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第9話 ゆら体調不良

「ゆら、顔白くない?」


 朝、教室へ入って最初にそれを言ったのは、天宮ひまりだった。


 言われた本人は、机に鞄を置きながらゆっくり瞬きをする。


「元からだけど」


「いや、そういう白さじゃなくて」


「細かいね」


「昨日からずっと細かいです」


 ひまりはそう言いながらも、声を大きくはしなかった。


 いつもなら周りまで巻き込む。

 けれど今日は、ゆらの席の横で小さく言って終わる。


 ゆらは少しだけ肩をすくめた。


「別に平気」


「ほんとに?」


「朝からうるさいと悪化するかも」


「それ私が悪いみたいじゃん」


「半分くらい」


 ひまりは不満そうに頬を膨らませたが、それ以上は言わなかった。


 橘理は、そのやり取りを教卓から見ていた。


 少し気になったので担任端末の朝の状態ログを開く。


 白坂ゆら。

 登校時チェック、平常。

 体調自己申告、問題なし。

 集中予測、通常範囲。


 数値の上では、特に引っかかるものはない。


 ゆら自身も平然としている。

 顔色が少し薄い気はするが、元々そういう印象の子でもある。


 橘は一度だけ視線を止め、それから朝の会を始めた。


 一時間目は算数だった。


 授業はいつも通り進んでいる。

 ひまりはいつも通りよく喋る。

 クラス全体の反応も悪くない。


 なのに、どこか引っかかる。


 理由は簡単だった。


 ゆらが、あまり喋らない。


 元から発話量の多い子ではない。

 だが今日は、こちらの言葉を軽くずらすような横槍も、ひまりへの雑なツッコミも少なかった。


 その少なさに、橘はようやく違和感を持つ。


「白坂さん」


 問題の途中で声をかけると、ゆらは一拍遅れて顔を上げた。


「なんでしょう」


「今の式、どう考えますか」


「……あー」


 そこで少しだけ止まる。


 答えられないわけではない。

 だが、反応速度がいつもより鈍い。


「分母そろえて、先にこっち整理すればいいんじゃない」


「そうです。では続きは」


「先生」


 今度はひまりが手を挙げた。


「なんでしょう」


「ゆら今日、たぶん省エネモードじゃなくて低電力モードです」


 教室に小さく笑いが起きる。


 ゆらは面倒そうにひまりを見る。


「そういう実況いらない」


「いや、でもほんとに」


「天宮さん」


 橘はひまりを止めた。


「授業を進めます」


「はーい」


 返事は軽い。

 だが、ひまりはそのあとも何度かゆらのほうを見ていた。


 橘も同じだった。


 授業の終盤、プリント回収のために立ち上がったゆらの手が、ほんの少しだけ机に触れる。

 支えた、と言うほどでもない。

 ただ、立つ動作が一瞬だけ遅れた。


 それだけだ。


 数値にはたぶん出ない程度の、小さなズレ。


 けれど、目で見れば分かる。


 二時間目の始まりで、橘はゆらの席のそばへ寄った。


「白坂さん、体調は」


「別に平気」


 即答だった。


「今朝から少し」


「先生、最近“見てます感”強くない?」


 ゆらはいつもの調子に近い声でそう言った。


 近い、だけで同じではない。


「悪いことではないはずです」


「まあ、前よりは」


 その返し方まで前話と同じだったので、橘は一瞬だけ言葉に困る。


「ただ、今はほんとに平気」


「無理はしないでください」


「それ、無理してる人に言うやつだよね」


「そうです」


「じゃあ今の会話、わりと失礼じゃない?」


 口ではそう言う。

 だが、立ち上がる動作はやはり少しだけ鈍い。


 橘はそのまま二時間目を始めた。


 この時点では、まだ大きく止める理由を自分でも掴みきれなかった。


 ログ上は平常。

 本人申告も平気。

 授業参加も、完全に落ちているわけではない。


 だから本来なら、様子見の範囲だ。


 だが、その“本来”がどこまで当てになるのかを、最近の橘は少し疑い始めている。


 きっかけは、ひどく地味だった。


