第十三話 神従の兄妹
(一)
――誰かが泣いている。
少年は最初にそう思った。
夢の中で、自分は誰かの泣き声を聞いている――
それが夢ではないと気づいたのは、ゆっくりと開いた双眸に、青白い月光を受けたからだ。
窓から見る夜空には、月が孤独に輝いている。
眼を凝らせば、光の粒子さえ見ることが、耳を澄ませば光の降り注ぐ音さえ聴こえそうなほどの、凄まじい月光であった。
少年はゆっくりと寝台から起き上がり、窓枠に両手を掛けた。身を乗り出して、窓から顔を出し耳を澄ます。
細く、高い泣き声――
その声を聴いた時、少年は思わず涙を流していた。
なんという哀切な声であろうか。そして、なんという美しい声であろうか。
頭の芯に、胸の奥に、心の底に隠していた深い哀しみの記憶、いや、それよりも深い場所にある痛み――そういったものに、その声は触れてくる。
少年は寝台から降りて立ち、上着を羽織る。軋む扉を開けて、彼は屋敷の外へと向かった。
帝都ブラフマーの冷えた大気が、少年の全身を押し包んでいる。
月光は路地へと降り注ぎ、石畳の上へ周囲の建物の影を濃く落としていた。
視界の彼方には、黒くそびえ立つマルポリ山の偉容が見える。
“声”は夜気に溶け込むように響いていた。少年はその声に誘われるまま歩いてゆく。月灯りを受けて、少年の銀髪と金色の角が淡い光を放っていた。
周辺に人影は無い。ここは、各種族の族長クラスの者が、帝都に訪れた際に使う宿泊施設の一角である。市街地からは壁により隔離されているため、自身の安全について不安は無かった。
だが、歩みを進めていくうちに、少年の心には別の不安が芽生えてゆく。
歩いても歩いても、“声”に近づいた気配が無い。
考えれば不思議なことだ。屋敷の窓から聴いた時には、その“声”はせいぜい歩いても数十ローナ(一ローナ=一メートル)向こうから届いて来るものだと思っていた。
しかし、外へ出てみれば違っていた。“声”はもっと遠くから聴こえて来る。
すでに少年は数百ローナは歩いていた。だが、“声”の主へは一向にたどり着かない。
そもそも、いくら深夜とはいえ、人の声がこれだけ離れた場所まで聴こえて来るものなのだろうか。
――悪魔?
少年は自分の想像に、ぞくりと身をすくませる。
だが、今も耳に届くこの声――耳を澄ませば、それは美しい旋律を奏でる音楽のようでもある。こんなにも美しい声が、果たして悪魔のものだろうか――
立ち止まり考える少年の背後から、不意に声がかけられた。
「ライウス……」
「――!!」
喉元までこみ上げた悲鳴をかろうじて呑み込む。
恐る恐る背後を振り返る少年の前には、少年と同じ十四、五歳ほどの、黒く美しい髪と角を持つ少女が立っていた。
「ユマ……」
ライウスの心から安堵したような声を聞き、ユマは「ごめんね」と言うと悪戯っぽく微笑んだ。
“声”の主を訪ねて、ライウスとユマの二人は石畳の上を歩いている。
ユマもライウスと同じく、不思議な“声”で目が覚めたのである。そしてライウスが寝室を出たことに気づき、慌てて後を追いかけてきたらしい。
夜道をライウスが先導し、その後をユマがついてゆく。
歩きながら、二人は小声で会話をしていた。深夜ということもあるが、声の主に対する緊張感が、自然と声を抑えさせている。
「僕だけでいいよ。ユマ、君は戻った方が良い」
「そんなわけにはいかないわ。あなた一人じゃ心配だもの」
先ほどから二人は同じような内容を繰り返していた。
二人きり、ということもあり、今はお互いを対等な立場で呼び合っている。普段はあくまで“族長の息子と従者”の関係だ。このような時間は滅多に無い。
ライウスはいつの間にか、この時間を楽しんでいた。声の正体は当然気になる。現に、今も声は聴こえている。だが、先ほどまで胸にあった不安は、今は不思議な温もりに変わっていた。
ユマは、どう思っているのだろうか――
そう考えたライウスが振り返る。その時、彼はユマの様子がおかしいことに気がついた。
(二)
ユマの両眼から、涙が溢れている。
「歌――」
ユマが呟いた。その表情は、うっとりと酔ったようなものになっている。
「ユマ?」
ユマの異変に気づいたライウスが彼女に声をかけた。瞳を覗き込んで名を呼ぶが、反応は無い。ユマの視線はライウスを通り抜けて、彼の後方へと向けられている。
ユマはゆっくりと歩き始めた。眼前に立つライウスのことが全く視界に入っていないかのように、彼女は真っ直ぐに歩を進める。
「ユマ――」
ライウスが再び彼女の名を呼び、肩に手を掛けようとした時であった。彼は伸ばしかけた手を止めて、周囲に視線を巡らせる。
――何だ!?
