第十七話 貧民街(スラム)の母
(一)
紅宮情報局特殊戦闘員であるヤクシャ族のウルガは、みすぼらしい外套を羽織り、城壁の外側――貧民街へ出かけた。
頭にはフードを深く被る。自身の顔を隠すためだ。
ウルガの身体は、左半身だけを見れば人間と変わらない。耳にかかる黒髪、浅黒い肌、鋭い眼差しを持つ顔は、そこらの男などおよばないほど整っている。
だが右半身は、紅い複眼の輝く、蟻を彷彿とさせる巨大な蟲の姿なのだ。
顔を見ればすぐに素性が割れてしまうだろう。そうなれば、余計なトラブルを起こしかねない。
ガイラース国の帝都ブラフマーは、二重の城壁に囲まれている。
貧民街と都市を区切る「外壁」と、宮殿や官庁舎が集まった中央区を守るための「内壁」だ。外壁は高さ重視で、内壁は厚さ重視の造りである。同じ城壁といっても、何を防ぎたいのか目的が違うという訳だ。
外壁の内と外は別世界である。
貧民街の空は、常に薄く茶色がかって見える。道が未舗装で土が剥き出しのため、晴天が続けば砂が舞い上がるからだ。
逆にひとたび雨が降れば、一面が泥沼状態となる。どちらがマシか、など意味の無い質問だろう。
貧民街は不思議な空間だ――
と、ウルガは思う。
城壁内は石造りの美しい家ばかりだが、貧民街は粗末な木造家屋や、古いレンガを使った建物の集合体だ。
迷路のように入り組んだ街並みが作り出す狭苦しい街路には、おびただしい数の人々がひしめきあっている。そこには、人間ばかりではない。神民の姿も数多く存在していた。
被支配階級である人間にも身分はある。一定額以上の納税などを行い、金銭で平民の地位を手にした者もいれば、戦争難民や奴隷売買が原因で隷民となる者もいる。
同様に、神民も必ずしも全てが支配階級ばかりではない。
血統至上主義であり、ジャーティー(生まれ)が重視される神民社会では、『黒龍族』のように血族として生まれながら隷民階級とされた者たちがいた。さらに、孤児や棄児――肉親による庇護が望めない者も同じく隷民とされたのである。
神民といえど、隷民階級の者が帝都で暮らすのは難しい。様々な理由で帰る場所を持たない者、あるいは知らない者たちが流れつくのも、また貧民街であった。
それら多種多様な人々を呑み込み、数万人規模にまで膨れあがったのがこの貧民街だ。
人が集まる場所には物も集まる。貧民街の通りには、鍋や笊などの日用品から農耕器具、肉や酒などあらゆる品を扱う店が軒を連ねる。他にも剣や山刀を売る店、法具やアクセサリーを売る店――ここは帝都の商業区よりも品数が豊富なのでは、と思えてしまう。
そして、貧民街は混沌とした生命力に満ち溢れていた。
狭い路地には人がごった返し、他人と身体と身体が触れずに十歩も歩けない。そういう人々の、汗や体臭が直接鼻に届いてくる。
街の空気に溶けているのは人の匂いばかりではない。犬や牛、豚、山羊、鶏などの動物の匂い。果物や花々、野菜に肉の匂い。強い香辛料の香りが大気に満ち、あらゆる生き物が作り出す喧騒が周囲に溢れていた。
肋の浮いた牛が街角のいたる所に寝そべり、歳経た山羊が我が物顔で道をゆく。
小さな路地奥のあちこちに設置された祭壇には、人頭獣身、獣頭人身様々な神々の石像が置かれ、血のように赤い顔料と、原色の花びらが無数に振り撒かれている。
そんな神々の隣では、昼間から質の悪い濁酒を浴びるように飲んだのであろう、労働者風の身なりをした人間と神民の男たちが揃って路上で高いびきをかき、その前を裸足の人間と神民の子供たちが駆けてゆく。
貧民街には、帝都にあるような荘厳華麗な宮殿も、可憐な花々が咲き乱れる美しい庭園も、ジャーティー(生まれ)による身分の壁も無い。
生身の、汗と血を持った人々が、あらゆる生き物たちと同じ地上で生活をしているのである。
純粋でありながらいかがわしく、素朴に見えてしたたかであり、美しさと汚ならしさが猥雑に混じり合う、人の生きている世界――ウルガはそんな貧民街を歩くのが好きだった。
