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第十五話 呪法の村

(一)

 突然の雨であった。

 晴れていた空を次第に暗雲が覆い始め、夕刻近くになると、大粒の雨が降り出したのだ。

 バルゴ平原での会戦より遡ること五日前――ここは、周囲を黒々としたブナの大樹に囲まれた森の中である。

 ガイラース王国軍調査隊は、一際大きいブナの根元で雨宿りをすることになった。樹々の下ならば多少は雨の勢いは弱まるが、それでも枝葉を伝い、大量の水滴が落ちてくる。雨が森を叩く低い音が重く鳴り響いていた。

 厚い梢の隙間からは、月を抱えた雲の腹が、青黒く光る夜行獣の如く天を移動してゆくのが見える。

 森の位置する場所は、結界山脈(シーマーバンダ)の西山陵の斜面だ。麓に広がるバルゴ平原から吹き寄せる風が、山の横腹に位置する森の樹々を絶え間無くなぶっている。それは、不気味な魔物たちのざわめきにも似ていた。

 ブナの根元では、握り拳ほどの大きさの石が円形に積まれ、中央で火が焚かれている。火のベースとなっているのは、乾燥させた牛糞だ。携帯用の燃料としては非常に優れており、大人の掌サイズで数人分の湯を充分に沸かすことができる。

 焚き火を囲んでいるのは、紅宮、白宮の人員で構成された、総員八名の調査隊メンバーだ。

 全員が、兵士ではなく冒険者に見えるようにと、防具や衣服を市販品にしている。ガイラースの武器・防具工房で作られたものは、一切身につけていない。人員が複数の種族で混成されているのも、フリーのパーティーと見せる目的がある。

 調査隊の任務は、エフィソス領とガイラース領の間に存在する、ザワという小村の偵察だ。地方領主か騎士の支配地であろうその村は、ガイラース領ではあるが、かなり詳細な地図でなければ載っていないほどの小さな村である。

 エフィソスに放たれていた密偵から、ガイラース王国軍前線基地へと報告が上がったのは三日前のことだった。

 “人気の無い村に、大量の物資が運び込まれている”との内容であった。馬車を数台、それを数回に分けた規模のものであるらしい。もし中身が武器と防具であるならば、数百人分になるだろう。しかし、ザワ村の場所は辺境とはいえガイラース領になるため、軍事拠点とするには不自由過ぎる。そこで密偵は偵察を続けたのだが、その報告が途絶えたのだ。そこで編成されたのが、今回の調査隊であった。

 ブナの樹を正面に見て、右上に座っているのが隊長のシエラだ。キンナラ族の彼女は、顔つきのみを見れば二〇代前半の人間(マヌ)の女性と変わらない。燃えるような赤毛を整えることなく逆立てて、頭からは尖った獣の耳が生えている。双眸は青い猛獣の光を宿していた。その野性的な容貌は狼を思わせるものだ。

 シエラは肉食獣のように筋肉質であるが、胸や腰は女性らしい丸みを帯びている。その体に、身体能力を活かすための小さな白い革鎧を着て、ドワーフ鍛冶で鍛えられた薄く丈夫な肩当てや籠手を装備していた。

 背負っているのは、炎の揺らめきに似た波形の刃が特徴的な、長さ一・五ローナ(一・五メートル)の両手剣フランベルジュ。まさに女性冒険者といった装いである。

 シエラの左隣でブナの幹に寄りかかり、革袋の葡萄酒を飲んでいる短い金髪と長い耳が特徴の青年は、デーヴァ族のテージン。細面の長身で、痩せ気味。やや童顔だが整った顔立ちである。髪と同じ金色の瞳には、どこか荒んだ雰囲気が秘められていた。

 任務中に関わらず堂々と酒を飲んでいるのは、彼が優秀な聖仙術師(リーシー)であり『闘仙団(アリハント)』の一員であるからだ。優秀な術師はどこにいても特別待遇される。

 聖仙術師のテージンは、数本のナイフを護身用として持ち歩くのみである。上は前が開いた赤い法衣だけで、隙間からは六つに割れた腹筋が見える。下は足の長さを自慢するかのような、黒革のぴったりとした脚衣を穿いていた。

 テージンの左側で胡座をかき、大剣を右腕に抱え込んでいる男は、マホラガ族のダナクだ。

 ダナクはまるで蜥蜴(トカゲ)が革鎧を着たような外見をしている。見えている肌の全てを青緑色の鱗が覆い、髪の無い頭部も同様である。

 目は黒い球体が埋まったような形で、鼻は低く瞼も唇も無い。頬から口の裂け目が入っており、半開きの口の隙間から白く尖った歯が見える。脚は人と構造が違い、小型の肉食恐竜のようだ。

 その横に座るエナクは、青毛の猿の頭部を持つガンダルヴァ族の男だ。革鎧に鋼鉄製の胸甲を着けた身体は、ダナクとは逆に人間(マヌ)とほぼ変わらない。

 エナクは意味ありげな嗤いを口元にへばりつかせ、手元でショートスピアをもてあそびながら、ねっとりとした視線で皆をなめわしている。その視線が一番長くとどまったのが、隊長であるシエラだった。

 エナクの隣に座る巨躯の男はキンナラ族のアジャセ。他のメンバーよりも頭二つ分は大きい巨体であり、浅黒く日灼けした肌の下は分厚い筋肉の塊だ。

 身体そのものが鎧の役目を果たしているので、防具は上半身に革製の胸甲を着けるのみ。背中にはスパイク付きのウォーハンマーを背負っている。肩のあたりまで乱雑に伸びた髪が垂れており、額からは二本の太い角が生えていた。

