第十二話 開戦
(一)
屋敷の入口に設けられた樫の扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開かれた。
同時に、強烈な“気”が部屋の内部へと叩き付けられる。殺気とも、怒気とも取れる凄まじい圧力――自らの子に危機が迫った肉食獣は、このような純粋な敵意を放つのかもしれない。
燃える牙で細胞一つ一つを抉り取るような、壮絶な獣気である。
「来たか……」
部屋の中から扉に向かい、暗い声が発せられた。薄暗い空間の中で、黒衣の男がぽつんと立ち尽くしている。何故か、力の抜けた、ひどく哀しい眼をしていた。
男はその右手に、水滴を垂らす小さい何かを持っている。
やがて扉は完全に開かれた。そこには、月光を背に受けたボックが立っている。
服は焼け焦げ、下半身に僅かな布が残っているだけだ。剥き出しになった肌は、至る所に火傷を負い、全身から血を流している。
だが、その顔には苦痛の感情は無い。その双眸が黒衣の男を刺し貫くように睨んでいる。眼の奥に、黒い炎が燃えていた。
ボックの視線が男の足元へと向けられる。そこには小さな灯りを受けて、床に横たわるユマの姿があった。うつ伏せになった身体の下には、黒い血溜まりが見える。
その時、ボックの耳は微かな水滴の音も捉えていた。音の方向――黒衣の男の右手へと視線を転じる。男が手にしているもの、それは、血を含んだユマの髪束であった。
「てめえ……」
ボックな身体が小刻みに震えていた。内部から、想像を絶する怒りが爆発しようとしている。
喉の奥で獣の声を上げた。苦痛を堪えるように、ボックは呻いていた。
男が手にしたユマの髪束から、一滴の血が床へと落ちた時――ボックは叫んでいた。その瞬間、男はボックの身体が倍以上に膨れ上がったような圧力を感じる。
己の裡から迸り、解放されていく衝動に、ボックが身を委ねようとしたその時、彼の耳に飛び込んで来た声があった。
小さく、弱々しい声――
ボックは反射的に動きを止める。今聞こえたのは、紛れも無く赤子の声だ。
視線の先、黒衣の男よりも奥にある小さな寝台――声は確かにそこから聞こえて来る。
「止めておけ……」
男が低い声で呟いた。
「赤子を捲き込むぞ……」
男の言葉はボックの耳に届いている。しかし、その意味が理解出来ない。
この男の狙いはユマと、その子ではなかったのか? それとも、これから殺すつもりなのか。では、何故「止めておけ」などと言うのか――
その時ボックは気付いた。眼前の男は、全くと言って良いほど“気”を発していない。敵意どころか闘気まで纏っていないのだ。
「この娘は“妊娠していたようだ”な……」
男は、空虚な眼でボックを見ながら語り出した。
「だが、“腹の中の子も、母と一緒に命を落としてしまった”……」
感情を圧し殺した静かな声音であった。まるで自らに言い聞かせるように男は言葉を発している。
「な……に……?」
男の言葉の意味が理解出来ず、ボックは戸惑いの表情を浮かべる。
男がボックに向かい歩き出した。咄嗟にボックは身構えるが、男は彼の姿が目に入っていないかのように、脇を通り過ぎてゆく。幽鬼の如く気配が希薄だった。
「待て!!」
ボックが鋭い声を発する。
「きさまがユマ様を……!!」
ボックの肉体から、ギラリと殺気が膨れ上がった。双眸に無惨なユマの姿が焼き付いている。
「きさまら……紅宮の者だな」肉の裡で憎悪を煮えたぎらせた声で、ボックが続ける。「バクラムめが、きさまらと手を結んだか! 神官共め……このような形で武官に貸しを作ろうなどと、醜い真似を……!!」
ありったけの毒を吐き出すように言葉をぶつけて来るボックに、男が振り向く。そしてその場に立ち止まり、冷めた口調で答えた。
「証拠が無い……。もう一人は、骨も残さず燃え尽きただろう?」
「まだ、きさまがいる……!!」
ボックの体内に、紅蓮の炎が燃え上がる。
「口さえ利ければ良いのだからな……! きさまの手足を、この手で引き千切ってやるよ……!!」
ボックの口が凶悪な角度で吊り上がり、犬歯が剥き出しになった。その時、
「その娘の覚悟を無駄にする気か?」
思いもしない言葉が男の口から出た。ボックは虚を突かれ、動きかけた身体を静止し男を睨む。
「きさま、何を言いたい……!?」
男の暗い眼に、微かな光が宿る。冷たく静かな、哀しみの光だ。
「これが唯一の解決法であると、彼女は理解していたのだ。例え逃げたとて、平穏な暮らしなど出来る筈が無い。一生、子と共に怯えて生きることになるだろう。それに、バクラム達の考えをライウスが知れば、ナーガ族はどうなる……。族長と大臣の対立激化は避けられまい。一族同士で、多くの血が流れることになるだろう。バクラムにとって邪魔な自分が死ねば、これ以上の犠牲は出さずに済む。……だからこそ、その御方は自ら命を絶たれたのだ……」
男のユマに対する口調が、いつの間にか「その娘」から「その御方」へと変わっている。
「安心しろ。俺はこのままバクラムに報告する。先ほど話した通り、この髪束を証拠にな……。バクラムは所詮、権力欲だけが一人前の小物よ。独断で紅宮と手を結んだ挙げ句、神官側に死人まで出しては、これ以上何か仕掛けるだけの度胸は有るまい。……奴の目的は果たされたわけだからな。俺への命令も『ユマとその子の生命』だけだ。これ以上何もするつもりは無い……。お前が何もしなければ、な」