小さな路地をいくつも曲がり、ウルガは街の奥へと潜り込んでゆく。やがてすえた臭いのする空気の中に、濃厚な化粧や香水の匂いが漂ってきた。
周囲は古いレンガ造りの建物が立ち並ぶ、薄暗い通りになっている。日陰となった屋根の下では、男たちがたむろし、カードを使った博奕に興じているようだ。
神民の男たちは兵士くずれであろうか。羊のようなねじくれた角を両耳の上から生やしている男、水牛の頭部を持つ男。どちらも顔や腕に無数の傷痕があり、いかにも屈強そうだ。人間の男たちも、神民ほどではないが、がっしりとした大きな体躯である。
合計五人。全員が腰に山刀を差している。いずれも刃傷沙汰に素人ではないはずだ。常人とは無縁の暴力的な波動が、男たちの身体から放射されていた。
顔を仰向ければ、男たちの仕事がわかる。彼らは用心棒なのだ。建物は二階建てとなっており、二階の窓からは、性を売り物にしている男女が手を振って妖艷な笑みを向けてくる。
彼女たちにちらりと視線を送り、軽く片手を上げながら、ウルガは歩みを進めてゆく。確実に目的があり、そこを目指すための足取りである。迷路のような路地を進む姿には迷いがない。
いくつかの脇道に入り、いつの間にか周辺に人の気配が無くなりかけた時――ウルガは高い声を聞いていた。それは、助けを求める女性の悲鳴であった。
(二)
ここは貧民街の中でも、特に治安が悪いとされている地区である。
赤い土と小石が剥き出しの道は、あちこちが排泄物や酔っぱらいの嘔吐物で汚れており、帝都の貴族たちが見たら卒倒してしまうかもしれない。
路地裏にある、草葺き屋根の安っぽい露店からはごろつきたちの怒鳴り声が聞こえる。暴力沙汰など日常茶飯事だ。
それだけではない。麻薬の取り引きや性犯罪、奴隷売買を目的とした女性や子供の誘拐、果ては殺人――ここは、およそ考えつくような犯罪の巣窟と言っていい。
この区域の治安の悪さは、単に『貧民街だから』というものではない。貧民街にも、取り締まりのために配置された兵士は存在している。
問題は、その兵士たちの中で、先に挙げた犯罪行為に荷担する者がいるということなのだ。
貧民街の任務は危険な仕事である。命の危機に晒される反面、給料は決して高くない。むしろ赴任させられるのは、階級が低く給金も安い兵士ばかりだ。
言ってしまえば、兵士の立場を利用して、犯罪の利益を吸いあげた方が余程うまみがある。中にはまるで当然の権利のように、貧民街の女性たちに手をかける兵士もいるくらいだ。ウルガが遭遇したのは、まさにそのような場面であった。
悲鳴が聞こえてきたのは、高い建物に囲まれた人気のない路地裏の方向である。次の瞬間、ウルガの二ローナ(二メートル)を越える長身が思いがけない軽やかさで動き出した。その疾りは風の如く、肉体の重量を全く感じさせない。
路地の入り口に立った時、ウルガの眼は四つの人影を捉えていた。細い路地は袋小路となっており、最奥部は貧民街の闇が吹き寄せたように薄暗い。だが、人影の立つ場所は入り口に近いため、通りの光が僅かに差し込み、どのような人物か見分けることができる。
女がひとり。革鎧を身につけた白宮の兵士が三人だ。
兵士のひとりは人間の姿形をしているが、身体の表面には蛇のような鱗がある。もうひとりは鼻が犬のように尖り、先端部も黒い。犬と違うのは、体毛が無く肌が人のものであることだ。最後のひとりは、人の胴体の上に、馬の首が生えている。
女は細面の美しい顔立ちであった。黄褐色の髪が背中まで届き、頭にはオレンジ色のスカーフを巻いている。女性らしい豊かな肢体を若草色のブラウスと紫のサリー(布を腰に巻きつけて端を肩にかける衣装)で包み、綺麗なラインを描きだしていた。
人間の女性と違う点は、両腕に髪と同じ黄褐色の体毛が生えており、その体毛と彼女の頬には、黒い横縞模様が入っていることである。
「放してっ!!」
女が叫び声をあげた。彼女の両腕は、ちょうど「万歳」をした状態で、背後から馬首の男に捻りあげられている。