 アジャセの横で、極端に長い脚を折り曲げて座っているのが、ヤクシャ族のカマナである。

 姿は人だ。しかし、人の肉体が有するバランスからは大きく外れている。人と飛蝗(バッタ)の中間のような姿であった。

 座った状態の折り曲げた膝頭が、自分の頭よりも高い位置にある。腿は常人の倍以上の太さだが、膝から下は骨の上に皮を貼り付けたような細さだ。

 身体も細く革鎧にも隙間がある。腰のベルトには柄にフックの付いたナイフを引っ掛けていた。首が長く頭二つ分はある。小さな頭部には頭頂部にわずかの毛髪と、片方が赤子の拳ほどの巨大な眼球があった。

 革鎧を着た冒険者風の最後の一人が、先ほどからハンドアックスの刃を熱心に研いでいる、キンナラ族のバオだ。

 顔は細長く、鼻と顎が前に突き出ている。つるんとした頭部には、頭髪の代わりに、蛇が身をくねらせたような黒い角が二本天に向かい生えていた。

 ひょろりと首が長く、肩は撫で肩。背が前方へ向かい曲がっている。猫背というわけではなく、元々骨格が前傾姿勢のようだ。

 やがて刃を研ぎ終えると、口から赤く長い舌を出して、べろりと刃を舐めあげる。そして、バオは口を吊り上げて満足そうな笑みを浮かべた。

 さらに、もう一人――

 焚き火の周囲に座ることなく、調査隊全員分の食事の用意をしている男がいる。

 粗末な腰布を巻いて、継ぎ接ぎだらけの貫頭衣を着ている。靴は履かず裸足だ。その男は、神民(マナ)の中でも被支配階級である隷民(ダーサ)であった。

 男は車座になった一団からは離れた場所で別の火を焚き、その上で石を熱している。充分に熱くなったところで、麦の粉を水で練った生地と干し肉を石の上で焼くためだ。

 男が背嚢(バックパック)から取り出した干し肉は決して小さなものではない。調査隊全員分を数日分のため、かなり大きいサイズだ。だが、その肉が実際よりふた回り以上小さく見える。男の手が常人よりも並外れて大きいからだ。

 大きいのは掌だけではない。身体のサイズも、アジャセよりさらに頭ひとつ分大きい。立ち上がれば、身長は二ローナを越えるだろう。

 背嚢も特大サイズだ。中身はレインコートや保存食、料理道具といった旅の必需品の他、地図や応急措置用の医療器具が詰め込まれており、重さは一〇〇サンカン(一〇〇キロ)近くになる。それを軽々と背負うだけの肉体を、男は有していた。

 後方から見ると、肉の小山のように見えるほど背中が広い。体重は一五〇サンカン近くはある。筋肉質、という身体ではない。頭も、短い首も、肩や胸と腹も丸みを帯びていた。大きな身体全体が、やや弛んで見える。

 顔を見れば、頬と顎下にも肉が付いている。髪は茶色の短髪で、その間から垂れ気味の耳が二つ生えていた。年齢は二〇代半ば位に見える。目は細く、笑えばその目がさらに細まり、柔和な顔つきになるだろう。

 両目の下にある鼻に、男は手を伸ばした。無意識の行動である。つい人目を気にしてしまうのだ。

 男の鼻は豚のものであった。それが生まれつき、石で何度も叩いて潰したようなひしゃげた形状をしている。

 鼻が原因で、これまで他者から受けた差別や暴力、いわれの無い悪意は数え切れない。

 男は調査隊のメンバーに聞かれないように小さくため息をつくと、食事の支度を再開する。

 キンナラ族の隷民――彼の名はボルドという。



(二)

 ボルドが焼きあげた生地に、焦げ目のついた干し肉と砕いた岩塩を乗せて、全員に配ろうとした時だった。

 「匂うな……」

 強い毒の込められた声が響いた。全員の視線が声の主へと向けられる。

 「臭いぞ」

 声の主は、大剣を抱え込んで座っているダナクであった。ダナクは黒球の眼に炎の灯りを反射させながら、低い声で呟いた。

 「隷民臭くてたまらん。食欲が失せるわ」

 ボルドの顔から、すっと血の気が引いてゆく。

 「す、すみません。ごめんなさい……」

 その顔に、哀しいような、泣きそこねたような表情を浮かべて、ボルドが弱々しい声を出す。

 「ああ!? 聞こえねえよ、豚!!」

 エナクが後方を通り過ぎようとするボルドに振り向き、大声を上げる。

 びくん、とボルドがその巨体を、眼にはっきりと見えるほど震わせた。

 それを見たアジャセとバオの口から、げらげらと嗤い声が上がる。男たちは馬鹿にしきった眼でボルドを見ていた。

 「おい、このデカ豚震えてるぜ」

 「小便でも漏らしちまったんじゃねえか」

 エナクたちの言動はあからさまである。ただボルドが隷民だから、という理由だけではない。ボルドの怯えを充分に感じ取っているからこそである。自分たちよりひと回りもふた回りも大きい男が怯えているのが、彼らには面白いのだ。残酷な笑みが、全員の顔を醜く歪めている。

