カタルシスー閑話ー 切り取ったいち風景3
「センセと永良さんは、付き合っているのですか?」
それは、月島がカウンセリングを行う診察室に隣接する事務室で、タクヤと橘が月島へ『浄化』後の報告を終え、いつしか3人の話は自然と他愛のない世間話へと移っていたときだった。
他愛のない世間話が、ふ、とした瞬間に、ぽんと空白のような間が一瞬生まれる。その、会話が途切れた隙間を狙っていたかのような、橘の月島とタクヤへの問い。
タクヤが思わず見返した先の橘の様子は、普段のふわふわとした、柔らかな雰囲気のままだ。ふわふわと、その口元にはにこやかに笑みを浮かべているような、可愛らしい表情だ。深層の、凛とした厳しさを何もまとってはいない。ふわふわとした、現実の時の、いつものようなその彼女からは、何かしらの感情の動きがタクヤには全く見えない。
だから、
「え?」
タクヤは、橘が訊かんとする意味が汲み取れなかった。
意味が汲み取れないまま、橘の発した『付き合う』という単語から、タクヤは月島との今までの関係性や付き合いについて知らず思い返していた。
タクヤは月島とは、タクヤの休日といったプライベートな時間に、友人とのような映画や買い物、遊びにといった共有する時間を特に過ごしてはいない。共有する時間を過ごすと言えば、せいぜい、勤務時間終了後に、ふたりで呑みに行くくらいだ。
休日にタクヤから誘うことはないし、月島からも休日にどこかへ出掛けるような誘いを受けたことは一度もない。
「月島さんとは、僕、呑みの付き合いはありますが。」
タクヤは橘へそう答えながら、そう言えば、と、タクヤは月島のプライベートに関してほとんど知らないのだということに気がついた。
何が趣味で、休日はどのように過ごしているのか。友人と呼べる人物が、ツカサ医師以外に、存在するのか。特別な付き合いのある女性は、居るのか。
タクヤが知っている月島に関することは、せいぜい月島がザルだということくらいだ。月島と呑みに行くと、必ず先に酔いつぶれるのがタクヤで、月島はどれだけ呑んでも表情ひとつ変わらない。最後の方は月島に付き合って呑み続けるタクヤの酔いつぶれるギリギリのところで見極められ、月島の手によってコップの中身がソフトドリンクに変えられてしまっている、といった具合だった。ふたりで呑みに行くとタクヤの酒量の限界値に達するところで月島も呑むことを止めて、タクヤに付き合う形で彼もソフトドリンクを手にしていることが定番になっていた。
月島はタクヤよりまだまだ呑めるだろうからタクヤに付き合い酒量を押さえる必要はない、と酔いに任せて月島に言ったことがあったが、お酒の量は美味しく呑めるところまでが良いんです、と笑って彼はタクヤへそう答えていたところまで、ぎりぎりタクヤは覚えている。
月島の何かをタクヤが知っているか、というのは、それくらいのことだった。当然、彼がうわばみのザルだということくらい、彼の友人であるツカサ医師は十二分に知っていることだろう。橘だって、知っているに違いない。
それどころか、月島の友人のツカサ医師の伴侶である橘は、タクヤがまだ知らされていない月島のプライベートな部分をよく知っているはずだ。
月島との呑みも、そんなに回数を重ねてはいない。ふたりだけでの呑みは今まで数えて4回くらい、月島の奨める居酒屋に行ったくらいだ。月島が奨める居酒屋は、提供する日本酒の種類が豊富で、次に訪れたときには同じ種類の日本酒の提供はなかった。本日の日本酒として提供してくれる大将は、日本酒には拘りがあるようだった。月島も酒類は日本酒が好みのようで、呑みの時の話題はといえば時事か、もっぱら日本酒の話だった。どこの産地の日本酒の味はどうで、や、削りが何%で、など、日本酒にあまり馴染みのないタクヤからしてみれば、コアな話が多かった。
それでも月島が語るそれらの話はタクヤには新鮮で、聴いていてとても楽しい時間だった。
他にも何か、彼がよく聴く、またはタクヤがよく耳にしている洋楽の話など、他愛のない話をしている記憶は微かに残っているが、残念なことにその辺りの記憶は酔いでよく覚えていなかった。
もしかしたら、タクヤの記憶は酔いで飛んでいってしまっているだけで、月島のプライベートな話をホントウは、タクヤはもっと聴いているのかもしれない。
「そう、なんですね。」
タクヤからのそのような返答に、橘はふわふわと笑んだままだったが、その雰囲気からはどことなく肩透かしを喰らった、といった感がある。
…どこか答えを間違えたのだろうか。
月島は、と、タクヤが斜向かいに座っている月島へ視線を移すと、彼は先ほどまで手にしていた紅茶の入ったカップをソーサーに戻した体勢で俯いていて、彼の顔が見えない。彼の表情が読めない状況では、タクヤの回答が橘の求めるモノと合っていたのか違っていたのか、判断がつかない。