 ノートを前へ回収する途中で、ゆらが一度だけ立ち止まる。


 そして、そのまま静かに机へ手をついた。


 教室の何人かは気づかない程度。

 ひまりだけがすぐ椅子を引いた。


「ゆら」


「……平気」


 その“平気”は、今までのより少しだけ遅い。


 橘はもう迷わなかった。


「白坂さん、座ってください」


「大丈夫」


「座ってください」


 少し強めに言うと、ゆらはようやく椅子へ戻る。


 顔色が朝より悪い。

 白いというより、色が抜けている。


 橘は教室前方の表示へ切り替えを入れた。


「五年一組、今から五分だけ自習です。プリントの見直しをしてください」


「え、先生」


 ひまりがもう立ち上がっている。


「私付き添います」


「天宮さんは座って」


「でも」


「お願いします」


 ひまりは珍しく食い下がりかけて、それからゆらを見て止まった。


「……じゃあ、あとで行きます」


 その言い方が、少しだけ小さかった。


 橘はゆらの椅子の横へしゃがむ。


「立てますか」


「立てる」


「では保健室へ行きます」


「大げさ」


「今それを判断するのは私です」


「そういうとこあるよね」


 文句を言う元気は、まだあるらしい。


 それで少しだけ安心しながら、橘はゆらを連れて教室を出た。


 保健室のドアを開けると、藤崎真琴が顔を上げた。


「いらっしゃい」


 その声の柔らかさが、今日も妙に落ち着かない。


「白坂さんが少し立ちくらみを」


「少し、だって」


 ゆらがぼそりと言う。


「先生、表現を軽くしようとして逆に重くしてない?」


「今は喋らなくていいです」


「それも雑」


 藤崎はゆらの顔色を一目見て、すぐベッドのほうへ促した。


「白坂さん、横になれますか」


「そのくらいなら」


「えらい」


「基準が低い」


「保健室、そういう場所なので」


 その返しに、橘は少しだけ前話を思い出す。


 正しい子を増やす場所じゃない。

 逃げてきていいと思わせる場所。


 藤崎は慣れた手つきで体温計を渡し、水を用意し、カーテンを半分だけ引いた。


「朝ごはんは?」


「食べた」


「睡眠は?」


「普通」


「それ、普通じゃない人の答え方なんですよね」


 ゆらは少しだけ笑って、それから素直に目を閉じた。


 橘はその横で立ったままになる。


「橘先生」


 藤崎が小さく呼ぶ。


「気づけたんですね」


「……ログには出ていませんでした」


「でも来ました」


「たまたまです」


「そういうことにしてもいいですけど」


 藤崎はそれ以上追わなかった。


 その代わり、橘の立ち位置だけを少し脇へずらす。


「今は先生が安心するより、白坂さんが楽になるほうが先ですね」


 言い返せない。


 橘は一歩だけ下がった。


 保健室は静かだ。

 静かだが、何もしていないわけではない。


 余計なことを減らしているだけで、ちゃんと支えている。


 その数分後、勢いよくドアが開いた。


「失礼しまーす」


 やはり、ひまりだった。


 橘は半分予想していた。


「だから座っていてくださいと言ったはずですが」


「座ってましたよ。五分くらい」


「短いですね」


「心配だったので」


 それを言い切ってから、ひまりは少し気まずそうな顔をした。


 素直に言うつもりではなかったらしい。


 ゆらはベッドの上で目だけ開ける。


「来たんだ」


「そりゃ来るでしょ」


 ひまりはベッドのそばまで来て、じっとゆらの顔を見る。


 そして照れ隠しみたいに、わざと少しふてくされた声を出した。


「これくらいで倒れるの、ずるくない?」


 橘は反射的に眉をひそめかけたが、ゆらのほうが早かった。


「羨ましいなら代わる?」


「よくないよ、それは」


 ひまりの返答が妙に速い。


「全然よくないし。私、そういうの無理だし」


「じゃあ、ずるくないよ」


「いや、でもなんか」


 ひまりはそこで言葉を探す。


「心配された側っぽいじゃん」


「されたいんだ」


「そういう意味じゃなくて!」


 保健室の空気が少しだけゆるむ。


 藤崎が、その会話を止めずに水差しの位置だけ直した。


