第十六話 魔神族
(一)
「蠱毒か……」
テージンが、胃から重い鉛の塊を吐くように、重々しく呟いた。
「蠱毒か、それに近い呪法がここで行われていたようだな……」
シエラたち三人は、一度廃墟となった館から外に出ていた。凄まじい腐臭のせいもあるが、それ以上に、夥しい数の生き物の死骸を眼前にするという異常な状況に、精神が耐えられなくなったのだ。
外に出てきたシエラの顔は青ざめ、しばらくの間、胸に手を当てて吐き気をこらえていた。ボルドは「ちょっと――」と短く言い、繁みへと向かい走ってゆく。恐らくは吐いているのであろうが、シエラもテージンさえも、今はそれを咎めるつもりはない。
ボルドが血の気を失った顔で姿を消してから、シエラは顔を上げてテージンに問いかける。
「テージン、今言っていた『コドク』とは、一体何なの……?」
テージンの額には細かい汗が無数に浮かぶ。いつもの冷笑を作ろうとして、それが上手くいかないのか、口元は引き吊ったように細かく震えていた。
「ガイラース国よりも遥かに東方――リアエント国に存在する呪法の中で、蠱毒と呼ばれるものがある……」
テージンは、自身の頭の中にある知識と言葉を選び取るように、ゆっくりと話し始めた。
蠱毒とは、生物の持つ禍々しい力を利用して、相手を呪う呪法である。
一例を挙げれば、蜘蛛なら蜘蛛、蛇なら蛇といった同種の生き物を大量に集め、それらをひとつの壺に入れて厳重に密封し、そのまま放置する。やがて飢えた蜘蛛や蛇は、互いに仲間の肉を啖らい合うことになる。そうして生き残った最後の一匹を、呪法の道具として使用するのだ。
使用方法も多岐に渡る。毒性を持つ生物ならば、最後の一匹には濃縮された毒が宿る。僅かな量で、大量の人命を奪うことができる強力な毒だ。また、生き残った生物は、言わば啖らわれた仲間の飢えと怨念の集合体である。濁気の塊であるその生物を使えば、生命体の魂を狂わせることも可能だろう。
「うぐっ……」
あまりにもおぞましい呪法である。シエラは唇を固く結び、低い呻き声を洩らした。
「だが、ここの館に残された死骸の数と種類……、これはリアエント国の呪法だけじゃねえ。西のグロスマム国――魔神族どもの方法も混じっているみたいだな」
「魔神族ですって!?」
シエラが驚きの声をあげる。ガイラースと対立するドワーフの国エフィソスに、グロスマム国が介入していたことは事実である。だが、エフィソス軍の疲弊と共に、グロスマムは二国の戦争を傍観する姿勢に切り替えたはずだった。
「犬を首まで地に埋めて、狂うほど飢えさせてから首を切断する。その首に染み付いた怨念を使う呪法がグロスマム国に存在するんだよ……。あの死骸は、全て首と胴が切り落とされていただろう」
「密偵の報告にあった、『大量の物資』というのは、武器や防具でなく、呪法に使う生き物を運んでいたのね……」
テージンは無言で頷き、流れ落ちる汗を拭う。それはまるで氷のように冷たい。
「それに、おまえも見ただろう? 死骸の山の中にいた、あの馬鹿でかい蛭をよ……」
「――昨夜の男!!」
「無関係とは思えねえな……」
テージンがそこまで言った時、シエラの全身に緊張が疾った。風の中に含まれた血の臭いを、その優れた嗅覚が捕らえたのだ。シエラは弾かれたように顔を上げる。
「テージン! 血の臭いよ、気をつけて!!」
シエラが鋭い声を発する。瞬時にして、彼女は全身の神経がささくれ立ってゆくのを感じていた。
「――! どこからだ!?」
テージンが訊いた。元々色白であるその顔からは、さらに血の気が引いたように見える。
前方にあるピッパラ樹の梢がざわめいている。何者かが、無造作に繁みを掻き分けながら近づいてきているのだ。ざくざくと、計娑羅草や香附子の雑草を踏み分ける大きな音が、すぐ近くにまで聞こえている。
シエラとテージンが、全身の筋肉を緊張させた、その時――
「シエラ様! テージン様!」
繁みから飛び出してきたのはボルドであった。しかし、シエラたちに安堵の表情を浮かべる余裕はない。ボルドの胸元は、一面血でどす黒く染められていたからだ。
「ボルド! 何があったの!?」
シエラが高い声をあげて、ボルドに向かい走り寄る。ボルドは胸元だけでなく、下顎から頬にかけてまでも、べっとりと血が付着していた。それを見たシエラの顔から、みるみる血の気が引いてゆく。だが、
「大変です! エナク様が!!」
ボルドが荒い息を吐きながら言ったのは、思いがけない言葉であった。ボルドの顔に付いた大量の血に気を取られていたシエラは、仰向いた顔を下に戻し、ボルドの胸元を見て息を呑む。
「エナク――!!」
数瞬遅れてシエラに追いついたテージンが、喉の奥に詰まったような声を洩らした。
ボルドの胸元を染める大量の血液は、彼本人のものではない。それは、ボルドの腕に抱えられたエナクの血であったのだ。
「た、助けてくれ……」
掠れた声が、エナクの口から弱々しい息と共に発せられる。青猿のエナクの顔は、夕陽に照らされてもなお、はっきりとわかるほど紙のように白くなっていた。
大量の血が体内から流出しているのであろう。エナクの左半身は、首から足下までが真っ赤に染まっている。その時、初めてシエラは、エナクの左腕が肩から先を消失していることに気がついた。
「どうしたの!? 何があったの、エナク!!」
シエラが問いかけるが、エナクは答えない。歯を食いしばり、顔を歪めて苦痛に耐えているばかりだ。エナクの身体は小刻みに震え、右手が何かを探すように宙をさまよっている。
「ば、ば、化け物、が……」
