第一部 『双天の戦士』 第一話 魔剣
紅蓮の炎が夜の天へと燃え上がっていた。
山中の小さな破れ寺の本堂は、今は巨大な炎の塊となり、周囲の歳経た杉林を紅く闇の中に照らし出している。
木材が爆ぜ崩れ落ちる音、炎の起こす熱風の音とが一体となり、炎は轟々とまるで巨大な獣の唸り声の様な音を立てていた。
本堂の周囲を無数の雑兵が取り囲んでいる。身に付けた甲冑と手にした白刃は炎で真っ赤に染まっていた。
雑兵達は、肌を汗もたちまちに蒸発する程の炎の熱気に晒されていたが、その表情は一様に青ざめ歯をかちかちと鳴らし全身を震わせている。巨大な炎を前にして、なお雑兵達は全身に冷たい汗をかいていた。
雑兵達の視線の先。炎を背にして巨大な影が立っていた。
恐ろしく巨大な男だった。身長は二メートルを優に超えている。
黒い僧衣を身にまとい、右手には刃の部分だけで並の日本刀三つ分の厚さと重量が有るであろう、長大な薙刀を掴んでいる。漆黒の柄は巨象の頭蓋骨すら容易く砕けそうな程の太さだった。
男の口は大きく裂け、肉食獣の様な鋭い歯が剥き出しになっている。髪は血の如く真紅。それがまるで炎の様に前後左右に逆立っている。目尻は左右につり上がり、瞳は緑色の異様な光を灯していた。
男の両眼は周囲の雑兵を睨みつけ、彼等の脚を大地に釘付けにしていた。
背後の炎が一瞬大きく燃え上がると同時に、男の巨体の中に炎を上回るとてつもないエネルギーが膨れ上がるのを、雑兵達は全身で感じていた。手にした刀の切っ先は激しく震え、腰は萎えてしまっている。中には「あ、あ、ぁ……」と声にならない声を発し、涙を流す者さえいる。
しかし彼等は逃げない。いや、男の眼光に射すくめられて、動く事すら出来ないのだ。正に肉食獣を前にした獲物の小動物そのものだった。
男は右手に掴んだ薙刀をゆっくりと持ち上げ、刃が体の影に隠れる程腕を上段に構えた。腕の筋肉が、みしみしと音を立てて盛り上がっていく。
兵の一人が震えながら声を出した。
「鬼じゃ……こやつは人ではない……。真であったか、鬼人武蔵坊弁慶!!」
その瞬間弁慶の両眼は、かっと見開き、口からは青い炎と共に聞く者の魂をも千切り飛ばす様な凄まじい咆哮が発せられた。
ボッ、と大気を裂く音と同時に弁慶の右腕が横一文字に薙ぎ払われる。次の瞬間、前方にいた十人余りの雑兵の上半身が吹き飛ばされていた。周囲の兵達の全身に大量の血と肉片が降り注ぐ。
「ひいぃぃっ!」
引きつった悲鳴を上げる後方の兵に向けて、弁慶の左拳が振るわれる。
ぐしっ、と湿った破裂音を立てて兵の下顎から上が消失した。
ごぼり、と大量の血を吹き出して、頭部の無い兵はゆっくりと倒れた。二、三度手足をばたつかせると、やがて体を痙攣させて動きを止めた。
雑兵達の精神は、そこまでが限界だった。
「ぎゃあああぁぁっ!」
意味を持たない絶叫を上げ、雑兵達は四方へ散らばっていく。もはや彼等に立ち向かおうという考えは無かった。
弁慶は前方へと歩みを進める。その眼光が、一番近くにいた兵の視線を捕らえた。
「あぎゃぁあ!」
兵は奇声を上げ、誘い込まれる様に斬りかかっていった。
だが、それよりも速く弁慶の左拳が真上から兵の頭部に降り下ろされた。肉の爆ぜる音と共に、兵の膝から下は体の外側に向かいへし折れ、頭部は眼の位置まで両肩の間にめり込んでいた。
眼球と脳味噌を吹き出して、兵は絶命した。
「矢だ!矢を放てぇ!!」
後方にいる、兵を率いる将らしき男が顔面蒼白となりながらも、喚く様に配下の兵達に号令をかける。