自分達を取り囲む無数の気配――
建物の陰、樹の影……暗がりに潜み、凝っとこちらを見つめているもの達がいる。
いや、“見ている”とは違う。それらの“もの”の気配が、二人の方に向けられている、と言うべきだろうか。
闇の中に、何者かの気配が満ちてゆく。見えない何かが周囲に集まって来る。“声”に誘われるように、その気配は増殖していった。
ライウスが無数の気配に気を取られている間にも、ユマは虚ろな表情で進んでゆく。
ライウスは、今はユマの後を追うことにした。周囲の“もの”達からは、害意は感じられない。いや、そもそも“意”というものが有るのだろうか――
とにかく、何かを仕掛けて来ないならそれで良い。ユマは既に自分の数十ローナ先を歩いている。追わなければ。
急いでライウスが一歩踏み出した時、
「――!?」
ライウスの眼前に浮かぶ月が揺れた。
月そのものが揺れたのでは無い。何かが、ライウスの前を通り過ぎたのだ。
“それ”は月の姿を遮っていない。まるで陽炎の如く、大気を歪ませている。
見れば、動いているのは一体のみでは無かった。周囲の闇にわだかまっていた“もの”が、動き始めている。一層数を増して、存在感を強めてゆくのだ。
ライウスは気がついた。“声”が変化している。
初めは泣き声のように聞こえたの“声”に、流れが生じていた。
時に激しく、時に緩やかに――流れる清水を感じさせた声は、やがて高低差を伴う流れへと姿を変えてゆく。
本来ならば目に見えないはずの声。それが月光を浴びて青い燐光を放ち、うねり走る一筋の光となって、闇夜の中をながれていく――その姿が見えるようである。
自在に姿を変える、光り輝く調べの河――それは正に“歌”であった。
周囲の気配に眼を移せば、闇の中に蠢く影のように見えた“もの”達が、徐々に月光の中へと移動している。
建物や樹の陰にいるうちは影と思われた。しかし、月灯りの下では、透明で向こう側が透けて見える。光の角度によっては、透明に見えたものが、不意に赤や青と、自在に色を変えたりもした。
変化するのは色だけでは無い。
その“もの”達は決まった形を持たず、陽炎のようにただ漂っているように見えるが、それが突然意味を持つ形になる時もあるのだ。
人の姿、獣の姿、鳥、蟲……。空を見れば、星と見間違うほどの無数の蛍に姿を変えた“もの”達の群れが、地には四脚で駆ける獣達の群れが現れていた。今も、ライウスの隣を人の姿をした“もの”が通り過ぎてゆく。
その人影を見ると、その瞬間には人の顔に見えたはずが、今はもう獣と見える姿へと形を変えている。
しばらく同じ形を保つものは稀だ。
先ほどまで人間の老女と思えていた“もの”が、いつの間にかナーガ族の青年の姿になっていたり、ガルダ族の少年が、隣にいた牛の姿の“もの”と溶け合っていたりする。
それら夥しい数の“もの”達は、ひとつの方向を目指して移動していた。その先頭を歩むのは、ユマである。
彼等が向かう方向――それは“歌”が聴こえてくる方角であった。
ライウスはユマの手を握り、共に歩みを進めている。
周囲には依然として、夥しい数の“もの”達がいる。だが、ライウスに不思議と恐怖や不安は無い。
自分自身が、彼等と同化してしまったような気がする。自分もまた、“歌”に惹かれてゆく“もの”のひとつではないか――ライウスは頭のどこかで考えていた。
なんと美しく、哀しい音色なのだろう。
胸が締め付けられるようである。
ああ、この歌の主は、泣きながら歌っているのだろうか……。
月灯りを浴びながら、路地を進み更に奥へと向かう。建物の数も次第に少なくなってゆく。
やがて、彼等は片隅に存在する広場に辿り着いた。壁に面した、中央に一本の菩提樹が立つ小さな広場だ。
その入口で、ライウスとユマは足を止めていた。天には月が輝き、煌めく粒子を地上に届けている。
青白い光を受けた菩提樹は、うっすらと闇の中に浮かび上がっていた。その根元に、二つの人影がある。ライウスはそれに気づいたのだ。
一人は少年。もう一人は少女だ。ライウス達と、そう歳は変わらないように見える。
少年は背中まで伸びた黒髪を首元で束ねていた。眉は太く瞳が大きい。鼻筋も通った美しい顔立ちをしている。
上半身には何も纏ってはいない。外気に晒された肌は雪のような白さだ。そして、下半身は黒い虎のものである。少年はガンダルヴァ族だった。
少年の周囲には、白く輝く雪のようなものが舞っている。或いは無数の花弁を思わせる光片を舞い上がらせながら、少年はゆるり、ゆるりと舞を舞っていた。
少年が音も無く虎の脚を踏み出せば、それに反応したかのように光片が浮き上がる。少年がその身を翻せば、光片も渦を巻き空へと昇る。
幾千、幾万の光が、少年の舞で夜の虚空へと舞い上がっていく。
少年の舞の中心に、少女は立っていた。
少女の肌もまた白い。だが、それは蝋細工のような無機質な白さだ。それに反して、唇はまるで血に染められたように紅い。
黒く艶のある髪が垂れて、胸元でほつれている。眼はやや切れ長であるが、その瞳には、どこか童女のようなあどけなさが残っていた。
少女は大きめの白い布をゆったりと身体に巻き付けていた。肌が出ているのは顔と首、腕の肘から先だけである。そして、その腕は少年と同じく黒い虎のものだ。
少女は天の月に向かい、白い喉を垂直に立てていた。その喉から、煌めくような美しい旋律が伸び上がっている。
“歌”の主は、この少女であった。その澄んだ声は、月光の夜空へと舞い上がり、大気の中へと響き渡ってゆく。
おおお……
ライウスの周囲に満ちた気配がざわめいた。
少年の舞に対する称賛の声のようでもあり、少女の歌に込められた哀しみに呼応する声のようでもある。
ライウスの手前にいた狼の姿をした“もの”が、少女と同じように喉を垂直に立て声を発しようとした。
その時――
その姿は一瞬にして無数の光の粒と化し、夜空へと舞い上がった。
それだけではない。周囲に集まった“もの”達の姿が次々とほどけ、光り輝く粒子へと姿を変えてゆく。
粒子はしばらくの間、霧のように漂っていたが、やがて少年の舞に誘われるように彼らの周りへと集まり始める。
少年が大地を蹴り、ふわりと舞い上がる。すると大気が震え、菩提樹の葉が揺れる。光の粒子が声無き声を上げたかのようだ。
