、めきめきと豹の骨が軋む音が聞こえてくるほどである。そして、少年の右腕が肘近くまで豹の口中にめり込んでいた。気道を塞がれ、豹は苦しみのあまり頭を振っているのだ。

 豹が横倒しになった。もがきながら、豹は狂ったように少年の太股を後足の爪で掻く。振り回した前足の爪が、少年の首や腕を引き裂いた。傷口からは夥しい血が流れてゆくが、それでも少年は豹から離れない。

 イライサたちは、その場から動けなかった。少年の凄まじい気迫が、その場にいる全員を圧倒している。その時、豹が苦し紛れに振った前足の爪が、少年の心臓近くの肉を深く抉った。思わず、見ていた村人たちの口から悲鳴があがるほどの深手である。

 少年は、それでも豹を放さなかった。それどころか、彼は両脚にさらなる力を込めたのだ。豹の肋骨が砕ける音が夜の闇に鳴り響く。先に苦痛の叫びをあげたのは、豹の方であった。

 口から少年の右腕を吐き出すと、豹はがむしゃらに少年から離れようともがく。豹と少年の間に、一瞬大きく空間ができた。その隙を少年は逃さない。豹に向かい、少年の身体が跳ね上がる。

 「ぐあああああっ!!」

 獣の咆哮と共に、少年の右手が一本の槍と化した。骨肉を断つ音と、豹の断末魔の叫びがイライサたちの耳を貫く。

 右の貫手は豹の左目に深々と突き刺さり、その指先は豹の後頭部まで突き出していた。

 豹は身体を痙攣させながら、ゆっくりと少年の上に被さるようにして倒れ込む。少年は豹の頭部から、ずるりと湿った音を立てて右手を引き抜いた。同時に、濃い血の臭気が周囲に立ちこめる。

 イライサたち兵士も、村人たちも寂として声も出ない。それほどの死闘であった。

 静寂の中で、少年が重い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。彼の腹や背中、身体中いたる所に無数の打撲傷や掻き傷がある。胸には、ぞっとするような深い爪痕が四本平行に走り、肉が捲れ骨が見えていた。

 イライサは少年の姿に一瞬たじろいだが、ふと少年の顔を見た途端、思わず彼の元へと全力で這い出していた。少年が、ひどく力の抜けた、そしてあまりにも哀しそうな顔をしていたからである。

 少年は前に向かい歩き出したが、数歩も行かぬうちによろけてしまう。そこを、正面からイライサが抱き止めた。

 「服が……」

 「え?」

 少年が弱々しい声を発した。それは、先ほどの咆哮を放った人物とは思えない、とてもか細い声音であった。

 「服が、血で汚れてしまうよ……」

 顔を少年の肩に埋めていたイライサは、思わず頭を上げて少年を見た。少年の左側の顔――人間(マヌ)と同じ瞳が、青みがかった灰色の光を宿しながら、どこか不安そうにイライサを見ている。

 「馬鹿――」

 イライサは小さく微笑んだ。自分はこれほど傷だらけになりながら、少し的外れな心配をしている――そんな少年を、イライサはたまらないほどに人間(ヒト)らしく感じていた。

 思わず少年の身体を抱きしめるイライサの腕に力が込められる。少年の身体の細さと軽さを全身に感じた時、イライサの両眼が思わず熱を帯びてしまう。

 「馬鹿よ、あんた……」

 もう一度小さく呟くと、少年にその顔を見られないように、イライサは再び彼の肩に顔を埋めた。



(四)