ボックはその場に膝を突いた。たった今まで燃え盛っていた血の炎が、根こそぎ消え失せてしまっている。
「ぐおっ……!」
血を吐き出すような呻き声が、ボックの口から洩れていた。
「ユマ様……!!」
歯を軋らせながら、ボックが言う。やがて、押し殺した低い獣のような唸り声と共に、ボックは哭いた。
ただ、口から声が溢れ出て来る。抑えようとしても止まることの無い慟哭であった。
黒衣の男は、そんなボックの姿をしばらく見てから、やがて背を向けて入口へと向かう。
「待て……」ボックが男を呼び止めた。「何故……、何故、きさまはそこまでする? きさまの目的は何だ!?」
男は立ち止まり、沈黙する。闇の中から答えを探すように視線をさ迷わせた後、低い声で答えた。
「俺にも分からん……。だが、これは命を懸けた願いだ。しかも、他人を守る為の……。俺は、あのような御方は初めて見たよ……」
一語一語を噛み締めるように言うと、男はゆっくりと闇の中へと姿を消した。
やがて、音の消えた空間の中で、赤子が母の温もりを探して泣き始めた。その声に誘われるように、ボックは弱々しく立ち上がる。
ユマの前まで歩み寄ると、そこに膝を突いた。血に濡れたその身体を抱き上げる。
まだユマの身体には温もりが残っていたが、それは急速に失われていく。
ボックはユマの顔に指先を伸ばし、開いたままの瞼をそっと閉じた。圧倒的な無力感が、ボックの全身を包んでいた。
ユマを抱え再び立ち上がると、寝台を覗く。
そこには、ユマの面影を強く残した赤子がボックを見上げていた。父親譲りの碧い瞳が涙に濡れて、じっとボックを見詰めている。
赤子は、ボックの腕に抱えられた母の顔を見たのか、小さく安心したように微笑んだ。
それを見たボックの両眼から涙が溢れ出る。彼は低い声を上げて、嗚咽し始めた。
(二)
ガイラース国の西側、結界山脈を挟んだ麓には鉱山帯が存在し、更に進むと『バルゴ平原』が広がっている。
豊富な鉱山採掘物の貿易により、当時急速に勢力を拡大していた国が『エフィソス』である。
エフィソスは、採掘や土木作業に天性の才能を持つ『ドワーフ』と呼ばれる種族と、精錬技術や鍛冶技能に長けた『キュクロプス』を始めとする『巨人族』により構成された軍事国家であった。高品質の武具の輸出だけでなく、巨人族を中心にした傭兵も主要産業となっている。
当時、エフィソスは大陸西方の魔神族と手を結び、周辺の小国を次々に侵略し、結界山脈付近にも拠点を築いていた。
前々からエフィソスの豊富な鉱物資源と鉱山技術に目を付けていたガイラース国との関係は、当然のことながら急激に悪化。間も無くガイラース国は宣戦を布告し、両国は戦争へ突入したのである。 開戦からしばらくの間は、エフィソス軍は主力同士のぶつかり合いを避けて、山岳地帯でのゲリラ戦を展開していた。
国力ではガイラース国が圧倒的に有利であったし、戦争が泥沼化すれば、魔神族が介入して来るのでは――という計算もあった。
だが、魔神族は動かなかった。魔神族もその頃別の小国を侵攻中ということもあったが、何より魔神族にとってエフィソスは数ある手駒の内の一つに過ぎなかったのだ。
エフィソスが自らの立場に気付いた時は、既に自軍は疲弊し追い詰められ、山間の拠点も全て制圧され、最後の大会戦に臨むしか無い状況となっていた。
こうして双方の主力軍は、バルゴ平原で対峙することとなったのである。
(三)
ライウスがユマ達母子の“病死”の報を受け取ったのは、バルゴ平原に向けて進軍を開始する準備中だった。
周囲では、武器管理係が矢の本数や剣、槍が揃っているかを調べて回り、紋章官が盾や隊旗に不備が無いかチェックを繰り返している。
人間の馬丁達も、軍馬に餌と水をやり、蹄と蹄鉄の間を掃除したりと忙しく働いていた。
だが、一人陣屋の奥に籠ったライウスには、周囲の喧騒がまるで別世界のように感じられる。音も光も、全てが感覚から消え失せてしまっていた。
手紙は、ナーガ族の都市『ヴァルナ』と黒龍族の里双方から届いていたが、内容はどちらも同じである。短く「貴方の侍女であった女性が亡くなった」ことを報せるだけだった。
――どうして、このようなことに――
激しい自責の念が、ライウスを苛んでいる。
ユマが自ら死を選んだことは、手紙には一切書かれてはいない。だが、それでもライウスは、ユマがそうしたであろうと気付いていた。そして、その理由も――
守る為だ。この自分だけでは無い。彼女を殺すように命じた筈の者達も、自分達ナーガ族そのものを。
そして、ふたりの子を――
はらわたを、手で捻切られるような思いが渦巻いている。
激しい怒りが湧いた。どす黒い憎しみが、肉の裡で音を立てて煮えたぎる。
どこへもやり場の無い哀しみだ。どこへも吐き出しようの無い怨みだ。骨が焼けただれるほどの憎悪であった。
――許さない。
ライウスは思った。何よりも、誰よりも、自分自身を。
あの時、ユマに想いを伝えなければ、或いは彼女と共にヴァルナを出ていれば――運命の選択肢は別に存在していたのだ。
それを自分は選ばなかった。その時、その場で、自分にとって一番都合の良い答えばかりを選んでしまった。
そして、深い絶望だけが残された――
ライウスは憎悪と絶望を胸に抱き、戦場へと向かう。
最早、生命など惜しくは無い。このやり場の無い殺意を全てぶつけてやる――
ライウスは、一体の修羅と化していた。
(四)