 「やめなさい」

 言ったのはシエラだった。

 「今は任務中よ。くだらない真似はやめなさい」

 「命令する気か、小娘」

 焚き火に向けていた黒眼を、ぎろりとシエラに向けて、ダナクが低い声を出す。

 「隊長は私よ」

 「形だけはな。ここにいる半数は紅宮の者だ。白宮の犬どもに従う義理は無い」

 「残念だけど、これは白宮と紅宮で決めたことよ。階級が一番高い私が隊長というのも、紅宮上層部も認めているわ」

 「――ふん」

 ダナクは腕を組むと、不満そうに顔をしかめて眼を閉じた。

 「へへ……」エナクの口から品の無い笑いが洩れる。「隊長様は、隷民の豚男がお好みですかい」

 軽蔑すら含まれたエナクの言葉に、アジャセとバオが嘲りの嗤い声を上げた。

 「身体のでかい豚は、あそこもでけえのかよ」

 「教えてくださいよ、隊長様よう」

 下卑た言葉を口々に吐く男たちを、テージンはにやにやと笑いながら眺め、カマナは興味が無いのか、無表情でナイフの手入れをしている。

 「あなたたちに言っておくわ」

 シエラが怒りに眼を吊り上げ、身を震わせながら言う。

 「我々がこれから向かう場所は敵地も同然です。そんな腑抜けた心構えでは、真っ先に命を落とすことになるわよ」

 そう言われたエナクたちの表情が、みるみる険しいものになってゆく。

 「へえぇ……」

 「言ってくれるじゃねえか」

 エナクたち三人の眼が、一様に輝きを増していた。彼らの奥底にいる獣に火が点いた眼である。

 「や、やめてください、皆さん。シエラ様、悪いのはぼくなんですから……」

 ボルドが、おどおどとした態度で声をかけた。

 「うるせえ!! 糞豚が!!」

 エナクがボルドに走り寄り脚を蹴った。向こう脛だ。革靴の固い爪先が思い切りぶち当たる。

 「あいっ!!」

 ボルドが悲鳴を上げる。腰が折れて思わず顔が下がった。その顔に、アジャセがわざと膝を出す。

 ぐしっ、と鈍い音がした。ボルドの鼻の軟骨が潰れる音だ。

 ボルドは呻いて、両手で顔を覆い、その場に膝を突いてうずくまってしまう。指の間から、血が糸を引いて流れ出てきた。

 「ボルドっ!!」

 シエラが悲鳴に近い声を上げて、ボルドの背中に両手を掛ける。引き起こそうとするが、ボルドは起き上がろうとしない。四つん這いのまま、後方――土砂降りの雨の中へと出ようとしている。

 「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 ボルドは頭を下げたまま、消え入りそうな声で何度も繰り返す。

 「けっ! 情けねえ豚が!!」

 バオが四つん這いのボルドの頭に向かい、唾を吐きかけた。

 「もうやめなさい!!」

 シエラは大声を上げると、ボルドを庇うように彼の隣に並んだ。シエラは、相変わらず冷徹な嗤いを口元に浮かべているテージンへと、すがるような視線を向ける。

 「へっ……」

 口の周りについた葡萄酒を手の甲でぬぐいながら、テージンは侮蔑の感情を宿した瞳で、シエラとボルドを睨みつける。

 「なに見てんだよ、シエラ。『昔馴染みなんだから助けてください』ってのか……?」

 シエラの口が何かを言いかけて止まる。テージンが自分たちを完全に見下していることがわかったからだ。

 「……ひどいと思わないの?」

 唇を噛みしめるシエラに向かい、テージンは荒んだ笑みを強めて言った。

 「そいつはな、他人から差別されるために産まれてきたんだ。この世には、そんなどうしようも無い奴がいるんだよ……」

 テージンは、シエラの両眼をまっすぐに見据えてきた。先ほどまでの弛緩した雰囲気ではない。相手を貫くような、威圧感を秘めた眼光である。

 シエラも、眼を逸らしたりはしなかった。青い狼の瞳が獰猛な光を帯び、空気を引き裂く鋭い視線を返す。

 二人の間に、大気を凍りつかせるほどの緊張感が満ちてゆく。思わずエナクたちが息を呑み、ボルドが顔色を変えて、がくがくと身体を震わせ始めた、その時であった。

 「誰かが、来た――」

 手元のナイフから視線を上げて、カマナが呟いた。その場にいる全員が動きを止める。

 ほどなく、濡れた草を踏み分けて、何者かが近づいてくる足音がした。

 その音は、焚き火の灯りが届くぎりぎり外の繁みで止まる。迷っているような、荒い呼吸が調査隊の元にまで届いている。

 「頼む――」と、男の声が、雨の降る闇の中から聞こえてきた。「火に当たらせてくれよ」

 荒い呼吸の合間に、男はやっとそれだけを口にする。

 「何者だ」

 ダナクが立ち上がり、大剣の柄に手をかけて問いかけた。

 「ジェムだ。ジェムという。この近くの、サマラって村の者だ」

 「ほう……。この近住の者か」

 カマナの巨大な眼が光る。

 「あんたたちは他所者かい」

 「そのようなものだ。おまえは人間(マヌ)だな」

 ダナクが、闇へと鋭い視線を向けたまま訊いた。

 「あんたら……」そこまで言って、ジェムの声が詰まる。「ガイラースの神民(マナ)か……」

 「その通りだ」

 「お、お願いします。私は人間(マヌ)ですが、エフィソスとは関係ありません。辺境のちんけな村人ですよ。隣村まで出かけていて、帰りに足を怪我しちまったんです。思うように歩けないまま、途中で日が暮れて雨になっちまった。それでも必死に歩いて、この灯りを見つけたんですよ」

 ジェムの口調が急に変わる。ダナクは剣の柄に手をかけたまま、調査隊全員に視線を向ける。シエラが代表するかのように、顎を引いてうなずいた。

 「よし……。両手を上げて、ゆっくりと歩いてこい」

 ダナクが言うと、繁みががさりと揺れて、そこからジェムが姿を現した。

 紅毛碧眼――

 ガイラースよりも西域に住む人間(マヌ)の特徴をジェムは有していた。青い瞳の色、鼻の高さ、肌の色――いずれもガイラース国に住む人間(マヌ)には、滅多に見ない民族であることを現している。