凍りついていた兵達は我に返り、震える手で必死に弓を構え、目の前で雑兵達を肉片に変えていく巨人に向けて一斉に矢を放った。
弁慶の全身に無数の矢が突き刺さる。だが、兵達の顔は恐怖と驚愕の表情で固められた。弁慶の体からは、一滴の血も流れていなかったのだ。そして全身に力を込めると、突き刺さった矢がばらばらと地面に落ちていく。
弁慶の眼が弓隊に向けられた。咆哮を上げ突進する。周囲の雑兵を吹き飛ばし、弓隊を薙刀で粉砕すると、部下の血と臓物を全身に浴びたまま恐怖で顔と体が硬直した将に、血塗られた薙刀を降り下ろした。
燃え盛る本堂の裏。境内の林の奥に小さな堂が在る。
堂の中の灯りは僅かである。中央に燭台が一つ。甲冑を身に付けた一人の武士が、その前に座していた。
黒い艶の有る髪。柳葉の様な細い眉。高い鼻梁と赤い唇。一見女性と見間違える程の美しい顔立ちだが、日焼けした肌や鋭い眼光からは、男が内側に秘めた野生を感じさせる。眼には見えない威厳の様なものが、背筋を伸ばし静かに座した男の周囲に剣の如く張りつめていた。
男は傍らにある剣を手に取った。日本刀ではなく、両刃の剣である。ゆっくりと革製の鞘から剣を抜き、目の前に構えた。
柄には龍の胴体を意匠した細工がされており、鍔に当たる部分は龍の頭部になっている。龍の口から青白く輝く刃が伸びていた。
男は静かに剣を見詰めている。その瞳には深い哀しみを宿していた。
剣を床に置くと男は首元に手を伸ばし、首に紐で結び付けられていた袋を懐から取り出した。
中には小さな紙包みが入っており、それを広げると、白い紙で束ねられた二つの髪の束が出てきた。
男はその髪を見ると、胸の奥に生じた激しい痛みを堪えるかの様に、きつく眼を閉じ歯を食いしばった。
数秒の後、男は顔を上げた。背後に巨大な影が立っている。返り血を全身に浴びた弁慶が立っていた。
「弁慶……」
「追手は全て始末しました。義経様」
太く、重い声で弁慶は語り掛ける。その瞳は今は紛れも無く、人のものであった。
「また……お前に多くの命を奪わせてしまったな」
義経は苦悶の表情を浮かべた。
「化け物には人の命など、どうと言う事はありませぬ」
「心にも無い事を言うな」
暫しの沈黙の後、弁慶は口を開いた。
「急ぎ此処を離れましょう。鎌倉はすぐに新たな追手を差し向ける筈です。本堂の焼け跡に死体を置いておけば、確認の為に暫く時を稼げるでしょう」
「逃げて何処へゆく?」
眼を手元に落としたまま、義経は語る。それは弁慶ではなく、自身に問い掛ける様だった。
弁慶は義経の手元を見て、答える。
「生き延びれば、いつの日か静様にも……」
「会う資格が有ると思うか?」
手の中の髪束を握りしめ、義経は絞り出す様に言う。
「我が子すら、衣川に置き去りにした私に……」
「義経様の責任ではありませぬ!」
弁慶が声を上げる。
「流れ矢で亡くなられた御息女の御遺体を、時が惜しいと弔わずに衣川を出たのは、我々家臣が言い出した事!義経様の責任では断じてありませぬ!!」
「だが、結果として私は娘の死を利用した。娘の遺体が有るという事は、傍らの死体は義経だ、と追手に思わせる為に、な」
弁慶は反論しようとしたが、義経の眼を見て沈黙する。
「思えば、全ては平氏一門への恨みを晴らす為に始めた戦であった……。私の復讐の為に、数え切れない程、多くの者を地獄へと引きずり込んでしまった……」
「――」
「その私が、愛する者を作り、人並みの幸せを手に入れようと考える事自体が間違いだったのだろうな……」
「義経様……」
義経は剣を手に取ると、刃を自らの首元に当てる。