 「そのまま意識を失ったウルガを、イライサが応急手当てをして、この『ヤマ』まで運んでくれたのです……」

 低い声で、リューズはそれまでのことを語った。彼女の貌には、深い苦悶が現れている。

 アナンタは言葉を発しない。ただ黙したままリューズの声を聴き、横たわる少年を見つめていた。

 「――なぜですか?」

 アナンタが、一瞬口に出すのを迷う素振りを見せながらも、リューズに向けて疑問を口にする。

 「なぜ……とは?」

 「なぜ、あなたは、この少年の名を知っているのですか……」

 リューズが口ごもる。

 アナンタはそれ以上のことは訊かず、大きく息を吸いそして深く長く吐き出した。それは、己の裡に生じた様々な想いと言葉を、全て吐き捨てているように見えた。

 「あなたの思いやりに、感謝しますアナンタ……」

 リューズは眼を閉じて、首を左右に小さく振る。

 「この少年は――」

 そこまで言いかけてリューズは口をつぐんだ。アナンタは先を促すようなことはしない。ただ、じっとリューズを見守っている。

 「当たり前のことだと思っていました……」

 「当たり前……?」

 「自由に、愛する者と添い遂げ、愛する者の子を産むことができる、ということ……」

 そこまで言ったリューズが、ふいに手で目頭を押さえた。唇の奥に、喰いしばった歯が見える。その歯の間から、押し殺した低い嗚咽の声が洩れた。

 「リューズ、あなた……」

 思わず昔の口調――族長ではなく、どこか娘のように接していた頃の口調で、アナンタはリューズに声をかけていた。

 「族長として、同じヤクシャ族の有力者と血縁関係になることは、一族の平和のために必要……。それは、幼い頃から理屈としては理解していました。でも、私は結局自分の想いを捨て去ることができなかった……」

 「リューズ……」

 「私が愚かだったのです、アナンタ。結局、全ては父の知るところとなり、全ては秘密のうちに葬られてしまいました。ウルガの父は首をはねられ、そして産まれたばかりのウルガは奴隷商人の元へ……」

 「あなたのせいではない……」

 アナンタは低く、乾いた声で言った。それ以上、彼女には答えようがなかった。

 「皮肉なものね。今はこうして、一族のために優秀な血を増やそうと、存分に“母”としての役目を果たしているわ。それこそ、女王蟻のようにね」

 虚ろな眸で自身の下半身に被せた布をさすりながら、リューズが低く呟いた。その声には、聞く者をぞっとさせるような冷たく危うい響きがある。

 言い終えた後、リューズは顔を伏せて小さく身を震わせた。激しく裡側からその心身を揺さぶろうとする圧力と、彼女は必死に闘っているようであった。

 リューズを見守るアナンタの頬から、涙が滴となってこぼれ落ちてゆく。しかし、アナンタはリューズを見つめたまま、涙を拭おうとはしない。

 やがて、ゆっくりとリューズが顔を上げた。その眼には、すでに涙の痕跡はない。代わりに双眸に秘められているのは、強い決意の光である。凛とした彼女の表情は、紛れもなく一族を束ねる長の貌であった。

 「アナンタ、あなたを今日この場に呼んだのは、旧友としてではありません。紅宮特戦隊隊長であるあなたに話があるからです」

 はっきりとした口調であった。リューズは何事かの決意を固めているようである。

 「はい……!」

 姿勢を正し、アナンタは深々とうなずいた。彼女にも、リューズの強い意志が伝わっている。

 「イライサたちの話によれば、ウルガは優秀な戦士としての素質を備えているようです。そこで、あなたとアドラーにウルガの指導を頼みたい。身体がある程度回復したら、ウルガをすぐに帝都へ向かわせます。そこで、あなたたち自身の眼でも判断してください。見込みがあれば、特戦隊の一員として生きる道がウルガにはできる……」

 様々な想いを喉の奥へと押し殺すように、あくまで淡々とリューズは語った。

 「もし、ウルガに才が無ければ、その時は……」

 硬い異物を吐き出すように、リューズが言いかけたその時――

 「その時は、ウルガがひとりでも生きていけるように、私がしっかりと教育するわ。安心してリューズ……」

 口の端に微笑みを溜めて、アナンタがリューズに語りかける。

 「アナンタ――」

 リューズは震える声で名を呼ぶと、一瞬、泣き笑いのような表情を浮かべてから深々と頭を下げた。



(五)

