第十一話 散りゆく花
(一)
冷たく湿った空気の中に、油の燃える匂いが溶けていた。
石造りの壁に埋め込まれた灯明皿の上で、小さな炎が揺れている。
場所はナーガ族族長の宮殿地下に存在する地下室だ。以前は罪人を収容する牢獄として使われていたが、人口増加に伴い郊外に刑務所が建設されて以降は立ち入る者はいない。
その一室に、二人の男が座していた。厚い樫の扉を正面にしているのはライウスである。そして、彼の向かい側に、人間と見える人物がいた。
さほど大きな男では無い。が、岩から掘り出したような、がっしりとした体躯である。
男は黒色の僧衣に似た服を着ていた。動きを妨げないように、袖が肘までしか無い。下半身も行動しやすい為に、股引きを穿いている。
男の肌は陽焼けと汚れで濃い褐色をしていた。胴回りも、腕回りも常人より太い。長年の鍛練の積み重ねを感じさせる。
頭髪には白髪が混じり、伸びた無精髭も灰色に近い。皺の数は少ないが、その一つづつが深く額や眉間に刻み込まれている。
「ボック……。ユマを、“ユマ達”のことを頼む……!」
ライウスは苦し気に言葉を発すると、ボックに向かい深々と頭を下げた。
ボックは『天眼』と呼ばれる、太古に人間から別れた種族である。ライウスの武術の師でもあった。
何故、人間と同じく神民から支配される身分のボックが、ナーガ族の、それも族長となる若者を指導する立場になれたのか。
それが、彼等一族が名乗る『天眼』に関わっている。
人体には、“気”が流れる道筋となる“気道”が、血管のように全身に走っている。その中で人体中央の脊柱に沿って延びるものが、“シュムスナー気道”だ。
ここには、仙骨最下部から頭頂部にかけて、七つの“念輪”と呼ばれる霊的器官が存在している。
念輪は、気の増幅器でもあるが、それ以前に人体の制御装置としての役割がある。
七つ存在する念輪が、人の本来発揮出来るはずの力を封印しているのだ。
人間はほぼ全ての者が、念輪を解放出来ず、気の扱いも不得手である。
神民達は、この念輪が生まれつき解放されやすい体質、或いは(稀に、一つ、もしくは二つのみであるが)解放されている者が多い。
当然、気の操作も人間とは比べ物にならず、気の制御により、元素を操る超自然現象――『聖仙術』の使い手も神民ばかりだ。これも、双方の優劣を決める要因となっている。
『天眼』とは、念輪の内で眉間部に位置する『月』の念輪の別名だ。『仏眼』や、『第三の眼』とも呼ばれる。
ガイラース国に伝わる伝説において、『降臨者』と呼ばれる生命体は、『真人』とも呼ばれている。
“真人は全ての念輪を解放し、神の如き力を使った。その証として、その額には神の瞳が輝いていた”
全ての念輪を解き放つ方法は、遥か昔より数え切れないほどの研究がされている。だがガイラース国の、いや、惑星マカの歴史上成功した記録は無い。
天眼の一族の祖先は、太古に六つ目――『月』の念輪までを解放させることに成功した、と伝えられている。
真偽はともかく、彼等が人間と変わらぬ姿であるにも係わらず、気の扱いに秀で、肉体も強靭であることは事実だ。だが、それ故に神民からも人間からも、天眼の一族は疎まれる存在となっていた。
同じく差別を受ける側の黒龍族と天眼の一族は、古くから交流があり、ボックはユマの従者であった。彼女と共にライウスへ仕えるうちに、ライウスの父ジャドラがボックの能力に気付いたのである。
「『階級』は『生まれ(ジャーティー)』だけでは無く、能力によっても変わるべきだ」と考えていたジャドラは、宰相のバクラムら大臣達の反対を半ば押し切る形で、ボックをライウスの師とした。
彼の卓越した武術の腕と実直な人柄をライウスは尊敬し、師弟の絆は強固なものとなっていった。だが、そうしたジャドラの考えと行動が、族長一族へのバクラム達の反感を強める要因となってしまう。解決策として持ち上がったのが、皮肉にもバクラムの娘ミヤーハとライウスの結婚であった。
ボックとユマは、自分達の立場がどれほど危ういものかを理解していた。その為、ボックは自らライウスの師を辞し、宮殿にも近付かなかった。こうしてライウスと顔を合わせるのは数ヶ月ぶりである。
数ヶ月前にボックが見たユマは、気品ある色香を匂わせる花のような表情を見せていた。
それが今は、白い肌は一層血の気を無くし、どこか危うい、この世のものならぬ印象を見る者に与えている。