「何をなさるおつもりか!?」
義経は哀しみを宿した瞳のまま、弁慶に微笑んで答えた。
「もう終わりにしましょう。鬼若」
「遮那……」
二人の口調が変わっていた。
「感謝しています……。乳飲み子であった私と母の常盤を助け、大和国まで守ってくれた事。そして鞍馬寺で私に武芸を仕込んでくれた事。ここまで私の為に、命を懸けて尽くしてくれた事を……」
「おお……」
弁慶の両眼から涙が溢れ出た。
「違う……違うのだ遮那よ!おれが、おれこそがお前を地獄へと引きずり込だのだ!!」
弁慶は両膝を床につき、血を吐くように語り出した。
「お前の父、義朝と常盤は、おれを、人でも鬼でもない化け物のおれを、友と呼んでくれた……。人として接してくれたのだ!その二人を平氏は、清盛めは奪った……。だからおれは、平氏一門を滅亡させる為に、お前に渡したのだ!その剣を!!やがて源氏の将となるであろう幼きお前に!!より多くの人間を狂わせる事を願ってなぁ……」
「鬼若……」
「お前には、あのまま何も知らず一介の僧として生きる道も有った……。それを、俺が……」
「それは違います」
義経は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「もし、あなたから自らの出自を教えられずとも、いえ、あなたに出会わずとも、私は平家と闘う道を選んでいたでしょう。それが私の定めだったのです」
「定め……」
「鬼若、この剣を取った事も、あなたに強制されたからではない。私が自ら選んだ道です。自ら決めた運命だったのです」
義経は左手に構えた剣の刃を右の首筋に当て、右手で反対側の刃を押さえた。
「だが……平家が滅んだ今、この剣も、私もこの国には不要。必ずや新たな戦乱を呼んでしまう……。それだけは、させぬ」
「遮那!」
そう叫び腰を浮かしかけた時、弁慶の耳は矢が風を切る音を捕らえていた。
――火矢か!!
そう直感すると同時に、堂に無数の矢が突き刺さる音がした。間も無く、四方から火と煙が立ち上ぼり始めた。
先程の兵は囮だったのか!血の臭いで伏兵の存在を隠す為に――
弁慶は己の迂闊さを責めた。しかし、今はその時ではない。
「遮那!!」
再び名を呼ぶ。だが、そこには炎に囲まれながらも、微笑する義経がいた。
「私の首と剣を見れば、鎌倉の兄上も安堵するでしょう……。静も助かるかもしれない。鬼若、我が首を兄上の元へ……頼みます」
弁慶の体は石化したかの様に動かなかった。義経の眼差しが、体を動かす事を許さなかった。
「遮那!お前もおれに生きろと言うのか!義朝と、常盤と同じくおれだけ生き延びろと言うのか!この化け物のおれに一人生きろと言うのかぁ!!」
弁慶の眼からは涙がとめどなく流れている。
義経は哀しそうな、それでいて懐かしそうな表情を浮かべた。
「あの時もそうだった……。山伏の弟子だと誤魔化す為に、私を殴った時も、あなたは泣いていたね。そんなあなたが化け物の筈が無い」
「……!」
「鬼若、生きてくれ。生きていれば、いつの日か必ず……」
義経の右手に力が込められた。弁慶の眼に鮮やかな紅色が飛び込んできた。
その声は、炎上する堂を包囲しる兵士達の耳に届いていた。
心が引き裂かれるような悲痛な声だった。
うおおおおお……
ぐおおおおお……
哀しみが魂を削りとるかの様な響きだった。
やがてそれは、不気味な獣の如き唸り声へと変わっていった。
グゴオオオオオッ!!
オガアアアアアッ!!
声の中に、激しい怒りと憎しみが増幅していく。
ガアアアアアアアッ!!