 許さない。

 その想いがある。

 何を許さないのか。誰を許さないのか。

 わからない。許さないものというのは、自分自身のことなのだろうか。それすらも、わからない――

 得体の知れないものへの怒り。

 その怒りの衝動に身を任せ闘ってきた。殺し続けてきた。あの日、地下牢から逃げ出した夜から、ただひたすらに。

 自分は獣だ。獣でいい。獣ならば、自分が何のために生きるかなど考えることは無いだろう。

 だから自分も考えない。敵がいれば殺す。腹が減れば喰う。それでいい。獣ならば、それでもいい。

 しかし、自分はどうだ? それで満足だったのか。幸福であったのか。


 生きる理由が欲しかった。生きてもいい場所が欲しかった。

 だから、命じられるままに闘った。アナンタが、特殊戦闘隊を去った後も――

 自分はこれしかできない。自分の存在を認めてもらう方法を他に知らない。

 成長するに従い、任務に嫌なものが増えた。

 そう、本当は嫌だった。自分は無駄に殺さなくとも生きられるように、そのために強くなりたかったはずなのに。

 あの日もそうだった。

 なぜ、女性と無力な赤子が標的なのか?

 命じた者の考えはわかる。くだらない権力欲だ。ヘドが出そうになる。

 しかし、これは任務だ。無理矢理自分を納得させて、黒龍族の里へ向かった。

 そう、あの少年の故郷へと。

 怖かったのだろう。せっかく手に入れかけた、自分の居場所を失うのが。だから、命令に逆らえなかった。逆らおうとしなかった。そして、自分はあの女性(ひと)を――


 わからない。

 どうすることが正しかったのか。どうするべきだったのか。自分はこれからどう生きるべきなのか。

 わからない。わからないから闘う。そうして生き延びてしまう。

 闘うほどに、殺すほどに、より深い哀しみが心の裡に蓄積されてゆく。

 生き延びれば、その果てに哀しみから解放されるのか。生きることの答えが待っているのだろうか。もし、この先に何の答えも無いのなら――

 ああ、なんて自分は無駄な生き方をしてきてしまったのだろう。自分が生き延びるために費やしたもの、奪った命、それらに自分は何と詫びればいいのだろうか……



 ウルガはそこまでを語り、押し黙った。

 小さな木製のテーブルを挟み、ウルガとアナンタは向かい合っていた。場所は、孤児院の裏手に広がる庭園である。先ほどまでアナンタが腰かけていた池の畔に置かれた長椅子には、入れ替わりにアドラーとシュリーが座っていた。

 ウルガの鈍く光る眼が虚空を見据えている。その眼の奥から、熱い温度を持つ歪な刃が、今にも肉を引き裂き飛び出してきそうだ。

 それがアナンタたちにも伝わった。ウルガは、自分の内部から溢れようとしているものに、必死に抗おうとしているように見える。

 そんなウルガの貌を見た時、アドラーは身体中の血が逆流し、熱を帯びるのを感じていた。

 馬鹿!!

 怒りで涙がこみあげた。

 叫んでいる。己の心の裡側で、アドラーは激しく叫んでいる。

 無駄に生きただと!? そんなことを誰が決められる!! ましてや、自分で自分の生を無駄と断じるなど、そんな哀しいことをするな!!