月光の中で少年の手がひらりと動き、優雅にその身を翻す。すると、粒子が姿を変えて、少女の周囲に色とりどりの花が咲いた。それは次の瞬間、無数の花弁となり夜気へ溶ける。
そして光の粒子は互いに集まり、一筋の流れを造り始めた。流れは渦を巻き、広場全体を包み込んでいく。
渦の中からは青い燐光を放ち、滑り出て来るものがあった。それは、光り輝く龍の姿にも見える。
次々と産まれ出る煌めく龍達は、降り注ぐ月光を辿るように、天へと昇ってゆく――
「綺麗……」
ユマが涙を流しながら呟いた。
「なんという……」
ライウスの眼からも熱いものが溢れ出て、頬を濡らしている。
光の龍を追い、ライウスとユマは天を見上げていた。
龍は自分達の周囲から舞い上がったものだけではない。空の彼方からも黄金の龍が夜空を疾り抜けて来る。
遥かな虚空では、細い光の筋となった龍達が螺旋の渦を巻いていた。
月を目指すように、まるで流星が再び天へと還るかの如く――
そして、ライウスは気付いた。龍が向かうのは月ではない。月を覆い隠すほどの巨大な影が、天空に現れていたのだ。
この星、マカが誕生した時、或いはそれよりも以前からこの時空を見守ってきたと伝えられる存在。あらゆる命、あらゆる現象の根源を成す、無限の気を産み出す母なる大樹――
「『太陽樹』……」
「そう……、皆は母なる太陽樹へと還っていったんだよ」
凛とした声が、ライウスとユマを正気に戻した。
反射的に視線を戻した二人の前で、少年は既に舞を終えて、少女も歌を止めている。
少女は少年の陰に隠れるように、じっとこちらを窺っていた。少年は強い意思を込めた視線をライウス達に向けている。
周囲に“もの”達の気配は無い。光の粒子も消え去り、静寂と月光が残るのみであった。
ライウスと少年は向かい合ったまま、沈黙を続ける。そして、
「私はナーガ族のライウスです。御二人の邪魔をしてしまい申し訳有りません。どうかお許し下さい」
ライウスは少年に向かい、深々と頭を下げた。隣でも、ユマが慌てて頭を下げている。
「彼女は私の従者ユマです。彼女は、私が無理を言って連れて来てしまったのです。彼女は何も悪くありません」
「ライウス……様」
頭を下げたまま、ライウスはユマを庇う。それを聞き、ユマは思わず二人きりの時の呼び方を口にしかけてしまった。
ふ……
少年の口元に柔らかい笑みが浮いた。
少女も相変わらず少年の陰にいるが、先ほどまで漂わせていた緊張感が無くなっている。
「知っているよ。ナーガ族族長ジャドラ殿の息子、ライウスだね。……なるほど、噂通り生真面目な男のようだなあ。どうか頭を上げてくれ。僕らは気にしていないよ」
その言葉を聞き、ライウスは顔を起こして再び少年と向き合う。
少年の瞳は、好ましいものを見る目付きに変わっている。彼はライウスの手元を見ると、悪戯めいた表情を浮かべた。
「ふうん……、『従者』ねえ。その割には、ずいぶん情熱的な手の握り方じゃないか。しっかり指まで絡めちゃってさ」
「「――!!」」
ライウスとユマは顔を真っ赤に染めて、弾かれるように手を離す。慌てて何かを少年に言おうとするが、二人共しどろもどろになり、上手く言葉が出て来ない。
そんな二人の様子を見ながら忍び笑いを洩らす少年に、傍らの少女が声を掛けた。
「兄さん!駄目よ、からかっちゃ……。ごめんなさい、ライウスさん、ユマさん。私はガンダルヴァ族のスーリヤです」
そう言うと、スーリヤはふわりとした優しい笑みを浮かべた。それは先刻までの白蝋のような無機質さは無く、暖かい血の通った表情である。
「ごめんごめん。僕としたことが、野暮なことを言ってしまったね。大丈夫、無粋な質問をする気は無いよ。しかしライウス、君は本当にお人好し……いや、良い漢だなあ」
少年はにっこりと笑い、ライウスに右手を差し出す。
「……誉められているのか、からかわれているのか」
ライウスは苦笑しながら、その手をしっかりと握り握手をした。
「よろしく! 僕はアシュガン。ガンダルヴァ族族長の息子さ」
そう言うと、アシュガンは白い歯を見せて、無邪気な笑顔を見せた。
(三)
「『神従』?」
月琴の音色が心地よく溶けていく夜気の中、ライウスがアシュガンの言葉を繰り返し口にした。
「そう、『神の為に歌と舞を捧げる者』……。それが神従だよ」
月灯りの下、菩提樹の根元にアシュガンは座し、五弦の月琴を弾いている。隣ではスーリヤが腰を下ろし、眼を閉じてアシュガンの奏でる琴の音を聴いていた。
その二人の前にライウスとユマが座り、お互いのことを話していたのである。
「しかし驚いたよ」目線を月琴を弾く手元に止めたまま、アシュガンが言う。「あらかじめ、この月琴を弾いていた後だったからね。この音色には、人を深い眠りに誘う力が有るんだよ。昔、ガンダルヴァ族が『遺跡』から見つけたんだってさ……」
そこまで話して、「ま、ホントかウソか分からないけどね」と、アシュガンは微笑んだ。
「声が……、スーリヤ殿の『歌』が聴こえたんだ」
ライウスはそう言うと、隣のユマへと視線を送る。ユマは同意するように頷いた。
「私もそうです。……でも、今も聴こえるこの『歌』は、どこから……?」
ユマは天を仰いだ。夜空には無限の星々が煌めき、中央には黄金に輝く満月と、太陽樹の影が浮かんでいる。
「そうか……。これは太陽樹の声、太陽樹の歌だったのね……」
そう呟くと、ユマは“歌”に聴き入るように両眼を閉じる。
「ユマさん……」
ユマの言葉に、スーリヤが驚いたように顔を上げた。アシュガンも双眸を見開き、ユマを見つめている。
ライウスのみが、ユマの言葉の意味を理解できずに、困惑した表情を浮かべていた。
やがて、閉じられたユマの眼から、一筋の涙が溢れ落ちてゆく。そこで彼女は初めて自身が泣いていることに気付き、戸惑いつつ涙を拭う。
「いや、本当に驚いたな……」アシュガンが呟く。「僕ら以外に、太陽樹の声を聞ける者がいたとはね……」
「本当に、本当に太陽樹が言葉を発しているのか……?」
ライウスが混乱したようにアシュガンに尋ねる。その様子を見て、アシュガンは小さく微笑むと、ライウスに語り出した。