 服装も、粗末な腰布や貫頭衣ではない。膝まである革の長靴を履き、裾の長い衣を身にまとっている。腰には湾曲した刃の短剣が差し込まれていた。ガイラースの人間(マヌ)では、とても考えられないことだ。

 焚き火の灯りに照らし出されたジェムの顔には、一面に無精髭が生えている。三十五、六歳のようであるが、その顔は明らかに何かに怯えているようであった。

 ジェムが近づくと同時に、何とも言えない異臭が周囲に漂う。数ヶ月の間、沐浴も身体を拭うこともせずに、同じものを着続けていれば、いずれ身体から発せられるであろう臭いだ。

 衣類だけでなく、身体中が汗と泥で汚れ、髪はひとつかみずつ束になって捩れている。

 衣の裾の右側がめくれ膝が出ていた。膝の横には、木の枝で突いたのか、ざっくりと抉られた傷痕がある。どうやら足に怪我をしたというのは本当らしい。

 ジェムは衣服からぽたぽたと滴を垂らしながら、ゆっくりと近づいてくる。ぎらぎらとした眼で周囲の者をひと回り見渡すと、火から一番遠い場所へと、軽く右足を引きずりながら歩いてゆき、そこに腰を下ろす。

 その時、ジェムの足の傷が、深さに対して出血の量があまりに少ないことには、誰も気づいていなかった。



(三)

 膝を抱えるように座りこんでいるジェムを見て、ボルドが立ち上がる。手には、自分が食べる分であった、干し肉を包んだクレープを持っている。

 ボルドが歩み寄ると、ジェムは、びくっと身体をすくめさせた。

 「あ、あの……、よかったら食べてください」

 そう言うと、ボルドはジェムにクレープを差し出す。

 上目遣いに、ジェムはボルドとクレープを交互に見ていた。そして、不意に飛びつくように両手を伸ばし、ボルドの手からクレープをひったくると、がつがつと貪るように喰べ始める。

 喰べる間中、ジェムの眼は周囲に向けられていた。獣のような光を放つ眼で、調査隊のメンバーを睨んでいる。

 しばらくして、ダナクが立ち上がった。歩いてくると、「どけ」と、大剣の柄で半ば殴るようにボルドの脇腹を突く。

 小さな呻き声を上げるボルドを強引に横へどかせると、ダナクはジェムの正面に立った。

 「……妙な男だな」

 ダナクが呟く。その時には、エナク、アジャセ、バオも立ち上がり、ダナクの横に並んでいた。彼らの後方には、カマナも油断無く身構えている。

 「ジェムと言ったか」

 ダナクが言うと、ジェムは、口の中に残っていた肉を呑み込んで、怯えた視線を向けてくる。

 「この近住の者というのが本当ならば、訊きたいことがある。人間(マヌ)ごときの接近を許したのは、そのためだ」

 「き、訊きたいこと?」

 「この近くのザワという村に、大量の荷物が運ばれているという話を聞いたことはないか」

 ダナクが、大剣の切っ先を突きつけながら訊く。

 「し、知りません」

 顔を青ざめさせて、ジェムが激しく首を振った。

 「言いたくなるようにしてやろうか」

 エナクが言うと、いきなり腰からショートスピアを抜き放つ。

 「な、な――」

 そう言ったジェムの口に、エナクはいきなりスピアの刃先を突っ込んだ。エナクは右手でスピアを持ち、左手でジェムの頭髪を掴み、身動きをできなくさせている。

 かちかちと、刃先にジェムの歯が当たり小さな音を立てていた。

 ごりっ、とジェムの口の中から鈍い音がした。エナクが、水平になっていた刃を口の中で回転させたのだ。ぼろぼろと、数本の歯が歯茎から抉られて、血と肉片と共に地面に落ちる。

 「あががっ!!」

 ジェムが大声を上げて、地面に両手をついた。痛みに身を捩らせて、冷たい土に額を擦りつける。

 「なんてことをするの!」

 シエラが声を上げた。

 「へっ、素直に言わねえこいつが悪いんだよ!」

 エナクが顔に残忍な笑みを貼りつかせて言う。アジャセとバオにも、同様の表情が浮かんでいた。

 「い、痛えよぉ……」

 ジェムが、もつれたような口調で声を洩らす。刃先で舌が傷付いているらしい。

 「痛え。ひでえよ。なんで、こんな目に遭わなきゃならねえんだ……」

 そう言うと、がつんと額を土に打ちつける。何度も、何度もだ。不気味な鈍い音が響く。

 「ちくしょう、神民(マナ)だからって偉そうにしやがって……。許さねえ、許さねえぞ……」

 顔を伏せたまま呟くと、ジェムは再び額を地面に打ちつけた。

 異様な光景であった。先ほどよりも打ちつけ方が激しい。凄い力が込められているのが分かる。細い首と両腕に、血管と筋肉が浮いている。

 そして、ジェムは急に動きを止めた。顔を伏せたまま動かないジェムの姿に、調査隊のメンバーは動くことはおろか、言葉も発しない。ジェムの異変に、ダナクさえも動きを止めていた。

 やがて、ジェムがゆっくりと顔を上げた。額から流れ出した血で、顔中が紅く染まっている。

 「えけけけ……」

 声を上げた。焚き火の弱い灯りの中で、にんまりとジェムは微笑している。

 その貌を見た瞬間、全員の背筋が凍りつく。

 ジェムの双眸は、紅くどろりとした血溜まりと化していたのである。両眼には瞳が無く、真紅の血を流す球体と変貌していた。

 「むうっ!?」

 ダナクの視線が、その眼球に固定された、その一瞬であった。

 「ぎへえっ!!」

 ジェムが歯を軋らせながら哭き声を上げ、右手で腰のナイフを引き抜くと、いきなりダナクの顔面めがけて突き出してきた。炎の光を受けて、赤く光る刃が肉に潜り込む寸前、

 「けえっ!!」

 エナクがショートスピアを振るい、ジェムに跳びかかった。がつん、と金属同士が激しく衝突する音が鳴り響く。ナイフの刃はダナクの直前で弾き返されていた。

 「シッ!!」

 刃の衝突音が空気中から消えるよりも速く、五ローナ余りあった間合いを一気に詰めて、カマナが横手からジェムのこめかみに鋭い蹴りを入れる。

 左足を軸にして、右足に体重とスピードを乗せた見事な蹴りだ。飛蝗の特性を持つ肉体を充分に活かした攻撃であった。常人ならば、その一撃で昏倒するか、あるいは首の骨が折れるかもしれない。

