9 花を喰らう君と星の海を泳ぐ姫君 (4)
追いかけなくてはいけないと思った。思うことよりも先に体が動いて、どういうわけか長い螺旋階段を駆け下りていた。階下の彼女に何度も声をかけたが反応はない。ぐるぐる回る階段を先に下りた彼女は、扉の向こうへと消えて行った。半ば飛びつくように勢いよく扉を開ける。
青色の空は橙色に飲み込まれていた。橙色の隙間から薄墨のような暗闇が迫ってきていた。星の煌めきが強くなりつつある。花畑の花たちは眠りにつくために、つぼみになり始めていた。
辺りを見渡すと、すぐに彼女を発見できた。彼女の背中を捉えた途端、力が抜けそうになった。息を吐いて歩み寄る。あのときのように逃げられるかと思ったが、彼女は動かずにいてくれた。
「食べているの」
何を食べているのかは一目瞭然だ。彼女の手には花がある。掌を花びらでいっぱいにして、紙袋の下に突っ込んでいた。
紙袋を外すと、巻き毛の金髪がふわりと浮かび、むっとした花の匂いが広がった。一心不乱に花を食べている少女がそこにいた。茎から花びらをもぎとり、口に入れて飲み込む。食べ残された花びらはひらひらと落ちていく。紙袋を外されたことにすら気づいていないようで、手近にある花をひたすら腹に詰め込んでいた。
「花喰い娘」
彼女の目の前に立ってみるが、僕を見てくれない。
花喰い娘の瞳には、花しか映っていなかった。
「花喰い娘……」
立て膝になり、彼女の目線に合わせる。それでも、蒼の眼は僕を認識してくれない。
「ねえ」
たまらず、彼女の頬を両手で包み込んだ。人形のようにぴたりと動きが止まる。花びらがはらりと落ちた。
「ねぇ、君は誰?」
蒼の眼が瞬いた。
「君の名前は?」
「……わたしは、花喰い娘です」
「違う。それは呼称だ。君の名前じゃない。君には人としての名前があるだろう」
「何をおっしゃっているのかわかりませんが、わたしは花喰いです」
惚けたように笑う彼女の顔なんて、見たくなかった。
「君は、僕のように忘れちゃだめだ」
彼女は花を食べ過ぎた。花に飲み込まれてしまっている。彼女を不幸にしていいのは僕だけなのに、花は彼女を持って行こうとしている。させてたまるものかと、肩を抱き寄せた。
「好きだ」
口から思いがけない言葉がでた。
「好きだ。君が好きだ。だから忘れないでくれ」
言ってから、僕は驚いた。
言われた彼女も驚いた。
顔が熱い。腕の中の彼女もやけに熱く感じた。
「あの、魔物さん……」
「うん?」
「今のは、その」
真っ赤な彼女が顔を上げる。ようやく、僕を見てくれた。深く沈んだ蒼の眼が、僕を映し出している。驚愕と戸惑いと照れ臭さをないまぜにしてぎゅっと詰め込んだ表情を、もっと見つめていたかった。深い海色に似た不思議な眼も、時折見せる星の瞬きのような輝きにも触れてみたかった。
食欲とは違う。彼女に触れたいと思うことで、ぷかりと浮き上がるほのかな温もりを離したくはなかった。
「そういうことだったんだね……」
彼女もあの少年も、こういう心地になったのだろうか。かちりと鍵がはまったような、ぴったりと懐かしいものが箱に収まった感覚。
「僕は君に恋をしてしまったらしい」
わかってしまったのなら、話は早い。
「君が好きだ。花喰い娘」