「『闘仙団』を出撃させないとは、どういうことだ!!」
大気を震わせる、正に獅子の如き怒声が、ガイラース王国軍陣地に響き渡り、直後に硬く厚い物を砕く大きな破壊音がした。
立て続けに届く轟音に、指揮官用テント周辺の兵士達は身をすくませる。
特にキンナラ族兵士の中には、尾を股の間に隠してしまう者もいるが無理も無い。彼等一族にとって、この怒声の主は何よりも恐ろしいからだ。
現在指揮官用テント内部では、間近に迫ったエフィソスとの会戦に向けて、最後の軍議が行われている。
ガイラース王国軍の指揮官は、キンナラ族族長ゴルバン辺境伯である。先程の怒声と破壊音は、両方共彼が発したものだ。
牙を軋らせて、喉の奥から雷鳴のような唸り声を出すゴルバンの足元には、真っ二つに割れた木製のテーブルが転がっていた。怒りと共に降り下ろされたゴルバンの拳が直撃した結果である。
周囲の将校達は、ゴルバンの凄まじい殺気に完全に萎縮していた。だが、ゴルバンの正面でその殺意を含んだ眼光を一身に受ける人物は、顔色一つ変えていない。
彼の名はデーヴァ族族長マニバトラ。王直属の、戦闘系の術に特化した聖仙術師による戦闘集団、通称『闘仙団』の団長である。
『闘仙団』は基本的に王国軍にも守護兵団にも所属しない独立部隊だ。命令系統に組み込まれず、王直属という立場もあり、戦場に無用の混乱を起こすことも多い。
ガイラースには、聖仙術師の組織がもう一つ存在する。それが『聖仙書記局』だ。こちらも同じく、王直属の組織である。
仕事内容は、国の重要な公文書の補完や議事録の作成、『遺跡』から発見される先史時代の資料解読と管理など多岐に渡る。それは、優秀な聖仙術師は国により保護され、高度な教育を受けることが可能だからだ。書記局の一員ともなれば、政治の中枢にまで食い込み、局長は政治や軍事にまで直接意見を言うこともできる。
何故、聖仙術師達はここまで特権階級に昇りつめたのか――。
先史時代の記録によると、真人達は動植物ら生命体、石や砂のような物体、さらには惑星や恒星といったあらゆる物質が、元素――『極微粒子』の無限とも言える組み合わせと比率により構成されていることを発見した。だが、極微粒子さえも、さらに微小な粒子の集合体であったのだ。また、真人は宇宙の現象にも、その粒子が深く関わっている事実も発見する。例えば、「燃焼」とは、物質が酸素と化合、つまり物質を構成する粒子間で組み替えが起こり、光と熱を出す現象だ。そして、その光やさらには重力のような力さえも、粒子により伝えられているのである。
全ての物質を構成し、あらゆる力を伝え現象を成り立たせる根源的な粒子――真人達に『根源子』、後に『気』と呼ばれた粒子を『精神力』と『魂』により制御、操作して超自然現象を引き起こす術――それが『聖仙術』だ。
重要なのは、その聖仙術の才能が、「生まれつき」のものである点だ。
才能を持つ者が、訓練によりその能力を更に高めることができても、才能が無い者がどれだけ努力しても、一生聖仙術は使えない。
しかも、術師が使える術の種類や数も生まれつきなのだ。数は多い者で四、五種程度。中には全く役に立たない術を身につける者も当然いる。
戦闘に有効な炎や水、雷などの自然現象を操る類の術を身につければ、闘仙団入りは確実。大量破壊系の術を使う者が見つかった場合は、時に国家間の争いにまで発展することもあった。
そのような状況ならば、術師達の選民思想が肥大化するのは無理も無いと言える。国家の為に優秀な術師の力を使ってもらうには、破格の報酬と権力が必要だ。これは大陸のどの国家においても同じような状況である。
全身から熱気を放ち、茶褐色のたてがみを逆立たせ、黄色い犬歯を剥き出しにして睨み付けるゴルバン。だが、正面に位置する椅子に腰掛けたマニバトラは平然として、整った顔には微塵の動揺も現れてはいない。
獅子の浮き彫りが施された胴当てを着けるゴルバンとは対照的に、ゆったりとした光沢のある絹製の法衣を纏ったマニバトラは、美しい金髪を気怠そうに掻き上げながらゴルバンに言った。
「でかい声で吠えるなよゴルバン。お前は獅子だと思っていたが、実は野良犬だったのか?」
マニバトラの言葉に周囲の者は凍りつく。
「殺されたいのか!マニバトラ!!」
雷鳴の如きゴルバンの怒声が轟き、大気が振動した。しかし、マニバトラは口の片端を吊り上げただけである。
「ふん……、そうだったな。国家の財産とも言える聖仙術師を死なせるのは、お前の得意技だったな」
「ぐむっ……!!」
マニバトラの強烈な皮肉に、ゴルバンは唸り声を上げるのみで反論ができない。マニバトラは「ふ……」と小さく嗤うと、優雅な所作で脚を組み直す。
「勘違いするなよ、ゴルバン。闘仙団を出さない、というのは俺個人の考えでは無い。アシュガン殿がヴァリシュタ王に進言したのだ」そう言うと、マニバトラは冷たい視線をゴルバンに向ける。「まあ、俺としても、一人で数十人の敵兵を殺傷できる有能な術師を、無駄に死なせる指揮官なんぞ御免だがな……」
「王国軍兵士に無駄死になど無いわ!!全ては王の為、国家の為だ!!」
ゴルバンが激昂する。彼の中では、聖仙術師も一般兵士も「敵を倒す戦力」であることに変わりは無い。その点では、ある意味命に対して平等であると言える。だが、強力な聖仙術師の損耗は避けたいと思うのは王国として当然のことだ。
大規模な会戦における、聖仙術師の最も効率的な活用方法とは?