大気を震わせる程の叫びと共に、堂の扉が内側から吹き飛ばされた。
新たな追手の兵士達が身構える。
炎の中から巨大な人影が現れた。瞳に緑光を灯した弁慶である。
黒い僧衣にも火が燃え移っている。しかし、熱さを全く感じていないかの様に弁慶は歩みを進める。
顔を上げ、兵士達を睨み付けた。両眼からは血涙が流れている。
怒りに歪んだ相貌を炎が紅く照らしている。目を背けたくなるような、凄まじい顔だった。
体の奥に溶岩の如く煮えたぎるものがある。それは憤怒である。憎悪である。
眼前の兵士達だけでは無い。全ての人間。人が憎い。
そうだ。おれは常に人間に疎まれ、追われてきたのだ。奪われてきたのだ。だから戦ったんだ。殺してやったんだ。そうだ。殺してしまえ。壊してしまえ。何もかも。全て。
何かが今、体の中を突き抜けた。体の奥深く、遥か下方から、頭の先へ。
みりみりと肉が裂ける音がした。弁慶の額が裂けて血が噴き出している。裂け目から何かが生えてきた。それは黒曜石を思わせる、黒い光沢を放つ一本の角であった。
同時に体にも変化が訪れていた。犬歯は他の歯の倍以上に伸び、肌の色が黒く染まっていく。やがてその肌は、鉄の如く黒光りする皮膚へと変わった。
手の爪も猫科の肉食獣を思わせる程鋭く伸び、腕は肘の先まで額の角と同じ黒く光る鱗に覆われていた。
目の前の弁慶の変化に、兵士達は声も出ない。身動きすら出来ず、金縛りにあったかの様に、見ている事しか出来ない。
「化け物だ……」
兵の一人が歯の根も合わぬ程に震えながら、言葉を発した。
「そうだ……。おれは化け物だ」
異形と化した弁慶が、その場の全ての人間に語る様に答える。
「うぬら穢らわしい人間とは違う……」
体の奥で何かが叫んでいる。凶暴な何かが。熱い温度を持った、どす黒い塊が、全身を焼きながら口元までこみ上げてくる。
それを弁慶は絶叫と共に吐き出した。
「皆殺しだ!人間ども!!」
殺戮が始まった。
青白い月光が降り注いでいた。
東の空がやや白んでいるが、天上にはまだ無数の星々が煌めいている。
まるで地上の惨劇など無縁の様に。
まだ僅かに燻っているが、堂は完全に焼け落ちている。
堂を中心に、大地は月光の下でも分かる程、どす黒く染まっていた。
元、人間であったものが、血だまりの中に散乱している。
焼け跡に、異形と化した弁慶が座していた。腕の中には首元を真紅に染めた義経がいる。
先刻まで周囲に響いていた骨肉を断つ音、湿った破裂音、断末魔の声は今は無い。
静寂が空間を支配していた。
弁慶の眼は虚空を見ている。その場にいた全ての人間を殺し尽くしてもなお、眼の奥には怒りと憎しみの炎が燃えていた。
「定め……か」
義経の言葉を何度も反芻していた。
「苦しむ為に生まれてきた様なものではないか……。お前も、静も、お前達の子も……」
義経の遺体を抱き、弁慶は立ち上がる。
眼前の焼け焦げた床には、業火に晒されたにも拘わらず、青白い光芒を放つ剣がある。
左腕に亡骸を抱え、右手にその剣を取る。
「魔剣ドワールよ……。うぬの望み通りにしてやる。血を吸うがいい。人間〈マヌ〉どもを狂わせるがいい。その刃で無限の濁気〈ローグ〉を喰らうがいい!!」
天に向けて魔人は吼える。
「これが定めだ!!この地を、この世を地獄に変えてやる!!それがおれの定めだ!!」
呪詛の叫びが雷鳴の如く響き渡った。
――四百年余り後――