「僕らの使う言語ほど、はっきりしたものでは無いけどね。そうだな、“意思”や“感情”といったものに近いかな。まあ、僕は太陽樹が『何かの感情を持っている』程度しか感じられないけどさ。スーリヤはもっと鮮明な形で聴くことができるんだ」
そう言うと、アシュガンはスーリヤに視線を送る。
「呼んでいる声が聴こえるんです」
夜空を移し取ったような深い黒色の瞳を向けて、スーリヤが答えた。
「周期的に、太陽樹から美しい『歌声』が聴こえます。とても優しく、どこか哀しい、地上の迷える『魂』を呼ぶ声が……。その歌声に導かれ、肉体を失った魂は天へと還り、そしていつの日か再び新たな生命として地上へ戻るのです。でも、太陽樹の声はとても弱く、全ての魂には届きません。そのままでは、多くの魂が取り残され、やがて『濁気』と化してしまいます。そこで、太陽樹と共に歌い、魂を天に送る舞を捧げ、魂が天に還る手助けをする……。それが『神従 』の使命なのです」
いつの間にか、全員が夜空を見上げていた。そこには、先ほど天へと昇っていった魂達と同じ輝きを放つ銀河がある。
「そんな使命を負った者達がいたなんて……」
大きく息を吐き、傍らのユマを見てライウスが言う。ユマはライウスの手にそっと自分の手を重ね合わせ、アシュガン達へと顔を向けた。
「昔、おじいさまからそんなお話を聞いたことがあるわ。私のおばあさまも、太陽樹の声を聴くことができたって……。てっきり、小さい私の為のおとぎ話だと思ってた……」
「そうか……。まだ知られていない血筋が存在していたということか……」
アシュガンは独り言のように呟くと、月琴を抱えて考えて込む。その姿を、スーリヤは心配そうに見つめていた。
アシュガン兄妹の様子が変わってしまい、ライウスとユマは戸惑ったように顔を見合わせた。声を掛けようにも、虚空を見るアシュガンの瞳には、出会った時よりもさらに強い光が宿っている。
「兄さん……」
スーリヤが、そっとアシュガンに呼び掛けると、彼ははっとしたように顔を戻した。そして、皆が自分を心配そうに見ていることに気付き、眉を寄せて困ったような笑みを浮かべる。
「すまない、少し考え事をしてしまってね……。大丈夫だよ。心配無いさ」
アシュガンはそこで表情を改めると、ライウスとユマに向かい言葉を続ける。
「ライウス、ユマ。今夜のことは……、特にユマ、君が“太陽樹の声を聴ける”ということは、誰にも話さない方が良い。君のお祖母さんが同じ能力を持っていたことも含めてね」
アシュガンの言葉には、その瞳と同じ固く強い意志が込められている。「何故……」そう言いかけたライウスであったが、スーリヤからも同様の視線を向けられ、口を止めた。
二人の向ける視線は強いものではあるが、決してライウス達を責めるものでは無い。ユマの、自分の身を案じているからであると、ライウスは感じていたからだ。
「分かった」
短く、はっきりとライウスは答える。アシュガンとスーリヤの瞳を真っ直ぐに見据え、ユマの手をしっかりと握り締めて。
それを見て、アシュガンの表情が緩む。彼の顔には、再び人懐こい笑みが浮かんでいた。
「理由は聞かずにいてくれるのか……。ありがとう、ライウス。君はやっぱり良い漢だよ」
ふっ、とアシュガンの顔に哀しみの色が差した。彼はそれを押し隠すように顔をうつむかせ、再び月琴を弾き始める。
スーリヤは無言のまま、アシュガンの腕に手を添えて、彼を支えるように身を寄せた。
澄んだ月琴の旋律が夜気に滑り出し、月光の天へと響き渡ってゆく。
ライウスとユマは手を取り合ったまま、その音色にいつまでも耳を傾けていた。
(四)
雪原から見る空は蒼かった。
深い海を思わせるほどに、黒く、蒼い。
風は無い。
本来であれば、ここは一年中絶え間無く、猛烈な吹雪が叩きつけている。周囲に遮るものが何も無いからだ。
標高六千ローナ(六千メートル)を越えるこの場所は、人の、生物の領域を越えようとする場所でもある。
宇宙の暗黒へと突き抜けようとする巨大な岩峰、それを繋ぐ険しい岩壁、近づく者を青い裂け目に呑み込む氷河、命を凍りつかせる雪嵐――ガイラースを太古より外敵から守り続ける、『結界山脈』の名を持つ神々の座だ。
足下に古代の刻を閉じ込めた広大な雪原を囲んでいるのは、いずれも八千ローナを超える岩峰である。
顔を上げれば視界の遥か先にまで、天に向かい身を起こした神話の巨人達を思わせる姿が見えるだろう。
頂は空の色と同化して、蒼く霞んでいる。それは、身震いするほどの圧倒的な光景であった。
雪原の上を男が歩んでいる。
一歩ずつ力強く踏みしめながら、まるで平地を歩くような足取りだ。
人間はおろか神民であっても、この標高では息を切らせて、地を這うように蛇行し、喘ぎながら歩く。
だが、その男は違う。揺るぎ無く確実に、己の肉体を己の力で運んでいる。
酸素は地上の半分以下。雪原の上に道は無い。
峰と峰を繋ぐこの場所は、突然道幅が数ローナに狭まっている箇所もある。
そのような道の両側は、数百ローナ下まで落ちるほぼ垂直の切り立った断崖だ。
常に死の危険と戦いながらの虚空の道が続く。
眼に入るのは、暗黒へと続く空の蒼、刻を止めた雪の白、大地の歴史を封じた岩の黒――地上の生命と切り離された、天の刻、神の時間を宿した風景である。
おかしい――
男は異変を感じていた。
風が無い。男の伸びた銀髪を揺らすほどの微風さえ吹いていない。足下の雪原には、所々雪が溶けて、岩の地肌が見えている箇所もある。
晴天――そう、その晴れていること自体が異変であった。
本来ならば結界山脈の山頂付近は、雪融けの時期でも猛烈な雪嵐が吹き荒れている。巨獣の咆哮の如き音を立てて、近づく者を薙ぎ払う凄まじい烈風が疾り抜けてゆくのだ。
結界山脈を構成する要素が失われつつある。風だけでは無く、雪と氷までもが例年より遥かに量を減らしている。
眼下の氷河上には、河と呼べる規模の雪融け水が見えるほどだ。
もし、このまま異変が続けば――
男の背筋に、外気とは異質の冷たさが通り抜ける。
“あの男”の言うことは本当だった……。
男は一人の人物を頭に思い浮かべる。そしてその人物は、男の眼前へと姿を現した。