 しかし、ジェムは倒れなかった。

 「ぶけけけっ!!」

 血の混じった唾を撒き散らし、自分のこめかみを叩いていったばかりの足がまだ空中にあるうちに、それに向かいナイフで切りつける。

 「ちいっ!!」

 カマナが瞬時に半歩退がる。ナイフの刃先は、右脛の皮を薄く切り裂いたのみであった。バランスを崩したジェムは、その場に膝を突いて倒れかかる。

 同時に、黒い影がジェムめがけて動いた。バオである。口にハンドアックスの柄をくわえ、両手と両足の四肢で、二本足で走るよりも速く地を駆ける。

 ジェムが地上から跳ね上がる寸前、バオが素早く首を横に振る。次の瞬間、がつん、と骨肉を断つ音が鳴り、何かにつまづいたようにジェムの身体が前方へと倒れていった。地に残したジェムの左脚の膝から下を、バオのハンドアックスが切断していたのだ。

 「おおおおっ!!」

 自身の方向へと倒れてくるジェムの顔面に向かい、アジャセがウォーハンマーを振るった。堅いスイカを割るような破裂音が響き、ジェムは頭部から肉や骨の破片をぶちまけながら、数ローナ先まで吹き飛んだ。仰向けに地面に叩きつけられたジェムは、数度身体を痙攣させた後に動きを止めた。


 「――ふん」

 不愉快そうに、ダナクが息を吐く。先ほど油断をしたことが、自分でも許せないようだ。

 「けひひ」エナクが、揶揄するような笑い声を洩らした。「危なかったなあ、ダナク」

 「ちっ……」

 ダナクは舌を鳴らして、仰向けに倒れたジェムを見る。隣には、四つん這いの姿勢のままのバオと、肩にハンマーを担いだアジャセが並んでいた。

 「何者だ? こいつは……」

 唸るようにダナクが言う。

 「いやに人間(マヌ)離れした動きをする奴だったな」

 右脛から、細い血の筋を垂らしたカマナも呟いた。そして、屍体となったはずのジェムの元へ、カマナが歩み寄ろうとした時、

 「待ちなさい!!」

 シエラの鋭い声がそれを制した。彼女の声には並みならぬ緊張感が満ちている。

 思わず動きを止めて、振り返るカマナたちの視線の先には、赤い頭髪と尾を逆立てて、額に汗の玉を浮かべたシエラがいた。

 「うかつに近づかないで……」

 低い声を洩らすシエラの傍らには、先ほどまでの冷笑を消し、わずかではあるが顔色を変えたテージンの姿もある。

 「まだ終わっていないようだぜ……」

 テージンの言葉に、全員がジェムの方向を向く。ジェムの身体は仰向けに地面に倒れたままだ。砕けた頭部からは血が流れ出し、それを雨が叩いて流してゆく。

 「どういうことなの……?」シエラが呻くように声を出す。「心臓の鼓動は完全に停止している。でも、この男の肉体はまだ活動を続けているわ……!」

 シエラの狼の耳が、ジェムの方向へ向けられている。彼女の優れた聴覚は、ジェムの体内で蠢く音をはっきりと捉えていた。

 心臓は確かに止まっている。心臓から血液が送り出されなければ、栄養も酸素も肉体には運ばれない。当然肉体も活動することは不可能である。だが、シエラの耳には、それ自体が別個の生物のように、ジェムの筋肉や靭帯がめちめちと収縮する音が届いている。

 そしてシエラの嗅覚もまた、ある事実を彼女に知らせていた。

 ジェムが漂わせていた異臭――紛れもなく腐臭であったその臭いは、単に衣服に染みついた汗と垢が原因ではない。それは、ジェムの肉体そのもの、正確に言えば身体の内側から放たれていたのだ。

