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第十四話 腐り落ちる果実

(一)

 その黒猫が、いつ頃からドワーフ王ベルンハルトの傍にいるようになったのか――

 それを、はっきりと記憶している者はいない。

 痩せ細り、毛並みも決して良くはない。およそ、一国の王が飼うには相応しくない外見の猫である。

 ベルンハルトは常にその黒猫を連れ歩いていた。その際には、黒猫はまるで光を避けるかのように、ベルンハルトの影の中を歩く。

 奇妙な猫であった。

 昼夜を問わず、暗がりを好む。それが日の落ちた薄暗い王宮内部であっても、さらに深い闇を求めるように、物陰へと身を潜ませる。

 そして、その暗がりから、じっとこちらを見つめているのだ。

 瞬きひとつせず、歪なほど大きな眼を見開き、睨むようにドワーフたちを見ている。

 当然、城内の使用人はおろか、兵士たちも気味悪がった。

 ふと気がつくと、その黒猫は足下に立っていたり、天井近くの物陰から、物音ひとつ立てずにこちらを見ているからだ。

 さらには、大臣たちの部屋にまで黒猫は現れるようになった。

 それも、主君であるベルンハルトや、魔神族(ダイヤ)について話していると、必ずと言っていいほど現れる。

 あらかじめ部屋の内部を確認し、猫の姿が無いと安心したとたん、どこからともなく猫の鳴き声がした――そんなこともあった。

 いつの間にか、王宮内の者全てが息抜きもできない状況となり始めている。だが、肝心のベルンハルトが、その黒猫をいたく気に入っているので、誰も“その猫を何とかしてくれ”と言い出せない。

 ただ、無駄に時間だけが流れていった。



 その日、王宮内部の謁見の間には、ふたりの人物がいた。

 部屋の内側は、ドワーフたちの優れた技術を物語るように、鏡の如く磨きこまれた白亜の大理石に囲まれている。

 隅の四ヶ所では、精緻な彫刻と美しい宝石で飾られた銀の燭台が設置され、赤々と焚かれた火が、室内を明るく照らしていた。

 一段高くしつらえた中央の玉座には、ドワーフ王ベルンハルトが座している。

 王の前で膝を突いて頭を下げているのは、代々王家に仕えてきた名門の出であり、自身も大宰相を務めるパウルだ。

 ベルンハルトは、いかにもドワーフらしい外見をしている。

 身長は百五十ハスタ(百五十センチ)。深い光沢のある、鮮やかな深紅に染められたビロードのマントの上からでも分かるほど、両肩の筋肉が盛り上がっている。

 岩石を削り出したかのような厳めしい相貌であり、目も口も大きい。

 鼻の横から左耳にかけて、ひび割れたような傷が走っている。彼が勇猛な戦士として、数多くの戦場を生き抜いた証だ。

 頭上には、眩いほどに煌めく王冠が頂かれている。宝飾技術の粋を集めて造られたそれは、歴代の王に受け継がれてきた至高の芸術品である。

 蔦の絡み合う意匠が施された本体部分は、加工の難しい白金を極限まで引き伸ばすことで、植物の繊細さを見事に表現している。

 全体を飾るダイヤの数は数千個。光が当たると、それらが無限に反射し合い、星空を凝縮したかのような輝きを放つ。

 頂には、赤子の手ほどの大きさがある巨大な青玉(サファイア)が飾られている。

 表面には、数百もの六角面カットが施され、内部に深い海の色を抱いた、揺らめく幻想的な光を宿していた。

 王冠の下の顔は、頬から顎にかけて、ドワーフの象徴とも言える濃い髭に包まれている。

 ベルンハルトの茶色い髭は、マントの襟元にある白いアーミン(ヤマイタチの毛皮)よりも豊かであった。

 マントと同じく紅色の内衣から覗く両拳は、岩をも素手で砕けそうなほどに太く、節くれ立っている。

 ベルンハルトは、その無骨な左手を玉座の肘掛けに置き、右手には葡萄酒を満たした赤い瑠璃の杯を持ち、大宰相パウルの話に耳を傾けていた。

 パウルは、ベルンハルトとは対照的な外見である。

 身長はベルンハルトよりも小さい。ドワーフの中でもかなり小柄だ。体格も肉が薄く“鉱山暮らし”のイメージとは結びつかない。

 ドワーフというよりは、年老いた小柄な人間(マヌ)と言われた方が納得できる。

 かろうじて、胸元まで伸びる豊かな髭がドワーフらしさの証だろうか。だが、その髭にもかなり白いものが混ざっていた。

 パウルは膝丈まである深緑に染められたコートを羽織り、下には袖無しのベストを着ている。ベストの前面とコートの縁には、金糸で細やかな刺繍が施されていた。派手さは無いが、上質の布地と技術を使った優美なものだ。

 “無骨な炭鉱夫”のイメージが強いドワーフが貴族の衣装を着ると、どこかにアンバランスなものが出てしまう場合がある。しかし、パウルは高貴な服装をごく自然に着こなしていた。

 そして、ベルンハルトの前に膝まづき王を見上げるパウルの顔は、憔悴しきっていた。優雅な衣装が、より一層彼の心身に刻まれた疲労を浮き上がらせているようである。

 パウルの心と身体を蝕む深い疲労――その原因を造り出しているのは、紛れもなくベルンハルトだ。

 “頑固でプライドが高い”と、他国民から評されるドワーフたちであるが、ベルンハルトはその体現者と言える性格であった。

 彼は前々から、大国でありエフィソスへ高圧的な態度をとるガイラースを強烈に敵視していた。そこに目を付けた魔神族(ダイヤ)からの援助を受けて、ベルンハルトはガイラースに対抗するため、周辺の小国へ侵攻を開始する。

 着々と領土を拡大してゆくエフィソスであったが、それはガイラースにとって、脅威よりむしろ好機となった。エフィソスの豊富な鉱物資源と鉱山技術は、ガイラース側から見れば戦争を仕掛ける経済的メリットが十分にあるからだ。