 言ってやりたかった。

 ウルガの胸ぐらを掴み、彼の眼を見ながら“違うだろう!!”と、あらん限りの大声で。

 だが、できない。ウルガの空虚な眼が、それをさせてくれない。

 アドラーにできたことは、長椅子から立ち上がり、拳を握りしめたところまでだった。

 「くっ……」

 呻き声が洩れる。だが、それ以上の言葉が出ない。ウルガにかける言葉を持たない自分自身への怒り――熱い温度を持った想いは、形となる術を知らぬまま、アドラーの裡側で渦巻き続けていた。


 アナンタは無言であった。

 黙したまま、身の内からこみ上げてくる大きな苦痛に堪えるような顔をしている。

 その瞳の中にあるのは、深い哀しみの色であった。

 「なぜ、泣いているのですか……」

 ウルガが訊いた。アナンタは、いつの間にかその両目から涙を流していたのだ。

 「ただ……」

 アナンタは呟いた。

 「ただ、平穏に暮らすということが、なぜこんなにも遠く困難なものなのでしょう……」

 重い、溜め息のような声であった。

 「不思議な気分だわ。今日は、なぜか今まで心の奥に秘めてきたことを、すべて喋りたくなってしまう……」

 アナンタは彼方を見ていた。視線の先にあるのは、天に近い岩峰の連なりである。

 「私はね、今自分が手にしているもの、側にいる人たちを守るために、様々なことをしてきたわ。時には多くのものを壊し、多くの人を傷つけたりもした……」

 蒼い虚空の中にそびえ立つ高い嶺を見ながら、アナンタは語り続ける。

 「今にして思うのよ。自分がしてきたことで、正しかったと言えるものが、ひとつでもあったのだろうか、と――。例えば、シエラたちのこともそう……。あの時はね、シエラを白宮に、テージンを紅宮に送るのが、彼らの将来にとって最善の道だと思っていたのよ……」


 シエラ、ボルド、テージンの三人は貧民街(スラム)の出身で、孤児である。

 本当の両親の顔は三人とも知らないし、興味もなかった。身近には同じ境遇の子供たちが大勢いたし、アナンタやアドラーたちを、三人は肉親のように慕っていたからだ。貧しく、城壁内部の者たちに蔑まれる生活だったが、彼女らにとっては楽しいことの方が多い日々であった。

 転機が訪れたのは、三人が十代になったばかりの頃だ。

 些細なことで、三人は貧民街(スラム)にいた兵士たちと揉め事を起こしたのである。身寄りのない孤児が相手とあって、兵士たちはまるで当然のように三人を殺そうとした。

 その時、まずシエラが兵士のひとりを逆に叩きのめした。狼の特性を持つ彼女の戦闘能力は、幼い頃より既に開花し始めていたのである。それに激昂した兵士たちに向かい、テージンが初めて聖仙術を使った。いや、術とはまだ言い難い、(プラーナ)を集中させて掌から放つ程度のものであったが、それは兵士の胴体に風穴を空けるほどの力を持っていた。

 数日後、紅宮と白宮の双方よりの兵士が孤児院を訪れた。目的はシエラたちである。と、言っても、彼女たちを捕らえにきたわけではない。兵士たちを殺傷した件は、既に紅宮、白宮の上層部により『事故』として処理されていた。シエラとテージンの才能は、一般兵士の命より遥かに重かったということだ。

 アナンタは迷った末に、彼らの申し出通りシエラを白宮へ、テージンを紅宮へ送ることにした。

 このまま彼女たちが孤児院にいても、将来成長した時に貧民街(スラム)を抜け出せる保証はない。だが、今ならば、それぞれの才を活かした将来が開けている――そうアナンタは思ったのである。

 その後、成長したシエラは孤児院に残っていたボルドを、自分の従者として雇用した。そこまでは良かったと思う。

 孤児院出身ということもあり、軍内部でも苦労しているようだった。だが、シエラは将来の目標を持ち、日々努力していることを、本人や周囲の者からも聞いていたからだ。

 問題はテージンの方だ。特権階級とも言える聖仙術師となったことで、彼に対する周囲の態度は一八〇度変わった。今まで貧民街(スラム)の者を屑扱いしてきた貴族たちが、下卑た笑顔を浮かべてすり寄ってくるのである。