高い木々の森に覆われた渓谷の上に、眩い朝日が昇った。
冷たい、澄んだ水が、苔生した岩の間を流れている。
梢の間から落ちた陽光を受け、水面は宝石を敷き詰めた様に光輝いていた。
森の上には穏やかな風が吹き、森に差し込んだ光の斑模様をゆっくりと動かしている。
耳を澄ませれば、流れる水音と共に、木の葉が風に揺らされ触れ合う音、枝の上の小鳥がさえずる音、小動物が移動する音……。森の中の命が朝日と共に動き出す音が聞こえる。
流れる水を遡り、森の奥へ移動すると、木々の開けた場所に大きな滝が現れた。
音を立てて流れ落ちる滝の下には淵があり、澄んだ水をたたえている。
周囲を切り立った岩に囲まれたその場には、朝の冷気の中に、山と森の持つ清浄な“気”が溶け出し、まるで現世と切り離された神聖な空間の様だった。
淵の中に一人の男が立っている。
歳は二十代後半程。大きく、がっしりとした体躯である。身長は180センチを超えている。
上半身は裸だった。陽灼けた肌の下に、みっしりと筋肉が詰め込まれている。
腰から下は動きやすそうな、ズボンの形に似た伊賀袴。裾は水に濡れない様に、膝下で括られていた。
頭は、伸びて乱れた髪を無造作に後頭部で麻紐で縛っている。太い眉と力強い琥珀色の瞳。鼻筋の通った顔立ちをしている。
男の正面には、人の背丈より大きい岩がある。岩の上に僧形の老人が座していた。
頭は禿げ上がり、耳の周囲に僅かに髪が残っている。その代わり、顎の下には胸元まで伸びた白髭が生えていた。
着ている僧衣はぼろぼろだった。あちこちに継ぎが当ててある。
痩せた小柄な老人だった。背は眼の前の男の半分程だろう。
顔も皺だらけで、老人らしいシミも浮いているが、双眸は光を失わず、白髪や髭にも艶がある。その佇まいには、どこか品の様なものが感じられた。
老人の見守る前で、男は樫の木刀を右手に持ち、ゆっくりと呼吸をしている。
ゆっくりと、出来る限り静かに。鼻から吸い、口から吐く。山の清浄な空気を一度吸い込んだら、そのまま静かに呼吸を止め、清新の大気を体内へ循環させる。そして、体内の汚れた空気を出す様に、息を吐く。
それを何度も繰り返すうちに体内を流れる“気”の流れを男は感じていた。始めは気付かぬ程微かなもの。それが呼吸を繰り返す度に、少しずつ活性化していく。
男の内部がゆっくりと“気”で満たされていく。その足下の水面には、いつしか小さな波が立ち始めていた。意思の力で押さえている“気”が、少しずつ限界を超え、男の体内から溢れ始めているのだ。
男の全身から汗が流れていた。呼吸の間隔が短くなっていく。“気”を押さえ込むことが限界に近くなっているらしい。
男の背後の淵の辺りに、二人の人影があった。
一人は小袖を身に付け、伊賀袴を履き、脛には脚絆を巻いた若い男だ。
もう一人は網代笠を被った、黒い僧衣の雲水(旅姿の僧)である。笠を深く被っている為、顔は見えない。
その雲水は、淵の中の男の“気”の高まりを肌で感じ、思わず声を出していた。
「凄い……。人間〈マヌ〉の身で、ここまで気〈プラーナ〉を高める事が出来るなんて……」
その声は、紛れも無く若い女性の声であった。
淵の中の男の足下に、更に大きな波が立っていた。淵全体に波紋が出来ている。
男は木刀を両手で持ち、大きく振りかぶり、頭上に構えた。大上段の構えである。
男の呼吸が整えられていく。足下の波も呼吸に合わせて小さくなっていく。
そして――
イヤアッ!!