 当然両国の関係は急激に悪化してゆく。その狭間で、パウルは戦争を回避しようと懸命に駆け回っていた。

 まさに命懸けである。パウルは前日の夜まで、今や敵国同然のガイラースに滞在していたのだ。

 通された部屋で、武装した兵士たちに囲まれながら、それでも一歩も引かずに「エフィソスにはガイラースと戦争をする考えは無い」と、必死に訴えた。「必ずベルンハルト王を説得してみせる」と――

 精神を限界まで削り取られながらも、パウルは帰国直後にベルンハルトと謁見を行った。目的はただひとつ、魔神族との同盟の解消である。

 パウルは、いざとなれば魔神族がベルンハルトを――エフィソスを簡単に見放すことを十分に承知していた。

 それを、ベルンハルトに伝える。王の考えに真っ向から反対するのだ。その場で死罪を言い渡されても文句は言えない。

 だが、パウルは迷わなかった。それが、長年王に仕えてきた自分の使命であると、彼は確信していたからだ。

 パウルは鬼気迫る表情で熱弁を振るった。ここで命を落としてもかまわない――それほどの覚悟であった。

 だが――

 「黙れ! パウル!!」

 ベルンハルトは、パウルの忠言を怒声で打ち切ったのだ。

 その声に含まれた凄まじい悪意に、思わずパウルは口を止める。そしてベルンハルトの貌を見た瞬間、彼は「う……」と、喉まで出かかっていた次の言葉を呑み込んでいた。

 ベルンハルトの顔全体は憎悪で醜く歪み、唇がめくれあがり歯が剥き出しになっていた。まさに鬼相である。その眼には、はっきりと分かる狂気の光が溜められていた。

 ベルンハルトは岩のような身体を激しくぶるぶると震わせ、

 「腰抜けが! きさまのごたくは聞き飽きたわ!! 余の望みはただひとつ、ヴァリシュタを殺して首を晒し、五体を切り刻んで犬に喰わせろ!!」

 玉座から立ち上がり、口の端に泡を吹かせて叫んだ。

 狂気を孕んだベルンハルトの視線がパウルを射抜く。並の者ならば、生きた心地がしないだろう。だが、

 「お気をお静め下されませ……」

 それでもパウルの声は、このような場面でも落ち着いていた。

 「事を急がれますな。陛下はエフィソスの臣民を、無駄に死なせるおつもりですか?」

 「なに!?」

 ベルンハルトはパウルの言葉に一段と激昂し、右手の杯をパウルに向かい投げつけた。杯はパウルの額へ直撃し、音を立てて砕け散る。

 「……」

 顔を葡萄酒と、額の傷から流れる血で紅く染めながらも、パウルは硬い表情のままベルンハルトを見据えていた。

 強い意思を秘めた彼の瞳は、血が絡みついても閉じられることは無い。

 その時、ベルンハルトの貌に変化が現れていた。

 顔に刻まれていた憎悪の感情が徐々に薄れてゆく。そして、己のパウルへの行為に初めて気づいたような、驚愕と困惑が入り交じった表情を浮かべていたのである。

 「おお……、パウル、余は……!」

 ベルンハルトの声音は先ほどとは一変して弱々しいものとなっていた。そして、彼は「う……」と低い呻き声を洩らすと、マントの上から自身の胸を掴み、玉座の上へ半ば崩れるように腰を落とす。額にはじっとりとした脂汗が浮き、呼吸も荒くなっていた。

 「陛下!!」

 異変に気づいたパウルは立ち上がり、ベルンハルトの元へ駆け寄ろうとする。だがその瞬間、

 「近寄るな!!」

 ベルンハルトの貌には再び狂気と憎悪が宿り、口からは激しい怒声が発せられた。

 食い縛られた歯の隙間から、しゅうしゅうと肉食獣のような呼気を洩らし、ベルンハルトは血走った眼でパウルを睨みつけている。

 「下がれパウル……! 目障りだ……!!」

 獣の唸りを思わせる低い声で言うと、ベルンハルトは大声で謁見の間の外に控える近衛兵を呼びつけた。

 すぐさま室内に二人の兵士が飛び込んだが、彼らが目にしたものはベルンハルトの異様と、額から流血し立ち尽くすパウルの姿であった。一瞬事態を把握できず、二人は硬直してしまう。

 「連れていけ!!」

 ベルンハルトの怒鳴り声が兵士を我に返らせた。彼らはパウルの両脇を抱え、謁見の間から連れ出そうとする。

 「陛下……、あなたの御身に何があったのですか!? 陛下!! ええい、その手を放せ!!」

 パウルは謁見の間に入ってから初めて声を荒げていた。たった今自身が目にしたもの、それこそが、これまでのベルンハルトの異常とも言える行動に関わるものではないか――パウルはそう直感していたのだ。