犬男と蛇肌の男は、にやにやと下卑た嗤いを浮かべ、「やりたいんだろ」「貧民街の女は股がゆるい」などと口々に卑猥な言葉を吐き出していた。
女の顔は苦痛に歪み、長い髪の数本が、歯の覗いた唇の間に挟まれている。女性を痛めつけて悦ぶ連中が見たら、舌舐めずりをするような光景だろう。
だが、あいにくとウルガにそのような趣味はなかった。ウルガは兵士たちに向かい、悠然と足を踏み出す。
「そのくらいにしておけよ、ゲスども……」
低く、重い声が薄暗い路地に響き渡る。それほど声量がないにも係わらず、聞く者の耳にはっきりと届く声であった。
女の腕を捻りあげていた馬首がウルガに顔を向けた。眼を威圧的に細めた、愛敬のかけらもないご面相である。
「なんだ、てめえ――」
「邪魔する気か、ああ?」
蛇肌の眼光がはっきりとわかるほど変化した。犬男のこめかみの辺りはぴくぴくと脈打っている。全員が常人よりも、かなり感情の沸点が低いらしい。
ウルガは兵士たちの言葉に応えることなく、ゆっくりと前に進み、暗がりから僅かに光の差す場所へと歩み出てきた。
その姿を見た瞬間、兵士たちの顔に緊張が走る。
ウルガは色褪せた外套を羽織り、頭には深くフードを被っている。一見しただけでは、そこいらの浮浪者と変わらない。身長は二ローナを越える長身であるが、上背なら馬首の方が勝っている。
しかし、兵士たちの本能はウルガの脅威を感じ取っていた。
ウルガは無造作に両足を開き、その場に立っているだけだ。だが、それだけで言い様のない迫力がある。熱気を帯びた風圧のようなものが、兵士たちに押し寄せていた。街のチンピラ程度ならば、闘争心など呆気なく萎え果ててしまうだろう。
「お願い、助けて!!」
女の大きな瞳がすがるようにウルガに向けられていた。蒼みがかった黒い虹彩の中に、人間にはない神秘的な輝きがある。
「この女の知り合いか!?」
女の腕を捻りあげている馬首が、ウルガと自分の間に女の身体を挟んだ。いざという時の盾にするつもりなのだろう。
「言っておくぜ」
ぼそり、とウルガが言った。
「五体満足でいたければ、その女を放して消え失せろ」
「――野郎!!」
犬男が怒鳴り声をあげ、腰に差していたナイフを抜いた。建物の隙間から入り込む光を受けて、鋭い刃がきらめく。
「てめえ、なめた口をききやがって! 自分こそ生きて帰れると思ってんのか!!」
蛇肌の手にも、同じくナイフが握られている。二人の格好はそれなりに様になっていた。仮にも兵士ということだろうか。手にしたナイフで人の肉を抉るのも、一度や二度ではないらしい。
「いきがるのはいいが、そんな奴がナイフを口の中に突っ込まれた途端、小便を漏らして泣きながら土下座をするのを、俺は何度も見たんだぜ」
馬首が口の端を吊りあげて、勝ち誇ったような嗤いを浮かべる。
「どれだけ腕に自信があるのか知らねえがな、三対一、しかも素手と刃物じゃあ初めから勝負がついてるんだよ、馬鹿が!!」
蛇肌がそう言うと、兵士たちはげらげらと笑い声をあげた。人数と武器で勝るということが、先ほど自分たちが感じたウルガへの脅威を鈍らせているようだ。
「ああ、初めからわかっているな……」
低い声で呟くと、ウルガは小さくうなずいた。
「刃物を持とうが関係ない。雑魚がいくら群れても無意味だ」
「――! てめえっ……」
ウルガの言葉の意味を犬男が理解するよりも速く、長身に似合わぬ軽やかな足取りで、すっとウルガが前に出た。それを見て、びくっ、と気圧されるように兵士たちが退がる。
ウルガは止まらなかった。無造作とも見える歩き方で、たちまちに兵士たちとの距離を詰めてしまう。そしてウルガの動きに誘われるように、犬男がウルガの顔を目がけてナイフを突き出してきた。
腰が入っている。このナイフで相手が死ぬことになってもかまわない――そんな感情の込められた動きだ。
しかし、迫りくる刃を前にしても、ウルガは何ら動じることはなかった。足運びを緩やかにすると同時に、人間と変わらぬ左腕をゆるりと持ちあげる。
ぎいん!!
