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第三部 『名も無き愛の欠片』 第十話 許されぬ想い

(一)

 ガイラース国の社会階級の中で先ず区別されるのが、最初にこの星へ降り立った『降臨者』達の子孫と伝えられる『神民(マナ』と、神民の姿に似せて造られたとされる『人間(マヌ)』である。

 この二種族の歴史については、成り立ちを逆だと主張する勢力も存在するが、ガイラース国では先に述べた説が「社会的常識」となっている。

 さらに、神民の中にも階級(ヴァルナ)が存在した。

 神官、武官の支配階級、平民(ヴァイシャ)、そして隷民(ダーサ)呼ばれる人々である。

 これらの階級には、神民達の中に基本理念として位置付けられている『ジャーティー』が関係している。“生まれ”という意味だ。

 これは、「社会的身分も、その身分で果たすべき義務と役割も、あらかじめ定められて人は産まれる」というもので、社会構造を成立させる為の血統至上主義と言える。

 ナーガ族では、「角の色が血統を現す」という考えが根強い。特に「黒角」は「過去に犯した罪の証」であった。

 その為、黒曜石の光沢を持つ角が生える『黒龍族』は、ナーガ族の中で隷民階級に位置付けられ、支配される立場に追いやられていたのである。

 そして、ルーナの母となる女性ユマは、その黒龍族出身だった。

 ユマは幼い頃から、ナーガ族族長の息子ライウスの、身の回りの世話をしていた。

 彼女は族長の息子に仕える為に、幼少期より高度な教育と礼儀作法を叩き込まれている。教養と品格は、並のナーガ族を遥かに上回っていた。

 ライウスも当初は歳の近いユマを、単なる侍女の一人として時折話し相手にする程度であった。

 ユマは家事全般を懸命にこなすだけで無く、頭脳明晰で世情にも詳しい。また、進んで自らの才を披露することも無い控えめな性格は、ライウスにとって非常に好ましいものだった。

 ユマもまた、自分の些細な話にも喜んでくれるライウスの笑顔に惹かれてゆく。ライウスに請われその為に働くこと、そして彼の温もりを身近に感じることがユマは好きだった。

 ありふれた主従関係から始まった。そこから二人だけの強い信頼関係が生まれる。兄と妹のような、時には姉と弟のような――

 やがてお互いが成長するに従い、胸の想いは強くなってゆく。それはいつの間にか、主従関係を越えていた。

 階級に反する、決して許されない想いだった。


(二)

 ひんやりとした夜気に、甘い芳香が溶けている。

 高い樹々に囲まれた人工池の辺りにライウスは立っていた。背後に見える石造りの建物――ライウスの屋敷にある中庭である。

 満月の青味を帯びた光が一面に降り注いでいる。風の無い大気には花の香りが満ちていた。庭に生えた低木に咲く、小さく白い花の匂いである。

 “マツリの花と呼ぶのですよ”

 ライウスに教えてくれたのはユマだった。

 ライウスは視線を宙に漂わせたまま、大気に満ちた花の香りを呼吸している。

 (ガルミー)にたった一度花を咲かせ、翌日には散ってしまう。その儚さが、何故かユマを思わせた。

 眼を閉じれば彼女の顔が浮かぶ。優しい瞳と淋しげな口元をしている。自分に仕えている黒龍族の女性――それだけのはずだった。

 不意に胸が熱くなる。すると、切ない想いが心を満たした。最近はユマを思うといつもそういう状態になる。

 “今夜、お伝えしたいことがございます”

 昼間、人目を忍ぶように言われた。その時の、ユマの哀しい瞳をライウスは思い出す。まるで心臓を握り潰される感覚だった。

 ここ数日、ユマのライウスに対する態度に変化があった。ユマ本人は常通りにしているつもりだろうし、ライウス以外の者が見ても気付かないだろう。だが、ライウスは彼女の心に自分との距離を感じていた。