 「陛下!! 私の話をお聞き下さい!! 陛下!!」

 しかし、パウルの叫びも空しく、彼の身体は屈強な兵士たちに抗うことはできない。強引に向きを反転させられ、扉の方向へと引きずられてゆく。

 その時――

 「く、く、く……」

 低く、掠れたような忍び笑いが聞こえた。

 明らかにベルンハルトの声とは違う。パウルが思わず振り返ると、いつの間にか玉座の陰に、金緑の眼をパウルに向ける黒猫の姿があった。

 黒猫は歪なほどに大きな眼を見開いたまま、睨むようにパウルを見ている。

 炯炯とした妖しい瞳を、黒猫が一際強く光らせた瞬間――突然パウルの足元から、凄まじい勢いで炎が噴き上がった。炎は音を立てて、瞬く間にパウルの全身を包み込む。

 「おがあああっ!?」

 パウルは叫び声を上げた。炎の中で身をよじり、老齢とは思えぬ強い力で兵士の腕を振りほどく。

 炎に包まれたまま、扉に身体ごとぶつかると、そのまま部屋の外へと転がり出た。

 パウルは床に倒れてのたうち回り、何とか炎を消そうともがくが、炎は一向にその勢いを弱める気配がない。

 皮がめくれ肉が覗く。皮膚下の黄色い脂肪層が細かい泡を吹いている。

 炎の熱から目を守ろうとしたが、すでに瞼は焼けて眼球が剥き出しになっていた。その眼球までも熱で煮えて、視界が白く濁っている。

 「ぎあああああっ!!」

 断末魔の叫びをあげたその時、パウルは背後から肩を叩かれた。

 「ど……どうされたのですか、パウル様……?」

 先ほどパウルを連れ出そうとしていた兵士の声だ。兵士はパウルの隣に膝を突き、彼の顔を覗きこんでいる。

 「突然大声をあげたかと思えば、床を転げ回り……。一体何があったのですか?」

 もう一度問われた。パウルは兵士の言葉を耳にしながら、自身の状態を理解できていない顔で、眼前に延びる白亜の通路を見つめている。

 炎は燃えていなかった。床にも服にも、燃えた痕跡はない。

 「……火、は?」

 呆然とパウルは呟いた。ふと手を見れば、皮膚は焼けただれてなどいない。煮えたはずの眼球も、しっかりと王宮の内装を映し出している。

 「火……ですか?」

 「たった今、私は全身を火で焼かれていた……」

 緊張した声で、パウルが言う。

 「何を……」

 声に困惑を滲ませながら兵士が訊いた。遅れて駆けつけたもう一人の兵士も、パウルの異常とも見えた行動に戸惑いを隠せない。

 パウルの全身を包んだ紅蓮の炎は、彼らには見えていなかった。

 パウル自身は、自分が今どのような目に遭ったのかを既に理解している。自分は幻を見た、いや“見せられた”のだ――

 無意識に止めていた息を、がひゅう、と音を立てて吐き出す。呼吸を整えるうちに、パウルの全身に冷たい汗が噴き出してきた。

 数度呼吸を繰り返し、パウルはゆっくりと背後を振り返る。視線の先には、玉座の陰からこちらをじっと見つめる黒猫の姿がある。

 ふたつの視線が重なった瞬間、パウルの背筋に、ぞくりと凍てつくものが走った。彼の目には、黒猫が突然得体の知れない化け物のように見えたのだ。

 そんなパウルの様子を見て、黒猫は口をぱかりと開けると、血を含んだように紅い舌をひらひらと踊らせた。

 それはまるで、パウルの内心を見透かし、嘲笑うかのようであった。

 振り返った姿勢のままパウルは動かない。暫し、その姿を混乱した表情で見ることしかできない兵士たちであったが、ふと我に返り、慌ててパウルの両脇を抱えて彼を立ち上がらせる。

 パウルは先ほどのように抵抗することはなかった。ただ糸の切れた操り人形のように、力無く支えられている。

 そのまま、半ば引きずられるように通路を運ばれてゆく中で、パウルは自分が、そしてエフィソスが、これから相手にしなければならない敵がどれほどのものか――その片鱗を理解し始めていた。

 そういえば――

 ふと、パウルは思い出す。

 あの黒猫に、ベルンハルトは自ら名を与えていた。そして、その名は忌まわしい魔神族の言葉であったはずだ。

 彼らの言葉で『暗黒』を意味する名前――

 その黒猫は、『アバラ』と呼ばれていた。



(二)

 パウルの尽力も空しく、ついにガイラースはエフィソスへの宣戦を布告。両国は戦争へと突入した。

 開戦当初、エフィソス軍は大会戦を避けて山岳部でのゲリラ戦を展開させる。

 戦争を泥沼化させ、時間をかけてガイラース軍を弱体化させる。そうすれば、やがて魔神族が横やりを入れてくるのではないか――そんな思惑がエフィソスにはあったのだ。

 だが、パウルの予想通り、魔神族は動かなかった。

 ベルンハルトの目論見は完全に崩れ去る。他国の援助を失ったエフィソスの主要財源は、鉱山採掘物の貿易であった。

 当然、ガイラースの封鎖により貿易は滞り、エフィソスは急激に疲弊してゆく。ゲリラ戦もガイラース軍の強襲部隊により、次々と拠点を制圧された。

 数ヶ月のうちに、エフィソスは完全に追い詰められていったのである。


 そして――



(三)

 迷路のように曲がりくねった廊下を、エフィソス王妃カタリーナは歩んでいる。

 内部は薄暗く、いくつもの四つ角が存在している。部外者が浸入したとしても、王の部屋まで迷わずたどり着くのは難しいだろう。

 カタリーナは先代の王の娘である。迷路のような構造をした通路も、彼女にとっては馴染み深いものだ。

 カタリーナもベルンハルトと同様に、いかにも『ドワーフ』といった外見である。ただし、彼女の場合は“この大陸における『女性のドワーフ』”ということだが。

 女性ドワーフの特徴として、まず男性との体格差がある。

 男性ドワーフの平均身長が一五〇ハスタであるのに対して、女性ドワーフは平均でも一九〇ハスタ。女性は他種族と比較しても、かなりの大柄なのだ。

 顔つきも、男性ドワーフに多い“無骨”と表現される外見とは正反対に、整った麗しい顔立ちをしている者がほとんどである。

 体つきも、男性ドワーフのような、ごつごつとした筋肉質ではない。大型の猫科肉食獣を彷彿とさせる、しなやかさを持った美しい肢体だ。

 女性ドワーフの一般的な性格として、彼女たちは温厚で争いを好まない。たとえ敵対することがあっても、多くの場合は自分から身を引いてしまう。その点も男性ドワーフとは正反対と言える。

 また、男性ドワーフが、貴重な鉱脈に関する知識や採掘技術、土木建築作業に長けているのに対し、女性ドワーフが得意とするのは、金銀細工や宝石加工など。それに染色や織物も巧みである。彼女たちの造り出す工芸品は、他国でも非常に人気が高い。

 ちなみに、エフィソスにはもうひとつの種族、『巨人族』が住んでいる。

 人口の比率は、ドワーフが九〇%、巨人族が一〇%程度。エフィソスの中では少数派だ。

 彼らは三ローナ(三メートル)以上の巨躯を有し、単眼や多肢といった特徴的な外見の者も多い。そのため、昔から“粗暴な怪物”というイメージを持たれがちだ。しかし、実際は穏やかで友好的な性格の持ち主がほとんどである。