 「その男――」シエラの背骨に、禍々しい戦慄が疾り抜ける。「ここに来る前に死んで――!!」

 びくん、

 と、ジェムの全身が大きく震えた。ぐうっと、腹が上にせり上がってゆく。

 背中と地面の間に空間ができている。背を反らせ、右足の踵と両肩で自分の体重を支えていた。

 シエラたちの側から見えるジェムの腹や脚の筋肉が、びくびくと震えているのが分かる。皮膚の下に無数の蛇が潜り込んでおり、それらが肉の中で蠢いているかのようだ。

 ジェムは大きく首を振りたくり、身体の向きを反転させた。両手を地につけた、うつ伏せの姿勢となる。

 ごおお……

 低い、底にこもった唸り声を立てて、ジェムが顔を上げた。

 「ひいいっ!!」

 ボルドが悲鳴を上げる。そして声こそ出さなかったが、エナクたちの顔にも大量の汗が流れていた。調査隊全員が、そこに恐ろしく不気味なものを見ていた。

 ジェムは笑っていたのである。

 正面から見た顔の右上部、頭部の四分の一が消失している。アジャセのハンマーで砕かれた痕は無惨な肉塊と化しており、薄いピンク色の脳が半分こぼれ出ていた。

 割れた頬を伝い、白濁した脳漿が、ぽたぽたと音を立てて地面に落ちている。

 それでもなお、ジェムは残った紅い眼球を光らせて、唇を上下にぱっくりと開き笑っていた。

 めくれ上がった唇の内側では、残された歯が、めりめりと音を立てて長さを増してゆく。

 「ぎへえっ!!」

 凄まじい腐臭を含んだ呼気を、瘴気とともにジェムが吐き出す。同時に、その身体が動いていた。

 両掌と両膝をついた巨大な蜘蛛のような姿勢のまま、真横に跳ぶ。左脚の膝から下が無い状態とは思えない速さだ。横手には、ブナの林がある。

 「ええええっ!!」

 奇声を上げ、ジェムは一番手前のブナの幹に跳びついた。幹に両手の指を喰い込ませ、次には右足で幹を思い切り蹴りつける。宙を疾るように、ジェムの身体が大きく飛んだ。

 「がああああっ!!」

 獣の叫びを口からほとばしらせ、黄色い犬歯を剥き出しにして、ジェムが颶風のようにダナクへと襲いかかる。

 「ちいいっ!!」

 ダナクが臨戦体勢に入るのは同時であった。先ほど不覚をとったこともあり、前もって全身に“気”を張りつめさせていたのである。ダナクは浅く腰を落とし、大剣を上段に構えていた。

 がら空きとなったダナクの前面に、ジェムが頭から突っ込む。その瞬間、ダナクの発する炎にも似た“気”の圧力が大気に満ちた。周囲の者たちの皮膚に、殺気の針が跳ねる。

 「ぬん!!」

 ダナクが渾身の力で大剣を打ち下ろした。

 がつん、という肉と骨を同時に断つ音がして、地面に、ざあっと鮮血が降り注ぐ。

 ダナクの大剣が、ジェムの頭頂部から胸元までを一直線に断ち割っていた。だが、

 「ぶじゅじゅじゅっ!!」

 ジェムは傷口から血しぶきと肉片を噴き上げ、ダナクの両手首を包むように両手で握った。そしてダナクの腕を上へと持ち上げてゆく。胸元にまで潜り込んでいた刃が、ゆっくりと抜けていった。

 ジェムの肉体は、『生命力』という言葉を超越した、化け物じみた存在と化している。ついに、ダナクの大剣が完全に傷口から抜け出た。同時にジェムの頭部から、脳が完全にこぼれ落ちる。

 「化け物め――!!」

 ダナクが呻き声を洩らす。握られた手首には凄まじい力がかかり、骨が軋み悲鳴を上げていた。

 「ぎへええ……」

 蛇口のように血を垂れ流す口をぱっくりと開き、ジェムが笑った。残っていた右の眼球は刃の圧力で押し出され、頬にぶら下がっている。そして、ずくずくになった脳組織が頭部の穴から溢れ出し、ジェムは前のめりに倒れると、そのまま動かなくなった。

 「ふうう……」

 重い息を、ゆっくりとダナクが吐き出す。

 「とてつもない奴だったな……」

 カマナが低い声で呟いた。周囲には、一部始終を見ていたシエラたちも集まってきている。

 「ただの人間(マヌ)のはずが無い。一体、何者なんだ……」

 テージンが、誰にともなく呟いた、その時であった。

 「見て――!!」

 シエラが鋭い声を発し、ジェムの頭部を指差した。肉の中では、何かが蠢いている。

 “ごちゅっ”

 と、湿った音を立てて、血溜まりの中から何かが這い出てくる。それは、巨大な黒い蛭であった。

 長さは二〇ハスタ(二〇センチ)はある。表面が膿に似た汁で覆われており、それが血と絡み合い、蛭の体全体を不気味に濡れ光らせていた。

 血溜まりの中を這い回る蛭は、シエラたちの存在を確認したのか、体をむくりと起き上がらせる。

 腹部には無数の小さな白い触手が生え、一本一本に血がまとわりつき、紅い糸を引いている。見れば、頭部と思われる蛭の上部には小さな口が存在し、そこには細かい歯がびっしりと並んでいた。

 “おえあぁぁぁ……”

 蛭の口から高く細い声が洩れる。吐き気をもよおすような光景であった。

 「――くそったれが!!」

 テージンは顔を不快感で歪めると、右腕を伸ばし、掌を蛭とジェムの屍体に向ける。

 聖仙術を使用するには意識を集中する時間が必要だ。だが、テージンはその時間が圧倒的に短い。

 右掌から青白い電光が弾けたかと思うと、拳ひとつ分離れた空間に、直径一ローナほどの大きさの球体が発生した。

 球体はまるで、鈍い錆色の液体が無重力の空間に浮かんでいるかのような形状をしている。

 「『クシャーラ・アクシャ(腐蝕の涙)』!!」

 テージンは錆色の球体を、蛭とジェムの屍体に向かい投じた。球は目標の直上で砕け散り、直径数ローナに渡り、局所的な凄まじい強酸性の雨を降らせる。

 耳をふさぎたくなるような、恐ろしく不快な叫び声を蛭が発した。耳元で、金属の破片を思い切り擦り合わせたような声であった。

 強酸の雨がかかった蛭と屍体からは、音を立てて白煙が昇り、周囲には肉の焼ける臭いが充満する。時間にして数ソウ(数分)とかからずに、その場には溶けた血肉と骨の混ざり合った、腐臭を放つ赤黒い沼が出来上がっていた。

 調査隊のメンバーは、しばらくの間そこに突っ立ったまま、その沼を見つめていた。夜気の中には、沼の発する悪臭が漂っている。いつの間にか、森と大地を叩く雨が止んでいることには、誰も気づいていない。