ライウスとの間に何事かが起こった――いや、ボックはその内容に薄々は感づいていた。そしてライウスの『ユマ達』という言葉でボックは全てを理解した。
ボックは唇に苦汁を含んだような表情を浮かべている。常ならば柔和な光を放つ双眸に、裡に秘めた炎をもの語る険しさが宿っていた。
一瞬、ボックはくしゃりと無骨な顔を歪ませた。喜びと哀しみ、慈しみと憐れみ、希望と絶望――幾つもの複雑な感情が、同時に彼の心に押し寄せていたのだ。
「承知致しました……!!」
真っ直ぐにライウスを見据えてボックは言う。それは、一語一語に重く硬い決意が感じられる、岩のような言葉であった。
(二)
静寂が藍色の天から無尽蔵に舞い降りて来る。
雪は夜明け前の大地をほの白く覆っていた。
これから始まる長い冬の訪れを告げる雪であった。
払暁――東の空がやや白んではいるが、頭上の虚空には星々が瞬いている。
ユマとボックがナーガ族の都市『ヴァルナ』を出発したのは、人目を避けた深夜であった。二人が向かうのは、『ヴァルナ』からおよそ八〇ヨージャ(一ヨージャ=一キロメートル)離れた黒龍族の里である。
理由はユマの“病気”の為――完治までの日取りも分からず、このまま里に帰ることになるだろう――
そのような話がライウス周辺には伝わっている。
『ヴァルナ』のような大都市周辺には、沢山の小さな街がある。都市を支える為の機能を分担する役割を持った街だ。
黒龍族の里は、周囲を広い畑に囲まれた小さな村である。主要産業は農業。定率貢租と賦役労働で国に貢献する暮らしは、人間の農民と変わらない。
ユマとライウスは、その里へ向かい、降りしきる雪の中を歩んでいる。身に纏っているのは、冬用の服である。羊毛で編まれた厚手の上着を着て、同じく毛皮の靴を履いていた。
白い息を吐きながら、やがて二人は小高い丘の中腹にたどり着いた。
なだらかな岩の起伏の向こうには、遮るものの無い雪山の長大な影が、振り返れば彼方にヴァルナの町灯りが見える。
夜明けにはまだ遠く、街道にも人の気配は無い。
ユマは一度だけヴァルナの方向を振り向くと、首元に手を伸ばす。そこには、ライウスから贈られた瑠璃の首飾りが付けられていた。
ライウスの瞳と同じ、碧い宝石――
服の上から首飾りにそっと手を添えると、ユマは再び前を向き歩き始める。
それから彼女は二度と振り返らなかった。
年が開けたパールグ月(二〜三月)。春の訪れを祝うホーリー祭に合わせ、ライウスとミヤーハの結婚式が盛大に執り行われた。それはナーガ族のみならず、他七種族の代表者達も招いた豪華絢爛な宴となる。
式の当日には、ヴァルナの中心部を花婿と花嫁の行列が通った。ナーガ族族長の権威を見せつける為である。
辺りは物見の客でごったがえし、その中を七宝で飾られた車や、金銀細工の馬具を着けた馬が通ってゆく。
陽光が当たり、馬上の者達の装束や身に帯びた飾りが輝くと、
「おう……」
と、溜め息にも似た声が周囲から上がった。
当日は特別に、人間達も神民達の後方から行列を見ることを許された。
だが、黒龍族はヴァルナに立ち入ることすら許可されなかったのである。
(三)
ミヤーハとの婚姻後、ライウスは白宮に入り、正式に武官となった。
族長の座もジャドラから受け継いだが、王国軍に入隊したのはこれよりもずっと以前、ユマと肉親のように暮らし、ボックの指導を受けていた頃である。
同期の貴族の子弟達は、自らの人脈を活用する者も多かった。だが、ライウスは父ジャドラと師ボックの影響もあり、仕官学校を正式に卒業している。
その後仕官候補生試験を通り、三年以上の現場勤務を経て上官の推薦状を手に入れ、三次まである最終選抜試験を全て突破して武官となるという、族長の息子としては極めて“真っ当”な道を経ていた。
現場の部下や上官からの信頼が厚いライウスは、雪融けの時期と共に、西側の国境付近に配属となった。
ガイラース国を囲む結界山脈の雪と氷が薄くなるこの季節は、西方の魔神族達が侵攻を開始する時期でもある。
ライウスの赴任以降、全面的なぶつかり合いには発展していないが、小規模な戦いは何度か起きていた。
戦場からもライウスは手紙を出している。一つはヴァルナの妻ミヤーハと、父ジャドラに。
もう一つは、ユマに宛てて――
無論、余計な詮索をされないように、表向きは武術の師匠であるボックへの手紙となっていた。返事もユマ本人が書くわけにもいかず、節々にそれと分かるような言葉を織り混ぜるやり方である。
この日もユマはマツリの花片を手紙に入れて、ライウスに向けて送り出した。