鋭い金属音があがり、同時に犬男の持つナイフがウルガの眼前で空を切っていた。
「なっ……!?」
犬男の口から驚愕の声が洩れる。ナイフの刃は、根元から消失していたのだ。
兵士たちは、その瞬間を見ていた。ウルガの左腕が振りあげられ、人差し指と中指が刃の腹を叩いたのである。軽く触れたように見えただけであったが、その一撃はナイフの刃を根元から両断するほどの威力を秘めていた。
ウルガが行ったことは聖仙術ではない。最少の動きの中でほんの一瞬、肉体に満ちる気の力を指先に集中させたのだ。気の操作に長けた神民ならば、不可能な技ではない。しかし、修得には天性のセンスと凄まじい修練が必要となる。
ウルガと犬男の頭上で、折れた刃先が光を反射しながら回っていた。数瞬の後、音を立てて刃先が路地の上に落下する。
「ちくしょう!」そう犬男は言おうとした。だが、それは“ち”の部分で不意に途切れてしまう。犬男の脳天に、真上からウルガが左掌を打ち下ろしたからだ。
馬首と蛇肌の目には、ウルガの左掌にほとんど力を込めたようには見えなかった。しかし、犬男にとっては、まるで人の頭部ほどもある岩を思い切り叩きつけられたほどの衝撃があったらしい。
「ぢぇっ!!」
と、奇妙な濁音を吐いたかと思うと、膝からその場に崩れ落ち、仰向けに倒れた。
犬男は耳と鼻から血を流し、両目を見開いたまま気絶していたのだ。口からは、ウルガの掌打で砕けた奥歯が、長い舌と共に吐き出されている。
僅か数秒間の出来事であった。鮮やかな手並みである。兵士たちはようやく、目の前の男が自分たちとは桁外れの強さを有していることを理解していた。
「……」
ウルガが無言で、刃物のような視線を蛇肌と馬首に向ける。それだけで、周囲の空気がぐうっと引き締まるようだ。
「ひいっ!」
蛇肌がナイフを握ったまま悲鳴をあげた。はっきりとした怯えの色が、その顔に浮いているのが薄暗い路地の中でも見て取れる。
「くそっ!」
馬首は血走った眼でウルガを睨みつけると、腕に力を込めて女の身体を自分に密着させる。その姿は、完全に腰が引けていた。
「そ、それ以上近寄るんじゃねえ! この女を殺すぞ!!」
口から唾液を飛ばしながら馬首が叫ぶ。盾となる女を決して離さないつもりか、巨大な掌で女の両腕を掴み、左腕で胴体を抱き寄せている。女の胸が服の上から馬首の手に握られて形を変えていた。
「俺は初めに言ったからな。『彼女を放せ』と……」
ウルガが兵士たちに向かって言った。そして、彼はなぜか小さくため息をつく。
「一応、白宮の兵士ですからね。できれば殺さない方が良いと思いますよ……」
馬首と蛇肌はウルガの言った言葉の意味が理解できず、呆気に取られた顔をしている。
その時――
「グルルルル……」
空の彼方で雷が鳴るような音がした。馬首と蛇肌は、びくんと身をすくませる。今、二人の耳に届いてきたのは、紛れもなく肉食獣の唸り声であった。
しゅうしゅうという、獣の顎から洩れる息の音が響き、目に見えぬ気の圧力が、じわじわと押し寄せてくる。
蛇肌がかちかちと歯を鳴らし、馬首が喉の奥で呻く。恐ろしいほどの怒りの波動が二人の身体を貫いていた。まるで高熱の空気に全身の細胞が焼かれたようである。
額のみならず身体中に冷たい汗を流しながら、蛇肌は背後へ、馬首は自分の腕の中へ視線を向ける。二人はすでに気づいていた。凄まじい殺気がどこから放たれているのかを――
「いつまで汚ねえ手で触れてやがるんだよ……」
地の底から響くような声が女の口から洩れた。馬首の腕の中で、女がゆっくりと顔をあげる。ふたつの蒼く燃える眼が、憤怒の形相で馬首を睨んでいた。
「ひ……っ!!」
馬首が小さく悲鳴をあげるのと同時に、女は口吻を捲りあげ、鋭く尖った牙を覗かせる。
「ゴウアアアアアッ!!」
かっ、と口を開き、大気を震わせる咆哮が女の口から放たれた。大きく見開いた双眸は蒼みがかった黒色から金緑色へと変わり、長く鋭い牙が紅い口の中で白刃の如く光る。それはまさに、怒り狂う猛虎の貌であった。
「うわあああっ!」
「ひいいぃぃっ!」
みっともない叫び声をあげて、馬首と蛇肌は女を放すと一目散に走り出した。完全にパニックを起こし、袋小路となっているはずの方向へと駆けてゆく。今、二人の頭には、女から遠ざかることだけしかないのだ。