細く、途切れ途切れの声が、エナクの口から洩れ出た。
「化け物、だと!? 何のことだ! 答えろエナク!!」
テージンがエナクの耳元で叫ぶ。エナクの意識を失わせないためだ。ここで意識を失えば、恐らくエナクは二度と目を覚ますことは無いだろう。
シエラも同じくエナクの名を呼び続ける。すると、二人の声に反応したかのように、エナクが、かっ、と眼を見開き、右手でシエラの肩を掴んだ。
「に、逃げろ……!!」
その掌には、思いがけないほどの強い力が込められている。
「皆、やられた……! 殺されちまった……!!」
「皆? おまえ以外は全員死んだというのか!?」
テージンが再び訊いたが、その声は半分もエナクの耳に届いているだろうか。エナクは、うわ言のように言葉を続ける。
「あっという間だった……。先に、ダナクとカマナが……。最初は、人間と変わらねえ姿で、で、でも、そいつが、そいつが、黒い化け物に……!!」
言葉の後半、エナクは上半身を起こし、悲痛な声で叫んでいた。血走った眼を見開き、顔に多量の汗を浮かべた鬼気迫る表情だ。それが、エナク自身の言葉が真実であるということを告げている。
「エナク、あなたたちは、一体何を見たの……?」
シエラの呻きにも似た声に答える形で、エナクは意識を繋ぎ留めるように語り始めた。
「奴は、本物の怪物だ……」
(二)
濃い血臭がエナクの鼻に届いてきたのは、ブナの森の底に、ちらほらと熊笹が繁る場所に踏み入った時だった。
それは、不意に血の塊を鼻の穴に押し込まれたような感覚だ。大気の層のどこかに、血臭が濃くわだかまっている。
突如出会った血臭の溶けた層を追い、エナクとアジャセ、バオの三人は歩き出した。
既に森の奥深くにまで入り込んでいるが、熊笹が生えているくらいなので、この周辺は多少の陽が差し込むのであろう。しかし、太陽は西の空に没しかけ、梢の隙間から入る紅光は僅かである。それでも、三人の眼には充分な光量であるらしい。最小限の音に抑え、熊笹を掻き分けてゆく。
一本のブナの樹の前で、三人は立ち止まっていた。ブナの根元に、黒くわだかまっているものを見たからである。
微かに湯気を上げる、ひり出されたばかりの糞の山のようなもの――その塊にエナクが近づき、
「ぐむっ!?」
と、エナクは喉の奥でくぐもった声をあげた。それは、紛れもなく生き物の臓物であったのだ。
「だ、だ、だ……」
樹の上へと視線を向けていたバオの口から濁音がこぼれている。何か言いたいことがあるのだが、それが言葉にならないらしい。
「ダナク……ッ!!」
がくがくと激しく震える指で示した先――エナクの頭上から二ローナ(二メートル)近く上に、ダナクがぶら下がっていた。ダナクの持っていた大剣の刃先がダナク自身の胸を貫き、身体をブナの幹に串刺しにしていたのだ。
ダナクの腹が、大きく縦に引き裂かれている。樹の下にある臓物は、ダナクの割られた腹からこぼれ落ちたものだった。しかも、よく見れば内臓の量が、本来あるべき量に対して明らかに少ない。何者かにより、臓物が喰い荒らされていたのである。
ダナクの顔からは、左右の眼球が消えていた。血穴と化した目は大きく見開かれ、顔は恐怖に歪んでいる。死ぬ前に、よほど恐ろしいものを見たのであろう。
あの怪物と化したジェムに対して一歩も退かず戦ったこの男に、これほどの顔をさせるもの――しかも、腹の傷から見て、その相手は大剣を抜いたダナクに正面から襲いかかったのだ。
「喰われてる。何かが、ダナクを喰いやがった……」
バオが頬の肉を痙攣させながら言った。声がひきつれ、ささくれたような音になっている。
「お、おい。あれは……」
アジャセが掠れた声を洩らし、ダナクの屍体が突き刺さった樹より、さらに奥を顎先で示した。両手にはウォーハンマーを構えているが、その先端が激しく震えている。それは、バオの手中にあるハンドアックスも同様であった。
エナクとバオは恐怖にがたつく歯を食いしばり、顔を奥に向ける。そこに生えたブナの根元に、ひとりの男が腰を下ろし、背を幹に預けていた。異様に長い脚から、その男が誰なのかすぐにわかる。
「カ、カマナ……!」
エナクの言う通り、そこに腰を下ろしていたのはカマナであった。脚で判断したのには理由がある。カマナの胴体には、頭部が無かったからだ。
首の断面からは血が溢れ、筋と骨と血管が見えている。まるで力任せに引き千切られたように、その断面は歪だった。そして、ダナクの屍体と同様に、腹が裂かれ内臓が失われている。空いた腹部の空洞は血のプールと化していた。
「ど、どうする……?」
バオが誰にともなく訊いた。その場にいる全員の顔が、死人のように蒼白くなっている。
「どうすりゃいいんだよ!?」
その声は最早悲鳴に近い。声こそあげていないが、エナクとアジャセの精神状態もバオと同様だ。
全員の神経が千切れる寸前にある。完全に彼らは今何をすべきなのかわからなくなっていた。
「戻るぞ……」
低い声で、ふりしぼるようにエナクが言う。パニックに陥ろうとする頭を、歯を噛んで必死に耐えていたのだろう。他の二人は答えない。無言でお互いの顔を見合うだけであった。
「俺たち三人だけでどうにかなる相手じゃねえ。テージンの野郎の聖仙術でもなきゃあ、とても無理だ。ここは戻る。生き残るには、それしか無えぞ……」
長い沈黙があった。男たちに聴こえているのは、自身の心臓の鼓動のみである。
「バラバラに行くか……」
硬い声でアジャセが言った。バオが口の端を引き吊らせ、怯えているのか笑っているのか判断できない歪な表情を張り付けている。エナクは小さく首を振り、ショートスピアを構えた。