ふと、外を見れば、月明かりの中に、雪のように白い花びらが音も無く散ってゆく。
一年前と同じように、マツリの花が満開の季節となっていた。
(四)
点々と星が輝く空の下――人通りの消えた街道沿いに、ぽつんと一本のピッパラ(菩提樹)が立っている。
場所は黒龍族の里へと向かう道沿いである。普段から利用するのは里の者がほとんどで、所々に大人の拳ほどもある石が転がっている荒れた道だ。
風が樹の下に差し掛かる度に、ざわざわと音を発し葉が揺れている。
枝が覆い被さり、黒くなった根元に、岩のような黒い影がうずくまっていた。
その岩と見えた影の中に、黄色く光るものがある。
眼だ。怪しく光る二つの目が、じっと暗闇に浮かぶ黒龍族の里の灯りを見詰めているのだ。
「くくく……」
低い嗤い声が影から洩れた。
「たまらねえよなあ……。隷民といっても、ナーガ族を捻り潰せるなんてよう……」
今にも舌舐めずりしそうな、粘着質の殺気が影から放たれている。
「おい」
影の上から別の声が発せられた。見ればピッパラの梢に、もう一体の影がある。
「狙いは決まっている。それ以外は無用だ」
根元の影とは違い、抑揚の少ない無感情な響きであった。
「指図するんじゃねえよ、出来損ないが」
怒気を燻らせた声が、梢の影に向けて放たれる。
「――」
「へっ、人間だか蟲だか分かんねえ面しやがって。半端もんが、俺と同じ立場と思うなよ……!」
毒を含んだような、悪意に満ちた言葉を浴びながらも、梢の影には気の乱れが無い。平然と受け流している。
「ちっ……!!」
それを察した根元の影が、不満そうに舌を鳴らした。
「時間だ。行くぞ」
短く告げると、ざっ、と葉を揺らして、梢の影が姿を消す。根元の影は苛立たし気に唾を吐き捨てて、黒龍族の里に向かい動き出した。
(五)
最初にその賊を見つけたのは――と言うより、侵入者があったことに気付いたのは、塀を巡回している兵士であった。
黒龍族の里は、周囲を高さ五ローナ(一ローナ=一メートル)ほどの土塀で囲まれている。
日暮れと共に門が閉じられ、門の外側と塀の内側に兵士が見張りにつく。
内側の巡回は、二人づつ二組、四人の黒龍族の兵士によって行われていた。門の正面から、一組は右回りに、もう一組が左回りに一定の速度で塀に沿って歩く。そして門の反対側に位置する塀の前で、双方がすれ違うことになる。互いの無事を確認しつつ巡回する為の方法であった。
異変は深夜に起きた。時計回りに回っていた方の組が、そのまま門の反対側を通り過ぎてしまったのだ。
「おい、何故もう一組の奴等がいないんだ」
一人の兵士が言った。
「何かに気を取られて、歩くのが遅くなったんじゃないか」
相棒の兵士が答える。そう自分で言ったものの、やはり気になる。二人の兵士は顔を見合わせ、足早に歩を進めた。
塀には一定区間毎に灯火籠が立てられており、そこで炎が燃えている。その一つまでやって来た時、
「見ろ!」
そう言って、先ほど異常に気付いた兵士が地面を指差した。そこに黒っぽい染みがある。
「血だ……!」
それはただの血の跡では無い。全体が生々しく、表面が削り取られたようになっている。何者かが、血の痕跡を消し去ろうとした跡であった。
もう一人の兵士が灯火籠から燃えた薪を一本取り出して、血溜まりの先へとかざす。だが、そこには夜の闇があるばかりだ。
兵士は後方の相棒へ「おい、応援を呼んでくれ」と、声を掛けた。しかし返事は無い。不審に思い振り返ると、そこにいるはずの相棒の姿が無かった。
「――!!」
兵士は声を喉に詰まらせる。次の瞬間には走り出していた。咄嗟の判断である。
だが、兵士は走り出した途端に転んでいた。何か、柔らかく力のあるものが、左足に巻き付いていたのだ。
兵士は悲鳴を上げた。だが、それもすぐに止まる。首にも何かが巻き付いて来た。
柔らかく強靭なもの。力が強く、しかも生暖かい。足に巻き付いているものと同じだ。
そこまで考えた時、兵士は自分の首が、枯れ枝を折るような音を立てるのを聞いていた。
(六)
高くなった月の光が、天から斜めに差し込んでいる。満月にはまだ遠いが、僅かな月明かりが有れば、ボックは灯りを持たずとも周囲の風景を確認することが出来る。
侵入者の気配にボックは気付いていた。先ほども小さな声を聴いている。微かな呻き声であった。
その声は聴こえた瞬間に止み、止んだ途端に重たいものが倒れる音がした。
何事があったのか?