 彼らは非常に優秀な金属精錬と鍛冶の技術を持っている。自然と古来よりドワーフと巨人族の間には交流が生まれ、ふたつの種族は共存してエフィソスを発展させてきた。

 また、ごく稀ではあるが、巨人族の中には太古の記憶――好戦的で勇猛な戦士の血を色濃く残し産まれてくる者もいる。

 そのような者たちは、他の巨人族のように鍛冶職人の道を選ぶことは無い。彼らは本能の導くままに戦いを求め、やがて巨人族傭兵部隊を結成した。桁外れの戦闘力は、他国でも重宝されている。


 細い柳葉のような眉、細く高い鼻梁、鮮やかな紅色の唇、雪の白さを持つ肌――カタリーナは、洗練された美しさをその身に宿す女性だ。

 煌めく金色の髪を左右に分けて肩の下まで垂らし、額にはダイヤモンドやエメラルドを惜し気もなく嵌めこんだ銀のティアラが輝いている。

 一九〇ハスタのすらりとした肢体を包む青染めの絹のドレスは、腕利きの職人が作った一級品だ。表面には金糸、銀糸が用いられ、絵画のように装飾的な模様が織り出されている。

 だが、美しい衣装や装身具に包まれたカタリーナの表情には、深い憂いが現れていた。彼女が歩む、薄暗い通路に満ちた圧迫感――それはカタリーナを、そしてエフィソスを包む空気そのものであった。

 角に立つドワーフの近衛兵たちは、皆一様に無表情で一言も口をきかない。死人のように生気の失せた顔をうつむかせている。そこには、自国民のみならず他国からも『勇猛果敢』と評されたドワーフ兵の面影はない。

 連日のように舞い込んでくる、山岳ゲリラ部隊壊滅の報告、国境に結集しつつあるガイラースの大軍団――じわじわと、恐怖と絶望がエフィソスの民の心を侵食していた。

 カタリーナは、そんな近衛兵たちの様子を見て唇を噛み締める。

 エフィソスの王都は、今や都市そのものが陰鬱な気配に包まれていた。

 整然と並んだ石造りの建築物は、かつてはドワーフたちの技術力の高さを示すエフィソスの象徴でもあった。だが、今は脅えた臣民たちを飲み込んだ巨大な墓石と化している。

 カタリーナが目指すのは、王宮最奥部に位置するベルンハルトの自室である。現在のエフィソスの状況を造り出したのは、紛れもなくベルンハルトだ。そして、その張本人は数日前から自室に閉じこもったまま出てこない。それ以前には、大宰相パウルを罷免してしまっている。

 カタリーナは、エフィソスの現状を深く哀しみ、民の行く末を案じていた。自分と同じ想いを共有してくれていたパウルに対してのベルンハルトの仕打ちも、もっと自分が強硬に止めるべきであった、と後悔している。

 夫であるベルンハルトは、確かに人一倍頑固でプライドが高い。だが、異なる意見に耳を貸さない傲慢な性格ではないはずだった。

 あの時、魔神族からの援助を思いとどまるように意見していれば、いや、夫の様子が変わり始めた時に、もっと注意しておけば――

 どれだけ後悔しても遅いことは、カタリーナ自身も理解している。しかし、彼女はまだあきらめてはいなかった。

 生来、温和な性格のカタリーナであったが、王家の産まれである誇りと、王妃としての自覚と責任感は強い。

 何としてもベルンハルトを説得し、戦争の長期化は回避する――カタリーナは、強い決意を胸に秘めて歩む。

 いくつもの角を曲がり、回廊を道なりに進むと、深青のビロードで飾られた大扉がカタリーナの前に現れた。この扉の奥にベルンハルトがいる。だが――

 カタリーナは、すぐにその場の異変に気がついた。

 本来、大扉を挟むようにして立っているはずの近衛兵の姿がどこにもない。

 彼女は立ち止まり、周囲を見渡すが、人の気配は感じられなかった。天井や通路の隅に、黒々とわだかまる暗闇が音を飲み込んだかのように、扉の周囲は静寂が支配している。

 扉へ向かって伸ばされかけた、カタリーナの手が途中で止まった。

 扉を開いた瞬間、何かが、自分の存在する世界の何かが変わってしまう――

 不意に、カタリーナはそんな予感に襲われていた。

 しかし、彼女の迷いは一瞬で破られる。扉は大きな軋み音を立てて、ゆっくりと開かれてゆく。それは、カタリーナの意思ではなかった。扉は誰も触れることなく、ひとりでに開かれたのだ。



(四)

 かつてその部屋からは、扉を開けた途端に、熟練の楽士たちの奏でる華やかな音楽が流れてきた。時には、鼻孔を心地よくくすぐる、豪華な料理や高貴な美酒の香りも――

 “おお、やっと来たか、カタリーナ。待っていたぞ。さあ、お前もこちらで楽しみなさい”

 ベルンハルトは満面の笑みをたたえて、いつもカタリーナを向かえていた。

 一瞬、カタリーナの脳裏には、かつての幸福な日常が甦っていた。だが、今彼女の眼前にある現実は、それとはあまりにも姿を変えている。


 まず、カタリーナに圧迫感すら持って押し寄せてきたのは、強烈な臭気であった。

 黒々と口を開けた扉の向こうから、濃い闇色をした風が吹き寄せてくる。その風に含まれた臭気を、カタリーナは嗅いだのだ。

 「う……」

 思わず、カタリーナは呻き声を洩らす。

 血の臭いのような、もっと生臭いような、強烈に吐き気を催す臭気が、部屋の奥から風に乗って運ばれてくる。

 カタリーナの身体は、いつの間にか細かく震えていた。目の前に広がる暗黒と押し寄せる腐臭が、彼女の気力を削ぎ取ってゆく。

 思わず一歩後退りしたカタリーナであったが、その時、彼女の耳に微かな声が届いてきた。


 「   は違う……」

 「   だよ……」


 ぼそぼそと掠れるような小さい声のため、はっきりと内容は聞き取れない。だが、それは紛れもなく人の声であった。

 ふたつの声は、光の届かない部屋の奥で、何事かを言い合っている。片方の声はカタリーナの記憶にはない。しかし、もう片方の声はベルンハルトのものだった。

 「あなた……」

 カタリーナは小さく呼びかけるが、返事はない。言い合う声は、変わらず聞こえてくる。

 微かに、しかし確実に耳に届いたベルンハルトの声が、カタリーナの足を部屋の中へと踏み出させていた。



(五)