この大きな難題について、現在も多くの議論が研究家達の間で交わされている。
ちなみにこの当時、聖仙術師達は本陣の指揮官近くに控えていた。彼等は指揮官の命令により、作戦の要所毎に戦場へ投入される。そして、自身の持つ最高威力の術を精神の限界まで撃ちまくり、力尽きれば護衛の兵士と共に後方へ退がる――という運用方法であった。
当然ながらこの戦法は、術師達が死傷することがある。とは言え、一般の兵士達に比べれば遥かに低い確率であったが――自分達が「選ばれた特別な存在」と教育されている聖仙術師達は納得しない。彼等は声高々に「自分達は戦場で最高指揮官以上に守られるべき存在」と主張。その意見は聖仙術師の政治的地位上昇と共に、放置できないものとなっていた。
「勇敢な台詞を吐いて、ろくにドワーフ達の軍備を確認せずに、最前線へ術師を出撃させてどうなった? 巨人族の傭兵部隊がバリスタを担ぎ上げて射出し、術師と護衛の兵士をまとめて挽き肉に変えてしまったではないか。あの一件でアシュガン殿がお怒りでな。『有効な聖仙術師の運用方法を検討する間、闘仙団は出撃させない』と決まったんだよ。もちろんヴァリシュタ王の命令だ。……理解できたか?一応お前の野獣並の頭でも分かるように説明したつもりだがね」
言い終わると、マニバトラは嘲るような冷笑を浮かべてゴルバンを見た。ゴルバンのたてがみは逆立ち、こめかみには血管が浮き出ている。
双方から敵意と侮蔑の感情が込められた視線がぶつかり合い、空気が音を立てて軋みそうなほど張りつめていく。
ゴルバンはゆっくりと両手を腰から上へ移動し、鋭い爪を生やした指を、ごきりと鳴らして構えた。マニバトラは全身に気を張り巡らせる。すると、彼の金髪の周囲から放電現象が始まった。
二人を取り囲む将校達は、顔面蒼白となり身体を細かく震わせるだけで、誰も声を発することができない。
限界まで高まった殺意が弾けそうになる、その瞬間であった。
「あの〜、お取り込み中すんません。入ってもよろしいですかね?」
緊張感の欠片も無い声がテント内に聞こえた。間も無く入口が開かれ、肩まで伸びるオレンジ色の髪と翼を持つガルダ族の男が入って来る。
白宮を象徴する白い軍服をラフに着崩した長身の青年――白宮特殊警察第一課中佐のサージュだ。
「何の用だ!!サージュ!!」
ゴルバンが怒鳴り付ける。
「ちょっと……、落ち着いて下さいよゴルバンさん」サージュはいつもの笑っているような細目のまま、胸の前で両手を振る。「マニバトラさんも意地悪だなあ。ちゃあんと闘仙団の代わりを用意してるくせに」
サージュの言葉に、マニバトラが眉をひそめる。
「……相変わらず人を喰った男だな、お前は」
そう言うと、興が削がれたようにマニバトラは緊張を解いた。それを見て、ゴルバンも殺気を若干ではあるが緩める。将校達は一様にほっとした表情を浮かべた。
「『代わり』とは何だ!サージュ!!」
ゴルバンがサージュを睨み付けながら言う。サージュは「怖いなあ、もう……」と呟きながら、テントの外に声を掛けた。
すると、包みを抱えた部下の兵士と共に、サージュの副官であるナジャータ大尉が入って来た。ショートヘアの髪は翼と同じグレー。生真面目な彼女の性格を現すように、白い女子制服を襟元まできっちりと閉じ、細い銀縁眼鏡の奥の黒い瞳が知的な光を放つ。
「やあ、ご苦労様ですナジャータさん。早速ですけど、例の物を皆さんにお見せして下さい」
足下に散乱した、バルゴ平原やエフィソス近郊の地図、定規や鉛筆などをせっせと拾い集めながら、サージュがナジャータに笑い掛ける。その様子を見て、ナジャータは「全く……」と、ため息をつくと、部下の兵士に包みを開けさせた。
「弩ではないか。……多少、大きいようだが」
不満そうにゴルバンが言う。包みの中から出て来たのは、木製の台座に弓が取り付けられた、いわゆる『クロスボウ』であった。この大陸では古くから使われている武器である。
しかし、ガイラース王国軍で使用するものが全長一ローナ(一メートル)程度であるのに対し、サージュが用意したものは一回り以上は大きい。
「いやあ、ただでかいだけじゃ無いんですよ」
サージュが立ち上がり、目を更に細めて説明を始める。
「『連弩』って呼ぶんですよ。ほら、この矢が籠められた箱形の弾倉をね、弓の上に取り付けるんです」
弩の上には、本体と同じサイズの細長い台座が取り付けられており、射手側に山羊の後足に似た形の上下に動くレバーがある。レバーの上下に連動し、台座が前後にスライドする仕組みだ。弾倉は着脱式で、レバー付き台座の上にセットする。
「弾倉の中には長さ六〇ハスタ(六〇センチ)の鉄矢が十二本入ります。レバーを上げると台座が前にスライドして、レバーを下ろせば台座が元の位置に戻り、その際に弦が引かれ、同時に弾倉から矢が下に落ちて装填される仕組みになっています。矢の装填と弦を引く二つの動作がレバー操作、つまり片手だけでできて、連続で十二本の矢を射かけることが可能な優れものですよ」
「連射式の弩ならば、以前に試作したが、使い物にならなかったではないか!!」