蒼空を背にして、凝っとこちらを見つめている。陽光と薄い大気の中で、黒い僧衣のみを身に纏い、傍らに純白の僧衣を身に着けた女性を抱きながら、男が登って来るのを静かに待っている。
そして、男はその人物の前へと辿り着いた。二人は数瞬の間、無言で視線を交差させる。
やがて、僧衣の人物が口を開いた。
「久しぶりだね。ライウス」
「ああ、アシュガン、スーリヤ……」
短い言葉。それが再会の挨拶となった。
(五)
空を見ている。
ライウスとアシュガン、そしてスーリヤ。三人は黙ったまま、雲さえ届かない空を見上げている。
ライウスは、アシュガンの眼を見た瞬間に思わず言葉を失っていた。
鈍く光る双眸。眼の奥から、熱く泥々としたものが溢れ出ようとしている。肉の裡から皮膚を焼き、吹きこぼれそうになるものを押さえ付けている眼――
そこには、ユマを喪った今のライウス自身の姿も映し出されていた。
白眼の部分に細い血管が浮き出し、赤く染まった両眼。頬の肉が落ち、生気を無くした相貌。刃物の光を放つ瞳だけが、異様な生気に満ちている。
アシュガンも自分も、心に鬼を棲み憑かせている。初めて出会った時から今まで、お互いどのような道を歩んで来てしまったのだろうか――
変わってしまったのはスーリヤもまた同様である。ただし、彼女の場合はそれが外見にまで現れていた。
背が歪んでおり、何かの病気かと思えるほどだ。さらには両眼と口を除き、頭部全体に包帯が巻き付けられている。そして、その頭部もどこか妙に歪んで見えた。
スーリヤの黒く大きな瞳、それだけが唯一昔と変わらない。彼女はその瞳を虚空へ、ここでは無い、どこか遠くへと向けている。
アシュガンはスーリヤの肩を、優しく、そして固く抱いていた。
ライウスは二人に言うべき言葉を持っていない。ただ、沈黙をした。長い沈黙の後――
「君が、国境へ配属になった時以来だったか……」
先に口を開いたのはアシュガンであった。
「ああ……。あの時俺に言っていたな。『結界山脈の力が弱まっている。気を付けろ』と……。アシュガン、やはりヴァリシュタ王の身に何かあったのか……?」
それは、紅宮白宮の上層部、しかもごく一部の者しか知らないことである。
ガイラースを取り囲む大地の砦『結界山脈』。その正体は、遥か太古に『降臨者』達が、その超科学を結集し造り上げた巨大な気象兵器だ。
途方も無い刻を経て、現代では一部の機能が作動するのみである。それが、絶え間無く吹き荒れる雪嵐と、凍てつく大氷河を造り出していた。
そして、ヴァリシュタ王と結界山脈――二つの存在を繋ぐものとは、『ヴァリシュタの生命活動が結界山脈と直結している』ということだ。
このような不安定極まり無い機能を、なぜ重要な国防に組み入れたのか。国側として見れば、大いに疑問がある。だが、ヴァリシュタにとっては、自身の国内における生命の安全は保証されたと言って良い。
そのシステム上の欠陥が、今現実となったのである。
「“時間”なんだよ。もう“時間”が来てしまったんだ……。分かっていたことなんだ。そろそろだってね。だから、僕らはここにいる。この、ガイラースで一番空に近い場所に……」
顔を蒼空へと向けて、包帯からはみ出したスーリヤの髪を優しく撫でながら、独り言のようにアシュガンが呟く。
「『分かっていた』だって? どういうことだ、アシュガン。君が俺をエフィソスとの会戦前に呼んだのは、結界山脈の現状を見せる為ではないのか? 君もこの異変を見たからこそ、会戦を急がせたのではなかったのか?」
思わずアシュガンへと詰め寄るライウス。その声で彼の存在に気付いたように、アシュガンは鈍く光る眼をライウスに向けた。
「そうだ。王の命が弱まっている。これは今回が初めてじゃない。過去にも繰り返し起きていたことなんだ。今回も、前もって分かっていたからね。だから僕は、結界山脈の力が完全に失われる前にエフィソスに宣戦布告した。ここまでは、君の考えは半分正解といったところかな。……君を呼んだ理由は違う。最後の役目を果たす前に、もう一度君に会っておきたかった。僕たちが、“僕たちのまま”でいられるうちに……」
アシュガンの声が、そこで不意に止まる。
ライウスはアシュガンの異変に気付いた。
アシュガンの身体が小刻みに震えている。歯をかちかちと音を立てて鳴らし、顔も青白い。血の気が引き、眼を大きく見開いている。
アシュガンは恐怖に震えているのだ。
音を消そうと、彼は懸命に歯を食いしばっている。しかし、どれだけ力を入れても、歯はがちがちと鳴り続ける。
強い意志の力で強引に震えを、恐怖を圧し殺すように、アシュガンは歯を噛み続けた。
「ぐう、うぐ……っ!!」
噛んだ歯の隙間から、呻き声が洩れてくる。あまりに強く噛んだ口の端からは血が流れ始めた。凄絶な光景であった。
「畜生……! 畜生!!」
強い力で揺さぶられているように、アシュガンの全身が震えている。それを強引に止めようと、アシュガンは自身を抱き抱えるように両肩を抱いていた。爪が皮膚を破り、血が指に絡んでいる。
「くそったれ!!」
アシュガンは血を吐くように叫ぶと、僧衣の胸元を大きく開いた。
「ぬうっ!?」
その身体を見た時、ライウスは思わず呻き声を上げていた。
アシュガンの肉体が異様な変化を起こしていたのである。
かつて月光の下で見たその身体は、上半身は白い肌を持つ人間の肉体であった。だが、今は胸元の肌を、びっしりと虹色の鱗が覆っていたのである。さらに腹部は黒い獣毛が一面に生えていた。
めりっ
と、アシュガンの腹が音を立てる。
小さく血が飛沫を上げ、ぶちぶちと臍上の部分の肉がひとりでに裂けてゆく。
「な……っ!?」
ライウスは息を呑んでその光景を見ていた。彼の額には、沸々と汗の玉が浮いている。
血を流し開いてゆく肉の裂け目全体が盛り上がり、前へとせり出し始めた。
黒い獣毛に包まれた肉の塊――その先端の傷が左右へさらに大きく裂けて、そこに無数の細かい歯が覗いている。
それは、眼も鼻も無い、口だけの不気味な顎であった。
おげあぁぁ……
顎がおぞましい声を上げ、でろりと長い舌を吐き出した。すでに血は止まり、代わりに大量の唾液が周囲の獣毛に糸を引いている。
「アシュガン……」