それしか方法は無い。獣か、人か――どんな相手かわからないが、そいつが既に自分たちを認識している可能性は高いだろう。
村の集合場所まで戻ることができれば、何とか逃げおおせるチャンスが生まれるかもしれない。
しかし、そのためには、相手に自分たちを追わせるリスクを負って、森の中を移動する必要がある。ダナクとカマナを恐らく一瞬で殺した力の持ち主だ。固まって移動すれば、全員まとめて殺される可能性が高い。だが、バラバラに逃げれば、それだけ個人が助かるチャンスが増えることになる。
エナクたちは大きく深呼吸をして、歯を噛みしめた。萎えそうになる気力を無理矢理に昂らせる。
ゆく――そう決心をした、その瞬間であった。
不意に、遥かに高い頭上の梢が、ざわっと大きく揺れた。エナクたちは思わず硬直し、顔を上げる。上空の濃くなり始めた夕闇の中で、一本のブナだけが揺れていた。風ではない。その樹だけが、周囲の樹とは別の動きをしている。
突然、真上からぼたぼたと雨のように、何かがアジャセの頭上に降り注いだ。黒い染みのように、それがアジャセの首や腕に張り付いてゆく。
「うわっ!!」
アジャセが悲鳴をあげる。彼の皮膚に張り付いていたものは、黒い蛭の群れであったのだ。アジャセは右手で思い切り、首筋に付いた蛭を叩き潰す。
“ぶちゅっ”と、鈍い音を立てて数匹の蛭が潰れたが、その死骸はアジャセの眼前で、霧が大気に溶けるように、たちまちに姿を消してしまった。
かさ、かさ、かさ……
小さく細かな爪が、下生えを掻く音が無数に聴こえてきた。音につられるように、バオが足元へと視線を移す。
「げえっ!!」
バオが眼を見開く。薄暗い地面の底を埋め尽くすように、夥しい数の蜘蛛が寄り集まっていた。何千、何万の光る眼が、バオを見つめている。針先ほどのガラスの破片を、闇の底にばらまいたかのような光景であった。
ざざっ!
と、大量の砂利がこぼれ落ちるような音をあげて、巨大なアメーバのように蜘蛛の群れの先端が、バオの足に絡みついてきた。
「ひいいっ!」と、悲鳴を口から迸らせて、バオは半狂乱で蜘蛛を踏み潰そうとする。だが、次の瞬間には先ほどの蛭ように、蜘蛛の姿は消えてしまう。
時間にしてわずか数ソウ(数分)の出来事である。しかし、エナクたちは全身に冷たい汗をかいていた。いつの間にか肩で息をしており、恐ろしいほどの体力を消耗してしまっている。
「何なんだよ……、何なんだよ、これは!!」
バオの両眼には赤く血管が浮き出ている。神経を磨り減らし、まるで何日間も眠っていないかのようであった。
「――『汚蟲』だ」
息を呑んでいるアジャセとバオに向かい、苦汁を口に含んだような表情でエナクが言った。
「ろぎ、だと……?」
呆然とした貌で、バオが呟く。
「強い怒りや恐怖、憎悪といった感情を残したまま死んだ奴の魂は、地上に留まり周辺の気にまで強い影響を与えちまう。そいつが濁気だ。汚蟲ってのはな、本来無害なはずの大気を漂う気が、濁気のせいで凝結して形を持ったものだ。それ自体には、さほど危険性は無え。問題は、ここいらに汚蟲を生んじまうほどの濁気が存在してるってことだ……!」
エナクは奥歯をぎりっと噛みしめて、周囲の暗がりを睨みつけている。まるで姿の見えない敵に、周辺を囲まれているかのようだ。
その姿を見て、アジャセとバオの二人も喉の奥で呻き声をあげながら、互いの背後を庇うように陣形を組んでゆく。
その時――
「よく御存知ですね……」
どこか中性的な声が響き渡った。三人は感電したかのように筋肉を跳ねあげ、声のした方向に顔を向ける。そこには、一際大きなブナの巨木がそびえていた。その根元に、暗がりの中へ浮かぶように、白い人影が立っている。
エナクたちの視線がその人影に釘づけにされるのと同時に、「く、く、く……」と、低い嗤い声が白い人影から届いてきた。
ゆっくりとその嗤い声が近づいてくる。人影は、自らエナクたちの元へと歩み寄ってきたのだ。
(三)
「初めまして。ガイラースの神民の皆様。お会いできて光栄です」
人影が小さく頭を下げた。癖のない真っ直ぐな髪が、肩を越えて胸元まで垂れている。光沢のある美しい銀髪であった。
その男は、一見しただけでは男なのか女なのかすぐに判別できないほどの、美しい顔立ちをしている。見た目はほとんど人間と変わらない。
鼻筋が通り、眉は細く流麗だ。その眉の下に、紫色のアイシャドウを塗った眼がある。化粧をしているらしく、唇が毒々しいまでに紅い。そして、瞳の色も唇と同じく、血の深紅であった。
肌が恐ろしいほどに白い。それは、もはや生き物の持つ白さではなかった。夜が吐き出した、闇と同質の白さである。
身にまとうのは、グロスマム国のような西方地域の聖職者に多い、ダルマティカと呼ばれる一枚布の貫頭衣だ。足元まで丈があり、袖口が広く、全体的にゆったりとしている。使われる布地の色により意味があり、男のまとう白色は『純真』を表すとされている。
だが、男が肉体の周辺に漂わせているのは異様な雰囲気である。まるで、美麗で艶やかな花――しかし、それは明らかに毒をその身に宿した妖花だ。
「そこの青猿さんの言う通りですよ。ここ一帯にはね、我々が行った研究の影響で、特別に強い濁気が発生しているんです。もっとも、濁気のみでなく、ある“きっかけ”がなくては汚蟲が生まれることはありませんがね……」
男が唇からこぼす言葉には、毒の混じった蜜が含まれているかのように、聞く者の背筋に怖気を走らせるものがある。