ゴルバンの言う通り、連射式弩はかつて白宮で製作されている。しかし装填から射出までの全ての作業を一体化しようとした結果、機構が複雑化してしまった。故障は絶えず発生し、重量は増大。逆に弩本体を小型化することになる。内部構造の摩擦も増え、スムーズに矢を発射する為に矢羽も取り除かれた。連射性能と引き換えに、威力と射程距離が犠牲にされた試作品が作られた後は、結局開発は取り止めとなったのである。
「ええ、ですから今回の連弩はレバーの前後による単純な機構に変更されています。射出は従来通り弩本体の引き金で。矢は専用のラインを用意し、製造段階で金属製の矢羽を一体化して作られています。弾倉の設計も前回とは逆で、弾倉の方を矢の形状に合わせて造り直しました。上から下へきちんと一列に落ちるようにね」
サージュはまるで、自慢の玩具を説明するかのように、愉しげな口調で話す。
「きさまら、いつの間にそんな物を……!」
ゴルバンが唸る。その問いにサージュが、
「はい、優秀なドワーフの職人さんが手伝ってくれましたから」
と、満面の笑みで答えた。
「なんだと!?」
「紅宮情報局のおかげですよ。エフィソスでも指折りの技術を持つドワーフさんを、ガイラースに『ご招待』してくれたんです。いやあ、ドワーフさんはごつい外見のくせに、本当に器用ですよねえ。矢の製造ラインに弾倉の設計、矢バネに使う金属の混合率……全てドワーフさんのアイディアです。ああ、製造は白宮で行ったんですけどね」
そこまで話すと、サージュはマニバトラに視線を送り「ね?」と笑い掛けた。マニバトラは不機嫌そうに眉根を寄せるのみである。
「もちろん命中精度は試作品より多少マシになった程度ですけどね。でも、平均身長が一・五ローナに満たないドワーフさん達と違い、ガイラースには三ローナ近くになるキンナラ族やガンダルヴァ族の兵士がわんさかいるでしょう? 彼等の体格に合わせた大型の弩を造り射程距離と威力をカバー。後はガイラースの大好きな数の暴力です。『秘技労働者殺しの大量生産!』で三個連隊、六千人分の連弩を造らせました。こいつを滅多射ちすれば、命中率なんて関係無いですよ」
サージュの説明を聞くうちに、ゴルバンの顔に凶悪な笑みが作られてゆく。これから始まる殺戮を前に、心踊らせる血に餓えた残酷な嗤いだ。
「面白い……!!」
しゅうう、とゴルバンの発達した牙の間から熱い息が洩れた。黄色い眼が濁った光を放つ。
「俺の用は済んだ……。戻らせてもらうぞ」
マニバトラはつまらなそうに言うと、席を立ちテントの外へと向かう。そして入口に立つサージュとすれ違う瞬間、マニバトラの視線に突き刺すような鋭さが宿った。
サージュの表情は相変わらず笑顔のままだ。しかし柔和そうな目の奥に潜むものに、マニバトラは気付いている。
「いやあ、聖仙術師の皆さんも大変ですねえ……。ま、『連弩』程度なら、まだまだ自分達の地位は安泰ですか?」
小声で呟くサージュ。対するマニバトラは口の端を吊り上げ、
「白宮の犬は演技のお勉強も熱心だな。せいぜい仮面を外さぬように気を付けろよ……」
そう言うと、そのまま彼はテントを出て行った。
(五)
「何故マニバトラ様は、我々に連弩の製造を任せたのでしょうか?」
指揮官用テントを出て陣地の中を歩きながら、ナジャータがサージュに問い掛ける。「紅宮主導のまま行うこともできた筈なのに……、いえ、そうするべきだったのでは?」
「そうですねえ。これまでの戦術を変えてしまう発明ですよ。紅宮情報局の大手柄だなあ」
笑いながら話すサージュを見て、ナジャータの表情が訝し気なものに変わる。
「だったらなおのこと、紅宮側で独り占めにすれば……」
「そしたら今度は白宮側が別の作戦で手柄を独り占めしようとするよね。そうした組織同士の下らない面子争いで全体が疲弊する。それをマニバトラさんは避けたいのでしょう。むしろ、あちこちに花を持たせておけば、いつか自分の利益になる。いやあ、やっぱりマニバトラさんは切れ者だなあ」
「……」
「それに、僕にも気を使ってくれたんでしょうね。だって、エフィソスから『お招き』したドワーフさんを『おもてなし』したのは僕ですから」
「――え?」
眼鏡の奥で黒い瞳を見開くナジャータ。サージュは「あれ?言ってませんでした?」と、惚けた顔で返す。
「あの頑固でプライドの高いドワーフからどうやって……いえ、いいです。聞きたくないです」
「何想像してるんですか?言っておきますが、僕は暴力が嫌いなんですよ」
紅宮情報局本部地下には拷問室が存在し、昼夜を問わず政治犯や他国の捕虜に対して凄惨な尋問が行われている――帝都では、一般臣民だけでなく人間にまで広まっている話だ。
実際に地下室を見た者はいない。だが、本部近くから時折この世のものとは思えぬ絶叫が響いて来るのを、何人もの兵士が聞いている。その噂をナジャータは思い出していた。
「僕は拷問なんて非効率的な手段は好きじゃない。あれって専門技術ですよ?やり過ぎると殺しちゃうし、こっちが望む答えを強要しちゃうしね。そもそも疲れて面倒だし」
「(『残酷だから』とかじゃ無いのかよ!!)じゃあ、どんな方法で……?」
「ナジャータさんは『邪鉱病』って知ってます?」
『邪鉱病』――エフィソス鉱山地帯の一部で暮らす、ドワーフ達の間で発生した奇病である。発病すると、まず内臓に無数の腫瘍ができる。進行すると頭髪が抜けて皮膚の柔らかい部分が爛れてゆく。末期になれば腫瘍が内臓全てを埋め尽くし、身体中の穴から血と溶けた内臓を垂れ流して死ぬという悲惨な最期を迎える。
