9 花を喰らう君と星の海を泳ぐ姫君 (3)
「死人に会いたいのか」
少年は窓に視線を動かした。窓の外には柩がある。塔の下で騎士の子どもが守ろうとした姫君が眠っている。
「……いや、生きている彼女だ」
「それは無理だ」
「夢を渡せば、なんでも願いを叶えてくれると聞いた」
いったいどこから聞いてきたのだろう。ずいぶん有名になったものだ。
壁から離れ、彼女に背を向けた状態で少年の隣に立つ。腰を屈めて囁き声を落とした。
「夢を食べられた人間は、不幸になるとも聞いたか」
焦げ茶の目は驚きを露わにした。やはり、都合のいいところだけ伝わっていたようだ。
「それ、姉ちゃんは知っているのか」
同じく潜められた声に、目を伏せる。
「彼女は、自分が人を不幸にする存在だと思っている」
あのとき、紙袋の少女は確かにそう言った。
魔物である僕に恐怖したのではない。
顔を隠して花を食べる異質な存在に関わるなと言ったのだ。
「彼女を不幸にしていいのは、僕だけだ」
彼女は花喰いを認めていた。治るはずがないと半ば諦めていた。花喰いをやめさせようにも、願いを叶えるための夢を見ていないと言った。
夢を見なければ、彼女の願いは叶えられない。
夢に詰まっている彼女のこころはわからない。
もし、花喰いを終える物語を見ることができたのなら、探し求めていた僕のこころが現れてくれるかも知れない。
もし、こころを得ることができたならば、もっと彼女に触れられるかも知れない。
「それでも、君は僕を求める?」
人には、不幸になってでも叶えたい願いがあるという。
少年にとっては他人事ではない。腰に挿した豪奢な剣には見覚えがあった。持ち主がどういう人間でいつ食べたのかはおぼろげだが、あの味は今でも記憶に残っている。
何も収められていない空っぽの剣。重たい味は食べるのに苦労した。どこまでも真っ直ぐで辛みも甘みもない。微かに残る煌めきを全て飲み込んだ。
「……親父は、何を願ったんだ」
きっと彼の夢も、父親と似た味がするのだろう。
「君の父親が願ったのは、幸福だ」
ひそひそ話をやめて、彼女にも聞こえる声で告げた。踵を回して彼女に笑いかける。今度は紙袋を被っていても、どういう表情をしているのか想像がついた。
小鳥のように首を傾げている彼女は、きょとんとした顔になっているはずだ。
「自分の幸福ではない。他人の幸福だ。夢がたくさん詰まった剣を捨てる代わりに、妻であった人間の幸せを願ったんだ」
焦げた茶色の瞳が、大きく揺らいだ。
「守りきれる自信がなかったって言っていたね」
この少年は愚かだ。
だが、気づくべき事柄には気づいている。
「そして夫は願いを叶え、代償として夢を失った。夢を失ったせいかはわからないが、父親は不幸にあったようだ」
間を置いてから、椅子に座る少年に微笑んだ。
「彼の大切な息子も、自分と同じ過ちを繰り返そうとしている不幸だ」
ようやく、騎士の子どもに言葉が届いたらしい。
「もう一度聞くよ。それでも君は僕を求める?」
「魔物さん」
僕の問いかけに彼女が割って入った。回答を出せずに少年は項垂れている。彼女だけではできなかったから、僕も手伝ってあげたのに。
責めるような蒼の視線が妙に突き刺さる。
「なに?」
そのとき、僕はどういう顔をしていたのだろう。彼女の肩が跳ね、怯えたように感じた。
「早急に答えをださなくてもよいのではないでしょうか。わたしたちは勧めましたが……」
彼女が言わんとしていることがわからないわけではない。だけど、正直に言えば僕は少年に関心などなかった。物語は完結している。それを無理矢理進ませようと勝手に足掻いているだけだ。海の姫君は悪い魔女によって眠らされたわけではない。この世界にいられる存在ではなくなってしまった。
「君は子どもに優しいんだね」
そして何より、彼女が少年の肩を持とうとするのが気に食わなかった。
「魔物さん……?」
「ねぇ、紙袋の娘さん。そこにいる子どもの大事な姫君は、すでに物語から退場してしまっている。子どもはないものをあるように変えようと願っているんだよ。君もわかっているだろう。死体は死体のままだ。例え生き返らせたとしても、それは同じ姫君だとは言い難い。時間は元には戻らない。進むしかないんだ。本のページをめくるようにね」
「魔物さん」
また、僕を呼ばれた。
彼女の視線の先には、奥歯を噛みしめ目を赤くした小さな子どもがいる。紙袋の二つの穴から覗く視線が、先程よりも鋭いものになっていた。
「……まぁ、その。僕は彼女に協力すると言ったから」
頬を掻き、斜め上に目を滑らせる。
「だから、生き返らせる以外なら手伝ってあげてもいいかな、とか」
「魔物さん!」
「あぁ、もうわかったよ。わかったって。言い過ぎなんだろう。君の目は不思議だ。だからそう僕を」
「騎士様は姫君とお話をしたいとおっしゃいました。息を吹き返せなくても、会話だけはできませんか」
話を途中で折られ、淡々と返された。
「可能性が全くないわけではないけれど……。ねえ、どうしたの?」
「わたしは、とても怒っています」
抑えつけているような平坦な声は、奇妙なくらい僕の耳に響いた。
「意地悪する魔物さんなんて、嫌いです」
彼女は席を立ち、部屋を出て行った。
どうして怒っているのか、ちっともわからなかった。彼女の意に沿うよう、生き返らせることを諦めさせるようにしたのに。
嫌いと言われた。
どこかに放り投げられたような気がした。何かがころりと落っこちて、穴に沈んでいくような心地だ。こんな気分は初めてだ。
「だっせ」
やっぱり、この子どもは一度殴っておくべきだろう。とりあえず、一発げんこつをお見舞いしておいた。