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2011年・2012年

闇のなかの白い夢

 もし仰向けに寝、そして起床する際に、広い四角形の天井を仰ぐ場合があるが、その意識と無意識が溷濁するときがあることをあなたは知っているだろう。それは無惨に、まるで百合や彼岸花といった醜く美しい花が散華していくように、一度構築されたメトロポリスが災害で一瞬に破壊/滅亡してしまうように夢が薄れていくのだけれども、その状態を「夢」や「現実」というのは少し語弊があり、いわゆる半覚醒状態なのだ。ひしゃげた畸形の夢、毎朝感じうるこの幻覚といってもいい半覚醒状態について私は死というおどろおどろしい精神現象を味わわされる。闇の腕に脳髄を掴まれて一定時間固定されてしまうかのように、文字通り心の底から痺れてしまう。それは精神の固着であり、たとい五分間でもそこには必ずと言ってもいいほど死を付着させる。呼吸が難しくなり視界も虚ろで朦朧とした意識の中で考えも霧散し、心の臓の鼓動も激しくなるばかりで、遠くから聞える鳥の囀りも感ずることはできても、それを神経に流し脳へ運ぶことはままならず、精神分析的に言えば前意識の領域へ思惟を上昇させることもできない。しかしそれは同時に洗練された闇と光の分水嶺であり、純粋な人間の意識の過程でもある。風船のように意識を徐々に膨らませていき、平べったい円盤型の意識の凹みを失くし歪みを修復していく。それはもちろん無意識によってであるが、いや、むしろ本能的/動物的といってもいいだろうが、それは逆らうことはできない原始の精神行動であり、オートマチックに半覚醒状態から覚醒する。

 その場合人間の様相は何もかもを感じることができないビスクドオルが多彩な心的要素を持つことに似ている。いってしまえば進化だろう。もちろん生物的な進化もあるが、その際に注目しなければならないのは内的世界の拡がりの進化であろう。精神的進化である。無から次第に有に変えるこの現象は束縛から自由を得るような、退嬰から結果を得るような生物の限界としての決して不可能な事象である。物理的にこの世では起こり得ないことであるのだが、しかし現実に隷属しない「夢」というあの世とこの世の境目だからこそこの不可能が可能なのだろう。半覚醒夢は夢ではないにもかかわらず、それを夢と認識してしまうことが多い。そもそも夢というものは意識の現象によって無意識領野が意識レヴェルへ這入ることを意味するのだけれども、夢こそ真の自由と断言できるほど自己という人間がこの世に産まれ落ちた時から持つ当たり前の心的要素を埋没できる唯一の場所であり、超概念である。それはまぎれもなく心理的なものの淵源であり、源流だ。だが、夢という動物的習性は悲しき特徴を持ち、決して逆転させることもできない。すなわち、奥深く徹底的な孤独趣味と空々漠々とした一人部屋を兼ね備えた圧倒的な精神的場所、であることである。夢は他者と共有することはできず、リンクを造ることも同期することもできない。完全なる孤立である。「完全なる一人」はある意味では個人の能力を最大限に増幅し、それを使用することができる。だが、ひっくり返せばそれを適用できる他者はおらず、証明することもできないために夢で起こった事象は薄れて目に見えなくなる。その点では悲観的な孤独である。

 が、人はしばしば夢に溺れたいと願う。人は夢に一種の快楽を求めるものである。確かに夢にはエロチックな部分が隠されているし、本能的であるからしてそれを解消するような機能も持っている。人はしばしば夢で欲求を果たすことに魅せられる。だけども、夢には死を孕んでいる。油膜が波打って漂い、ぐわんぐわんと赤い回転灯が回り警告を鳴らしているほど、危険なものとしても認識していることに注目せざる得ない。いわば生と死が容赦なく混ざり、坩堝と化していることは明瞭で、緻密に蝋細工めいた黒いつやを発している。どろどろと溶けた生と死は聖と穢れに言い換えることもできるし、嬉しさと悲しみと換言できる。傷をつけると同時に傷を恢復することに似ているし、終焉と開闢が同時に起こっているとも言える。死者と生者が同座標に位置するようにそれは運命だろうが物理法則だろうが宇宙上に存在するあらゆるプログラムを無視することができる。決してゼロと一に分化することはない。だから右脳と左脳を連結する脳梁を切断するようなことは決して起こらず、限りなく平和だ。無ゆえに平和である。冷淡といってもいい。夢自体は静謐な状態であり、それを外延する個人の自己が勝手に騒ぐだけである。ともすれば夢とは音楽であろう。その音楽を聴いて人間がどのように思い感じるかである。聖なるオラトリオは見方を変えればノイズ混じりのデスボイスと変わり、低音な旋律は高音と同時で、爆音は静音でもある。オルゴオルの懐かしい楽曲は一瞬によって変化するものこそ、背景に隠れた小気味いいドラムとツインギターに乗るツインヴォーカルの滑らかな流行りの咆哮である。落ち着いたピアノサウンドは過激なハードコアと姿を変える。