 極端な環境の変化、術師を取り巻く貴族社会のいやらしさ――再会した時に向けられたテージンの荒んだ眼を見た時、アナンタは自身の判断を強く悔やんだ。


 「その後何回かは、シエラたち三人揃って孤児院に来てくれることもあったわ。でも、間もなくテージンが姿を見せなくなり、次第にシエラたちも訪れてくれる回数が減っていったの。……私はそれでいいと思った。いえ、思い込もうとしていたの。これは、あの子たちが孤児院(ここ)を巣立っていったということなのだと……」

 行くあてもなく吹き抜ける風に向かい、アナンタは静かに呟いた。

 「ウルガ、あなたもアドラーから聞いたように、数日前にシエラたちが来たのよ。エフィソスとの国境付近の村に調査隊が編成されて、シエラが隊長に任命されたの。……本当はやめて欲しかった。シエラたちには上層部から、断片的な情報しか与えられていなかった。嫌な予感がしたわ。でも、結局彼女たちは行ってしまった。『任務ですから』と言い残してね……。シエラも何かを感じて、覚悟してここを訪れたのかしら……」

 ウルガは無言であった。視線をテーブルに落としたまま、黙ってアナンタの話を聴いている。

 「将来がある、と言っても、それはあくまでも平和であればの話。いざ戦争となれば、シエラたちのように上に後ろ楯の無い者は、真っ先に危険な場所へ送られる。……愚かなものね。私自身が軍にいたのに、そのことから目を背けていたなんて……」

 アナンタの呟きは、まるで硬い異物を無理矢理に喉の奥から吐き出すようであった。言葉を切ると、アナンタは苦痛に耐えるように、眼を閉じて歯を噛み締める。

 「私は、なんて愚かな……」

 そのアナンタの言葉を聞いた瞬間、アドラーの口から声が溢れ出していた。

 「人は皆愚かです! 愚かでない者などこの世にはいません! その愚かな人を、愚かさごと愛するからこそ、人は人として生きていけるのです!!」

 考えてみれば、自分も同じではないか。

 「愚かで何が悪いのですか……」

 多くの教え子たちを死地に送ってきた。二度と帰らなかった者、帰って来たが元の生活には戻れなかった者……

 あれを伝えていなかった。これも教えておくべきだった――後悔は限り無い。

 自分の選択は正しかったのだろうか? 確かめる術など無い。過去へ戻ることなどできはしないのだから。

 おろおろと迷いながら、それでもここまでやってきた。やってくるしかなかった。

 「仕方ないではありませんか。どんなに迷い続けていたくても、どれほど止まれと願っても、それでもどうしようもなく時は流れていってしまうのです。ならば、たとえ自分の中で何の結論が出せていないものがあっても、名付けようのない想いがあっても、時には気付かないふりをして、時には目を反らしながら、その全てを抱えて人は生きていくしかないのです。それを愚かと言うのなら……愚かそのものが人ではありませんか……」

 言葉の最後は震えていた。アドラーの両目からは、涙が次々とこぼれ落ちている。

 「アドラー……」

 彼女の名を呟くと、アナンタは沈黙した。

 誰も言葉を発しない。ただ、風が吹いている。そして――

 「僕はね、少し前に考えたことがあるんだ」

 ぽつりとシュリーが口にした。

 「食べるために働いて、給料をもらう。幸運にもそれができる役所仕事に就くことができてね。そうして働きだしてから十年くらい経った時だったかなあ……。たとえばお金を稼ぐとして、どれくらいの金額を貯めることができるのか、出世したとして、どこまで昇れるのか。もっと言えば、これからの人生で、自分はどういうことができて、どういうことができないのか――。考えてるうちに、何だか怖くなっちゃってねえ。自分の人生の限界がわかってしまった気がしたんだよ……」