鋭い呼気と共に、男は真上から、木刀を水面に向かい降り下ろした。大気を切り裂く音が響く。
次の瞬間、男を中心にして半径5メートル程の水面が、まるで水中から爆発したかの様に、猛烈な飛沫をあげた。
“気”の圧力で吹き飛ばされた大量の水が、周囲に雨の如く降り注ぐ。
波打つ淵の中で、男は大きく息を吐き、額の汗を手の甲で拭う。木刀を右肩に担ぐと、岩の上に座す老人に声を掛ける。
「どうですかな?高珍老師」
一方、岩の上の老人――高珍老師は、全身をずぶ濡れにしながら叫んだ。
「『どうですかな?』じゃないわい!わざとやりおったな!武蔵!!」
「いやあ、つい力が入り過ぎてしまいました」
そう言って、男――宮本武蔵は、にっと歯を出して笑った。悪戯が成功した子供の様な笑顔だった。
その時、武蔵の表情が強ばる。背後に強烈な殺気を感じた。
頭で考えるより先に、体が反応していた。反射的にその場から右手へ大きく飛んでいた。
同時に、大地を震わせる衝撃と共に、今立っていた水面が、水底の地面ごと大きく抉られる。
高珍が振動で岩から転げ落ちた。
「ろ、老師!?」
武蔵が駆け寄ろうとした時、地の底から響いて来る様な声がした。
「ム〜サ〜シ〜!!」
その声に青ざめた武蔵が、ゆっくりと振り向く。
そこには、僧衣から大量の水を滴らせた、先程の雲水が立っていた。
雲水は笠を外し、下の袈裟頭巾も取り去った。
美しい女性であった。
歳は武蔵よりも若く見える。
髪は煌めく金色で、肩まで伸びている。肌は降り積もったばかりの雪よりも白い。
瞳はまるで、二つの碧玉の如く青味を帯びている。
だが、瞳や髪の色以上に、人目を引く容姿をしている。
耳は人のそれよりも、倍は長く、尖っている。そして側頭部からは、黒曜石を思わせる、光沢を持つガラス質の角が、左右二本生えている。
首元と、今は外気に晒されている腕には、翡翠の様な美しい鱗が生えていた。
ちなみに指先には鋭い爪が生えている。――今、地面を抉ったのはこれか!――と、武蔵は冷や汗をかきながら思った。
「ま、待てルーナ。今のは決してお前に水を浴びせようとしたわけではなくてだな……」
「うるさい!!人間〈マヌ〉の分際で、龍〈ナーガ〉の儂によくもやってくれたな!!」
ルーナは眼を吊り上げて、八重歯を剥き出しにした。「猫みたいだな」と、武蔵は心の片隅で呑気に考えてしまうが、ルーナの顔つきがらすると、少々ヤバそうだ。
「半蔵!お前からも言ってやってくれ!!」
淵の辺りで無関係を決め込んでいた、小袖姿の若い男――半蔵に助けを求める。
「ちょ、おれは関係無えよ旦那!巻き込まねぇでくれ!」
半蔵は、武蔵に負けない程の長身の男だった。
歳は武蔵よりもやや若い。二十代前半だろう。
体つきは一見細身に見える。無駄な肉が一切付いていないのだ。頬の肉にも弛みは無い。
鼻筋は通り、瞼は二重で、灰色がかった黒い瞳をしている。 ゆるく波打つ髪を、オールバックにしている。
美男子と、そう呼んでいい顔立ちをしている。
常ならば、猛禽を思わせる鋭い目付きもするのだが、今はその影も無い。
「そんな事を言わずに頼む!おれにもしもの事が有れば、お前も困るだろう!?」
「それはずるいぜ旦那!〜〜あ、姐さんもどうか落ち着いて……」
「黙れハッタリ!!」
「服部なんですけど……。いえ、ハッタリでいいです」
「弱!!」
武蔵は徐々に後退りしながら、ふと先程の“気”の放出で、水面に浮いてきた岩魚に気付いた。淵に生息していたのだろう。何匹も浮かんでいる。
「ほれ!お主の為に丸々と太った岩魚を取りたかったのだ!いやぁ大漁だ!塩をふってこんがりと焼けば、さぞ美味いだろうなぁ!」