「今さら逃げんじゃねえ!!」
女が両手を地に突き、四つん這いに近い姿勢になる。足は膝ではなく爪先で踏んばり、尻が高く持ちあがっていた。サリーの布地からあらわになった太腿には筋肉の束が浮いている。真似事ではない、一頭の獣がそこにいた。
「フシャアアアッ!!」
喉から鋭く呼気がほとばしり、女の身体が跳躍した。肉体の重量を感じさせない、しなやかな野生獣の動きである。馬首と蛇肌の頭上を助走なしで軽々と飛び越え、ずざっ、と音を立てて女が二人の前に降り立つ。
二人からしてみれば、一瞬で女が自分たちの眼前に現れたのも同然だろう。直後、暴風のような殺気が女の全身から放射され、その貌には獰猛な笑みが作られる。
馬首の口から壊れた笛のような悲鳴があがり、蛇肌の顔が恐怖で引きつる。そしてその顔に、真横から唸りをあげてぶつかってくるものがあった。
女の右足である。サンダルを脱ぎ捨て、虎の爪と剛毛が生えた爪先が、一撃で蛇肌の顎を粉砕していた。蛇肌は身体を痙攣させて、声も発せず顔から地面に崩れ落ちる。顔と地面の隙間からは、こぼりと音を立てて、血と折れた歯がこぼれ出ていた。
馬首の眼には女の動きを捉えることができなかった。ほんの一瞬、蛇肌の頭部がぶれたように見えただけである。次の瞬間、女の左脚が竜巻のように馬首の胴を薙いでいた。“く”の字に腹を折った馬首の下顎に、振りあげられた女の右拳が深々とめり込む。
呻き声さえあげずに馬首は吹き飛んだ。そのままの勢いで後方のレンガの壁に後頭部を衝突させたが、その音を馬首本人が聞くことはなかっただろう。
蛇肌と馬首の二人には、何が自分の身に起きたのか全くわからなかったはずだ。王国軍宿営地内にある兵員宿舎のベッドで目を醒ました時、彼らは自分たちがこれから先、二度と自前の歯で食事ができないことに気づくのである。
「けっ! 女だと思って舐めてんじゃねーぞ、ゴミ屑どもが!!」
とんでもない口調とは裏腹に、女は優雅な所作で乱れた髪を整え、スカーフを巻き直す。
「シュリー殿が見たら腰を抜かしますよ、アドラー教官……」
無表情ながらも、どこか呆れたような口調でウルガが言った。
「あら、心配いらないわよウルガ。あの人はむしろ褒めてくれるわ。『貧民街の平和をよくぞ守ってくれた! 愛してるよハニー!』ってね!」
女――アドラーはウルガに歩み寄り、下から顔を近づけて言った。彼女の猫のような眼が、艶やかに細められる。
「そんなことより『教官』は禁止! あなたを訓練したのは何年も前よウルガ。今は貧民街の孤児院の心優しいスタッフ、アドラー先生ですからね!」
そう言うと、アドラーはウルガの鼻先をぴっ、と指で弾き、上品に微笑んだ。恐るべき変わり身の速さである。ウルガは彼としては非常に珍しく、面食らったように立ち尽くすしかなかった。
(三)
虎のキンナラ族、アドラーはウルガの指導教官であり、恩人でもある。彼女は笑って否定するだろうが、ウルガはアドラーに深く感謝していた。
アドラーは王国軍強襲部隊の出身だ。それを、先代の紅宮情報局特殊戦闘隊隊長、マホラガ族のアナンタが白宮より引き抜いたのである。理由は、強襲部隊と特戦隊双方の任務に共通している点が多いことによる。
同じ兵士といっても、王国軍と強襲部隊では訓練の内容は全く違う。王国軍が重きを置くのは、集団として戦うための訓練だ。規則正しく行進し、素早く陣形を組み、状況に応じて陣形を変え、全員が上官の命令に従い一斉に同じ動きをする――それこそが王国軍に必要なものなのだ。
強襲部隊の任務に求められるのは、個々の高い戦闘能力である。敵の施設を隠密裏に制圧したり、あるいは少数での敵部隊の足止めなど、隊員一人一人が卓越した力を有する少数精鋭でなければ、絶対に達成不可能なものばかりだ。
一般的な神民をプロフェッショナルに変えるための訓練ノウハウの蓄積――それをアナンタはアドラーに求めたのである。
例えば、素手での格闘技は特殊な訓練の代表といえる。王国軍の一般兵士が、素手での格闘技訓練を行うことはほとんどない。修得に時間がかかるうえに、戦場で使用する機会は少ないからだ。
逆に強襲部隊や特殊戦闘隊では、任務によって武器を携帯しない場合もあるため、素手で戦う技術は欠かせない。