 全員の呼吸が荒い。もう“それ”が動くことは無いと、今さらながら確信し、ようやくほっとした溜め息が皆の口から洩れた。


 その時――


 闇の奥から、不気味な、この世のものとは思えない声が聴こえてきた。獣とも、鳥とも、他の何ものともつかない、おぞましい声であった。

 その場にいた全員の視線が、ブナの森の奥――焚き火の灯りが届くことのない、深い闇の中へと向けられる。

 厚く濃い暗黒の奥で、凶々しい瘴気が膨れあがっている。この森、いや、周辺の大地そのものから、怨念と憎悪が集まってきたのではないかと思えるほどであった。


 ぎィいィいああァああああァァあァァァ……


 瘴気の中心で、ひしりあげる絶叫――そこには、この世のありとあらゆるものに対する、血も凍るような凄まじい呪詛の響きが込められている。

 それは、闇の中で引き裂かれんばかりに身を捩り、血涙を流して慟哭するような声だった。あるいは、生きながら心臓を掴み出される瞬間、人はこのような声を上げるのであろうか――


 やがて、慟哭の叫びは消え、森の中には静寂が訪れていた。

 闇の奥にひしめいていた瘴気も、今は全て消え去っている。

 しかし、誰もが身動きひとつ、言葉一語発しようとしない。シエラたちは全身に冷たい汗を流し、凍りついたようにただその場に立ち尽くしていた。



(四)

 朝の陽光が、濡れた草の上に差し込んでいる。昨夜の出来事が信じられないほどの、美しい朝であった。

 森から伸びた長いブナの影が、野営地にまで届いてきている。梢から覗く天空は、抜けるような美しい蒼さだ。

 だが、シエラたちの表情は晴れない。全員が、葬列のような陰鬱の影をまとっている。

 ボルドが火を起こし、大麦の粉を焼いた簡単な朝食を食べている間も、皆無言のままだった。

 消えない悪夢が、重く身体の底によどんでいるかのようだ。しかし、昨夜のことが紛れも無く現実であったことは、視界の端にある赤黒い沼が嫌でも示している。

 森の底に、まだ夜の余韻と薄い朝もやが立ち込めている中を、調査隊は出発した。目指すのは、当初の予定通りザワ村である。

 シエラとテージンが並んで立ち、前にダナクたちが位置する。ボルドが最後尾だ。皆口数は少なく、ただ黙々と歩みを進めてゆく。

 ブナの森は奥深く、果てしなく続いていた。ゆけどもゆけども、同じ森の風景が広がっている。

 だが、調査隊はしばらく前に道を見つけていた。人々の足や馬の蹄、そして馬の引く車の轍が同じ場所を何度も通り、やがて道となったものである。しかも、ここ最近にできたもののようだ。

 道は森の中を蛇行しながら、しかし確実にザワ村の方角へと向かっている。調査隊はその跡を追っているのだ。

 やがて半日も歩いたころ――少しずつ、ブナの森の様子が変化してきた。樹と樹の間隔がまばらになり、その間に別の樹が生えている。風の中には、やや酸味のある、とろけるように甘い芳香が混じり始めていた。

 「匂うわね」不意に、シエラが口にした。「マンゴーの香りよ」

 それから間も無くブナの森が終わり、調査隊の眼前にマンゴーの林が現れた。

 「これは自然のものではない」

 一定の間隔を置いて植えられているマンゴーの樹々を見ながら、カマナが言う。

 「これがマンゴー園なら、近くに村があるはずじゃねえか」

 エナクの言葉に、テージンが答える。

 「だが、このマンゴー園は、長期間手入れがされていないようだな」

 テージンが足元の地面を指差す。そこには、熟し切り樹から落ちたと思われるマンゴーの実が、幾つも転がっていた。枝に付いたまま、腐り果てている実もある。

 腐りかけた果実の芳香はどこか甘く、そして血の混じる腐臭に似ていた。肉の裡側を、冷たい触手でそろりと撫で上げられた感覚にシエラたちが襲われていたその時、「見ろ……」と、ダナクが小さく声を上げた。

 マンゴー園のある丘を下った所に、小さな川が流れている。その奥には、数軒の民間も確認ができた。調査隊は、遂にザワ村に辿り着いたのである。


 陽は西に傾きつつある。少しずつ夕暮れが近づいているのだ。昨夜の一件もあり、夜の闇に包まれる前に村に到着できたことに、皆は安堵していた。だが、一歩村に足を踏み入れた時に、それは脆くも崩れ去ることになる。

 村には人の気配が全く無かった。泥と木でできた建物は荒れ放題に荒れ、屋根も壁も崩れ落ちている。そうした半ば廃墟と化した家々を見ながら、シエラとテージン、そしてボルドの三人は、雑草の生い茂る村の通りを歩いていた。

 村の探索のため、現在隊は三つに分けられている。ダナク、カマナの組。エナク、アジャセ、バオの組。そしてシエラたちの組だ。

 「この村には誰もいないのかしら……?」

 歩きながら、シエラがテージンに訊ねる。

 「さあな」

 テージンは短く言い捨てただけであった。

 気まずい沈黙がしばらく続く。後方では、ボルドが心配そうにシエラとテージンの後ろ姿を見ている。

 「テージン……」シエラが、ぽつりと呟く。「あなたは変わったわ……」

 「――」

 「貧民街の孤児院にいたころのあなたは、心の優しい人だった……」

 「昔のことだ」

 「覚えてる? 子供のころ、私とボルドが、酔っぱらった兵士に絡まれていた時に――」

 「黙れ!!」

 テージンは、突如端正な顔を歪ませて激昂した。殺意すら含んだ凄まじい怒気を孕む眸が、貫くようにシエラとボルドを見据える。あまりの勢いに、シエラは思わず口をつぐみ、ボルドは、びくっと身をすくめさせた。