足音を消して疾るボックは、音の聴こえた方向へ向かう。
「む――」
ボックはそこで足を止めた。眼前に、黒い影が倒れているのが見える。
離れた灯火籠に照らされたその影は、ほとんど人の形をしていなかった。
角や鱗から、かろうじて黒龍族の兵士と分かる。だが、個人の判別は出来ない。眼球は両方共外へ飛び出し、折れた肋骨が肉を突き破っている。口からは、半分胃が迫り出していた。下腹部からは、恐らく腸が溢れているだろう。
「何が――」
ボックがそう呟いた時、いきなり彼は右足を絡め取られていた。
腰に差した剣を引き抜こうとした瞬間に、さらにもうひと回り、それは胴体にも巻き付いて来る。
剣の柄ごと巻き付いたものは、恐ろしく強靭な力を持っていた。
「くくく」
と、声がした。
「捕らえたぞ……」
低い嗤いを含んだ声であった。凄まじい力がボックの両脚と胴体を締め付けている。
「そこの兵士をやったのは、お前か……!」
ボックが言った。
「ほう、まだ口が利けるのか」
感心したような声が上がる。
ボックの目の前に不気味なものが浮遊していた。人の顔である。
眼が小さく丸い。鼻が極端に低く、その下には刃物で割ったような口が開いている。耳まで割れた薄い唇の中には、赤く長い舌が踊っていた。
顔一面に鱗の生えた、蛇の頭だ。それが、長い首に支えられ、月光の中に浮いているのである。
全身を黒い闇夜の如き布で覆い、顔と異様に短い手足が外気に晒されている。ボックの身体に巻き付いている胴体が背後に回り、肩口からボックの眼前の空間に首が出ていた。その為、まるで頭部が浮遊しているように見えるのだ。
ボックの脚、腕、胴体それぞれの部位が、恐ろしいほどの力で締め上げられている。
「マホラガ族が、何故……!?」
ボックの顔は紫色になり、首やこめかみに血管が浮き上がっていた。
「ふふ……」蛇頭が嗤う。「知る必要は無いさ。これから死ぬ奴にはなあ……!!」
そう言うと、蛇の胴体に一段と強い力が加えられた。しかし、動かない。ボックの身体を締め付けている輪は、まるで岩に巻き付いたように縮まらない。
「むうっ!?」
蛇頭が呻き、力をさらに加える。だが、動かない。
「ふ……」ボックの顔色はどす黒くなっている。しかし、その唇には笑みが浮かんでいた。「その程度か……!!」
言った瞬間、ボックの肉体が小刻みに震え始める。
「練気内功……」
ぎちぎちと音を立てて、ボックの全身の筋肉が太い束となってゆく。
「行気練力……!!」
腕の筋肉が、巨大な瘤のように盛り上がった。喉にも太い筋が何本も浮いている。
双方の身体がぶるぶると震え始めた。どちらも全身に凄い力を込めているのが分かる。
「ぐおおおっ!!」
ボックが声を上げた。腕が僅かに持ち上がり、胴体と腕の間に隙間が出来る。
その隙間を使い、ボックは大きく息を吸い込んだ。顔色が回復し、両腕と両肩が一段と膨れ上がる。内側から徐々に蛇の胴体がこじ開けられ始めた。
「ぬうううっ!!」
蛇の頭部が歯を軋らせる。ボックの動きを封じる為に、首を残した全身の力を使っていた。
――牙を使う――
蛇頭の脳裏にほんの一瞬その考えがよぎった時、僅かに隙が生まれた。
同時にボックは両腕を引き抜く。その両掌が蛇の頭部を捉えた。だが、ボックの身体に巻き付いていた蛇の胴体は、今度はボックの胴を直接締め付ける形となっている。
「ぐううっ……!!」
ボックの肋骨が軋む。
「ぐぎぎっ……!!」
呻き声を出す蛇の頭部が徐々に捻り上げられてゆく。その鼻から、大量の血がぼとぼとと溢れ出した。
次の瞬間、太い濡れた布を引き裂くような音を立てて、蛇の頭部が一回転した。さらにボックは掌に力を込めて首を回転させる。ごきごきと鈍い音が響いた。
ざあっ、とボックの顔面に蛇の口から大量の血が降り注ぐ。