「鉱山で稀に採掘される特殊な鉱石に原因が有るのでは、と言われていますね。その鉱石から発生する波動が『魂』の因果を狂わせるのだと……」
ナジャータが眉間に深い皺を刻みながら答えた。彼女は以前に邪鉱病の資料を見たことがある。病に侵された母体からは、奇形の子供が産まれる確率も異常なほど高い。種を根絶やしにするような、正に悪魔の病だ。
治療方法は確立されておらず、現時点では聖仙術師の中でも医療技術に特化した術師――『医仙』による対処療法しか無い。麻酔をかけて患者を眠らせてから、体を切り開き患部を摘出。そして『癒気法』で気の流れを整え、死滅してゆく細胞に活力を与える。だが、発見初期ならばともかく末期になれば、ただ苦痛を長引かせるだけだ。
「気の毒なことにねえ、その優秀なドワーフ技術者さんのお子様が、邪鉱病に冒されてしまったんですよ」
「……ドワーフは聖仙術が使えない者達ばかりですよね。しかも『自然の摂理に反する邪法』と言って、聖仙術を忌み嫌っています」
「だからね、僕がドワーフさんに提案したんです。『あなたがガイラースに協力してくれれば、最先端の聖仙術医療を好きなだけ、しかも無料で受けさせてあげますよ』ってね」
「――――」
「ドワーフさんは何日も寝ずに悩んだみたいだけど、最後は祖国より我が子を選んだんです。いやあ、美しい親子愛だよねえ!僕達もめでたく新兵器をゲット!皆ハッピーエンドですね!!」
満面の笑みで説明を終えたサージュは、同意を求めるようにナジャータの顔を細い目で覗き込む。ナジャータは顔をしかめ、目線を逸らしながら囁いた。
「……やっぱり最低ですね。サージュ様は」
「誉め言葉と受け取っておきますよ。ナジャータさん」
そう言って、サージュは優しく微笑んだ。
(六)
結界山脈の西側、エフィソス領の険しい山岳地帯を、ギュンター軍曹率いるドワーフ山岳ゲリラ部隊は歩んでいた。
見上げれば、遥か上空の山嶺には厚い雲がかかり、空は灰を撒いたかのように薄暗い。
山脈の麓には、岩を削っただけのような登りにくい山肌があるかと思えば、谷間には娑羅樹や樫の樹々が密集した森が現れたりもする。ゲリラ部隊が歩いているのは、そのような山峡の森林の中であった。
部隊の人員はギュンターを含め五人。鱗状の装甲を組み合わせたスケイルアーマーを身に付け、ギュンター他二名が長さ五〇ハスタのハンドアックスを持ち、残り二名はクロスボウを手にしている。
全員ドワーフのシンボルと言える濃い髭を顔中に生やし、逞しい体つきをしていた。ドワーフの体型はよく酒樽に例えられるが、彼等ゲリラ部隊は腕や脚が子供の頭よりも太く、背の低さを除けば野生の熊を思わせる力強さだ。
現在ゲリラ部隊は、ガイラースの放った工作員の探索を行っている。人数や性別は不明。だが、既に二〇名近くの兵士が殺されている。
ギュンター達は互いに死角をカバーするように、周囲に視線を配りながら森を進む。皆一言も発しない。周りの鳥の鳴き声や小動物の移動する音が、常よりも大きく響く気がする。
不意に正面の繁みが揺れた。全員が瞬時に身構える。数秒――彼等にとっては数分間以上に感じる沈黙の後、そこから出て来たのは小さな兎だった。兎はドワーフ達を見ると、驚いたように近くの繁みの中へと飛び込む。
ギュンター達は大きく息を吐き、互いに顔を見合わせた。
――少し気を張り過ぎているのかもしれない。部下達の集中力も、そろそろ限界だろう――
ギュンターがそう考えた瞬間、樹上から音も無く黒い影がゲリラ部隊の正面に降り立った。
影から一番離れていたのは隊長のギュンターである。その為彼は影の顔を見ることができた。それは、まだ幼い表情を面立ちの中に残した美麗の少年だった。
透き通るような蒼い肌、やや癖のある黒髪と黒い瞳を有した少年――名はカイン。ガイラース王国軍の強襲部隊に史上最年少の十四歳で入隊した、後にアスラ族の族長となる男である。
カインは厚い胸甲が付いたもみ革の上着に、鋼鉄製の手甲と脛当てを組み合わせ、アスラ族の特徴である四本の腕それぞれに、全長五〇ハスタの、中央部が少し湾曲した片刃の刀――山刀を構えていた。
もっとも、ギュンターはそこまで詳しくカインの姿を捉えていたわけではない。着地した瞬間に、カインはゲリラ部隊に襲いかかっていたからだ。ドワーフ達は虚を突かれ、武器を構えようとしてもたついてしまう。その時既に勝敗は決していた。
カインは一番近くにいたクロスボウを持つドワーフ兵の腹に山刀を突き入れた。刃はスケイルアーマーを簡単に貫通し、ずぶりと肉を抉る手応えを伝えてくる。腹から刃を捻りつつ抜き取ると、腸の一部が大量の血と共にこぼれ落ちた。
二人目がハンドアックスを構えようとする。カインは腹を切り裂いたドワーフをその方向へ蹴り倒し体勢を崩した。次の瞬間には間合いに入り、左手の山刀でアックスを外側に打ち弾く。兵士の右脇腹がガラ空きになり、そこへ“二本目”の左手に持つ山刀を突き刺した。
刃を抜く前に捻り、確実に臓器を破壊する。身に付いた習性のようなものだ。ドワーフ兵は声にならない悲鳴を上げて、武器を捨てて傷口を押さえのたうち回る。一人目は、糞便の臭いが漂う血溜まりの中に頭から突っ込み、ぴくりとも動かない。