 何故――そこまで考えて、ライウスは何かの気配に気付いたように後方に顔を向ける。

 月光を浴びて、ほっそりとした影が浮き上がっている。黒曜石の光沢を持つ角と手首から肘まで覆う黒い鱗、腰に届く漆黒の美しい髪――ユマであった。

 彼女は洗い晒した白い綿の半袖の上着に、ゆったりとした白地の布を腰から巻き付けて、端を肩に垂らしている。何の装飾具も着けておらず、足元は裸足だった。

 年齢はライウスと同じく、人間であれば二十代半ばくらいか。黒い大きな瞳がまっすぐにライウスを見ている。肌の色が闇に浮き上がるほどに白い。

 ライウスが身に纏うのは、上質の絹で編まれた黒地の服だ。腰には金剛石をちりばめた黄金のベルトを締めている。足元の革靴も、金糸の刺繍が施された高価な品だった。

 対照的な身なりの差は、二人の間に存在する階級の違いを現しているようだった。

 ライウスはユマの足元を見て眉根を寄せる。何故、彼女は裸足なのか。

 先週二人で市場に行った際に、ライウスはユマに靴を贈っている。草色の布地に、白い糸でマツリの花が刺繍されたものだ。

 渡した時、ユマは一瞬呆気に取られた顔をして固まってしまい、間を置くと「あわあわ……」と見事に取り乱し始めた。

 思わず笑ってしまったライウスに、羞恥で顔を紅くするユマ。だが、次第に両眼に涙を浮かべ、靴を胸に抱き締めながら「ありがとうございます……」と呟くと、幸せそうに微笑んだ。それが、今は無い。

 それだけではない。彼女の誕生日に渡した瑠璃の首飾りも外している。外すようになったのは、彼女のライウスへの態度が変わった時からだ。

 間違い無く、ユマは自らの意思で自分と距離を置いている―― ライウスは、目の前が急に暗くなったように感じた。

 ユマは素足で石畳を踏みながら、ゆっくりとライウスの元へ歩いて来る。やがてライウスの傍らまで来ると、そこで足を止めて伏せていた顔をライウスへ向けた。深い夜空のような瞳だった。

 「どうした……」

 ライウスがユマに声を掛ける。心の動揺が現れないように必死だった。

 ユマは声を掛けられても無言のままである。瞳の奥に哀しげな光を宿し、ライウスを見詰めているだけだ。いや、彼女は何か言葉を発しようとしている。だが、喉の奥にそれが支えて言葉にならないのか、何度か口を開きかけては、その唇を閉じていた。

 「ユマ……」

 ライウスがひどく優しく、どこか頼り無い声でもう一度声を掛けた。すると、

 「聞いて頂きたいことがございます」

 ユマが思いつめた声で言った。

 「何だ?」

 ライウスが返事をした時、張りつめていたユマの顔が不意に歪む。一瞬、ライウスの元へ動こうとした自らの身体を抑えるように、両腕を自身の体に回して力を込めた。

 「明日……」

 ユマはそう呟いて、再び口をつぐんでしまう。

 「明日……?」

 ライウスの声が微かに震えていた。ユマが次に発する言葉への恐れがある。

 「明日――私は、黒龍族の里へと戻ることになりました。ライウス様……長年お世話になり、ありがとうございました……」

 ユマは、ついに決心したように顔を上げて言った。低いが、はっきりとした声音であった。

 「――」

 ライウスは言葉が出なかった。心の中では予想していたものであったが、その心がユマの言葉を拒否している。そんなライウスに突き付けるように、ユマは続けた。

 「先日、正式に求婚されました。里長である祖父を、長年支えてくれた方の御子息です……」

 「……」

 ライウスは、どこか現実感を欠いた表情を浮かべている。

 「お話を頂いたのは、一週間前です」

 ユマはそこまで言うと、ライウスの言葉を待つように沈黙した。長い沈黙であった。それをライウスの声が破る。

 「……受けたのか?」ユマが首を横に振る。「では、断ったのか?」再び首を振った。

 「まだ……返事をしていません」

 「ユマは……どうするつもりなんだ」

 「……お受けしようと思います。受けるべきだと思います」

 深い淵のようなユマの瞳に涙が溢れ、流れ落ちてゆく。

 「何故……」

 何故、受けるのだ。君は本当は受けたくないのだろう?なのにどうして、そんな涙まで流し、自分の心を殺さねばならないのだ――

 「お分かりのはずです」

 ユマはライウスの瞳を見ながら言った。「何を」とは、ライウスは聞かない。

 「私達は、このまま離れた方が良いのです。ライウス様はナーガ族の族長となる定めの方。本来ならば、隷民の私がお仕えすること自体が間違いだったのです。このままでは、私は――」