 暗い部屋の中は、まるで巨大な獣の顎の中を歩くような感覚に襲われる。身を包む闇が、粘着質なものに姿を変えて、全身に絡み付いてくるようだ。

 灯りの用意はある。とは言え、カタリーナが手にしているのは、取っ手付きの小さな灯り皿だ。目の前と足元くらいならば光が届くが、部屋全体までは照らせない。むしろ、部屋の中に充満する異様な闇が、今にもか細い光を呑み込んでしまいそうなほどだ。

 カタリーナは全身に冷たい汗をかいている。眼と鼻と口から染み込んでくるどす黒い闇が、彼女を本能的に怯えさせていた。

 淀んだ室内の空気には、強い臭いが漂っている。血の臭い、糞尿の臭い、腐臭、獣臭、屍臭――部屋に満ちているのは、それらの全てが混じり合ったものだ。ねっとりとした強烈な臭気は、空気に粘り気さえ与えているようである。

 カタリーナは震える手で灯り皿を持ち、ゆっくりと歩みを進める。向かうのは、臭気がより濃くわだかまっている方向――そこが、ベルンハルトの声が聞こえてきた方向でもあったのだ。

 ふと、弱々しい光の中に、黒檀のテーブルが現れた。つい数ヶ月前までは、その上に豪華な食事が美しい食器に盛り付けられて並んでいたはずである。

 今、テーブルの上にあるのは、汚れ割れた食器と、変色して悪臭を放つ料理の残骸だ。干からびた鼠の屍が乗っている皿まである。しかも、鼠の腹には食いちぎられた痕があった。

 カタリーナの頭の中に、口の周囲に血をまとわりつかせ、鼠の腹にかぶりつくベルンハルトの姿が浮かんだ。彼女は、自身のおぞましい想像を追い払うかのように、強く頭を振る。

 その時――濃い暗闇の中で、何者かが動く気配がした。カタリーナがそちらの方向へ灯り皿を向けると、前方の暗がりに浮かび上がる影が見えた。

 “それ”は、うずくまった人間ほどの、紅い塊のようであった。

 か細い光を時折反射するのは、床の上に転がっている紅い塊がもぞもぞと動くからである。

 カタリーナは“それ”の正体が何であるのか、すぐに分からなかった。無理もない。“それ”は、彼女の記憶にある姿とはあまりにも違い過ぎていたのだ。

 カタリーナが紅い塊の正体に気づいたのは、その上部から煌めくものが見えたからである。深い碧の輝きを頂きに放つ、ダイヤをちりばめた王冠――

 その下にある顔がゆっくりと持ち上がる。くすみ、光沢を失ったビロードのマントから出てきたのは、変わり果てたベルンハルトの顔であった。



(六)

 カタリーナは目の前の光景を呆然と見つめていた。あまりの衝撃に、両眼で捉えた映像を脳が知覚することを拒否している。

 ベルンハルトは別人、いや、別の生物の如く変貌していた。

 痩せ細った身体、枯れ枝のような腕と脚。衣服は身に着けず、肌の上に直接マントを巻きつけているようだ。

 その背は、中ほどから極端に前方へ折れ曲がっていた。首も歪んでいるらしく、顔が斜め上を向いている。

 強い異臭が身体から漂ってくる。床には所々に糞や小便の跡があり、ベルンハルト本人の足元にも糞が転がっていた。

 ベルンハルトの頬は痩け、骨の上に直接皮膚を張り付けたようになっていた。眼窩からは、今にも眼球がこぼれ落ちそうなほどである。頭髪は残らず白髪へと変わり、枯れ草のように乱れもつれている。頬から顎を覆う髭は、半開きになった口から垂れる涎で固まり、捩れて束になっていた。

 そして、その眼――

 ベルンハルトの両眼は濁り、視線の先はどこにも定まっていない。瞳の中に、白濁した泥水を注ぎ入れたようだ。双眸からは、知性や意志といった、人間的な感情が欠落してしまっている。

 「あ、あなた……」

 カタリーナ口から掠れた声が出た。本人が意識したものではなく、無意識に口から洩れてしまったものだ。

 妻の声に反応したかのように、ベルンハルトの濁った目玉がぎょろりと動いた。ゆっくりと瞳が移動し、自分の正面に立つカタリーナを見た瞬間、ベルンハルトは頬を引きつらせる。

 「ひいぃぃっ!!」

 奇声をあげた。

 「殺しにきたのか、俺を殺しにきたのか!?」

 ひびの入った鐘を叩くような、高く割れた声であった。眼球が凄まじい速度でぐるぐると回転している。

 「悪かった、俺が悪かった。許してくれ。違うんだ。先に殺そうとしたのに、俺はあんなことになるなんて、死にたくない。俺は嫌だ……」

 支離滅裂な言葉を吐くベルンハルト両目からは大量の涙が溢れ出ている。ミイラのように変わり果てた身体のどこに、これだけの水分が残っていたのかと思うほどだ。口の端からも、唾液が泡となって吹き出していた。