無意識に声を洩らしたライウスへとアシュガンは視線を向けた。その両眼が危うい光を放っている。今の彼は、手を触れただけで粉々に砕けてしまいそうな、限りなく薄い氷のようだ。
「ライウス、これが『神従』の正体だよ……」
口の端に壊れかけた笑みを張りつかせたアシュガンは、傍らのスーリヤを抱き寄せて、彼女の顔を覆う包帯に手をかけた。
「見ろ!!」
悲鳴のように叫ぶと、一息に包帯を引きちぎる。
「――!!」
その顔――
あの美しかったスーリヤの顔が変貌していた。
毛髪の半分は抜け落ち、鼻は曲がりかけ、唇は溶けるように垂れ下がっている。
顔全体にひび割れに似た傷ができて、そこから血と膿の混じった汁が流れ出していた。
唯一変わっていない部分を挙げるならば、黒い瞳くらいである。だが、左右の眼の位置は上下にずれていた。
強い腐臭がライウスの鼻を衝いている。
「よく見ろよライウス! これが今の僕らの姿さ……。神の使い『神従』と、ガンダルヴァ族族長の呪われた血だ!!」
アシュガンは哭き声にも似た叫びを上げ、ライウスの羽毛服の胸元を掴んだ。吊り上がった両眼の端が切れて、血と共に大量の涙が溢れ出ている。
「どうしてだよ! どうして僕らには、こんな血が流れているんだ!! どうして……」
その叫びは途中で消え、絶望の嘆きに変わる。
ライウスはその場に立ち尽くしていた。
分からなかった。自分はどのような言葉をアシュガンとスーリヤの為に持っているのか。
何も無い。絶望に哭く者に対し、自分は言葉すらかけることもできない。
ライウスはどうしようもないほどの無力を感じていた。
やがてアシュガンから聴こえていた嘆き声は止まり、顔をうつむかせたまま、彼は重い石のような言葉を吐き出し始める。
「『歌』と『舞』で地上の迷える『魂』を天に送る……、それは神従の本当の役目じゃない。僕らを含め、代々のガンダルヴァ族の神従は真実を知らず、魂の救済と信じていた。……最初はね。事実に気がつくのは、何もかもが手遅れになった時だ……。本当の目的は、濁気化しかけた魂を、より多く太陽樹へ吸収させることなんだよ」
「な……に……?」
「太陽樹は魂の瘴気を浄化する力を持っている。そして、溜めた瘴気を結晶化して排出するんだ。それが『太陽樹の果実』さ。数百年に一度実ると伝えられる天上の果実だよ。“その実を食べれば不死を得られる”、“生きながら覚りに至る”……。笑わせるよね。正体は、腐った怨念の詰まった濁気の塊だ! だが、高濃度の気の結晶には違いない。それをヴァリシュタは喰らい、膨大な量の気を吸収して、何千年も生き続けて来たんだ!!」
「――――」
アシュガンの言葉に、ライウスは声が出ない。自身の領域を遥かに超えた話を聞いているという衝撃が、低い呻きとなり唇から洩れ出ている。
く、く、く……
低い忍び笑いが聞こえた。初めは圧し殺したようだったその声は、徐々に高くなり、はっきりとした笑い声となる。
「アシュガン――?」
アシュガンは嗤っていた。顔を上げた彼は、血涙を流しながら嗤っている。狂気がその貌にへばりついていた。
「心配するなよライウス! ここは結界山脈の山頂だぜ。僕らの他には誰もいない。だから話しているんだ! 教えてやる、全部教えてやるよ! 何が『神従』だ! 『神聖な役目』なんて大嘘だ!! ヴァリシュタの為に血ヘド以下の糞袋を作る奴隷以下の存在なんだ!!」
激しい口調であった。血涙を撒き散らし、黒髪を振り乱している。残った理性と命を迸らせるようにアシュガンは叫んでいる。
「先祖代々、瘴気に侵された魂に触れ続けた結果が、この醜く狂った身体だ! 知っているだろう? 濁気は魂を狂わせ、本来その存在が取るべき姿さえも歪めてしまう! ガンダルヴァ族族長は、この狂った血を代々受け継いで来たんだ!!」
腸を抉り取るような、硬く鋭い、憎悪に満ちた声であった。
「なぜ……」
ライウスの口から掠れた声が出る。
「なぜ、そうなってもなお、お前は王の為に……?」
ライウスは哀切な光を湛えた眼でアシュガンを見る。その瞳から、今にも太い涙が溢れそうに見えた。
二人はそこで見つめ合う。お互いが、お互いの視線を正面から受けたまま動かない。
その時、ふっ……、とアシュガンの瞳の中に宿っていた狂気が、ほんの僅かに弱まる。
「僕一人ならば、とっくに逃げ出していたさ。いや、死んでいただろうね……」
アシュガンはスーリヤを優しく抱き締め、上からスーリヤを見つめた。
その指が、彼女の髪を撫でる。髪には頭皮から染み出た血と膿がこびりついていた。その髪を、優しく、愛しそうに――
スーリヤはアシュガンの胸に頭を預け、彼の顔を下から見上げている。
黒く美しい、あの日ライウス達と出会った時と変わらぬ澄んだ瞳であった。
ひとすじ――
ふたすじ――
スーリヤの瞳から、透明な涙が溢れ出た。アシュガンの両眼からも新たな涙が押し出され、頬を伝う。
黒い瞳が交差し合い、どちらからともなく、二人の顔が近づいてゆく。スーリヤの腕がアシュガンの首を絡め取り、アシュガンの手がスーリヤの頬に添えられる。
そして――
深く、二人の唇が重ね合わされた。
舌と舌がもつれ、絡み合う。二人は眼を閉じ、お互いの感触を確かめるように溶け合わせた後、ゆっくりと唇を離した。
アシュガンは双眸を、呆然と二人を見ていたライウスへと向ける。
その瞳には威圧感があった。肉の感触に酔った眼ではない。胸の奥に宿る強い意志が、彼の瞳を通して放たれている。
「ライウス、君は何の為に生きている?」
不意の質問であった。ライウスは答えられない。
「君は何のために生きているんだ――」
アシュガンはもう一度訊いた。真っ直ぐに、心の中にまで入り込むような眸で。
“何のために生きるのか”
今のライウスには答えようがなかった。
「アシュガン……、お前にはあるのか?」
逆にライウスは問いかけていた。
「あるよ」
アシュガンははっきりと答えた。
「僕にはある。スーリヤだ。僕はスーリヤを愛している。この世の誰よりも……」
熱にうなされたように、アシュガンが呟く。