 ユマが沈黙した。新しい涙が彼女の頬を伝い落ちる。彼女は眼を伏せて、囁くように言った。

 「申し訳ありません。ライウス様を困らせるつもりで、ここに来た訳では無いのに……。どうか、このまま私を行かせて下さい。それが一番良いのです……」

 「――」

 「受けるな」とは、ライウスは言えない。それは「自分の所へ来い」ということだ。それが何を意味するのか――

 自分は族長の血を引く者だ。ユマが平民であれば、話はまた違って来るだろう。だが、彼女は隷民階級である黒龍族の女だ。決して許されることでは無い。

 ユマの言う通りだ。想いを伝えれば不幸を生む。お互いのことは忘れて離れるべきなのだ。それは自分自身も良く分かっている……

 「さようなら……」

 ユマの口から別離の言葉が発せられた、その時であった。

 「駄目だ」

 ライウスの口から、自分の意思とは関係無く言葉が出ていた。

 「行くな、ユマ。俺には君が必要なんだ」

 ライウスの言葉と視線には、先程とは違い、力強い意志が込められている。

 その眼差しから逃れるように、ユマは顔を小さく伏せる。

 「……私がいては、ライウス様の迷惑になります」

 震える声でユマが言うと、「そんなことは無い」ライウスがすぐに否定した。

 「ユマには何度も助けられた……」

 幼少期に友人も作れず、ただひたすら族長としての教育をさせられていた頃、ただ一人話し相手になってくれた。

 武芸の鍛練で毎日のように怪我を負えば、それを懸命に手当てしてくれる。

 熱病に冒された時、ふと気がつけば、一睡もせずに看病してくれていたこともあった。

 成長してからも、国内外や種族間の問題を彼女に相談し、解決する為の知恵を貸してもらったことは何度もある。

 そのことをライウスはユマに告げてゆく。

 「でも、それは……私は、ほんの少しお手伝いをしただけで、他の方でも……」

 ユマは顔を伏せたまま、か細い声で囁く。

 「それだけでは無い」

 太い声音でライウスは言うと、正面からユマを見つめた。ユマもまた、唇を閉じて、涙に濡れた瞳をライウスへと向ける。二人の視線が絡み合った。

 「ユマ、君が側にいてくれるだけで、どれだけ多くの幸せを俺に与えてくれたことか――」

 それは唐突で武骨な、しかし一片の曇りも無いライウスの本心であった。

 ユマは息を呑んでいた。目を閉じると顔を小さく横に振り、また瞳をライウスへと向ける。顔を僅かに歪ませると、彼女は一歩後退った。

 二歩、ライウスはユマへと歩み寄る。量感を持ったライウスの温度を感じ、ユマの呼吸が速まった。「――」否定の言葉を口にしようとするが、身体がそれを拒否している。

 「ユマの笑顔を思い返すだけで、どんな辛い鍛練も耐えることが出来た」

 ゆっくりと、そしてはっきりとライウスは告げる。

 「ユマのことを考えて、眠れない夜が何度もあった」

 ユマの両肩に、ライウスの分厚い掌が載せられた。

 「おまえを愛している」

 ゆったりとした大きな力が、優しくユマの身体を引き寄せ、厚い胸の中に抱え込んだ。

 ああ――

 喘ぐようにユマが唇を開き、吐息を洩らす。

 だが彼女は、はっとした表情になると、微かな力を腕に込めて二人の間に距離を作ろうとする。

