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第7話 藤崎先生回

「ちゃんと休めていますか?」


 保健室へ入って最初にかけられた言葉が、それだった。


 橘理は、少しだけ返事に詰まった。


 熱があるわけではない。

 どこかを痛めたわけでもない。

 ただ、座ってから動きたかっただけだ。


 それを説明しようとしたが、目の前の養護教諭はもう分かっているような顔をしていた。


 藤崎真琴。

 柔らかい声と、いつも少しだけ遅い動き方をする人だ。


「五分ほど休めれば十分です」


 橘が言うと、藤崎は小さく首を傾げた。


「十分って、誰にとってですか」


「……私にとってです」


「ほんとうに?」


 問い方が責めるでもなく、妙に逃げ場がない。


 橘は保健室の丸椅子へ腰を下ろした。

 白いカーテン。

 消毒液の匂い。

 窓の外の、もう静かになった放課後の校庭。


 教室とも職員室とも違う空気だった。


「少なくとも、今すぐ倒れるほどではありません」


「倒れないと休んじゃだめ、みたいな言い方ですね」


「そういう意味では」


「そういう意味ですよね」


 藤崎はあっさり遮ってから、紙コップに水を注いだ。


「はい。まずこれ飲んでください」


「ありがとうございます」


 受け取る。


 冷たい。


 それだけで、思ったより肩に力が入っていたことが分かった。


「今日、だいぶ大変だったみたいですね」


「ネットワーク障害です。認証基盤側の更新不整合で、校内全体に影響が出ました」


「はい」


「原因の当たり自体は早めにつけられました。二次系へ逃がして、暫定復旧も間に合っています」


「はい」


「なので、対応としては」


「橘先生」


 藤崎はふっと笑った。


「私、報告書じゃないんです」


 そこで橘は初めて、自分が説明のモードに入っていたことに気づいた。


「……すみません」


「謝らなくて大丈夫です」


 藤崎は椅子を引いて、少し離れた位置に座る。


 近すぎない。

 でも、放っておかれている感じもしない。


 距離の取り方が上手い人だ、と橘は思った。


「正しく動けたかどうかを確認したいんですよね」


「え?」


「大変だったことより先に、ちゃんとできたかを並べる人、たまにいます」


 たまに、ではなくかなりいる気もした。

 そしてその中に、自分が入っていることも否定しにくい。


「正しく対応できた部分はあります」


「そうですよね」


 藤崎はそこで否定しない。


 肯定も、評価も、妙に急がない。


「でも、正しいやり方でも疲れるときはありますよ」


 その一言に、橘は少し拍子抜けした。


 もっと具体的な対策の話になると思っていた。

 原因の切り分け。

 再発防止。

 教員側の運用改善。


 そういう話ならいくらでもできる。


 だが、今目の前で言われたのは、ずっと曖昧で、なのに妙に刺さることだった。


「疲れるのは、効率が悪かったからとは限りません」


「……非効率が原因ではないと?」


「そういう言い方、好きですよね」


「事実確認です」


「はい。で、私の答えは、たぶん違います」


 藤崎は柔らかく笑う。


「ちゃんとした先生って、ちょっと苦手なんですよね」


「苦手、ですか」


「ちゃんと壊れるまで頑張るので」


 軽い調子で言うには、少し物騒な言葉だった。


 橘は思わず、相手の顔を見る。


 冗談で言っている顔ではない。

 深刻ぶってもいない。

 ただ本当に、そういうものを見慣れている人の言い方だった。


「それは、甘やかしでは」


 口に出した瞬間、自分でも少し硬い言い方だと思った。


 だが藤崎は気を悪くした様子もなく、あっさり頷いた。


「そう見えることもあります」


「しんどいときにすぐ逃げる癖がつくと、結局は」


「保健室って」


 藤崎が、ゆっくり言葉を重ねる。


「正しい子を増やす場所じゃないんです」


 橘は黙る。


「しんどいときに、逃げてきていいって思わせる場所なんですよ」


 カーテンが、窓から入る風で少しだけ揺れた。


 保健室は静かだ。

 けれど、その静かさは空白ではない。


 藤崎の言葉は、そこで長く残る。


「でも、それで戻れなくなる子もいます」


「いますね」


「なら」


「それでも、一回逃がしたほうがいい日もあります」


 即答だった。


 迷いがない。


「私は、戻すことより先に、崩れないことのほうを優先したいです」


 橘は何か返そうとして、少し止まる。


 理屈が通っていないわけではない。

 だが、自分の優先順位とは明らかに違う。


「それでは、問題の先送りになりませんか」


「なりますよ」


 また即答だった。


「でも、先送りで助かることってあります」


「……」