 橘はそこで初めて、ひまりの言葉が本気の悪意ではないことをきちんと理解する。


 分かってほしいのだ。

 でも分かってほしいと真っ直ぐ言うのは、ひまりには少し難しい。


「天宮さん」


 橘が声をかけると、ひまりはすぐ身構えた。


「はい」


「騒がないでいてくれたのは助かりました」


「え」


 ひまりが固まる。


「朝も教室でも、大きくしませんでしたよね」


「いや……まあ……」


「ありがとうございます」


 そう言うと、ひまりは露骨に困った顔になった。


「先生、急にそういう真っすぐなのやめてください」


「なぜです」


「調子狂うので」


 ゆらがベッドの上で小さく笑う。


「ひまり、褒められ慣れてないから」


「慣れてますし!」


「雑に褒められるのと、ちゃんと見られてるの別でしょ」


 その一言に、ひまりは少しだけ黙った。


 橘も同じだった。


 ちゃんと見られている。


 今、ゆらが言ったのはひまりに向けた言葉だ。

 だが、どこか自分にも返ってきている気がした。


 しばらくして、ゆらの顔色は少し戻った。


 大事ではないらしい。

 睡眠不足と軽い立ちくらみ、たぶんそこに疲れも少し混ざっている。


「今日は無理しないでくださいね」


 藤崎が言うと、ゆらは目を閉じたまま答える。


「努力はする」


「やる気のない優等生みたいな返事ですね」


「それ、褒めてないよね」


「半分くらい」


 ひまりがすかさず笑う。


「便利すぎません?」


「便利だから使ってるんでしょ」


 ようやく、いつもの調子に近い会話が戻る。


 橘はそのやり取りを聞きながら、担任端末の画面を思い出していた。


 平常。

 問題なし。

 通常範囲。


 全部、外れていたわけではない。

 だが、足りていなかった。


 異常が出ないことと、異常がないことは違う。


 そんな当たり前のことを、また子どもに教えられている。


 帰り際。


 廊下をゆっくり歩くゆらの横で、橘は歩幅を少しだけ落としていた。


「今日はすみませんでした」


 橘が言うと、ゆらは少しだけ首を傾げる。


「何が」


「気づくのが遅れました」


「遅れてはいたね」


 否定はしない。


 けれど、責める言い方でもなかった。


「ログを見て、平常だと判断しかけました」


「うん」


「実際には違った」


「うん」


 短い返答が続く。


 それだけで、変に言い訳する余地が消える。


 橘は少しだけ息を吐いた。


「……気づけたのは、偶然かもしれません」


「でも」


 ゆらは廊下の先を見たまま言う。


「気づけるなら、それでいいんじゃない」


 その一言だけは、珍しく否定ではなかった。


 橘は返事をしなかった。


 できなかった、というより、変に崩したくなかった。


 廊下の窓から、午後のやわらかい光が差している。

 歩く速度は遅い。

 だが、その遅さが今日は少しだけ必要なものに思えた。


 評価より先に見るべきものがある。

 ログより先に拾うべき違和感がある。


 もしそれが子どもの体調にあるなら、教師側の評価にも同じズレがあるのではないか。


 橘はふと、そんなことを考える。


 数値は便利だ。

 だが、それだけで見えると思うのは、たぶん少し傲慢だ。


「先生」


 前を歩いていたひまりが、くるりと振り返る。


「なんでしょう」


「今日はゆらの勝ちでいいです」


「何の話ですか」


「心配され選手権です」


「開催しないでください」


「じゃあ私も次ちょっと倒れようかな」


「やめて」


 ゆらが即座に言った。


 その一言が思ったより強かったので、ひまりは一瞬だけ目を丸くしてから、すぐに笑った。


「分かってますって」


 その雑なやり取りに、橘は少しだけ肩の力を抜く。


 今日見た違和感は、きっと忘れない。


 忘れないようにするのではなく、忘れにくい形で残ったのだと思う。


 それはたぶん、数字ではつけられない種類の記録だった。

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