優雅な足取りでエナクたちから数ローナ(数メートル)離れた位置まで歩み寄ると、男はそこで立ち止まった。
「申し遅れました……。私はグロスマム国の魔神族、バレンシスと申します」
そう言うと、バレンシスは微笑した。それは穏やかさと冷酷さを等分に含んだ笑顔であった。
「魔神族――!?」
エナクたちに戦慄が疾り抜ける。一瞬にして全身に緊張と敵意が満ち、それが大気中にも溢れていく。それをバレンシスは風のような微笑で平然と受け止めている。
「あなた方のお名前ならば、聞かせて頂かなくても結構ですよ。ガイラース国の兵士である皆さんが、名乗れるはずがありませんからね……」
甘い声で囁くように言うと、バレンシスは右手の袖口から、するりと何かを取り出した。鈍い銀色の金属が、梢から差し込む落日の光を受けて禍々しく光る。それは、長さ二〇ハスタ(二〇センチ)ほどの細い針であった。
「て、てめえ! そいつで何をする気だ!!」
アジャセが眼に怯えを浮かばせながら叫んだ。それを見て、バレンシスが口の両端をすうっと吊り上げる。裡側に秘めた毒が滲み出たかのような笑みだ。
「心配することはありませんよ。この針で、直接あなた方をどうこうしようというつもりは無いですから。私たちがここで何を研究していたのかを、教えて差し上げようと思っているだけです」
言いながら、バレンシスは針を持つ手をゆっくりと持ち上げてゆく。細く白い指であった。爪の先には、唇と同じく深紅のマニキュアが塗られている。
顔に笑みを浮かばせたまま、バレンシスは右手を自らの後頭部へと回してゆく。そして、針の先端部を首の付け根に触れさせた。ちょうど背骨が首の骨となり、頭蓋骨に潜り込んでいる部分だ。
「くふううう……」
バレンシスの口からは恍惚の吐息が洩れた。双眸には喜悦の光さえ灯っている。
針の先端が、斜め下からバレンシスの首に潜り込んでいた。それは不可解で、不気味な光景であった。バレンシスは自らの手で鋭い針を、自分の首にゆっくりと刺し込んでゆくのである。
針をつまんだ右手の指先が、どんどん首元へと近づいてゆくのが、エナクたちにもはっきりと見えていた。
「な、な――」
エナクは息を呑んでいた。目の前で、針の大部分がバレンシスの頭部に侵入していく。
「我々グロスマム国は、古代より、ヒトの肉体が秘めた様々な可能性を研究してきました……」
バレンシスが声を発する。そこには、快楽のあまり高く乱れたような響きさえあった。
「ヒトはその魂と肉体の内部にね、無限大と言っていいほどの可能性を眠らせているのですよ」
「か、可能性だと?」
バオがバレンシスの言葉をただ繰り返す。恐怖と混乱のあまり、正常な思考ができないらしい。
「例えば、あなた方神民の姿もそうです。ヒトの魂と肉体には、あらゆる生命の記憶が秘められているのです。ヒトではないものから進化してきた全ての記憶がね。……神民とは、元は同じ人間であった生命体が、より生存に有利な存在とするために、進化の記憶のごく一部を利用して造り出された……と、我々は考えています」
「つ、造り出されただと!? て、てめえ、何を言ってやがる!?」
身体を小刻みに震わせながら、アジャセが叫んだ。興奮のため、舌がもつれている。
「“それ”を行ったのが、神なのか、それとも神にも等しい知識と能力を持つ存在なのか……。まあ、重要なのはそこではありません。ヒトという生命体が秘めた可能性、その可能性を引き出す技術は間違いなく存在している。それこそが、もっとも重要なことなのですよ……!」
バレンシスは、そこで一度言葉を止めた。針はわずか数ナム(数ミリ)を残し、ほぼ全てが首筋に埋まっている。ゆっくりと針の尻から指を離すと、バレンシスは満足そうに大きく息を吐いた。
「さて、進化の記憶を引き出すのに、最も有効な方法は何か……。私が研究対象として注目したのは“脳”です。頭蓋を割った時に見える、灰白色の柔らかい組織があるでしょう? あれは大脳と言いましてね、魚から獣、そして人へと進化する過程で、我々生命体が、思考や感情、言語や記憶などのより高次な機能を得るために発達させた部分です。興味深いことに、脳は奥へと進むにつれて、より原始的な機能を持つ構造になっているのですよ。中央部分に存在する扁桃体は、怒りや恐れ、不安などの感情を生み出すとされています。そして視床下部……。ここは、食欲や睡眠欲などの生存本能を司るとともに、喜怒哀楽の感情の中枢があります。まさに、生命の根幹と言っても良い……!!」
バレンシスの口調が、始めよりも饒舌となっている。自らの発する言葉に陶酔しているかのようであった。
「そして、私は考えました! より原始的な、生命の生存に関わる機能を持つならば、より根元的な進化の記憶も引き出せるはずだ、と……!!」
バレンシスは言葉を切り、話すうちに仰向いていった顔を下に戻し、エナクたちを見た。その貌を見て、エナクたちは思わず息を呑み後方へと退がる。 バレンシスの美しい顔が歪んでいた。両眼を大きく見開き、眼球の形状がそのまま見てとれる。その眼球の表面には、紅い糸屑のように血管が浮きあがっていた。
さらり、と肌を滑らかな布が擦る音がした。バレンシスがダルマティカを脱ぎ捨てたのだ。衣の下は全裸である。
その肌は、顔と同じく異様なほどに白い。腹の辺りの肉が、きれいに削げ落ちている。純白の絹を思わせる皮膚の下に、しなやかな筋肉が透けて見えるかのようだ。
「ふ、ふ、ふ……」
バレンシスは嗤っていた。愉悦が自然に体内から吹きこぼれるように、声をあげて笑い始めた。