 しみじみとシュリーは言った。皆の視線が彼にに集まっている。短い沈黙があり、再びシュリーが口を開く。

 「いや、どうも上手く言えないんだけどね。ともかく、僕はこういうことがやりたかったのか、こういう人生を望んでいたのかと、そんなことを考えてしまったんだよ。そしたらさ、すべてが虚しく思えてね。“もうどうでもいいや”となって、そのまま自分の部屋に閉じこもってしまったんだ」

 背を丸めて、自身の組んだ拳を見つめながら、シュリーは言葉を続ける。

 「心配してくれた人もいたけど、その人とも関わるのが怖かったんだ。変だと思うかもしれないけど、“自分のせいでこれ以上他人に迷惑をかけたくない。だから僕のことなんか放っておいてくれ”と、そう考えてしまうんだ。そんな時はね。自分でも自分が歯痒かったなあ。でも、悶々と日々を送る以外どうしようもなかったんだよ……」

 重い溜め息混じりにシュリーは吐き出した。

 「自分の人生に意味はあるのか、自分に生きている価値はあるのか――そう考えて眠れずに朝を迎えた時だった。ふと、窓から見た外の景色にね、沙羅の花を見たんだ」

 「花……、ですか」

 ほぼ無意識にウルガは声を洩らしていた。あの日、あの夜、命の儚さを現していた白いマツリの花弁が、ふと眼の前によぎる。

 「そう。人目につかない夜の内に咲き、夜明けとともに落ちてしまう花だよ。それを見た時に思ったんだ。人の人生も、あの花のようなものだってね。誰にも知られない内に始まり、そして誰にも知られないまま終わる……。ほとんどの人生はそういうものなんだ」

 「――――」

 「でもね、それが虚しいものだとは思わなかった。その時わかったんだよ。誰にも知られていなくても、人の人生は確かにそこに存在しているんだ。懸命に生きて、立派な花を咲かせる瞬間があるんだ。自分に自信が無い人は、そのことに気づけないだけなんだよ」

 シュリーは顔を上げて皆の方を見た。そこで初めて全員の視線が自分に集まっていることに気づくと、彼は照れたように微笑む。

 「だからさ、決めたんだ。この先たったひとりでもいい。誰か、僕と同じように苦しんでいる人の力になりたい、とね。……その人を救うなんて、大袈裟なことができるなんて思わない。そんなことじゃなくていいんだ。だってあの時、僕が欲しかった言葉は“悩んでいてもいいんだよ”っていう一言だったんだから……。苦しんでいるのは自分だけじゃない。そう思えるだけで勇気が湧いてくることもあるんだよ。人生の目標を見失って苦しんでいる人に共感できる……。そう考えれば、悩み鬱々としていたあの時間も、決して無駄ではなかった――今は、そう思えるんだ」

 一度言葉を止めて、シュリーはウルガを見た。

 「ウルガ、『無駄な生き方』なんてものはこの世に絶対無いよ。どんな生き方をしていても、その体験は必ず誰かの力に変えることができるんだ。君は僕らよりずっと苦しい人生を送り、たくさんの哀しみを経験した。それはとても辛いことだけど、君はその分より多くの人たちの哀しみ、苦しみに寄り添える人になったんだ」

 強い口調ではない。静かな、優しいとさえ思えるような言い方であった。

 「院長、あなたもですよ。愚かなんて、そんなことを言わないでください。誰かに優しくできるって、それだけでとても凄いことじゃないですか。だって誰かに優しくされたら、“ああ、無闇にこの世界を、他人を恐れて生きていかなくてもいいんだ”と、そう思えるかもしれないでしょう? お金持ちになれなくても、沢山の人たちから称賛されなくてもかまわない。自分以外の誰かに少しでも優しくできる……。それだけで、その人の人生には意味がある、生きる価値がある――僕は、そう思うんです」