 「あなた! 一体、何を言っているの……?」

 カタリーナが声をかける。すると、ベルンハルトは怯えたように身をすくませて、壁に向かい腰で這って逃げてゆく。

 「あなた! 私です、カタリーナです!!」

 悲鳴に近い声でカタリーナが呼びかける。その声を聞いて、ほんの一瞬、ベルンハルトの眼に正気が戻ったように見えた。

 「カタリーナ……?」

 だが、妻の名をベルンハルトが口にした途端に、再び彼の眼球は裏返り狂気が剥き出しとなる。

 「こ、殺しに来たんだろう! そうだ、知っているぞ。俺を、殺しに来たんだな! 悪魔め、汚らわしい悪魔どもめ!!」

 「悪魔……?」

 「俺は殺されないぞ。俺は殺されないぞ。俺は殺されないぞ……」

 うわごとのように、ベルンハルトは同じ言葉を繰り返す。

 「だ、大丈夫です。私が側にいます――」

 そう言って、カタリーナが灯り皿を持たない左手をベルンハルトへ差し出す。すると、

 「がああっ!!」

 獣の叫びをあげて、ベルンハルトはその左手に噛みついてきた。

 がつん、と大きな音を立てて、ベルンハルトの歯が空中で噛み合わされる。咄嗟にカタリーナが手を引かなければ、彼女の指は喰い千切られていただろう。

 「殺してやる! 先に殺してやるぞ、悪魔どもめが!!」

 怨念が込められた絶叫をあげながら、ベルンハルトは四つん這いのまま床を疾り、部屋の外へ飛び出して行ってしまった。

 「あなた!!」

 カタリーナがベルンハルトを追って、駆け出そうとしたところへ――

 「無駄ですよ……」

 低い、底にこもった声が部屋に響いた。方向はカタリーナの背後である。

 それは、肉の内側に凍てついた毛虫が這い回るような、全身が怖気立つ声音であった。カタリーナの身体は一瞬で硬直してしまう。

 か、か、か……

 声の主が嗤い声をあげた。その嗤いは、カタリーナの背後からゆっくりと近づき、彼女の前面へと回り込んでくる。

 カタリーナは眼球だけを動かして声の主を追う。嗤い声は彼女の目線よりもずっと低い場所――前方の床近くから響いている。

 そして、カタリーナの眼前へと姿を現したものは、ベルンハルトの連れていた、みすぼらしい黒猫であった。

 カタリーナの手にした灯り皿の光がぎりぎり届く距離から、黒猫は金緑色の瞳を凝っと彼女に向けている。そして、

 「哀れな御方ですなぁ、ベルンハルト様は……」

 黒猫は紅い口を開けて、しわがれた声で人語を発したのだ。

 息を呑み、驚愕に目を見開くカタリーナ。そんな彼女へ妖しい視線を注いだまま、黒猫は言葉を続ける。それは、人語を話すようには発達していない獣の口から出ているとは思えないほど滑らかなものであった。

 「権力というものは、一度手に入れれば、今度は奪われる危険に晒されるもの……。特に、自分が薄汚い手を使っていたなら、それをされる恐怖もよく分かる……。いやぁ、たまりませんなぁ」

 白く鋭い歯を剥き出しにして話す黒猫の顔は、カタリーナの眼にはまるで自分たちを嘲笑っているように見える。

 「ですが、もうおしまいですね。あそこまで酷く壊れちゃうとなぁ。この調子なら、思ったより早くガイラースとケリがつきそうですねぇ……」

 そこまで言うと、黒猫は再び低い嗤い声をあげる。

 混乱するカタリーナの脳内で、黒猫の言葉がゆっくりと組み合わされてゆく。そして、その意味を理解した瞬間、彼女の裡側に激情が爆発した。

 「――!!」

 カタリーナの口から、半ば獣にも似た叫び声が発せられる。同時に、彼女は右手の灯り皿を黒猫に向かい投げつけた。

 「おっと」

 だが、黒猫は灯り皿を軽々とかわしてしまう。灯り皿はけたたましい音を立てて、床の上に跳ね返った。

 黒猫は、降り立った床の上からカタリーナに向かい、口の両端を大きく吊り上げる。そう、今度は明らかにカタリーナを嘲笑しているのだ。

 「非道いことをしますなぁ。相手はか弱い猫ですよ、カタリーナ様……」

 カタリーナの全身が、ぶるぶると細かく震えている。恐怖ではない。激しい怒りのためだ。彼女の両眼からは、自分でも知らないうちに涙が溢れている。

 黒猫とカタリーナの姿が下からの灯りに照らし出されていた。床の上に落ちた灯り皿の油に火が燃え広がったのである。火は少しずつ広がり、内装として掛けられたビロードの幕にも燃え移ろうとしている。だが、黒猫とカタリーナはその場から動こうとしない。

 「返してよ」

 カタリーナが言う。

 「私のあの(ひと)を返してよ!!」

 叫んで、黒猫へと掴みかかる。寸前で黒猫がカタリーナの指先から逃れると、彼女の爪は黒猫の立っていた床石を抉り取ってしまった。荒ぶる感情が、普段は抑えられているカタリーナのドワーフとしての身体能力を引き出している。しかし、黒猫はその状況を愉しむかのように、あえてカタリーナの手の届くぎりぎりの距離に着地をしていた。