「今、私が挿し込んだ針はね、この村で集めた生き物たちの濁気がたっぷりと染み込んでいます。グロスマム国に伝わる呪法の応用ですよ。呪いの言葉を吐きながら、相手を罵り、そしてこの針を使って、できる限り残虐な方法で目の前の生き物たちを殺すのです。そうすることで、殺した者たちの苦痛や怨念を、この針に宿すことができるのですよ……」
濃くなり始めた暗がりの中で、バレンシスの唇が、耳元まできゅうっと吊りあがる。
「強力な怨念や憎悪を宿した魂は濁気となり、周囲の気や魂さえも変質させてしまう……。しかし、言い換えれば、それは濁気によって生命体を全く別の存在へと変えることが可能ということなのです」
ごつん、と、肉の裡側から硬いものが突きあげる音がした。バレンシスの背が歪に曲がり、体勢が前のめりになっている。
眼は裏返りになり血走った白眼が覗き、ぞろり、と全身から黒い獣毛が生え始めた。見る間に、その色と量は濃くなってゆく。
「視床下部の持つ重要な機能はまだあります。それは、各種の生理的物質……。我がグロスマムでは、「呼び覚ます」を意味する言葉「ホルマオ」から、やがて『ホルモン』と呼ばれるようになりました。そのホルモンを分泌する、下垂体という脳の部分を刺激するためのホルモンを、視床下部は分泌しているのですよ」
エナクたちには、バレンシスの言葉の半分も理解できてはいない。しかし、目の前で起こるバレンシスの変化が理屈を超えた衝撃となり、エナクたちの脳を襲っている。彼らはただ棒立ちとなり、バレンシスの言葉を聞いていた。
「ホルモンはね、とても神秘的で素晴らしい物質です。生命体の肉体や、心のあり方さえもホルモンは支配しているのですよ! 例えば芋虫が蝶へと変わる時、彼らはホルモンの出した司令により、蛹の中で一度肉体をどろどろに溶かし、外見も内部器官も全く別の生物へと自らを造り変えてしまいます! さらには、人が人を慈しみ、愛する心の働き……。それさえも、ホルモンが脳に働きかけた結果、引き起こされた反応なのです! しかもそれらの変化は、大海に落ちた雨のひと滴ほどの量によってもたらされるのですよ! ああ、もしかしたらこのホルモンを、かつて大宇宙に君臨した真人たちは、聖酒や神水と呼んだのかもしれませんね……!」
バレンシスの手足や背骨の形状が、禍々しい異形へと変化してゆく。指先からは、めきめきと音を立てて爪が伸びる。その肉体から発するものは、もはや人の気ではない。どこまでも狂暴な、血に飢えた凶獣の気だ。
「針に取り憑いた濁気は、滅びゆく生命体が放つ最後の慟哭です。死に抗い、生に執着する魂の叫び……。それは、恐れや不安を生み出す扁桃体や、生理的欲求を司る視床下部のような、より原始的で生命の存続に関わる脳の部分と深く激しく反応します。すると、かつてないほどの生命の危機に晒されたヒトの魂は、原始脳に刻まれた進化の記憶より、自己に有益な情報の選定を行うのですよ。そして、魂は偉大なる神水の力を用い、ヒトをより生存効率の高い生命体へと改良するのです……!!」
バレンシスの左右に吊りあがった唇から長い牙が覗いた。上下の顎がめりめりとせり出し、鼻が持ちあがり横へと開いてゆく。
頭頂部からは血を絡ませて角が伸び、両腕の皮膚が脱皮をするように捲れ、その下から硬質の新たな外皮が出来つつある。
獣毛はすでに顔にまで到達している。長く垂れた銀髪だけが、人であった面影を残していた。
エナクたちは、恐怖のあまり逃げることさえも忘れている。脳の回路が焼き切れてしまったかのようだ。眼前の光景は、目眩を起こしているような、ひどく現実味を欠いたものであった。
裏返っていたバレンシスの眼球が元に戻る。縦に割れた瞳孔が、怪しい光を灯し燃えている。
「さあ、ご覧なさい……! ヒトの潜在的ファクターを覚醒させた、超生命体の姿を!!」
(四)
バレンシスの口からは、牙と舌の隙間より大量の空気と唾液が溢れ出している。口の構造も人のものから大きく変化しており、低くこもった、石と石を擦り合わせるような声となっていた。
その身体は、全身が黒く長い獣毛で覆われており、大きさは羆以上となっていた。アジャセを遥かに凌ぐ巨大さだ。体毛の下は、瘤のような強靭な筋肉の束が力を溜め込んでいる。
頭頂部を兜の如く包んでいるのは、水牛を思わせる黒い角だ。両腕は肘から先が蟹のような分厚い甲殻に覆われ、同様の装甲が、胴体部の両胸から腹、股間までを完全に防御している。両脚は山羊に近い形状をしているが、その足先に生えるのは肉食恐竜のような鋭い鉤爪であった。
ざんばらに垂れ下がった銀髪の間から、青い燐光を放つふたつの光点が前方に向けられる。それは紛れもなく、獲物の血肉を渇望する飢えた凶獣の双眸だ。
不気味な静けさがその場を支配していた。風の音さえも遥か彼方に遠のいている。
エナクの顔は青ざめ、歯がかちかちと音を立てていた。身を硬直させたまま動くことさえできない。氷のような恐怖が身体を凍てつかせていた。
アジャセは必死に足を退げようとしている。だが、彼の手足は激しく震え、首から下が切り離されたように言うことをきかない。
バオは両眼を見開いたまま、大量の汗を流して荒い呼吸を繰り返している。極度の緊張で気管が狭まり、肺の中に充分な酸素が送り込まれていないのだ。
ごご、ごぐぐぐ……
音がしている。低い、雷のような音だ。それは、バレンシスが喉の奥であげ続けている音であった。ごろごろと音を立てて、喉が激しく蠢動している。
げはあっ!!