「今日中に解かなくていい問題も、けっこう多いので」


 それは橘にとって、かなり異質な発想だった。


 問題は見えた時点で、なるべく早く処理すべきだ。

 後回しは悪化の原因になる。

 少なくとも、橘はそういう世界で働いてきた。


 だから、藤崎の言い方は危うくも聞こえる。


 なのに、不思議と雑ではない。


「橘先生って」


 藤崎が水差しの蓋を閉めながら言う。


「ちゃんとしてるから、ちょっと怖いんですよね」


「怖い?」


「逃げ場までちゃんと塞ぎそうで」


 冗談みたいな言葉なのに、橘は返せなかった。


 教室で子どもたちに言われるのとは、少し種類が違う。


 もっと静かで、もっと厄介だ。


「……そう見えますか」


「ときどき」


 藤崎はそこで、ふっと笑った。


「でも、今日ここに来たのは偉いですよ」


「五分だけです」


「時間の長さじゃないです。来たことが」


 そう言われると、妙に言い返しにくい。


 橘は紙コップの水を飲み切った。


 そのタイミングで、保健室のドアが軽く叩かれる。


「失礼しまーす」


 聞き慣れた声だった。


 天宮ひまりである。


 しかも、その後ろに白坂ゆらまでいる。


 橘は反射的に姿勢を正した。


「なぜここにいるんですか」


「その言い方、ひどくないですか?」


 ひまりは扉のところで立ち止まり、にやにやしながら言った。


「保健室に来ちゃいけないみたいな空気出してますよ」


「用件を聞いています」


「私は見学です」


「帰ってください」


「ゆらは爪です」


 ゆらが無言で右手を見せる。

 親指の横に、紙で少し切ったらしい小さな赤い線がある。


「本当に軽傷ですね」


「うん」


「じゃあ、見てもらって帰ります」


 ゆらは平然としている。


 ひまりは明らかにそれ以外の目的で来ている顔だ。


 藤崎は、その二人を見て少しだけ目を細めた。


「いらっしゃい。白坂さん、こっちどうぞ。天宮さんは見学じゃなくて付き添いってことにしておきましょうか」


「え、優しい」


「保健室なので」


 その返し方が自然すぎて、ひまりの勢いが一瞬だけ削がれる。


 橘はその横で、妙に落ち着かない気分になっていた。


 別に悪いことをしていたわけではない。

 ただ休んでいただけだ。

 それなのに、なぜか見つかった感じがある。


「先生」


 ひまりがじっとこちらを見る。


「なんでしょう」


「保健室にいると、ちょっと人間っぽいですね」


「教室でも人間です」


「いや、教室だともうちょいシステム寄りなんで」


「意味が分かりません」


「でも分かる」


 ゆらが椅子に座ったまま、ぼそりと言った。


 藤崎が手際よく消毒をしながら訊く。


「白坂さんも、そう思う?」


「うん。なんか、分かりやすかった」


 橘はそこで眉を寄せた。


「何がですか」


「疲れてるの」


 ゆらの言い方はいつも通り淡々としている。

 責めているでもなく、慰めているでもない。


 ただ、見たままを言っているだけだ。


 ひまりがすぐに乗る。


「分かります。教室だと隠そうとするのに、ここだとちょっと漏れてる感じ」


「漏れていません」


「漏れてます」


「天宮さんは断定が早いですね」


「先生は否定が早いです」


 いつもの応酬なのに、保健室だと少しだけ響き方が違う。


 教室ほど鋭くならない。

 職員室ほど堅くもならない。


 その温度の違いを、橘はまだうまく処理できない。


「天宮さん」


 藤崎がガーゼを取り出しながら、やわらかく言う。


「先生をからかうの、好きなんですね」


「好きっていうか」


 ひまりは一瞬だけ言葉に詰まり、それからすぐ誤魔化すように笑った。


「面白いんですよ。ちゃんとしてるのに、たまに普通に崩れるから」


「観察対象みたいに言いますね」


「半分はそうです」


「残り半分は?」


 藤崎が何気なく訊く。


 ひまりは、そこで一拍だけ黙った。


 珍しい。


「……先生だから、ですかね」


 小さく出た答えに、今度は橘のほうが少し黙る番だった。


 ひまり自身も、言ったあとで気まずくなったらしい。


「いや、今の深い意味ないです!」


「ある言い方でしたけど」


「ゆら、そういうとこ!」


 ゆらは消毒がしみたのか、少しだけ顔をしかめた。


「痛」


「あ、ごめんなさい」


 藤崎がすぐ声の温度を変える。


「でも浅い傷なので、すぐ治りますよ」


「ならよかった」


 ひまりが本当に安堵した顔をしたので、橘は少しだけ意外に思った。


 うるさいし雑だし空気も壊す。

 だが、心配していないわけではない。


 そういうところが、一番扱いにくい。


「先生」


 ゆらが絆創膏を貼られながら、ふいに言う。


「この人、危ないですよ」


「誰の話ですか」


「藤崎先生」