岩魚と聞いて、ルーナの動きが止まる。
「岩魚の串焼きか……」
「そうだ!味噌を塗って焼いた握り飯も有るぞ!」
「む、む、む……」
ルーナはくるりと振り返り、こっそりと涎を拭いた。
「ならば仕方無い。今回は見逃してやろう。儂は心が広いのだ。感謝しろ。さあ、すぐに朝飯の用意をするがいい!!」
「はいはい只今。おい半蔵。手伝ってくれ」
水から出ると、武蔵は木陰で「そもそも三代目の馬鹿兄のせいで服部家は落ちぶれちまったんだ……。今じゃすっかり柳生にとって変わられてよう……」と、ぶつぶつ言っている半蔵を連れて、火の用意を始める。
「忘れてない?ワシの事……」
岩の下から高珍の声がした。
淵の端、森に面した部分に小川が有る。滝の水は、そこから森の中へと流れていく。
川の横で、火が燃えていた。
適当な大きさの石を積み上げ、風避けを作る。手前が開いており、そこに塩をふった岩魚を串代わりの小枝に刺して焼いている。
振りかけた塩が所々白く固まり、一部が狐色に焼けている。
全部で十六匹。30センチ近い、丸々と太った岩魚だ。
皆でかぶり付く。パリッとした皮の下から、熱々の脂が口の中に飛び出してくる。
ハフハフと口から熱気を逃がしながら、身を食べ進める。肉汁をたっぷりと含んだ白身が口の中で踊る。
武蔵はその逞しい歯で、頭の先から尾びれまで、骨も内臓もがつがつと噛み、飲み込んでいく。
三十分も経たずに、四人は全ての岩魚を食べきった。その内、十匹はルーナの分だった。彼女は更に、握り飯も三つ平らげている。
――良く喰うなあ――
武蔵は心の中で呟く。先程「すっげえ大食い!」と口に出した半蔵は、ルーナの裏拳を顔面に受け、伸びている。
「はあ……。満腹だ」
ルーナは満足そうな笑みを浮かべた。
高珍は、後頭部に出来たコブに、川の水に浸した手拭いを当てている。
食事が終わり、一息ついた所で、武蔵がルーナに声を掛ける。
「濁気〈ローグ〉の気配は近いのか?」
その言葉に表情を真剣なものに変え、ルーナが答える。
「うむ……。正確な場所はまだ分からぬが、確実に近づいておる。感じるのだ。禍々しい気〈プラーナ〉を……」
半蔵も起き上がり、話に加わる。
「おれも下の街道で話を聞いたぜ。この先の山奥の峠辺りに、盗賊どもの根城が有るらしい。この前も、近くの小さな村が襲われて、村人が根こそぎ拐われたそうだ」
「人買いか……」
武蔵の眉間に深い皺が刻まれる。
「死骸も何人分か見つかってな。皆、心の臓をひと突きに抉られていたそうだ」
「惨い事を……」
高珍が目を閉じて呟いた。
「手練れだな。関ヶ原の武士崩れか……。いずれにしても、それだけの連中が集まっていれば……」
武蔵がルーナを見る。
「濁気〈ローグ〉が増幅されるのも無理は無い。最悪の場合は、濁鬼〈ローガー〉と化す可能性も有るやもしれぬ」
ルーナは胸の前で腕を組み、答える。
「半蔵。村人達が拐われたのは何日前だ?」
「二日前らしいぜ」
「ならば、まだ間に合う!」
武蔵は立ち上がり、麻の小袖を身に付け、腰に大小の刀を差し込んだ。
「やっぱ……行くよな。旦那ならよ」
半蔵も「仕方ねえなあ」と言いながら腰を上げる。
「それでこそ、じゃ」
高珍も続く。
「ふん……。儂は別に、人間〈マヌ〉がどうなろうと知らぬがな。濁気〈ローグ〉の集まる場所ならば、あの“剣”が有るかもしれぬからな……。行ってやっても良いだろう」
最後にルーナが立ち上がる。
武蔵は木刀を紐で背負うと、皆の顔を見渡した。
「さて、行くか!!」
その両眼が力強く輝いた。