 それをさせまいと、ライウスはユマの背に腕を回してそっと力を込めた。

 お互いの体温が相手の体内へと流れ込み、二人の温度が混じり合い、ひとつになってゆく――

 ゆっくりとユマが顔を上げた。その顔をライウスが見下ろしている。

 ユマの黒い瞳が涙を溜めて光を放っている。哀しく切ない光を、ライウスは正面から見つめた。

 やがて、ユマがライウスの腰へと両腕を回し、ぎゅっとしがみついてきた。ライウスに比べれば弱々しい力ではあるが、熱い想いが込められている。

 「ライウス、あなたが好きよ」

 ユマの口調が変わっていた。主に対する言葉遣いではない。ライウスの碧い瞳を、熱を帯びた眼で見ている。

 「あなたを愛しているわ、ライウス。ずっと前から、あなたのことを愛していたの。こうなりたいって願ってた……」

 そう言うと、ユマは爪先で立ち、ライウスの首に下から白い両腕を絡めてきた。

 ライウスの逞しい腕が、ユマの身体を抱え上げる。

 二人の顔がゆっくりと近づいてゆく。眼の焦点が合わなくなるほど近づいた時、短い距離が不意に縮まり――二人の唇が重ね合わされていた。

 ライウスは無言で腕に力を込める。その力に応えるように、ユマが腕の中で狂おしそうに身をよじった。

 二人の眼から、同時に涙が溢れ落ちていく。


 月光が、ひとつに重なった影を、優しく照らし出していた。



(三)

 ナーガ族の族長は、代々ライウスの家系が継いできた世襲制である。

 だが、当然のことながら、族長のみで小国とも言えるナーガ族の都市『ヴァルナ』を統治は出来ない。族長の他、行政を担う大臣が存在する。

 その大臣を束ねているのが、宰相のバクラムである。年齢はライウスの父ジャドラよりも歳上で、七〇〇歳を越えている。どっしりとした肥満体で、歳に似合わぬギラついた眼をした男だった。

 族長の家系と宰相の家系は、表向きは協力的であるが、裏では長年対立を繰り返している。

 その関係を改善する為に動いたのが、ライウスの父ジャドラだった。

 彼は生まれつき病弱で体格にも恵まれず、先代の子供が彼以外にいれば、族長を継ぐことは無かっただろう。

 だが、彼は幼い頃から聡明であり、温厚な性格だった。バクラム以外の者達からの信頼は厚く、族長としての使命を必死に果たそうとしていた。

 ジャドラはナーガ族内の団結を願い、バクラムとも何度も話し合いを重ね、そしてようやくライウスとバクラムの娘ミヤーハとの結婚が決まったのである。

 一方、ライウス本人は、このままユマとの関係を秘し続けて、生涯独身を貫く決心を固めていた。

 例え正式な夫婦と認められなくても良い。二人で生きられれば――

 だが、族長の血を引く者にとって、それは許されない。

 頑なに結婚を拒むライウスの態度に、ジャドラも何かを感じてはいたが、それでもジャドラはライウスの説得を続けていた。

 そんなある日――

 ライウスとユマがお互いの想いを伝え合ってから、数ヶ月が過ぎていた。季節は雨季が既に終わり、朝晩の空気に(サルディー)の気配が混じりつつある。

 二人は人目を避け、会瀬を重ねていた。この夜もライウスは石造りの部屋で、静かに絹の絨毯の上に座していた。部屋に窓は無く、炎の灯りがあるのみだ。ライウスの屋敷奥に位置する一室である。ライウスはそこに座したまま、眼を閉じている。