カインは視線を疾らせる。右後方の兵士がクロスボウを向けようとしていた。それよりも速く、二本目の右手から山刀を投げつける。風切り音を発し、山刀が兵士の喉を貫いた。そのままの勢いで、後方へ飛び出た刃が昆虫標本のようにドワーフ兵を背後の木の幹へ突き立てる。
「ひいっ……!!」
四人目のドワーフ兵が引きつった悲鳴を上げた。完全に戦意を喪失している。カインは踊りかかり、思い切り山刀を脳天に叩きつけた。兜もろとも頭蓋骨を破り、刃の圧力で兵士の両眼が外部に飛び出す。顔中の穴から血を吹き出してドワーフ兵は崩れ落ちた。
その時、どさり、と音がした。最後の一人――ギュンターが足下にハンドアックスを捨てて、両手を上げている。
一瞬の内に四人が殺されたのだ。彼の判断は正しい。「降伏する」と、言葉を発しようとした時、ギュンターの口が止まる。眼前のカインの顔を見たからだ。カインの顔には、痛ましいものを見る表情が浮かんでいた。
困惑するギュンターにゆっくりと歩み寄ると、カインはギュンターの鼻先に山刀を突きつける。
「悪いけど、『エフィソスの山岳ゲリラは全員殺せ』って命令なんだ」
カインの言葉にギュンターの顔はひきつり血の気を失う。歯がかちかちと音を立てて鳴り始めた。
「……ごめんよ」
小さく言うと、カインは山刀を握る右手に力を込めた。
(七)
ガイラース軍本陣後方――ニンジンや乾草、そして馬糞の臭いがする仮設厩舎から少し離れた水場で、カインは山刀にこびりついた血と脂を落としている。
これまでのカインが所属する強襲部隊の任務は主に長距離偵察だった。後方の本隊の為に、山間部に点在するゲリラの拠点を叩き潰していたのである。今後はバルゴ平原で行われる会戦に備え、部隊は指揮官護衛隊に組み込まれる予定だ。
時折近くを通り過ぎる神民の兵士や人間の隷民達からは、畏怖と侮蔑が入り交じった視線が向けられてくる。
強襲部隊に対するイメージは悪い。「血も涙も無い殺人者」「女性や子供も平気で殺す」――軍上層部にさえ、「あいつらは元々人殺しが好きな奴等だ」と公言する者さえいた。
「…………」
カインは無言で、返り血の固まった黒い粒が流れていくのを見つめている。ふと、頭部に痒みを感じて軽く指で掻いた。すると、ポロポロと血の塊や骨の欠片が落ちくる。
指先を見ると、爪の間に生乾きの脂肪が詰まっていた。それも黙ってほじり出す。
以前は吐き気をもよおした作業だが、今は何も感じない。そう、感じていないはずだ――
「うりゃ!」
掛け声と共に、カインの頭に湯を含ませた布がかぶせられた。そのまま乱暴に頭を拭かれる。
布を取り除かれた時には、カインの黒髪はくしゃくしゃになっていた。
「……何か用ですか?」
表情を消した顔で振り向くカイン。視線の先には、艶のある紫紺の長髪と蛇の胴体、エメラルドの瞳を持つ美しい女性が立っていた。体にフィットした黒革の鎧を身に付けた彼女は、マホラガ族族長の娘イライサである。
当時の彼女はまだ族長では無かったが、王より正式な叙勲を受けた騎士であり、近いうちに族長と守護兵団団長の座を継ぐことは確実と言われていた。
「ちゃんと湯を使わんと血が落ちんぞ少年!」
そう言うと、イライサは白い歯を見せて「にひひ」と笑う。
「別にいいですよ。用が無いなら一人にさせて下さい……」
「今にも泣きそうな顔してたくせに」
イライサの言葉にカインは沈黙する。その様子を見て彼女は小さく「ふう」と息を吐き、いきなりカインの耳をつまんだ。かなり強めの力で、思わず彼は顔をしかめる。
「働いた後はメシだメシ! ひょろい身体しやがって! ウルガといいお前といい、男ならがっつり喰え!!」
「あの、僕は今食欲が……」
カインの言葉を聞いたイライサは、瞳孔をきゅっと細めて彼を睨み付ける。
「私の階級は大佐だ。上官の命令は絶対だよなあ、カイン少尉……?」
そう言って太い犬歯を光らせて笑うイライサを見て、カインは大きなため息をついた。
(八)
視界の遥か彼方には、バンセン樹の林が点在するバルゴ平原が広がっている。あと一キャン(一時間)ほどで最後の休息が終われば、進軍命令が下されるだろう。 人気の無い陣地の端でイライサとカインはトゥクパを食べている。ヤクの干し肉と脂、たっぷりの香辛料で味を付けたスープに、ツァンパ(大麦を煎って粉に挽いたもの)を混ぜて粥状にした料理だ。
「どうもあれだな、干し肉では物足りなくていかん。やっぱり新鮮な肉が喰いたい!」
文句ばかり言いながら五杯目を食べ終えるイライサに対し、カインはあまり食が進んでいない。
「小食だなあカインは。よし、酒ならどうだ?」
そう言うと、イライサは肩に下げていた革袋から、トゥクパの入っていた器へチャン(濁酒)を注ぎ自分で飲み始める。
「作戦中ですよ。そもそも将校用のロクシー(焼酎)が有るじゃないですか」
「景気付けだよ。それにロクシーは全部飲んだ!」
「……」
眉をひそめるカインを尻目に、イライサはチャンを飲み干す。どうやら結局自分だけで飲む気らしい。
「ま、酔っぱらいが一人いたところで、勇敢なるゴルバン中将様がいれば何の問題も無いでしょうねえ」
不機嫌そうに眉間に皺を作るイライサを見てカインは苦笑した。
「……またゴルバンと揉めたんですか?」
「喧嘩を売ってくるのはいつもあのヒステリー猫の方だ!!」