 語り終えると、シュリーは屈託のない笑みを浮かべた。それは何かから解き放たれたような、同時にどこか力強さを感じられるような微笑みだった。

 この(ひと)は――

 ウルガはシュリーを見た。

 そうだ。これが人なのだ。

 どれほど辛いからといって、感情や想いを自分の内部から切り捨てることなどできない。

 生きている間に出会う迷いや悩みのひとつひとつに、全て結論を出していけるわけではない。

 多くのことを、人はそのまま心の奥底に抱えながら生きてゆく。

 そうだ。それでこそ人は人なのだ。答えや決着を常に求めて生きる方が、よほど不自然な生き方なのではないか。

 ならば――

 「シュリー殿……」

 「何だい?」

 「いいのですね……」

 何が? とはシュリーは問わない。ただ、暖かい光を宿した瞳でウルガを見ている。

 「不安も苦しみも、その全てを抱えながら、答えも見つからないまま、それでも生きてゆく……。人は、そのような生き方をしてもいいのですね……」

 一瞬の沈黙があった。そして――

 「あったりまえじゃない!!」

 アドラーがウルガの背を力強く叩いた。

 「そうさ。当たり前だよ」

 ひどく優しい声でシュリーも言う。

 「安心しなさい、ウルガ。人はね、誰であっても自分の人生を生きる権利があるのよ」

 アナンタが目元の涙を拭いながら言った。

 「ありがとう、シュリー。私はあなたと出会えたことを誇りに思うわ」

 そしてアナンタは愛しいものを見つめるように、シュリーを見て微笑んだ。

 「あ、い、いや、そんな言い過ぎですよ院長! 僕は、そんな大層な……」

 顔を赤くして慌てふためくシュリーの首に、アドラーの両腕が回される。次の瞬間には、シュリーの顔はアドラーの胸へと埋められてしまった。

 「照れなくてもいいのよシュリー! さすが私の愛する旦那様! ああ、やっぱり私って男を見る目があるのね!!」

 上機嫌に半ば叫びに近い声量で言うと、アドラーは気持ちを抑えきれないのか、踊るようにシュリーを振り回し始めた。見ている方としては、まるでシュリーが竜巻にでも捲き込まれたような光景である。鼻歌混じりのアドラーに対し、シュリーの口からは細い悲鳴があがっていた。

 そんな二人の様子を見ながら、「あらあら」とどこか呑気な声をあげていたアナンタは、ふとウルガに視線を向けると、顔に浮かべていた笑みを一層深くする。

 シュリーとアドラーを見るウルガの口元――そこには、微かではあるが、確かに微笑みが浮いていたからだ。



(六)