「スーリヤがいたから、僕は今も生きている。スーリヤも僕も、長くは生きられない。それは物心ついた時から分かっていた。『歌』でより多くの魂と共鳴し合う、スーリヤの方が先に死ぬことも、ね。……僕はスーリヤに生きていて欲しかった。例え一秒でも長く。僕たちがヴァリシュタのために神従として働けば、その間スーリヤは手厚く治療される。……だが、神従として働くことは、スーリヤの命を削るということだ……。なあ、僕はどうすればいい?どうすれば良かったんだ……?」
「アシュガン――」
兄妹にかけてやれる、どのような言葉もライウスは持っていない。
「兄と妹……。おぞましいと軽蔑するか?」
アシュガンは嗤った。錆びた刃物で口の端を切り上げられたような、歪で痛々しい嗤いであった。
「誰が僕たちを愛してくれるんだ。醜く腐り狂い死ぬ、呪われた血を持つ僕たちを。誰が守ってくれるんだ? 母は僕らを産んで、すぐに逃げた。……当然だ。スーリヤを妊娠した時、父の顔は半分崩れて、片方の眼球が頬に垂れ下がっていたんだからね」
ひい……
声がした。引きつれたような、スーリヤの声であった。笑い声のようにも、泣き声のようにも聞こえる。
やがてそれは、ひいひいと連続した響きに変わり、スーリヤの眼には涙が浮かんでいた。
アシュガンのスーリヤを抱く腕に、さらに力が込められている。
「その父も、僕たちが幼いころに死んだよ。忘れもしない……。あいつは僕らの目の前で、口から溶けた内臓を全て吐き出して死んだ。……その時から、いや、生まれた時からいなかった。僕たちを守り、愛してくれる者は誰もいなかった!!」
熱く煮えた血を吐き出すような、凄まじい告白であった。両眼から涙を迸らせ、掠れた声でアシュガンは叫ぶ。
「このまま死ぬなんて僕は嫌だ!! 太陽樹の果実を持ち帰れば、僕らは生きていられるんだ!! そうだ、死んでたまるか……。このまま死んだら、僕らはゴミだ。生きてやる。生まれたからには、どんなに醜く汚くても、生きて、生きて、生き延びてやる!!」
強く握りしめた拳と、両の目尻から血が滴り落ちていた。アシュガンは荒い呼吸を繰り返してから、視線を地に落とす。
「みっともないところを見せたな……。 こんな身体になっても、妹にすがりついても、僕は生きたい……。笑いたければ、笑えよ……」
アシュガンは力なく呟いた。先ほどまでの熱が、彼の身体から消え去ったかのようである。
傍らでは、スーリヤが涙を流しながら、アシュガンの頬に手を添えていた。
「……笑わん」
それは硬く、重い声であった。
アシュガンが顔を上げると、そこには睨むような強い眼光を二人に向けるライウスがいる。
「たとえ、世界中の者がお前たちを否定しても、俺はお前たちの味方だ!!」
ライウスは叫んでいた。何かが、ライウスの中で音を立てて切れていた。
「生きていたいと思うことの何が悪い! 死にたい、と初めから願う者などいるものか!!」
アシュガンの言葉を耳にしていた時から、ライウスは己の内部で何かが熱を増してゆくのを感じていた。
「自ら命を絶つ。そう考えるのは、とても恐ろしいことなんだ!! 『心が弱いから』などと、そんな単純な理屈じゃない!! 自分で自分の存在を否定することが、どれだけ辛く苦しいことか!!」
血の中で、何かが燃えたぎっている。
「みんな生きたいんだ!! それでも死を選ぶのは、もうそれしか選べなかったからだ!! そこまで必死にもがき、足掻いて、それでもそれ以外の方法が残っていなかったからだ!!」
何かが溢れてきた。押さえようのない熱いものを、ライウスは叫んでいた。
「生きたいと思えるなら、それがどんな理由だって良いんだ! 他人に理解されなくても、どんなに些細な理由だって良い! 生きることに綺麗も汚いもあるか!! 生きろ、アシュガン、スーリヤ!! 生きることを選んだ者を、俺は決して笑わない!! 笑うものか!!」
ライウスの声は震えていた。熱い涙が、両眼から火のように吹き溢れている。
「味方だぞ、アシュガン、スーリヤ。俺は、これから先、何があってもお前たちの味方だ……」
言い終えた後、ライウスは激しく嗚咽した。
激しい感情のうねりを、自分でも抑えられない。
哀しかった。どうしようもなく哀しかった。
これほどの苦しみを背負わなければ生きられないアシュガンとスーリヤが。自分以外の者を守るために命を捨てたユマが。そして、愛しい者のために何もできない自分が――
「ありがとう……」
アシュガンが呟いた。その顔は、ライウスへしっかりと向けられている。彼の両眼からも、透明な涙が流れていた。
「ありがとう、ライウス。君に出会えて本当に良かった……」
その声は、驚くほど静かで、そして優しかった。
スーリヤはライウスを見ている。遠くを見ていた、空虚な眼――それが、柔らかな光を宿し、ライウスへと向けられている。
スーリヤの口の端がわずかに動いた。
かつての面影を失ってしまったその貌からは、どのような表情も読み取ることはできない。
だが、ライウスはスーリヤが微笑んだことが分かった。なぜか、そう確信できた。
そして、ライウスはそんなスーリヤの貌を美しいと思った。
「時間だよ……」
アシュガンがスーリヤの耳元で囁く。
スーリヤがゆっくりと立ち上がり、蒼天に向かい喉を垂直に立てた。その口から、澄んだ音色が奏でられてゆく。
聴く者の魂が透き通ってゆくような、身体の内側から震えが来るような声――その旋律は、あの日と同じ、いや、それにも増して、哀しく美しい。
スーリヤの歌声は天に向かい伸び上がり、煌めく光の粒子となって大気の中へと満ちてゆく。
その時、スーリヤの口から血の飛沫が飛んだ。彼女の目尻からも、細い血の筋が流れ落ちている。
「スーリヤ!!」
ライウスは思わず彼女の元へと足を踏み出し、その瞬間によろめいた。
地面が動いていた。大地が波打つようにうねり、泡立っている。
ライウスは、すぐには何が起きているのが理解できなかった。それほど以前に目にした光景と規模が違う。
周囲の大地が煮えている。泡立ち、裂けて、亀裂からは得体の知れぬ、闇よりも暗い影が次々と這い出して来た。
人に似たもの、四脚のもの、地を這うもの、天を舞うもの――無数の姿、形を持つ影が、大地から湧き出して来る。
一旦はその光景に圧倒され、膝を突いたライウスであったが、すぐに己を奮い立たせた。
気をしっかりと持て! 見届けるのだ! あの二人の姿を――!!