 「テージン……?」

 戸惑いを貌に現したシエラが、弱々しく声を洩らす。テージンは、そんなシエラの視線を避けるように顔を背けると、

 「いつまでも、くだらない話をするんじゃねえ……」

 と、苛立った声で告げた。

 それ以降、三人の間に会話は全く無かった。シエラとテージンは無言のまま歩き続け、二人の後を、おろおろとした表情でボルドがついてゆく。

 人の気配の無い村をいつの間にか通り過ぎ、三人は村の外れに位置する、石畳が敷き詰められた場所へと出ていた。

 周囲をタラ樹やピッパラ樹に囲まれた空間の奥には、青い屋根瓦を葺いた館が見える。村に入る前に見た、マンゴー園の持ち主のものであろうか。村にある民家よりも一際大きく、石を積み上げた立派な造りだ。

 石畳の間からは草が伸び、静かに微風に揺れている。瓦と瓦の間からも草が生えており、蔦が柱や建物の壁に這っていた。この場所も、長い間放置されていたように見える。

 朽ちかけた大きな木の門は、すでに開け放たれている。三人はシエラを先頭に門をくぐり、館の入口へと向かう。近づくと壁のあちこちが崩れており、そこからも中に入ることができそうであった。

 その前に立ち、崩れかけた壁に手を当てたシエラは、顔をしかめてテージンたちに言った。

 「妙な臭いがする……」



(五)

 その臭いを、テージンとボルドも嗅いでいた。嗅いだ瞬間に顔を背けたくなるような臭気――それは、紛れも無く腐臭であった。

 明らかに崩れかけた壁の向こうから漂ってくるその臭いは、腐った何かがただひとつそこに転がっている――そういう程度の臭いではない。恐ろしく濃厚に圧縮されたものだ。

 しかも、今三人のもとに漂ってきた臭いは、莫大な量の腐臭の、ごく一部であることがわかる。奥に存在するはずの腐臭の元とは、どれほどのものであろうか――

 「シ、シエラ様……」

 顔面蒼白となったボルドがシエラに声をかける。シエラはボルドを見やり、それからテージンと眼を合わせた。シエラは覚悟を己に言い聞かせるように小さく頷く。

 「入ってみましょう……」

 シエラが朽ちかけた扉をゆっくりと開く。まずシエラが館の中へと入り、テージンとボルドが後に続いた。

 中に入った途端に、腐った汚物の中に直接顔を突っ込んだような、粘り気すら感じさせる臭気が三人の鼻を突き刺す。臭いの汁が目の周りに付着したかのように、ボルドは目を閉じて何度も瞼を拳で拭った。

 館の内部は薄暗い。だが、明かり取りのための窓や、壁の崩れた箇所から入り込んでくる夕陽があるので、内部の様子は見てとれる。落日の紅光に染められた館の内部は、まるで一面に血をばらまいたかのようだ。

 やがて、三人の正面に、半分開きかけた厚い木製の扉が現れた。館の中央部に位置する大広間のようである。軋んだ音を上げながら、シエラが扉を押し開き、三人は内部へと入った。

 そこは百人を越える人数が入ることの可能であろう、広い空間を有していた。かつては豪勢な食事で来客をもてなしていたのであろうが、今はテーブルや椅子といった家具も無ければ、灯り皿も内部を飾る装飾品も無い。そこには、ただ濃い腐臭がたちこめているばかりである。

 崩れた壁を通して外から差してくる光が、ほの暗い空間を照らし、瓦礫をそこに浮き上がらせていた。三人は瓦礫を避けながら足を進ませてゆく。

 広間の奥までは光が当たらず、そこには黒っぽい土がうず高く盛り上がっていた。人の背丈を大きく越える、高さ五、六ローナ、幅十ローナ余りの巨大なものだ。

 先頭を歩いていたシエラが突然足を止めた。彼女の眼は、まっすぐに黒土の山に向けられている。

 後ろから恐る恐る歩いてきたボルドが、「どうしたんですか、シエラ様……」そこまで言うと、声を止める。シエラの横に立つテージンも、身体を硬直させていた。

 広間の奥を埋め尽くしていたものは土ではなかった。それは、夥しい数の生き物の死骸であった。

 一種類のみの死骸ではない。鼠に犬や猫、山羊に始まり、牛や馬、猿や狼の死骸が混ざり合い、山のように積み上げられている。

 百体、二百体ではない。その数、数千体――しかも奇怪なことに、どの死骸にも首が無い。いずれの首もその胴体から切り離されて、屍体に混ざり転がっていた。

 死骸の一部は、喰われたのか、肉が腐り落ちたのか、黄ばんだ骨や黒く変色した内臓が見えているものもある。

 さらに不気味なことに、屍体の間に、これもまた数え切れないほどの量の蛭の死骸が見えた。まるで蛇を思わせるほどの、巨大な蛭の屍体だ。いや、蛭の中には生きているものもあり、他の死骸の肋骨から肉の中に潜り込み、うねうねと動いていた。

 ボルドの上下の歯が、口の中で触れ合い、小さくかちかちと音を立てていた。恐ろしく不気味で、禍々しい光景であった。顔を背けようとしても、凍りついたように背けられない。

 「何て……」シエラが何かを言おうとしたが、息が詰まったかのように口が止まってしまう。彼女は深く息を吸うと、重い息とともに言葉を吐き出した。

 「何て……、何てことなの……」

 テージンの眼が、鈍い光を宿したようにぎらぎらと光っている。彼は睨むように、積み重なった死骸の山を見つめていた。

 「俺たちは……、どうやらとんでもないことに首を突っ込んじまったみたいだな……」

 テージンの低い呟きは、ひどく鮮明にシエラの耳に響いていた。





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