と、バレンシスは口内の塊を吐き出した。それは、恐ろしく長い、血のような紅さの舌であった。
太い唾液を滴らせながら、長い舌が、ぞろり、とせり出した顎を舐めあげる。そして、バレンシスは黒い闘犬を彷彿とさせる獣の貌で、黄色い牙を剥き出した獰猛な笑みを造りあげた。
そこまでが、エナクたち三人の精神の限界だった。
「あえええええっ!!」
ぞっとするような悲鳴をあげて、バオがバレンシスに背を向けて走りだした。アジャセも口からはらわたをふり絞るような絶叫を放ち、足をもつれさせながらバオの後を追う。二人はほとんど腰が定まっていない。腰を抜かす、という状態だ。お互いがお互いの身体にしがみつき、少しでも自分が先へ出ようとしている。
エナクは、ただひとりその場から動かなかった。いや、バレンシスの眼光に射抜かれ、身体がすくみあがり、指一本動かすことができなかったのだ。
自分の後方から、何度も倒れては起きあがって走り出すバオとアジャセの悲鳴が聞こえる。幼児の泣き声のような、大の男が出しているとは思えない悲鳴だ。
仕方ない。誰だってこういう時には、あんな悲鳴をあげてしまうものなのだろう。
エナクは、自分の口からも似たような声があがっていることに、その時ようやく気づいていた。
ごおぉ……
地の底から響くような唸り声が、バレンシスの口から溢れ出す。黒毛が逆立ち、口吻が捲れあがり太い牙が噛み鳴らされる。
耳元まで大きく裂けた口は、もはや人の面影は皆無である。しかし、その顔に浮かんだ表情は間違いなく笑みだ。現れている感情は紛れもなく歓喜だ。
それは、これから自らが行う残酷な行為を想像し、暗い悦びを感じている、人のみが浮かべることのできる貌であった。
「ぎはああああっ!!」
獣の口から殺意を孕んだ叫びを疾らせて、バレンシスの身体が黒い爆風のように前方に跳躍した。
その瞬間、強烈なパワーがエナクの全身に叩きつけられた。それはまるで、颱風が一瞬のうちに地上のものをことごとく吹き散らしていくようなものであった。
寸前で、エナクは全身全霊の力を込めて、身体をわずかに逸らしていた。直撃ではない。左側面をバレンシスが疾り抜けていく瞬間に、微かに身体が触れた程度だ。
だが、それだけでエナクの肉体は木の葉の如く宙を舞い、頭部から地面に落下する。
アジャセとバオは、半狂乱で意味を持たない喚き声をあげながら、四つん這いに近い姿で逃げ続けていた。アジャセの方が、バオよりも後方に遅れている。それがほんのわずかな時間だけ、バオの命を延ばすことになった。
ざっ、と音を立てて、巨大な黒い影がアジャセの視界を塞ぐ。両手をついて、地面に近くなったアジャセの目の前に、太い鉤爪を生やした足が出現したのだ。
ひきつった悲鳴を喉の奥から洩らし、アジャセが顔を持ちあげる。黒い獣毛が生えた身体、厚い甲殻に覆われた腹と胸、そして上方へと向けた視線の先に、アジャセは血みどろの顔を見た。
それは、エナクの返り血を浴びた魔獣バレンシスの顔であった。血を滴らせる銀髪の間から、眼球までも血で濡らした凄まじい顔がアジャセを睨んでいる。
「どうしたのですか……」
血塗れの顔で、にいっ、と紅く染まった牙を剥き、バレンシスが微笑した。
「なぜ逃げるのですか? 少しは足掻いてもらわないと、私の素晴らしい力を理解できないではありませんか……」
ひどく優しい声で、バレンシスがアジャセに語りかける。しかし、口の構造が人とは大きく異なるため、牙の間からは大量の空気が唾液の泡とともに、しゅうしゅうと音を立てて吹き出していた。
「ひ……、ひ……」
がちがちと歯を鳴らし、アジャセはバレンシスを見上げることしかできない。その姿を見たバレンシスは、双眸に残忍な光を灯らせた。長い舌が口から溢れ出し、口吻から鼻にかけて付着した血をべろりと舐め取る。
「それでは、あなたにチャンスをあげましょう」
血の混じった唾液を牙に絡ませて、バレンシスが嗤う。
その時、アジャセはバレンシスが右手に何かを握っていることに気がついた。細長いものの正体を確認した瞬間、アジャセの口から掠れた悲鳴があがる。それは、肩口からもぎ取られたエナクの左腕であったのだ。
「私がこの腕を食べている間、あなたは背中のハンマーで私を自由に攻撃してください。私の身体に少しでも傷を付けたら、あなたは見逃してあげますよ」
バレンシスは右手に握ったエナクの左腕を持ち上げ、二の腕の部分に、ぞぶりと噛みついた。肉を骨から引き剥がし、くちゃくちゃと音を立てて食べ始める。
「どうしました……?」
バレンシスが、エナクの肉を噛みながら言う。
「早くしないと、次はあなたの肉を喰べさせてもらいますよ。そうですね……、生きたまま、頬肉あたりからいきましょうか……」
言いながら、獣の顔がにたりと嗤った。
その瞬間、アジャセの頭の中で何かが弾け飛んでいた。裂けるほどに大きく口を開き、歯茎を剥き出しにして声をあげる。
「ぐじぇっえっえっ――」