千切れかけた首が、かくんと前に倒れかける。だが、その首はがちがちと歯を鳴らし、ボックの喉に喰らい付こうとした。
ボックは咄嗟に剣を抜き、自分の首と蛇の頭部の間に突き入れる。
がつん、と手応えがあった。ボックの剣が、蛇頭の眉間を断ち割ったのである。
血の糸を引いて蛇の頭部が地に落ち、後を追うようにボックの身体から胴体がほどけていった。
ボックは荒い息を吐きながら膝を突く。ごう、と喉から音を立てて空気を吸い込んだ。両腕や両脚には太い縄で締められたような痕が痣となっている。
「やるな――」
ぱっくりと赤い三日月のような口を開けて、蛇の頭部が嗤った。眉間の傷口からは、白い脳漿が溢れ出ている。恐ろしい生命力であった。
「まさか、『天眼』がこれほどのものとはなあ……。言われた通り、適当に時間稼ぎだけにしときゃ良かったぜ……」
蛇頭の口から、ごぼりと血泡が吐き出される。身体はびくびくと痙攣を始めていた。
「なに――!?」
“時間稼ぎ”
その言葉を聞いた瞬間、ボックは身体の芯に、氷の刃を突き立てられた感覚に襲われた。
咄嗟に身を翻し、ユマのいる長老の屋敷へと向かおうとする。だが、踏み出そうとした足が、がくんと止まった。
「――!?」
ボックの右足を、蛇頭の左腕が掴んでいる。
その眼球は既に白く裏返っていた。だが、血にまみれた口元には、不気味な薄嗤いが張り付いている。
「一緒に逝こうぜぇ……!」
蛇頭の右腕が、自身の懐に潜り込んでいた。そこから細長い紐を引っ張り出すと、かちり、と小さい音がボックの耳に響いた。
「――!!」
ボックは両腕を前方で交差させ、全身にありったけの気を込める。
同時に、蛇の身体から凄まじい勢いで炎が吹き出し、ボックもろとも飲み込んでいた。
(七)
小さな灯り皿に点った火が、部屋の内部に濃い影を作り出している。
薄暗い室内には、二つの人影があった。
一人はユマである。そしてもう一人、ユマに仕える人間の娘が、ユマの前で彼女を守るように立っていた。
娘はその手に短剣を持ち、身体を細かく震わせながらも、前方の闇に強い眼光を向けている。
火の灯りが完全に届かない闇の中で、黒い影がうずくまっていた。
視線を凝らすと、影の中に動くものがある。薄い灯りを受けて光るもの――双つの眼だ。
だが、それは通常の形ではない。向かって右側は丸い人間や動物と変わらない形状であるが、隣の眼は耳の位置まで大きく吊り上がり、赤い光を放っている。まるで巨大な虫の複眼のようだった。
「誰か――!!」
人間の娘が高い声を上げた。部屋の外には見張りの兵士がいる筈である。
「急いで!侵入者です!!」
だが、いくら声を上げても誰も来る気配が無い。
「無駄だよ……」
低く囁くような声を発した影が、ぬうっとその場に立ち上がった。並外れた長身である。
顔を含み全身を黒衣に包み、闇がそこに凝固したかのようだ。唯一外気に晒されている両眼だけが妖しく光を放つ。
「外の兵士達には、しばらく眠ってもらっている……」
重く呟いた影がユマ達へと歩み寄る。人とは思えぬような、滑らかで、そして静かな動きであった。全身から妖気が漂っている。
灯りに照らし出されたのは、異形の人物であった。
黒衣に覆われたその身体は驚くほど細い。そして、右半身に明らかな違和感がある。
覆面から覗く右目だけでは無い。右半身全体が、左半身とは違う生物のように、身体の各所が歪んでいるのだ。
異形の男から放たれる不気味な気配に圧され、人間の娘は一瞬退がりかける。だが、唇を噛み締めて彼女はその場に踏みとどまった。
「むう……」
それを見た男の口から僅かな感嘆を含んだ声が出る。
「見事な覚悟だ……」
男がその言葉を言い切らぬ内に、娘は右手に構えた短刀の柄に左手を当てて、一直線に身体ごと突っ込んで来た。