 では、なぜ人は夢に中毒を起こさないかといえば簡単だ。すべて忘れるからだ。夢の輪郭どころか夢のひと欠片でさえ忘却の彼方へ収斂してしまうのだ。忘却に埋葬された夢の全ては跡かたも残らず、その存在そのものから徹底的に消滅し、意識の領野から姿を消してしまう。あれほど過密で羊の如く群れていた夢は人の起床とともに霧散するのだ。ならば人は夢を見ていたことを知覚できるかといえば、そしてその「疑似的な残滓」を我らは味わって「夢」を感じているのだ。言わずもがな、その「疑似的な残滓」は真実の夢の縮んだ結晶のことで、あくまでも仮想的な概念だ。手術された臓器のように真の夢から摘出されたものが夢の「疑似的な残滓」であり、あまりにも概念すぎるために我らは夢であると逆説的に認知できるのだ。そこには直線・曲線・点線・波線といったそれ自体では形にはなりえない物体のちぎれた枠組みだけが存在している。重厚で氷のような冷たい夢から縁遠い無機質な概念へと変容してしまった。敢えていってみれば欠損だらけの四肢である。いや、四肢だけでない、身体のあらゆる部位が切断され獣に食いちぎられた肉体のことである。さらに言うなれば炭化/石化され急速に萎んだもはや人体とは呼称できない成れの果てに似ている。

 さながら脳死の如し夢は原形をとどめずに崩れる。だが、それこそ曖昧な生から完全なる生への変移であって絶望に暮れるようなものではない。両耳の鼓膜が揺れ音を拾い、埋もれた皮膚感覚を取り戻し、唾液を感知し、鼻腔の奥がむずがゆく、視覚には四角い天井が浮かび上がる。いま、昏睡状態という澱みから意識を取り戻すのだ。架空の夢を思い出し、仮想の神に想いを馳せる。「はっ!さっきのは夢だったのか」と。植物から動物へ進化する過程を辿り、海草や深海魚や馬やドラゴンからヒトへ生まれ変わる。生きていることを実感し、短く長かった迷宮からアリアドネーの糸を使わずに脱出するのである。まるで深宇宙の黎明を知り、そして破局を見るように。昨日までの自殺志願を抹消し、いま、生きていることを感知して、寝台から体を起こす。子宮の底から這い出した生命のように、まなこから涙が分泌されるように、圧倒的な現実が溢れだすのだ。氾濫する時間の連なりを感じ、刻一刻動く時計に目を落とし、寝巻を着替えるために、衣服を脱ぎ、裸になって、身体に直接空気に触れさせる。目には見えない細かい粒子が流れ揺れることを無意識に認識し、今日もまた歩いていくことに微かな疲れを感じると同時に嬉しさを感じるのだ。そのときにはもう「疑似的な残滓」ですら消失してしまっている。だが、現実には夢は必要がない。そこにあるのは完全な現実感であり、現実的な生活なのだ。だからこそ、我らは「夢」の重要性を知る必要がある。健康的に人生を過ごすためには幾万もの犠牲になった夢が存在する。それらは失われた神の聖遺骸に似ていて、空虚な空間へ追いやられている。だから我らは夢を神聖/神秘的なものとして認知し、また今夜没入するのである。そう、夢とは神の恋愛のようなものであり、すなわち、言うなれば、夢とは「奇蹟」そのものである。

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