意味のない声を発しながらどこか笑い顔にも似た狂相を浮かべ、アジャセは背負っていたウォーハンマーを引き抜いてバレンシスに殴りかかった。わあわあと泣き喚きながら、ただ滅茶苦茶にハンマーを振り回す。
バレンシスは、にたにたと嗤いながらアジャセの攻撃を受けていた。腰が入っていないとはいえ、理性のタガが外れたアジャセのハンマーでの殴打である。
普通ならば、ただで済むはずがない。だが、魔獣と化したバレンシスの厚い甲殻と太い筋肉は、アジャセの攻撃を赤子の拳ほどにも感じていなかった。
ごりごりと音がする。バレンシスがエナクの左腕を喰らう音だ。そして、ついにその音が止み、ごくりと最後の肉を飲み込む音が残酷なまでに大きく鳴り響く。
「時間切れ……」
そうバレンシスが呟くのと、アジャセがハンマーを振り下ろすのは、ほぼ同時であった。
バレンシスの双眸が、かっと見開き、全身に火球にも似た強烈なパワーが満ちる。
轟! と、バレンシスが吼え、右腕を薙ぎ払った。
次の瞬間、アジャセの眼には奇妙な光景が映し出されていた。バレンシスの姿が上下逆になっているのだ。
その映像はひどくゆっくりと動き、少しずつ景色が回転してゆく。そして、アジャセは視界の端に、逆さになって自分を見下ろしているバオの姿を見た。
どうしたんだ?
そうアジャセは訊こうとしたが、口からは大量の生温かい水が吐き出されて声が出ない。その水に血臭を嗅いだ瞬間、アジャセの意識は永遠に途絶えていた。
バオの眼前で、紅い大輪の花が咲いている。
バレンシスの薙ぎ払った右腕の一撃によって、アジャセの腰から上が吹き飛ばされたのだ。
その瞬間、ばん、と破裂音が響き、周囲に血と肉片がぶちまけられた。大量の赤ペンキをバケツで撒き散らしたような光景に近い。
アジャセの頭部は口から血を吐き出しながら、近くのブナの幹に叩きつけられた。下半身は、断面からごぼりと血を溢れさせ、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
バオは動けなかった。ただ、悪夢のような光景を見つめているだけであった。
目の前で、ゆっくりとバレンシスが返り血を浴びた顔をあげる。血を絡ませた牙をがちがちと噛み鳴らし、暗黒の狂獣が凄まじい笑みを浮かべた。
「ええっいっ!!」
涙と鼻水と同時に、バオの口から悲鳴が溢れ出す。
がくがくと激しく震え、役に立たない下半身を引きずりながら、それでもバオは逃げようとした。だが、動かない。いくら地面を爪で掻きむしっても、全く身体は前へと進まない。
バオの右脚をバレンシスの足が踏みつけている。脚の向きが変わるほど強く踏まれているが、恐怖に支配されたバオは、最期までそれに気づくことはできなかった。
バレンシスが、太く長い牙をゆっくりとバオの首の後ろに潜り込ませ、めりめりと音を立てて、そこの肉を大量に噛み千切る。
「っげぎゃあああ!!」
バオの地面を掻く動きが止まる。震える手をあげて、首の後ろに右手を当てた。
指先に硬いものが触れる。自分の骨だ。しかし、バオにはその硬いものが何なのか理解できない。
二、三度指先でそれが何なのか確認するようにほじくった後、バオの両眼がぐるりと裏返る。同時に、口と鼻から大量の血を噴き出し、その血黙りの中へ顔を突っ込んだ。そして身体を数回痙攣させてから、バオは二度と動かなくなった。
(五)
人が生きているうちに、一度しかあげることのできない叫び――バオの断末魔の声が、エナクの意識を覚醒させた。
頭を強打したせいか、目の前が暗い。立ちくらみを起こした時のように、視界に黒いもやがかかって見える。
左腕の感覚がない。右手を左腕があるはずの場所へとまわす。右手の指先は、何もない空間を撫でた。ない。何も指先に触れない。左腕が肩先から失くなっていた。
ひどく温かいものが右掌に注いでいる。温かいのに、自分の体温を根こそぎ奪っていくような温度だ。その液体が溢れ出す元に触れる。柔らかいものと、硬いものがそこにあった。
思わず口から悲鳴が出そうになる。エナクは唇を噛み裂けそうなほどに食いしばり、金切り声をあげたい衝動を必死で堪える。
柔らかいものは自分の肉だ。硬いものは自分の骨だ。バレンシスに左腕をもぎ取られたのだ。
痛みはない。左腕の感覚そのものがない。痛みがあまりに強すぎると、その痛みを認知する脳の機能が停止してしまうのだろうか。
ごつん、という不気味な音が聞こえてきた。獣の牙が、肉と共に骨を噛み砕く音だ。続けて、湿った汁を啜るような音が聞こえる。
エナクはゆっくりと後方を振り返った。見える。とてつもなく禍々しいものが。黒い魔獣と化したバレンシスが、背を丸めて地に伏せた黒い塊の中に頭部を突っ込んで、何かを貪っている。
倒れているのはバオだ。バレンシスが、バオの腹部に顔を突っ込んで、その内臓を喰べている。じゅるじゅると血に濡れた肉を啜る音、こつんこつんと小さな骨を噛み砕く音が、いやに鮮明に聴こえてくる。恐らく、この音は一生脳の奥にこびりつき、悪夢となってエナクを襲うのであろう。