 どれだけの時間が過ぎたであろうか。やがて、人の気配が近づいて来た。

 ライウスの正面にある木製の扉がゆっくりと開かれる。ライウスが眼を開けると、そこにユマが立っていた。

 粗末な布を纏った服装は同じであるが、首元にはライウスの贈った瑠璃の首飾りが着けられている。

 ユマの黒く大きな瞳がライウスを見ている。ライウスは立ち上がり、ユマと向き合った。

 「ユマ……?」

 張りつめた表情のユマの瞳から涙が流れた。それに気付いたライウスが、そっと彼女の名を呼ぶと、短い距離をユマは駆け寄り、ライウスにしがみついた。

 「ユマ、どうしたのだ……」

 ライウスは太い腕をユマの背に回して力を込める。彼の胸の中からは、ユマの微かな嗚咽が洩れていた。

 無言のまましばらく抱き合った後、ユマが顔をライウスの厚い胸に押し付けたまま囁いた。

 「子が出来ました……」

 夜の静寂に響き渡るような、美しく澄んだ声であった。

 「おお……」

 小さく声を上げたライウスは、すぐには次の言葉を発することが出来ず、空気を数度吸い込む。そして、

 「ユマ――!」

 両腕でしっかりとユマの身体を抱き締めた。

 ひどく暖かいものが、ライウスの胸の裡から込み上げて来る。その温度が身体から溢れ出し、ユマへと伝わってゆく。ユマの身体からも、同様の温度がライウスへと向かい届いて来る。抑えようのない温もりが、二人の間に通い合っていた。

 「ユマ」

 「ライウス……」

 二人は互いに身体をその腕にしっかりと抱いた。その熱も、その吐息も、お互いのものが既に己の一部と化している。

 身体を一旦離し、二人は顔を見合わせた。

 ユマの瞳には、もう涙は無い。その代わり、その双眸には喜びと、深い哀しみが宿っている。

 「この子は、誰にも知られぬように産み、私が一人で育てるわ……」

 凛とした声には、ユマの強い決意が込められていた。

 ――何故?

 ライウスはそう問おうとした。しかし、唇は小さく動いただけで言葉が出て来ない。ライウスは、ただユマの瞳へと視線を向けることしか出来なかった。ユマはライウスの視線を避けようせず、真っ直ぐに彼を見つめている。

 「何故だ?」

 ようやくライウスが言った時、ユマの瞳に痛ましい感情が浮いた。それに流されかけようとしている自分を、強い意思の力で彼女は支える。

 「今のあなたには、私よりも大切にしなければならない(ひと)がいるわ」

 ライウスは息を呑んだ。ユマはライウスから視線を逸らさずに言葉を続ける。

 「いいの、ライウス。私はあなたから、十分過ぎるほどの幸せを貰ったわ。この思い出があれば、私は残りの人生を笑って生きることが出来る。この子にも、あなたの分まで愛を注ぐことが出来る……」

 ユマの言葉に、ライウスは何も答えられなかった。唇を噛み、皮膚が破れそうなほどに拳を握り締めている。

 「あれは、父とバクラムが勝手に決めたことだ……!」

 ライウスが絞り出すように声を出す。

 ユマは、下からそっと首元に手を伸ばし、ライウスの唇をついばんだ。一瞬だけ触れて、すぐにユマの唇が離れる。

 「族長ならば、一族全てのことを考えて、ライウス。これは、私からの最後のお願い……」

 ユマは微笑んでいた。哀しいほど、優しく暖かい笑みであった。

 ユマはそのまま身体を離す。ライウスは引き留めようとした。だが、何故か腕に力が入らない。全身が、今この瞬間に崩れ落ちそうだった。

 「ごめんなさい、ライウス。……ありがとう……」

 ユマは背を向けて部屋の外へと向かう。

 数歩進んでから、彼女は振り返り、ライウスを見た。

 ユマの唇が開きかける。しかし、言葉は出て来ない。それはライウスも同じであった。

 言葉にならぬ想いを視線に込めるように二人は見つめ合う。互いに心臓を己が手で握り潰そうとするかのような数瞬だった。

 そして、ユマは顔を伏せて再び歩き出す。

 ライウスは動けなかった。ユマが完全に部屋から出て行き、扉が閉められてもなお、ライウスはじっと薄暗い部屋の中に立ち尽くしたままであった。

 “族長ならば、一族全てのことを考えて……”

 ユマの澄んだ声が、ライウスの裡側で旋律のように響いている。

 どれほどの覚悟でユマはその言葉を口にしたのか。どれほどの想いを彼女は押し殺していたのか――

 こうなるであろうことは、ライウスもユマも心の中では分かっていた。

 族長となるべき男と、隷民の女。そして、その間に産まれる子。誰も幸せになどなれない。なれるはずが無い――


 ライウスが、父ジャドラにバクラムの娘ミヤーハとの結婚を承諾することを伝えたのは、それから数日後であった。

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