 「あなたなんでしょう!? あなたがやったんでしょう!? あなたがあの(ひと)を狂わせたんだわ!!」

 カタリーナは半狂乱で喚きながら、テーブルの上のものを掴み黒猫に向かい投げつけた。食器はおろか腐りかけた果実や鼠の死骸までも、手当たり次第に思い切り投げつける。

 一枚で一般臣民の給料何年分にも相当するはずの皿が、壁に叩きつけられ無惨に砕け散る。その破片の上に黒猫が降り立ち、燐光を放つ眼をカタリーナへ向けた。

 「何か勘違いをしておられるようですがねぇ」

 しわがれた声には、聞き分けのない子供に語りかけるような響きが含まれている。

 「私がベルンハルト様に“何か”をして、あの御方を変えてしまったわけではありませんよ……」

 その言葉に、カタリーナの振り上げた腕が止まった。

 「え……?」

 カタリーナの口から低い呟きが洩れた。黒猫は「ふ……」と小さく嗤い、ゆっくりとカタリーナの周囲を歩き始める。

 「私は、ベルンハルト様に真実をお伝えしていただけですよ。いや、あの御方も心の底では分かっていたはずです。エフィソスは、遅かれ早かれ滅ぼされる運命だと……」

 黒猫は、足元からちゃりちゃりと、食器の破片を踏む音をさせながら語り続ける。

 「魔神族もガイラースも言っていますよ。『エフィソスは元々国家と呼ぶには値しない、意気地無しの鼠どもだ。それが分不相応にも、獅子に喧嘩を売った』とねェ……」

 黒猫の言い草に、カタリーナの顔色が変わる。が、それでも彼女が咄嗟に反論できなかったのは、それが事実であったからだ。

 これまでもエフィソスはガイラース側から、国境線や鉱物資源の輸入価格の設定など様々な分野で、あからさまな不平等を押しつけられてきた歴史がある。それでも、エフィソスが全面戦争に打って出ることはなかった。あまりにも国力が違いすぎたためだ。

 その状態に我慢がならなかったのがベルンハルトである。彼が王座に就いて以降、エフィソスはガイラースがほぼ独占していた鉱物資源の貿易を他国へも積極的に拡大し、着実に国力を高めていった。さらには周辺の小国を次々に侵略し、国土を拡大してゆく。

 ベルンハルトは、己の代でエフィソスを強国に変えるという野心に燃えていた。いや、“取り憑かれていた”と言った方がよい。

 しかし、その状況は、ガイラースにエフィソス侵攻の口実を与える結果を産んでしまった。

 「まあ、先代のエフィソス王のように『中立国』宣言などしても、時間稼ぎ以上の意味は存在しませんがねェ……。領土拡大欲を剥き出しにしている東西の大国に挟まれておいて、『中立国』をほざくなんて愚かとしか言いようがありませんよ……!」

 カタリーナは血がにじむほどに、唇を噛み締めている。その先代王とは、他でもない彼女の実父であるからだ。

 「飢えた獣の前に弱った兎がいて無事に済むわけがないでしょうに……。だから私がベルンハルト様に教えてあげたのですよ。『今さら手遅れだ。どう転んでもエフィソスは滅びる。むしろ、お前はそれを後押ししたんだよ』とねェ……」

 黒猫はこらえきれないように、「く、く、く……」と低い嗤いを洩らす。

 「ベルンハルト様にはこの試練を乗り越えて欲しかったのですが、いやぁ残念ですよ。まあ、それ以前にあの御方は身も心もボロボロでしたが……」

 ベルンハルトの苦しむ様を思い出したのか、残酷な愉悦に酔いしれるように、黒猫が舌なめずりをする。

 「せっかく先代の王を手にかけてまで掴んだ王位ですからねェ……。自分でそれを台無しにしたとあっては、それはそれはベルンハルト様も御無念であったでしょうよ……」

 「――え?」

 黒猫の吐いた言葉がカタリーナを凍りつかせる。

 「おや? カタリーナ様……、貴女もようく御存知のはずですよォ……」

 黒猫はカタリーナの足元まで歩み寄り、彼女を見上げて紅い口をぱかりと開き、ひらひらと舌を踊らせた。吊り上げられた口の端の筋肉が下瞼を押して、黒猫の顔が笑みを作ったかのように歪む。

 「ベルンハルト様の御父上は、先々代王の妾腹……。先代王とは腹違いの兄弟でしたが、そこには肉親の情など一切ありませんでした。むしろ、憎み合っていたと言っていい。その息子であるベルンハルト様に対して、カタリーナ様の御父上である先代王がどのような感情を抱いていたか……。言わなくても分かるでしょう?」

 カタリーナの身体は、先ほどとは別の理由で震えて始めていた。黒猫が一歩近づくと、カタリーナの足は一歩後退し、彼女は徐々に壁際へと追いやられてゆく。

 「ベルンハルト様は、以前は貴族中心で構成された王国騎士団の団長でしたよねぇ。お飾りの役職であったはずでしたが、ベルンハルト様は皆の予想を遥かに超えた勇猛な戦士でした……。みるみるうちに武勲をあげて、臣民からは英雄扱い。そして、カタリーナ様と出会い、いつしか二人は恋仲に……。そうなると、とぉっても邪魔ですよねェ、貴女の御父上が……!」

 「やめて!!」

 カタリーナは絶叫し、固く眼を閉じて両手で耳をふさぐ。黒猫は彼女の傍らにあるテーブルに飛び乗ると、まるでカタリーナの耳に毒を注ぐように言葉を続ける。

 「安心しなさい。貴女を責めているのではありませんよ。むしろ、私は貴女たちの味方です。先代王を含め、貴女たち二人の結婚に反対していた大臣たちが次々とお亡くなりになったのは、どうしてだと思います……?」

 びくっと激しく身体を震わせて、カタリーナはゆっくりと両目を開けた。顔をテーブルの上に向けると、へたりこんだ彼女を見下ろす形の黒猫と視線が交わる。その金緑色の瞳が、カタリーナの心を見透かすように、すうっと細められた。

 「私が関わったのは、あなた方の邪魔をする者たちを排除することです。と、言っても、それを実行されたのはベルンハルト様ですがね……。例えば、先代王の時には、私が“たまたま”持っていた、徐々に心の臓を弱らせる薬をベルンハルト様が食事に少しずつ混ぜて……」

 「いやあ! もうやめて!!」

 泣き叫ぶカタリーナの声に黒猫の哄笑が重なる。

 「か、か、か……。良いのです、良いのですよ、カタリーナ様。私はあなた方のような者が大好きです。自らの欲望に忠実に生きる者がねェ。ですが、欲に飲みこまれてはいけません。欲望を喰らい、己の力にしなくては……! ベルンハルト様にもそうあって欲しかったのですが……いやあ、いないものですねぇ、私の求める人物は……」

 黒猫は眼を細め、遠くを見るような目つきになる。

 カタリーナは床に崩れ落ちたまま、両掌で頭を包むようにしながら首を左右に振った。

 「どうしてよ……」掠れた声が口から洩れる。「どうして私たちをそっとしておいてくれないの……。私たちは、ただ平穏に暮らしていたかっただけなのに! それの何が悪いのよ!!」