前を向く。前方には、先ほどよりも一段と色濃くなった森の闇が広がっている。エナクは右掌で、肉が千切れるほどに左肩の傷口を掴んだ。「止まれ、止まれ……」と、口の中だけで呟き、こんこんと血を流す血管を握り潰す。
震える脚を無理矢理に立たせた。後方からは、ごりごり、くちゃくちゃ、という、耳を塞ぎたくなるような音が相変わらず聞こえてくる。理解を絶した状況であった。自分の背後数ローナの距離で、肉食獣が仲間の骨と肉を口の中で咀嚼しているのである。
だが、これはエナクが生き延びる唯一のチャンスでもあった。バレンシスがバオを喰っている時間だけ、エナクにはこの場から逃げる時間が生まれたことになる。
足を一歩ずつ踏み出す。膝から下が定まらず、踊るような足取りだ。それでも、エナクは懸命に歩みを進めてゆく。
周囲の空間には、瘴気が黒々と渦を巻いていた。羽虫の姿をした汚蟲が無数に飛び回り、エナクの顔や体、特に肩の傷口には、蛆虫に似た汚蟲がびっしりとたかっている。
突然、前へ踏み出した足が虚空を踏んだ。エナクも気づかぬうちに、歩く地面が登り坂になっていたのだが、そこは途中から大きく崩れていたのである。
逆らうこともできずに、エナクの身体は傾いて坂を転がり落ちていた。崩れた小石や土が堆積してできた斜面を、意思のないもののようにエナクは転がってゆく。
何度も身体中をぶつけながら、やがて落下は止まった。斜面を転がり切ったのだ。
エナクは泣きながら地面を這った。今、自分がどのくらいの距離を移動したのかわからない。どれほどの時間をかけていたのかもわからない。
今すぐこの場で座り込みたかった。だが、動かずにいて、万が一バレンシスに見つからなかったとしても、待っているのは死だ。血は傷口からどんどん流出し続けている。ただ歩いた。泣きながら歩いた。歩いて、歩いて――
「エ、エナク様!?」
そして、ようやくエナクはボルドに再会したのである。
(六)
それだけのことを、エナクはボルドの手当てを受けながら語った。絶え絶えの声である。
血の流出を止めるために、左肩の傷口に布を押し当てて、その上から肩全体を包むように堅く縛り止血をしている。だが、大量の血を失ったエナクの顔は紙のように白い。この状態でここまで歩いてきたことが奇跡のようなものだ。
「逃げろ、逃げろ……」
掠れた声で繰り返し、やがてエナクは意識を失った。シエラたちは誰も言葉を発しない。ただ、静寂がその場を支配していた。
「魔神族だと……!?」
テージンが愕然とした声をあげる。その声に誘われるように、シエラはテージンの顔を見た。
「聞いてないぞ……。魔神族が関わっているなんて、俺は聞かされていない……」
テージンが震える声で言う。その顔は、明らかに恐怖で大きく歪んでいた。
「ふざけるな、何が『ただの調査』だ! 畜生、上の奴ら騙しやがったな! わかっていたんだ本当は……!!」
爪を噛みながら、どこか焦点の合っていない眼で、テージンはぶつぶつと呟く。
「テージン、今はそんなことより、一刻も早くこの場から移動しないと……」
「うるせえ!!」
シエラの言葉にテージンは金切り声をあげて、血走った眼をシエラとボルドに向ける。
「騙されたんだぞ、この俺が!! ありえない、あってはいけないんだ、こんなことは……! 将来、闘仙団の幹部確実と言われたこの俺が……!!」
ぶつぶつと、呪詛にも似た呟きを洩らし続けるテージンの姿を見て、シエラが音を立てて奥歯を噛み締める。追い込まれた状況が、彼女の裡に苛立ちを生んでいた。
「だから! 今はそんなことはどうでもいいでしょう!? このままでは皆の命が危ないことがわからないの!!」
激昂は怒りの叫びとなり、シエラの口から噴き出していた。普段の彼女からは想像できない険しい表情に、何か声をかけようとしていたボルドは凍りついてしまう。
「俺とおまえらカス共の命を一緒にするな! 俺は選ばれたエリートなんだ!!」
テージンも、憎悪とさえ言える感情を貌に出して大声を放つ。シエラとテージン双方の声が、感情と共に荒ぶってゆく。
その時、周囲の森の奥から、ざわざわと不気味な囁きのような音が聞こえてきた。シエラとテージンは思わず言い争いを止めて、森の方向を見る。不意に巻き起こった風が、ピッパラ樹の梢を揺らし音を立てていたのである。
だが、シエラたちには、それが森の暗闇に潜む瘴気の群が発する声のように聞こえた。姿の見えぬものが、地を這い宙を舞いながら、飢えた悪鬼のように自分たちめがけて集まってきているようだ。
すでに陽は森の背後に没しかけ、長く伸びた森の影がシエラたちのすぐ足元にまで届いている。
東の空には、血のように紅い大きく歪に欠けた月が登りかけていた。それはまるで、口元を吊りあげた、悪魔の残忍な笑みのようであった。