「駄目――!!」
ユマの口からは悲鳴に近い叫びが上がる。
男は風のような身軽さで白刃をかわしていた。その長身が、するりと娘の懐に入り込む。
娘の顔が引きつった瞬間、男の右手が滑らかに伸び、軽く彼女の顎先を撫でた。
まるで羽毛が触れたかのような感覚を感じると同時に、娘の意識は消失していた。そのままゆっくりと前のめりに倒れ込む。
呆気ない勝負であった。ユマの顔は蒼白となっている。
「殺したの――?」
ユマの問い掛けに、男は「いや……」と、首を横に振る。
「この娘、『天眼』では無い……。人間達に慕われているようだな……」
男は独り言のように呟くと、ユマへ視線を移した。
「俺の目的は、この娘でも、外の兵士達でも無い。お前と……」
そこまで言うと、男の視線はユマの背後へと注がれる。先ほどからユマは、自分の背後にあるものを懸命に守ろうとしているのだ。
そこには、彼女の腰ほどの高さがある木製の小さな寝台があった。寝具の周りは柵で囲まれ、微かな寝息が聞こえる。
「バクラム様の指示ですね」
ユマは裡に生じた恐怖を抑え、毅然とした声を発した。
「――」
男は沈黙する。強い金属光を放つ視線をユマへと向けたままだ。
その時、寝台から小さな声が上がった。
母を求める、赤子のか細い泣き声であった。
ユマの表情が、一瞬痛ましいものに変わるが、すぐに強い視線を男へと向ける。
「聡い御方のようだ……」
男はユマの視線を正面から受け、ぼそりと呟いた。
「あなた方は、ひとつ思い違いをしています」
澄んだ、固い声でユマが語る。
「この子は、私の子ではありません。我が子は、胎内にいる間に命を落としました。この子は私が引き取った、黒龍族の孤児です……!」
「――なに?」
男から不審気な声が洩れた。ユマの真意を計りかねているようである。
それを見て、ユマは自分の腰に差してあった短剣を引き抜いた。
「止せ。無駄に苦しむだけだ……」
男の身体から、ゆらりと“気”が立ち昇る。
「バクラム様が恐れているのは、私でしょう」
ユマははっきりと言った。声を低めてはいたが強い口調である。
「バクラム様の御息女ミヤーハ様と、ライウス様が結婚された今、バクラム様から見れば私は邪魔な存在でしかありません。それに“万が一、私に子がいれば”、次の族長を決める際には争いの元凶ともなりかねない……」
そこまで言うと、ユマは唇を結び、男を見た。強い意志と、恐ろしいほどの哀しみを湛えた眼であった。
「お願いがございます」
微かに震える声でユマが言う。
「願い……?」
男の身体はユマの視線に射抜かれていた。
「バクラム様に、今の私の話を伝えて頂きたいのです。『ユマの子は既に死んでいた』と。『もう貴方の地位を脅かすものは存在しない。ナーガ族同士で争う必要は無い』と……!」
「貴女は……」
男は自身のユマに対する口調が変化していることに気付いていない。
その時、再び赤子が声を発した。
それを聞いたユマの中で、張り詰めていた何かが音を立てて切れた。ユマの顔が歪み、両眼から涙が溢れ出す。
「お願いを叶えて頂く代わりに、私があなたに差し上げられるものは、唯一つしかございません」
ユマはそう言って、短剣の切っ先を自分の喉に押し当てた。
「もとより、助かるとは思っておりませんが、そのたった一つのものをあなたに差し上げます……。それは――」
頬を流れる涙を拭おうともせずにユマは言う。短剣を握った手が小刻みに震えている。強い決意と覚悟が男へと伝わった。
「――!!」
男の手が咄嗟にユマへと伸びた。だが、
「それは、私の生命です」
言い終えた瞬間に、ユマの握った短剣の切っ先が、深々とその白い喉に潜り込んでいた。
声も上げず、ユマは床へと崩れ落ちた。
マツリの花びらが、音も無く散ってゆく――