 保健室の空気が、一瞬だけ変わった。


 ひまりが「出た」と小さく笑う。


 藤崎本人は、まったく慌てない。


「どうして?」


「先生、持っていかれそうだから」


 橘は意味が分からず、数秒遅れてから言う。


「何にですか」


「そこの分からなさがもう危ないんだよね」


 ゆらは淡々としている。

 でも、その目だけ少しだけ細い。


 観察している。

 いつもより少しだけ、念入りに。


「天宮さんもそう思う?」


 藤崎が面白がるでもなく訊く。


 ひまりは、なぜかそこで返答に迷った。


「いや……まあ……ちょっと?」


「ちょっとなんだ」


「全部認めると負ける感じするので」


「何に」


「なんかこう、大人の余裕みたいなやつに」


 言ってから、ひまりは自分で恥ずかしくなったのか、すぐに顔をしかめる。


「うわ、今の言い方やだ」


 藤崎は小さく笑った。


「安心してください。持っていきませんよ」


「いや、そういう問題じゃなくてですね」


「じゃあどういう問題なんですか?」


 ひまりが詰まる。


 ゆらは横で、少しだけ楽しそうにしていた。


 橘だけが完全に取り残されている。


「……保健室って、会話のルール違いませんか」


 思わずそう言うと、藤崎がこちらを見る。


「違いますよ」


「どこが」


「正解を急がないところです」


 また、そこで言葉を失う。


 橘はこの短い時間で、今日何度目か分からないくらい立ち止まらされていた。


「先生」


 ひまりが鞄を持ち直しながら言う。


「今日は保健室にいて正解でしたよ」


「そうですか」


「うん。教室でその顔だと、たぶんもっとめんどくさかったので」


「評価が雑です」


「でも合ってます」


 ゆらが即座に言う。


 ひまりは「でしょ」と満足そうに頷いた。


 その連携が、今日は少しだけ腹立たしい。


「白坂さん、処置終わりましたよ」


 藤崎が言う。


「今日は水仕事とか、あまりしみることしないでくださいね」


「分かりました」


「天宮さんは?」


「え、私は元気です」


「そうじゃなくて」


 藤崎は笑う。


「付き添い、おつかれさまでした」


 その一言だけで、ひまりが少しだけ目を丸くした。


 雑に騒いでいた子どもが、ふっと静かになる瞬間がある。

 ああいうのを自然に作れる人なのだろう。


「……どうも」


 ひまりは珍しく小さな声でそう言った。


 二人が先に保健室を出る。


 扉の向こうで、すぐにひまりの声が小さく漏れた。


「ゆら、あの人ちょっと強くない?」

「強いよ」

「やだなあ」

「何が?」

「なんか、先生が普通に喋ってたし」


 そこから先は、足音と一緒に遠ざかっていった。


 橘は何とも言えない気分で、その扉を見た。


「人気ですね」


 藤崎が言う。


「そういう話では」


「違います?」


 違う、と即答しきれないのが面倒だった。


「……観察されているだけです」


「それ、かなり見られてるってことですよ」


 藤崎は立ち上がり、使った器具を片づけ始める。


「子どもって、興味のない大人のこと、そこまで見ませんし」


 橘は返事をしなかった。


 したくなかったのか、できなかったのか、自分でもよく分からない。


「橘先生」


「はい」


「また五分休みに来てもいいですよ」


「倒れていなくても?」


「むしろ、倒れる前に」


 藤崎は当たり前みたいにそう言う。


 その“当たり前”が、自分の中にはまだない。


「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」


 やわらかい声だった。


 慰めというより、少しだけ道をずらされる感じがする。


 橘は立ち上がった。


「……覚えておきます」


「忘れても、また言います」


 それは少しだけ反則な返し方だった。


 橘は小さく頭を下げ、保健室のドアへ向かう。


 廊下へ出る直前、振り返ると、藤崎はいつもの穏やかな顔でこちらを見ていた。


 ただ、その穏やかさの中にあるものを、まだうまく名前にできない。


 優しいだけではない。

 甘いだけでもない。


 たぶんあの人は、橘が思っているよりずっと、橘の正しさを信用していない。


 そして、それが少しだけ気になる時点で、たぶんもう遅い。


 保健室のドアを閉める。


 廊下の空気は、また学校の匂いがした。

 けれどさっきまでより、ほんの少しだけ足取りが軽い。


 その代わり、別の意味で面倒なものが増えた気もする。


「……なんなんだ、あの人は」


 独り言に答える者はいない。


 ただ、答えが分からないまま気になる相手というのは、思ったより厄介らしかった。

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