訓練は徹底的に行う。まず、拳の硬さからして違う。普通の兵士は、朝日の昇る前から何千発も木の杭目掛けて拳を叩き込んだりはしないはずだ。部隊の中には女性兵士の姿もある。当然、女性だからと甘く見てはいけない。訓練と経験によって、全身凶器となった彼女たちを侮ればどうなるか。それは、先ほどアドラーに叩きのめされた愚かな男たちを見ればわかるだろう。
ウルガは歩兵学校時代に、アドラーに直接スカウトされ特殊戦闘隊へと入隊した。族長命令により、ヤクシャ族の都市『ヤマ』から帝都にたったひとりで出てきて間もない頃だ。
生まれつきの風貌のせいで、親しい友人もいなかった。自分は一人前の軍人になれるのか、居場所を見つけることができるのかと、孤独に悩んでいた時期であった。
“あなたには見込みがある”
その一言が、どれだけ自分にとって救いとなったことか――
「お帰り! アドラー先生!!」
弾むような子供たちの声で、ウルガは我に返った。迂闊にも、ほんの一瞬だが昔の記憶に思考をゆだねてしまっていたらしい。
ウルガとアドラーの二人は、街の外れといった雰囲気の一画にたどり着いていた。
建物は密集しておらず、周囲には樹木や広場も存在している。二人の前にあるのは、白く塗られたレンガを積み上げた二階建ての建物だ。ここが、貧民街の孤児院である。
入り口の前では一頭の老犬が寝そべり、周囲にいる人間と神民の子供たちが、無邪気な笑顔で二人を出迎えていた。
子供たちの身につけるシャツやズボンは、全てアドラーと院長の手作りだ。何度も洗濯を繰り返し色褪せ、所々擦り切れている部分もある。だが、そこには何とも言い様のない暖かみがあった。院長とアドラーの、子供たちへの想いが伝わってくるようだ。
アドラーは腰の周りに大勢の子供をまとわりつかせながら、孤児院の中へと入ってゆく。
後に続こうとしたウルガは、ふと足元に視線を移した。そこにいたのは、背に茶色の翼を生やしたガルダ族の少女であった。ウルガもよく知る少女だ。彼女も他の子供たちと同様に、ウルガに向けて満面の笑みを浮かべる。
「ウルガおじちゃん、こんにちは!」
無垢な笑顔、幼い声。同時に、脳裏へ血錆のついた針を突き立てるように甦る光景。赤子の泣き声、黒髪の女性が流す涙、手にした刃の光、届かぬ己の手――
「……ああ……」
ウルガは低く呟き、少女の瞳から逃れるようにフードを深く被り直す。ガルダ族の少女は、そんなウルガの姿を見て、不思議そうに首をかしげていた。
(四)
孤児院は一階が食堂と家畜小舎、二階部分が住居となっている。
ここが子供たちの大切な食事を作る台所だ。
食堂には子供たちとスタッフが一緒に食事をするための大きなテーブルが置かれ、壁の棚には様々な書物が並べられていた。
子供向けの物語だけではない。歴史書に始まり地理と言語、数学や音楽に関する書物もある。孤児院では、子供たちへの教育もしっかりと行っているのだ。
今は食事を済ませ、勉強の時間も終わったのだろう。子供たちは思い思いの場所へと遊びに出かけたようだ。二階からも、何事かを楽しそうに話しては、鈴のように笑う声が聞こえてくる。
食堂の突き当たりは一段低い造りになっており、床は地面がむき出しの土間である。壁に接する形で竈が三つ。上には大小様々なサイズの鍋や釜がいくつもぶら下がっていた。
竈の近くの壁にも棚があり、沢山の食器が並んでいる。他にも塩、胡椒を始めとする調味料や香辛料の入った壺が置かれ、一番高い場所にある棚には“つまみ食いしたらゲンコツ! アドラー”と、太く赤い字が書かれた氷砂糖入りの壺がある。
「懐かしい?」
その文字と氷砂糖の壺を見ていたウルガに、アドラーが声をかけた。彼女の眼も、遥か遠くの風景を見るように細められている。
「あなたはクールな顔に似合わず、超甘党だものねえ。チャーイ(ミルクと砂糖を入れた紅茶)にも、いつも砂糖を山盛りにしようとして、その度に院長にゲンコツ食らって……!」
当時の光景を思い出したのか、口元に手を当ててアドラーは楽しそうに笑う。
「顔は関係ありません。それに、私を殴っていたのは院長ではなくアドラー殿ですよ」
くすくすと笑いながら「そうだっけ?」と、惚けるアドラー。その笑顔を見て、ウルガもふと昔を思い出していた。