実際に地面が揺れているわけではない。大気に満ちた気と、歌声によって活性化した魂が共鳴し、あたかも大地が沸騰したかのように感じさせている。
頭上には、夥しい数の翼を持つ姿をした魂たちが舞っていた。天を覆い隠すほどの影が、渦を巻いている。そして、ライウスの前を、後ろを、足下をゆく黒き獣、人の影、陰の蟲――
風がうねる。
轟々と音を鳴らし、風が駆け抜けてゆく。
失われていた巨獣の叫びが、再び天地の境目に吹き荒れていた。
朧な燐光を放ち、何千何万の魂が、風の中で哭いている。
それは嘆きの声のようでもあり、唄う声のようにも聞こえた。
哭く声、嗤う声、怒る声、嘆く声――無数の声がひとつの奔流となり、虚空へ昇ってゆく。生命の持つあらゆる感情、想い、情念さえも、その風は奪い去っていくようであった。
アシュガンとスーリヤは、その風の中心にいる。
その身を刃物で削り取るようにスーリヤは歌い、命の灯火を吹き散らすようにアシュガンが舞う。
「アシュガン!! スーリヤ!!」
ライウスが叫んだ。その叫びに応えるように、周囲の魂が天に向かい啼き上げる。
天と地に満ちた声が、もつれ合い、増幅されていく。
その唱和を追って、上空へと顔を上げたライウスの眼に、“それ”は飛び込んで来た。
(六)
圧倒的に巨大な存在が目の前にあった。
人の持つ距離感さえも麻痺させてしまう、ほぼ物理的な衝撃を持った光景である。
視界に入る大空を全て埋め尽くすように、中天の光を浴びて、太陽樹が虚空にそびえていた。
巨樹――というには、あまりにも巨大過ぎる。山岳がそのまま天空にそびえ立っているかのようだ。
全体の形は、椀を伏せたような半円球である。無限大とも思える数の葉が、風にうねる姿は、緑の海原が天空に現れたかに思える。その枝の、先端のごく一部でも、樹齢何百年という巨木に匹敵するだろう。
円球部の上方、梢には所々に白く光る部分がある。氷河だ。何千年、何万年もの刻を封じ込めた氷の大河が、まるで一片の雪のように見える。
幹には冠からの雪融け水が、無数の滝となって流れ落ちている。滝一本の太さは、地上にあれば都市をまるごと呑み込むほどの幅がある。だが、太陽樹の幹の中では、髪の毛同然の細さだ。
幹や根には、“森林”が生えていた。太陽樹の想像を超えた大きさが、その森林を蘚苔類のように見せている。
下部では、巨龍を思わせる根がもつれ合い、湾曲して球体を造りあげている。根の周囲は、流れ落ちた滝の飛沫が雲となり、全体を包み込んでいた。
“樹”というものの概念を超えている。大地そのものが切り離され、ひとつの大陸、ひとつの世界が誕生したのではないか――そのような想いを抱かせる光景であった。
星の海より現れ、天を疾り抜けて、再び遥かな虚空へ消え去るのだ、と言う者もいる。
この世界とは違う世界に存在し、地上の魂に呼ばれた時、ほんの一刻姿を現すのだ、と言う者もいる。
いずれが真実なのかは分からない。だが、太陽樹は今ここに現れた。
スーリヤの歌声に、アシュガンの舞に、歓喜し慟哭する魂に呼応するように――
狂おしい風の中に、アシュガンとスーリヤはいた。
哭き、軋み、吼え、叫ぶ。太陽樹へ向かい疾り昇る魂の声が、アシュガンとスーリヤの裡側に吹き荒れる苦しみそのもののように、天地に渦巻いている。
「アシュガン!! スーリヤ!!」
ライウスは叫んだ。
自分の声が少しでも二人に届くように、喉が裂けるほどの力を込めて。
しかし、アシュガンはライウスの声に振り向くことはなかった。
天を見ている。天に浮かぶ太陽樹を、炎が燃え盛るような双眸で睨んでいる。
視線を太陽樹へと向けたまま、アシュガンは叫んだ。
「死ぬなよライウス!! 敵はエフィソスだけじゃない!! 生き延びろ!! 生きて必ず帰って来い!!」
アシュガンの背が音を立てて裂けた。そこから、紅い血を絡みつかせながら生えてくるものがある。
それは、一対の翼であった。
漆黒の羽毛が生えた、蝙蝠の翼――
異形の巨大な翼が風を孕み、大きく膨らんだ。
ばさり、と音を立てて、翼が打ち振られる。
轟々と風が吠える。翼を一振りする度に、スーリヤを抱えたアシュガンの身体が浮き上がってゆく。
その口から、歓喜とも恐怖ともつかない咆哮を放ち、慟哭する魂の暴風の中へ魔人が舞い上がる。
その時――
ライウスに向かい振り向いたスーリヤの口が、微かに動いた。
――ユマと、あなたの を、守ってあげて――
「――!?」
その瞬間、風にもぎ取られるように、アシュガンの身体が天に向かい疾り抜けた。
大気を切り裂く音を立てて、虚空へとその姿が消えてゆく。
一瞬、輝く日輪と駆け抜ける影が重なり合った時、ライウスはそこにはっきりと、翼を広げ太陽樹へと舞い上がるアシュガンの姿を見ていた。
そして――アシュガンは消えた。
周囲にいたはずの魂たちも、大地を揺るがす風も、大気を震わせる声も、全てが消え去っていた。
そこには、ライウスがただ独り取り残されているのみであった。
ライウスは茫然と立ち尽くしたまま、アシュガンとスーリヤの飛び去った蒼空を見上げている。
消えていた。アシュガンたちの姿も、たった今まで目の前にそびえていたはずの太陽樹さえも。
ただ、深く蒼い空が広がっているだけだった。
ライウスの両眼から涙が流れている。涙を流しながら、二人が消えた空を見上げている。
その時、空のどこかから、細い哀切な声が聞こえて来た。
魂の奥底にまで響き渡り、細胞の一片さえも清めるような、どこまでも美しく澄んだ声であった。
――生きる。
ライウスは、そう決めていた。
アシュガンが再び戻るのかは分からない。
スーリヤの言葉の意味も、今は分からない。
だが、それでも生きる。生きて戦場から戻る。そう決めていた。
「なあ、それで良いんだろう……」
その呟きは、天の声とともに、遥かな空へと消えていった。
ライウスが前線の自軍陣地に戻った後、ガイラース王国軍に指揮官より進軍再開の号令が下された。
広大なバルゴ平原で両軍が衝突するまで、あと数時間――
周辺を警戒していた偵察部隊が、ほぼ予定通りの位置に敵軍を発見した。
ドワーフ王ベルンハルトが率いるエフィソス軍三万五千。対するガイラース王国軍五万。
双方の主力軍は、ついにバルゴ平原で対峙した。