白宮のゴルバンと紅宮のイライサ。二人の仲の悪さはかなり有名である。
国防の元祖という歴史と誇りを持つ守護兵団と現在の主戦力である王国軍の対立は、ガイラース国内では常識だ。
双方の組織で上を目指す二人の関係が良好になるはずも無い。が、それ以外の理由も有るとイライサは思っている。
「まあ、ゴルバンがあたしやマニバトラ、ライウスのことが気に入らないのは分かるがね……」
キンナラ族の族長は代々多くの側室を持つ。大勢の子共同士で族長の座を争わせる為だ。そうして勝ち残った者が次代の族長となる。全ては『より優秀な血を受け継ぐ為』――それがキンナラ族伝統の考えなのだ。
ゴルバンは物心ついた時、いや、産まれた時から常に親族達に命を狙われる立場だった。血で血を洗う戦いの果てに族長の座を掴んだゴルバンにとって、幼い頃から族長の地位を約束されていたライウス達は、憎しみに似た感情を抱く対象となっていた。
「だが、ゴルバンのやり方は気に入らん!! 国力を増大させたいアシュガンの口車に乗って、やたらと戦争を仕掛ける! 結果王国軍は巨大化し、軍を維持する為にまた他国を侵略する、その繰り返しではないか!!」
無意識に声を荒げるイライサ。それを黙って聞いていたカインがぼそりと呟いた。
「でも……少し、分かるな」
「……?」
囁くような声を聞いたイライサはカインの顔を見る。
「多分、怖いんじゃないかな。戦いで自分の存在を認めさせたから、戦いが無くなっちゃうのが……。何となくだけど、僕、分かる気がします」
「カイン……」
イライサは思い出していた。カインの父親は早くに亡くなっている。剣術の達人であったカインの父には、イライサも指導を受けたことがある。尊敬できる人物だった。
今は高齢の祖父が一度引退した族長の地位に再び就いている。カインは今、必死に手柄を立てて一族の者達に自分の力を認めさせようとしている。
「……何するんですか、イライサ」
カインの全身に、イライサの蛇の胴体が巻き付いていた。
「カインは良い子だなあ。どうだ? 白宮なんぞ出て紅宮に来ないか? うん、それが良い!!」
「冗談やめて下さい。そんなこと言ってるから、ゴルバンと喧嘩するんですよ」
「照れるな照れるな少年! 年上のお姉さんの魅力は刺激が強すぎるかね?」
イライサは胴体の拘束を解かず、更にカインの首に腕を回してきた。豊かな胸を顔に押し当てられ、カインは頬を紅く染める。
「あの、離して下さいよ……」
「へへへー、お子さまめ! 可愛いのう。キスしてやろうか?」
「遠慮します。……ウルガに悪いですから」
カインの言葉に、イライサは「げ」と声を出して固まる。腕の力が緩み、その隙にカインは彼女の腕から逃れた。
「何時も一緒にいるなあって思っただけなんですけど……、当たっちゃいました?」
カインは首を擦りながらイライサに尋ねた。イライサは我にかえると、目に見えて狼狽し始める。
「な、な、な、何言ってるんだ少年! あたしゃ別にあの無愛想ヅラとは何でも無いぞ?」
「言い訳しなくてもいいですよ。これ以上聞く気は無いです。だって僕『お子さま』ですから」
先ほどの発言を仕返しするカインに、今度はイライサが「ちぇー」と子供のように拗ねた。
(九)
食事を終えて食器を片付けて戻ったカインは、空を見上げ煙草をふかすイライサに尋ねる。
「そう言えば、イライサに聞こうと思っていたんです。……ウルガに何かあったんですか?」
「ああ……」イライサが苦い顔になる。「親父殿の命令、と言っても内容まであたしゃ知らんがね。その命令を終えてから様子が変なんだよ。……やっぱ、あんたも気付いてたかい?」
カインは無言で頷く。
ヤクシャ族の族長ウルガは、その奇異な風貌もあり、自ら他者と距離を置いていた。だが、正反対の性格と言えるイライサとは逆に気が合うのか、(イライサから一方的にだが)よく話をしている姿を見られていた。しかし、ここしばらくウルガは以前に増して人を遠ざけるようになっている。
「事情は知らんが、水臭いんだよあの馬鹿は……。何でもかんでも独りで背負いこみやがって……」
イライサの表情に、普段の彼女からは想像できない陰が差していた。
「イライサに心配させたくないんですよ。きっと」
「……やっぱ、良い子だなあお前は」
カインの言葉にイライサは目を細め、彼の背中を叩く。照れ隠しもあり少々力が入ってしまい、カインは思わず咳き込んでしまった。「すまんすまん」と笑いながら、イライサは言葉を続ける。
「様子が変と言えば、ライウスの奴もどうしちまったのかね……。あいつ、騎龍連隊長として、この戦で最前線へ志願したそうじゃないか」
「ライウスは元々エフィソスに対して、会戦よりも交渉を主張していましたよね」
ライウスは、魔神族との決裂が決定的になったエフィソスに対する和睦を推していた。今ならば、無駄に犠牲者を出さずガイラースに有利な条件で交渉を進めることができる、と。だが、それを一転させて今は会戦に向けて自ら準備を進めている。
「この前あいつの眼を見た時寒気がしたよ。どうしたら、あんな濁った眼になっちまうんだかねえ……」
そう言ってイライサは深く重いため息をつき、カインは天を仰ぎ見る。
空には先ほど見た暗雲が一段と黒く厚く広がり、天の全てを埋め尽くそうとしていた。