ただ、俯いた体勢の月島の肩が、なんとなく微かに震えているように見えるのは、タクヤのたんなる気のせい、ではないように思う。
「センセ。」
その月島へ橘が声をかけたとたん、俯いている月島から小さな笑い声が漏れだした。
「センセ。」
今度の橘の月島への声かけは、少し咎めの色がある。
「申し訳ない。」
顔を上げた月島は笑いをかみ殺した表情だが、それでもその口元からは笑う声が零れて落ちる。
「コトネさん。私と永良さんとの間に、艶めいた空気が流れているように、コトネさんは感じていたんですか?」
月島は可笑しそうに、微かに笑い声を零しながら、橘にそう問うた。
月島から橘へのその問いにタクヤは、
「え?…あ…。」
橘が言わんとしていたことの意がようやく理解できた。
タクヤは意が理解できたとたん、
「ぜんっぜんっ、違いますっ。橘さん。」
と、全力で否定していた。
タクヤは月島とは上司と部下、もしくは同僚、または心の不調に関連した支援者と披支援者といった関係でしかない。これまでのタクヤと月島とのやり取りのどのような場面で、橘が勘ぐるような艶めいた空気が漂ったのか。
タクヤも橘へ反対に、問い質したい。
が。
月島からのその問いに橘は、いいえ、と首を横に振った。
意外な、橘の月島からの問いの否定に、月島は笑い声を収めると、今度は不思議そうな表情へと変化をさせる。そして、少し首を傾げ、
「私がどのような女性と付き合っていても、その彼女と別れても、全く興味も関心も示すことがないコトネさんが、なぜ、私と永良さんの関係を気にするのです?」
再び、そのように問う。
その、月島の問いに答えたのは橘ではなく、
「そうなんですか?」
タクヤが反応した。
橘の月島への傾倒ぶりからは、月島のその発言との整合性が得られない。橘は月島のプライベートにも口どころか頭も突っ込んでいそうなイメージがタクヤにはある。だから、月島とタクヤの関係性について機微に聡くなり、明後日の方向の勘違いをしているのではないだろうか、と思ったのだが。
月島の言に反応したタクヤを、橘はちらり、と見て、
「永良さんは、わたしに対して、どのような印象を持っているのか、よく解りました。」
ふわふわと笑んでみせた。
その笑みは、橘の本質を知らない者が見せられたなら、可愛らしさもあり何かの含みがあるとは思わないだろう。
けれども、タクヤは橘の本質を知っている。知っているどころではなく、深層の『浄化』の場面では、常に対面している。
だから、彼女のその柔らかな笑顔の中の真意を汲み取れてしまった。
「ごめんなさい。」
反射的に、タクヤは思わず謝罪の言葉を吐いていた。それは慣らされてしまった癖だ。
橘はタクヤの謝罪に、ふわふわと小さなため息を吐く。
現実の彼女は、所作がとても可愛いらしく、その小さなため息も深層の彼女の姿を知らなければ、魅いられてしまうような表情だ。
その彼女の表情や雰囲気に、反則だといった気持ちがタクヤの中にわいてくる。なんとなく、損をした気分だった。
彼女は小さなため息を吐いたあと、
「ツカサが仕事帰りに、センセと永良さんを見かけたらしくて。」
と、何故かツカサ医師の名前を出した。
「橘が?いつだろ。」
気がつかなかったな、とぽつり、と呟く月島に、
「お店から出てくるところを、数回、見かけたようなんです。」
と、橘が付け足す。
数回、ということは、タクヤが月島と呑みに行っていたところを、ほとんど目撃されている、ということになるのか。
「声を掛けてくれれば良いのに。」
との月島に、橘は、いえ、と、
「ツカサが言うには、声を掛け難い雰囲気だったらしくて。」
と、ふわふわと答える。
それは、どういう意味なのか。
彼女の変わらない雰囲気と表情からは、彼女の真意がタクヤには見えない。
けれども橘の言葉に、月島は、あぁ、と、
「それで、先程の問いになったのですか。」
と、腑に落ちたようだった。
月島は腑に落ちたようだが、タクヤはやはりわからない。記憶があまり残らないほど酔っぱらってしまっているタクヤと、素面に近い月島とが退店する場面のどこに、橘の冒頭の問いの納得できるような雰囲気があったのか。
橘は、月島のその言葉に、
「それだけではなくて、ツカサはセンセとは長い間、話をしていないし誘ってももらっていない、としょげているんです。自分から誘えば、と、わたしは言うのですが、邪魔をしたら悪いから、と。」
「それこそ、意味がわからないな。」
間髪入れずの、月島の言。