同じ年頃の子供たちの中で一際背の高かった自分。よく年下の少年少女たちにせがまれて、台所の棚の最上段に置かれた、アドラー秘蔵の氷砂糖を失敬したものだ。その姿を、期待に目を輝かせながら見ていた三人の子供――
「……シエラ、テージン、ボルドの三人は、今も孤児院に来ることはあるのですか?」
ウルガの問いに、アドラーは顔を曇らせる。彼女がためらいがちに何事かを口にしようとした時、台所の奥にある扉が開かれた。
「やあアドラー、お帰り! ウルガも久しぶりじゃないか! よく来たね、子供たちも喜ぶよ!」
そこに、ひとりの男が立っていた。さほど背は高くない。あっても一六〇ハスタ(一六〇センチ)ぎりぎりだろう。その男が土間へと足を一歩踏み入れた場所に立ち、アドラーとウルガにいかにも柔和そうな顔を向けていたのである。
「シュリー殿、お久しぶりです。……畑にいたのですか? さすが、優れた耳をお持ちだ」
シュリーが小脇に抱えた籠を見ながらウルガが言った。籠の中には、まだ土がついたままの芋や野菜が乗っている。
「ははは、耳が良いのだけが僕の取り柄だからね」
ウルガの言葉に大きな耳をぴくぴくと動かしながら、アドラーの夫、シュリーは笑顔で答えた。
シュリーは兎の特徴を持つキンナラ族だ。最も目を引くのは、やはり頭の側面から大きく上方に伸びた耳だろう。左右を合わせれば顔の倍以上の大きさがある。まるで巨大な蝶が羽を広げたようだ。
ずんぐりとした体格で、見た目の印象は兎よりもハムスターに近い。やや低めの鼻に小さな眼鏡が乗り、唇の隙間からは前歯が出ている。麻の貫頭衣を身につけ、膝下まで丈のある布を腰に巻き、頭には『トピ』という鍔のない帽子を被っていた。ちなみに、この帽子もアドラーの手製である。
「ただいまシュリー……。もう、嫌ねえ。愛する奥さんよりも、むさ苦しい男の方から先に声をかけるなんて……。ほんの少しだけど妬いちゃうわあ」
優しく穏やかな響きのはずなのに、どこかぞくりとする声色で言いながら、アドラーがシュリーをぎゅっと抱き締めた。
「は、はは……。もちろん君が一番さ、アドラー。貧民街の巡回をしてきたんだろう? いつもごくろうさま」
「ええ、聞いてよシュリー! 途中で白宮の糞ったれどもに捕まっちゃったのよ! 助けを求めるフリをして他のゴミ屑も誘き寄せようと思ったんだけど……体を触りやがったから、つい頭にきてぶっ殺しちゃった♪」
「――そ、そうなんだ……」
二人の姿は、なぜか虎が獲物の草食動物を捕らえた光景によく似ている。シュリーの身体が細かく震えているように見えるのは、きっと気のせいなのだろう。
「……アドラー殿、シュリー殿。どうぞ、今月分です」
絶妙のタイミングで、ウルガは思い出したように懐から金銀の詰まった布袋を取り出しテーブルの上に置いた。音からして、かなりの額が入っていることがわかる。
「これで、子供たちに腹一杯食べさせてあげてください」
「ウルガ……」
アドラーがシュリーを解放し、真剣な面持ちとなる。
「いつもすまないねウルガ……。本当はこんな多額の寄付、申し訳なくて受け取るべきではないと思っているんだけど……」
嬉しさと歯痒さが同居したような表情でアドラーが呟いた。彼女が袋を手に取り頭を下げようとするのを、ウルガはそっと左手をあげて制する。
「礼など不要です。給金の中から里への仕送りを差し引いた残りですから。それに、私は金の使い道を他に思いつかないので……」
「それでも礼を言わせてくれウルガ。この寄付がなかったら、子供たちがどうなるかと考えるとぞっとする。君は本当に尊い人だ」
シュリーの言葉通り、孤児院の経営は常にぎりぎりの状態だ。貧民街では今も孤児が増え続けており、院長はできる限りそれを受け入れようとしている。貧民街に、特に子供たちにとってこの孤児院は必要なものだ。だが、帝都の住人たちは壁の外側のことに無関心である。たとえ、目の前で痩せ細った子供が生ごみを漁る姿を見ても、胸をいためる者は少ないだろう。
「君といい、シエラといい、僕たちは本当に人に恵まれている。この前も彼女たちが孤児院に立ち寄ってね。『しばらく任務で帝都を離れるから』と、まとまった額の寄付をしてくれたんだ」
「……! シエラたちがここに来たのですか?」