 峠の別れであった。

 空が広い。ウルガの両眼には、どこまでも広い天の蒼が見えている。

 「やはり、エフィソスへゆくのね……」

 アナンタがそっと呟いた。ウルガは小さくうなずく。

 ――国境近く、結界山脈(シーマーバンダ)山塊の西山陵――

 眼下に広がるバルゴ平原から吹き寄せる風が、山の中腹に立つウルガたち二人の衣を絶え間なくなぶっている。

 「行かねばなりません。わかった気がするのです。今、自分の為すべきことが」

 そう、自分は会わなければならない。ライウスに――

 それがどのような結果をもたらすのかはわからない。ライウスにどのような言葉をかけるべきかもわからない。

 正しい答えなど無いのであろう。しかし、それでも会おうと思う。きっと、それが前へ進むということなのだ。

 「シエラたちのことも、私のできる限りのことをしてみます」

 静かな声音には、硬い決意の響きが乗せられていた。

 「ありがとう、ウルガ……」

 アナンタは天をゆく雲を追うように顔を上げた。こぼれかけた涙を落とすまい――そのようにも見える。

 見上げる空を、風に乗り片雲が流れてゆく。

 「人は人として、誰もが自分の幸せを願う権利があるわ」

 「はい」

 広々とした天地に視線を放つ二人の口元には、穏やかな微笑が湛えられていた。

 「それでは……」

 風の中で、ゆっくりとウルガは峠の道を下り始める。

 「ウルガ、忘れないで。ここにはあなたを待っている人が、あなたを必要としている人がいるわ。それだけは忘れないで……」

 遠ざかってゆくウルガの背に向かい、アナンタが呼びかけた。

 「戻ります。必ず戻ってきます。……ありがとう……」

 立ち止まりそれだけを短く告げると、ウルガは深々と頭を下げて踵を返す。

 ゆっくりと開いてゆく二人の距離。その間を、言葉にできぬ想いを運ぶように風が吹き抜けてゆく。

 その姿が地平の彼方へと消えるまで、アナンタはウルガの背中を見送り続けていた。



(七)

 風が吹いている。

 この風はどこから吹いてきて、そしてどこへ吹いてゆこうとしているのか――

 それは誰にもわからない。

 風は大地を吹き抜け、空を疾り、天の彼方へと消え去ってゆく。

 全ては動いてゆくのだ。

 風も、天地も、人の心も。この世に留まり続けるものなど存在しない。

 自由だ。自由であっていいのだ。それが、この天地の理のひとつなのだ。

 人はどのように生きてもいい。

 それは同時に、否定されるべき生き方など存在しないということだ。

 自分の幸せだけを求めてもいい。他人の幸せを願い続けてもいい。人はどのような生き方も選べる権利がある。

 生き方が見つからないまま、迷い立ち止まってもいい。それもまた、生き方のひとつなのだから。

 進む先に、どのような未来が待っているのかはわからない。しかし、それからいたずらに逃げる必要は無いのだ。

 その想いが、今はウルガの心の中央に根を生やしている。

 ウルガは空を見上げた。

 遥かな高い蒼空。導くように、悠々と雲が流れてゆく。

 風は、どこまでも自由に世界を吹き抜けていった。





 本編の間にあった番外編のようなものです。おまけ程度ですので、時間がある時にでもお読みください。





 ウルガはふと顔を上げた。

 場所は、『ヤマ』と帝都を結ぶ街道である。その真ん中で、道を塞ぐように仁王立ちになる人影に気づいたのだ。

 「君は……」

 「やっと見つけた。あんたやっぱり大馬鹿でしょ。怪我、まだ完治してないくせに」

 ぶすっとした表情のイライサがそこにいた。



 青空を白い雲が流れてゆく。

 並んで歩く二人の横を、堆く綿を積んだ馬車が通り過ぎていく。

 農夫は不思議そうな顔をしていた。神官(イダム)の僧衣のマホラガ族と、ぼろぼろのマントを羽織った男の二人連れでは無理もない。

 「……君は俺が怖くないのか?」

 「は? なにそれ? あんたが半分虫っぽいから? 私は半分蛇なんだけど!」

 なぜか不機嫌そうなイライサ。対するウルガは、どこか呆気に取られた顔をしている。

 「その発想はなかったな……」

 「なによ、文句ある?」

 「いや……」

 「「…………」」

 微妙な沈黙が続く。

 「そ、そうよ! 名前! あんたの名前聞かせなさいよ! 名前も名乗らないなんて失礼な奴ね!!」

 理不尽な言い方である。しかしウルガは律儀に答えた。

 「それはすまない。……ウルガ。そう、俺の名は、ウルガだ」

 出発前に、族長に教えられた大切な名前だ。

 「ウルガ……、ウルガね。わ、私の名前はイライサよ! 覚えときなさい! 絶対! これ命令!!」 またしても理不尽な話であった。

 「イライサ……。良い名前だね」

 「…………!!」

 「……どうかしたのか? イライサ」

 「ば、ば、ばっきゃろう!! なに真顔で言ってやがんだおまえわぁああ!!」

 「……?」

 イライサの絶叫がこだまする空を、白い雲がはるばると流れていった。



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