少しきつめの言葉にタクヤは聞こえたが、月島は、ツカサ医師の言葉に不快を示しているのでもなく、気分を害しているでもなく、本当に理解しがたい、といった表情だ。
「橘とは毎日、報告やカンファレンスで話をしない日は無いくらいだが。確かに橘と呑みには長い間、行ってはいないが、医師会やそれに関連する業務で当分忙しいと言っていたのは橘の方だ。」
それに、と、
「店を出るところを見た、ということはその時間帯まで橘は仕事をしていたということだろう。やはり忙しいんじゃないか。」
月島の言葉遣いが、丁寧語からいつしか砕けた感になっている。仕事中やプライベートな時間でも、タクヤには決して向けない、相手との親しみ感のある口調。
しばらく月島は黙したが、それでも、と、言葉を続け、
「橘らしいと言えば、橘らしいな。」
と、ふ、と笑みを見せた。その笑みは、タクヤが今まで目にしたことのないモノだった。その月島の表情から、月島とツカサ医師の関係性をよく知らないタクヤでも、このふたりの関係性を推し量ることができる。多分に、お互いのことをよく知っているからこその、笑みだ。
月島はタクヤへ視線を移すと、
「橘医師は、体格の割には意外と繊細なんです。」
そのようにツカサ医師のことを説明する。
「センセ。わかっているのなら、もう少しツカサのことを構ってやってください。」
との、橘の苦言に、
「橘を呑みに誘っても、構わないと?コトネさんの許可が得られた、で、良いですか?」
いつもの丁寧語で月島は問い返す。
ツカサ医師は家庭がある身だ。独身の月島やタクヤのように、己の意思だけでひょいひょいと呑み歩くことは憚れる、と月島は思っているのだろう。タクヤも月島のその意見には、賛同できる。
しかし、橘は月島のその言葉に大きくうなずいた。
「毎日は困りますけれど、月に1回程度なら構わないです。わたしはツカサがしょげている姿を見るのは、忍びないんです。ツカサはセンセとは、仕事以外の話をしたいみたいですよ。長い間、センセと話せていない、というのは、そういうことだと思います。」
と、困ったような、表情。
月島は橘をしばらく見ていたが、わかりました、と笑顔を浮かべると、
「コトネさんの許可が得られたので、橘の予定を確認して、近いうちに永良さんと3人で呑みに行きましょうか。」
と、何故か、タクヤをも誘ってきた。
「僕もですか?」
と、そこにタクヤの名が出てきたことに驚き、問い返したタクヤへ月島は、
「橘と3人は、嫌ですか?」
タクヤの断りのニュアンスの返事が、想定外だ、と少し驚きの表情だ。
「イヤではないですが、ツカサ先生は月島さんと、呑みに行きたがっているのであって、僕はお邪魔になります。」
タクヤは手を横に振りながら、是との返事をしない理由を述べた。橘だって、ツカサ医師と月島の更なる親交を深める場面に、タクヤの存在は邪魔だと思っているに違いない。
なのに。
「永良さんが一緒だと、助かります。」
思ってもみない、橘からの言葉。
タクヤの聞き間違えかと、え?と聞き返した先の橘は、ふわふわと微笑を浮かべている。
「ツカサは下戸、なんです。呑めないのに呑もうとするツカサと、センセはセンセでツカサに合わせてあまり呑まなくて。」
だから、と。
「永良さんには、ツカサとセンセの間で付き合ってもらえると、ありがたいかも知れませんね。」
小首を傾げ、にこり、と微笑う。
タクヤには良く理解できない、橘のタクヤもふたりの間に参戦しても良いとの提案理由。
「では早速、橘に予定を訊いてきます。」
と、月島は橘のその言葉を聞くや否や、椅子から立ち上がると、何となくいそいそとした感で、タクヤに止める隙を与える間もなく、診察室を出ていった。
そこにはタクヤの気持ちは置いてきぼりだ。
「永良さんは、ツカサが苦手ですか?」
タクヤと共に残されてしまった橘が、冷めてしまった紅茶の入ったカップをソーサーから持ち上げると、タクヤへそう問いながら、口を付ける。
苦手だとかそういうものではなく、ツカサ医師はタクヤの主治医だ。主治医とその患者が杯を交わすのは、どうなのか、といった気持ちがある。それに、高校時代からの友人同士である月島とツカサ医師の中に入ることで、ふたりに気を遣わせてしまわないかといった懸念もあった。ツカサ医師は月島とふたりで語りたいのではないか、と思う。
「センセの、今のようなあのカオは、ツカサの前でないとなかなか見られないんです。…ツカサが患者ではない永良さんに興味を抱くのも、わたしはとても理解できます。」
紅茶をこくり、と飲みながらの橘の意味深な発言。
その橘を凝視したタクヤへ橘は、ふわふわと笑顔を浮かべたが、その笑顔には深層の凛とした厳しい橘の姿と何故か重なって、タクヤには見えた。
ー了ー