ウルガの人間側の眼が驚いたように見開かれた。アドラーの顔は、先ほど口をつぐんだ時のように、再び沈んだ表情となる。
「そのことでね、あなたに会ったら話しておきたいことがあったの。……ウルガ、あなたも何か聞いて欲しいことがあるんじゃない? 何となくだけど、ね」
アドラーの言葉に、ウルガは、はっとしたように顔をあげる。アドラーは彼の顔を見て、ただ優しげに微笑んだだけであった。
「行きましょう、ウルガ。院長が待っているわ」
(五)
アドラーとウルガは台所の隅にある扉を押し開き奥へと進んでゆく。そこにあったのは、孤児院の裏側に位置する広い庭であった。
まるで別世界のような空間だ。見上げる空は貧民街では見られないほど蒼く、片隅に先ほどまでシュリーが作業をしていた畑が見える。庭の中央には樹々に囲まれた池があり、その樹々と青空を水面が鏡のように映していた。そして、空の彼方には白い雪を頂く岩峰がそびえている。
水の上に、明るい陽光が差していた。柔らかな微風が水面を撫でてゆく度に波紋が起こり、光が妖精たちのように踊る。
池の岸には美しい花々が咲き、生命力に満ちた青々とした草が緑の絨毯のように生えている。その草の上に木製の椅子が置かれ、白髪を三つ編みにした老婦人が腰をおろしていた。
人間ならば八〇歳前後だろうか。もとより、彼女は神民――マホラガ族である。実際には、それより遥かに長い齢を重ねているのだろう。
老婦人は黄色の長袖ブラウスを身につけ、肩に手編みのウールポンチョをかけていた。刺繍の入った正方形の布を継ぎ合わせて作られたロングスカートも、同じく彼女の手製と思われる。
痩せた小柄な体躯であった。首が折れそうなほどに細い。その首と、袖から覗く両手には、茶色い鱗が生えている。やや背が前傾しているが、それは彼女の年齢のせいではない。よく見れば、背中がこんもりとして服の生地を押しあげている。見た目から受ける印象は、歳経た亀のようだ。
深い海を思わせる、黒く静かな瞳で彼女は空を眺めている。視線の先にあるのは、遥か彼方に雪を冠り光り輝く岩峰である。ガイラース国を取り囲む結界山脈を構成する、天に突き出た巨龍の背骨――その峰々を、老婦人は静かに見つめていた。
晴天である。しかし、結界山脈上空の遥か虚空には、細い筆を幾重にも束ねて引いたような筋状の雲が出ていた。
時折雲が割れて、驚くほど清浄な蒼空が姿を見せる。その割れ目から太い陽光が降りてきて、灰色の氷河の上を疾り抜けてゆく。
なんと雄大な動きだろうか。地上に蠢く矮小なヒトとは、別の次元、別の刻を流れてゆく光景だ。
「エフィソスとの会戦は近いようね……」
老婦人が、ぼそりと呟いた。それはどこまでも重く、深い哀しみを含んだ声であった。
「はい……」
答えのは、アドラーの後方に立つウルガである。彼の瞳もまた、岩峰の彼方へと向けられている。
椅子は池に向かい設置されているため、老婦人はアドラーとウルガに背を向けて座る形となっている。しかし、彼女は二人が庭に足を踏み入れた時に、すでにその気配に気づいていたのだろう。ウルガの声に驚くことなく、歩み寄る二人に向かい老婦人はゆっくりと振り返った。
「まあ……。とても嬉しいお客様だわ」
老婦人は、皺の浮いた顔にさらに笑い皺を浮かべて微笑した。その表情からは、彼女がかつて敵味方より『玄武』の異名で恐れられた猛将であるとは想像できない。
「御無沙汰しております。アナンタ隊長」
老婦人――アナンタの正面に回ると、ウルガはフードを外し、その場に片膝をついて深々と頭を下げた。その様子を見て、アナンタは少し困ったような表情を浮かべた。しかし、ウルガを見つめる眼には、まるで我が子を見るような温かさがある。
「あなたは相変わらずねえ、ウルガ。私はもう特戦隊隊長ではないわ。今の私は院長……いいえ、ただのアナンタよ」
そう言うと、アナンタはウルガにそっと手を差し出してきた。ウルガがその手を取ると、アナンタは彼の手を両手で包み、軽く引いて立ち上がらせる。
「お帰りなさいウルガ……。ここはあなたの家よ。私はいつでも歓迎するわ」
人のものとは程遠い、巨大な甲虫を思わせる自分の右手――その手を愛おしそうに撫でるアナンタの言葉に、ウルガは思わず声を詰まらせていた。