 指の隙間から、真っ赤に染まったカタリーナの両眼が覗く。荒れ狂う感情が眼球の毛細血管を破り、カタリーナの双眸に鮮血を絡ませていた。

 「くかかかか……」

 黒猫の口から、愉快でたまらないという嗤いが起こった。

 「傷つき病んだ果実は、やがて自然と内部から腐り落ちるもの……」紅い舌が、ぞろりと口の周りを舐めあげる。「その腐臭は、時に甘い蜜のような、とろけるほどの芳香を放つものなのですよ……。そう、腐肉を喰らう蟲にとってはねェ……」

 黒猫はテーブルの上からカタリーナの前に降り立つと、炎の揺らめきを映した金緑の瞳で彼女を下から睨み上げた。カタリーナと黒猫、互いの顔に浮いた影も、周囲の炎の動きと揺れに合わせて歪に形を変化させる。

 「平穏、とおっしゃいましたね。カタリーナ様、貴女は『平穏』の価値を御存知でないようだな……。何事もなく生きていられるというのは、本当は(うたかた)のように、脆く儚いものなんだぜ……」

 黒猫の口調が、徐々に変化をしていた。

 「ベルンハルトは勇猛な男ではあったが、粗暴ではなかった。だが、ここ最近はどうだ? 性格は狂暴となり、家臣の進言にも耳を貸さず、手のつけられない有り様だったろう」

 「それは……! それを、おまえが……!!」

 「違うね」黒猫はカタリーナの反論を切り捨てる。「奴は病んでいたんだよ。身体中を病魔に蝕まれ、内臓の一部は腐りかけていた。その激痛と進行する病への恐怖がベルンハルトを狂わせたのさ」

 ここ数ヶ月の間で急激に痩せ衰えてゆく身体、艶を失い枯れ果てぼろぼろになった皮膚――黒猫の言葉は、カタリーナの記憶にあるベルンハルトの変化と合致してゆく。その事実に言葉が出ないカタリーナの様子を見ると、黒猫はにたりと笑った。

 「さて……、重要なのはここからだぜ。せっかく先代王を“病死”させたベルンハルトだが、実は奴自身も病魔に冒されていたわけだ。……どうにもタイミングが良すぎるよなあ。おい、なぜだと思う? カタリーナ……」

 黒猫の笑みには残酷な悦びが含まれていた。真実を知った者が受けるであろう、深い心の傷を十分に予想できている――そんな、暗い悦楽を孕んだ笑みだ。

 その笑みを見た瞬間、カタリーナは黒猫の言葉の意味を理解した。いや、理解できてしまった。

 「自然と……、内部から……」

 カタリーナの口から、掠れた小さい悲鳴にも似た呟きが出る。彼女の心臓が、どくんと高い音を立てて鳴った。

 「あんたが頭の良い女で嬉しいねぇ……」

 黒猫が眼を細めて静かに言う。それは穏やかなようでいて、聞く者に悪寒を走らせる声である。

 「ベルンハルトと同じく、先代王も奴を殺そうとしていたのさ……。あんたもよく知っている『邪鉱病』を引き起こす特殊な鉱石の粉末、それをベルンハルトの酒に混ぜてなぁ……。いやはや、さすがは叔父と甥だぜ。哀れで滑稽なほど似ていやがる……!」


 「あいぃっ!!」


 カタリーナが吠えた。いや、吠えたのではない。

 彼女は泣いていた。全身で抑えつけていたものが、今、限界を超えてしまった。それが獣の声となっていたのだ。

 部屋に笑い声があがる。黒猫の笑い声であった。

 「か、か、か、か……!」

 と、喜悦の声をあげている。

 「我々が手を下すまでもない! 結局は自滅よ!! まさに腐りきった果実が自ら地に落ちる如くなぁ……! いやあ、愉しませてもらったぜ。まさに甘露だよ。極上の美酒にも勝る、甘美な味わいだったなぁ、カタリーナ……!!」

 固く閉ざされているはずの室内で、炎が大きく揺れた。もつれ合う蛇のように炎は不気味にうねり、黒猫の影も大きく揺れ動く。

 轟!!

 と、音をあげ、一際大きく炎が燃えあがった。その瞬間、黒猫の影は得体の知れない生き物のように、巨大に禍々しく膨れあがる。

 「いぎっ!」

 顔を歪めてカタリーナが泣く。歯を食いしばり、びくんびくんと、身体が引きつったように痙攣している。

 「いぐっ! いぃっ!」

 声を詰まらせた。詰まらせると同時に、喉の奥から慟哭が溢れてくる。

 「あぎいいいっ!!」

 泣いた。吠えるようにカタリーナは哭いた。

 「いぎああああっ!!」

 その絶叫を、黒猫は眼を細めて耳を傾けている。天上の音楽に聴きほれているかのようであった。

 「良い声だ……。愉しませてくれた礼はするぜ。我が主も、この喜劇は気に入ってくれたようだからなァ……!」

 言葉が発せられるたびに、黒猫の口から青白い炎が燃え出てくる。

 「最終場面は派手に盛り上げてやるよ……!!」

 炎は黒猫の身体に燃え移り、やがて全身が青白い炎に包まれた。

 は、は、は――

 高い笑い声が響く。同時に、炎が爆ぜるように大きく輝いた。そして次の瞬間、

 ふっ

 と、炎が消えていた。

 たった今まで青白い炎が燃えていた場所には、黒猫の姿はおろか、炎の燃えた痕跡すらない。ただ、ねっとりとした闇が、周囲の内装に燃え移った火に照らし出されているばかりである。

 カタリーナは、まだ泣いていた。

 先ほど自ら投げつけた灯り皿の火は、すでに部屋全体を照らすほどに大きく広がっている。

 ゆっくりと自分の周囲を包み込んでゆく炎の中で、カタリーナはいつまでも哭き続けていた。




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