第6話 ネットワーク障害
「先生、全部落ちてます」
登校直後、天宮ひまりは端末画面を見たまま、妙に楽しそうにそう言った。
「言い方を考えてください」
「でも落ちてますよ?」
それはその通りだった。
児童用端末は教材配信画面の手前で止まり、認証エラーを繰り返している。
教卓側の担任端末も出欠システムへ入れない。
教室前方の共有表示は真っ黒なままだ。
五年一組の朝は、開始三分で雑にざわつき始めていた。
「え、今日テスト配信じゃなかった?」
「連絡帳も開けない」
「先生、これ私のせいじゃないですよね?」
「最後のは最初から違うと思います」
橘理は自分の端末を一度閉じ、もう一度だけ認証を試した。
だめだ。
ローカル起動までは入る。
だが学習基盤との同期で止まる。
教室だけではない気がした。
廊下の向こうでも、すでに別のクラスのざわめきが広がっている。
いつもなら静かな朝の校舎が、今日は早い時間から妙にうるさい。
ゆらが頬杖をついたまま、眠そうに言う。
「学校全体っぽいね」
「その可能性は高いです」
「じゃあ、先生の最適化も今日はいったん死んだ感じ?」
「死んではいません」
「でも、だいぶ瀕死では」
「語彙が悪いですね」
そこへ、廊下を走る足音が近づいてきた。
若手教師の神代玲が、珍しく本気で焦った顔のまま教室の前に現れる。
「橘先生、ちょっと職員室来てもらえますか」
「何が起きています」
「教材配信も出欠も、保護者連絡網も全部だめです。ICT担当の先生が、前職そっちの人に来てほしいって」
橘は一瞬だけ教室を見回した。
こういうときに担任が離れるのは本来良くない。
だが、学校全体が止まりかけているなら話は別だ。
「五年一組、端末は閉じてください。紙の連絡帳を出して、静かに待機です」
「えー」
「今は再起動も禁止です。認証要求を増やすだけなので」
その一言だけで、神代が「それだ」と小さく反応した。
橘は教室を出る。
背後から、ひまりの声が飛んだ。
「先生、今日だけちょっと本職っぽいです!」
「今日だけ、は余計です」
そのすぐあとで、ゆらがぼそりと続ける。
「でも、ちょっと分かる」
そういうのは聞こえないふりをしたほうがいい。
橘はそう判断して、歩幅だけ少し速めた。
職員室は、思った以上にひどかった。
普段は静かなはずの朝が、今日は電話の音と足音と短い悲鳴みたいな声で埋まっている。
「出欠まだ入れられません!」
「保健室の記録も止まってます」
「印刷は通るのにクラウドだけ死んでる?」
机の間を抜けながら、橘は状況を聞き取っていく。
「児童端末だけですか」
「いや、職員端末もです」
ICT担当の教師が振り向く。
「校内印刷は一部通ります。でも教育クラウドが全部認証エラーで」
「ローカル資産が見えていて、学習基盤だけ全滅なら、校内無線じゃありません」
橘はすぐ言った。
「認証系か名前解決です。昨日、配信側かフィルタ側で更新ありませんでしたか」
ICT担当がはっとした顔になる。
「夜間メンテは入ってます。業者が認証ゲートウェイの更新を」
「切り戻し候補です。まず管理用回線から認証ホストへ直接疎通確認を。各クラスには端末再起動を止めてください。今増やすと余計に詰まります」
神代が横で素直に感心した顔をした。
「橘先生、そういうの分かるんですね」
「前職で散々やりました」
正確には、やらされた、に近い。
学校や自治体向けの学習基盤は、一見すると整って見える。
だが朝の同時接続に弱い構成や、更新タイミングが最悪な運用も珍しくない。
止まると教材も出欠も連絡もまとめて死ぬ。
何度も見た光景だった。
ICT担当が業者へ回線をつなぐ。
スピーカー越しの声はやけに落ち着いていた。
『現在、状況を確認しております』
「確認より先に、昨夜の更新履歴を見てください」
橘が言うと、職員室の空気が少しだけ変わった。
教師が業者へあの調子で話すことに、何人かが驚いている。
『どちら様でしょうか』
「五年一組担任の橘です。以前、学校案件の導入支援をやっていました。校内端末全部が同時に認証で落ちていて、ローカル側は一部生きているなら、現場で端末を疑っても無駄です。更新箇所と切り戻し可否を先にください」
ほんの一瞬、電話の向こうが黙った。
それからキーボード音が入る。
『……認証中継側で、今朝の自動反映後に異常ログが出ています』
「やはりそこです。二次ノードへ逃がせますか」
『暫定であれば可能です』
「お願いします。児童端末は完全復旧まで安定しないはずなので、授業は紙へ切り替えたほうがいいです」
ICT担当がすぐにメモを取り始める。
神代は半分青ざめたまま言った。
「うわ……今日の授業、全部配信前提なんですけど」
「紙でやってください」
「言うのは簡単なんですよ」
「止まったときの代替手段を持つのも設計です」
「それ昨日までに言ってほしかったです」
その返しだけは正しかった。
橘は何も言わず、次の確認へ移る。
一時間目の開始ぎりぎりで、職員用の一部機能だけは戻った。
出欠の仮入力。
最低限の校内連絡。
ただし児童端末は不安定なままで、教材配信はまともに使えない。
完全復旧にはまだ時間がかかる。
橘が教室へ戻ると、五年一組は案の定、朝より少し散らかっていた。
悪い意味で活気がある。
「先生、どうでした?」
ひまりが身を乗り出す。
「校内無線ではなく、認証基盤側の障害です。暫定対応は進んでいますが、端末授業は無理です」
「うわ、本当に本職っぽい」
「さっきからそこに感心しすぎです」
「だって今日、説明が速いし」
「普段も速いです」
「いや、今日はちゃんと伝わるほうの速さ」
「聞こえています」
教室に笑いが起きる。
ゆらがその横で、ちらりと黒板を見た。
「で、授業は?」
「紙でやります」
「急に昭和」
「白坂さんのたとえは雑です」
「先生も今日ずっと雑に忙しいし」
それも否定しきれなかった。
橘は紙のプリントを配る。
本来なら端末上で個別最適化された問題が出るはずだった内容を、平均的な難易度へ落として作り直した簡易版だ。
「今日は国語の読解をやります。端末は使えないので、本文を読んで」
「先生」
ひまりが手を挙げる。
「なんでしょう」
「なんか、端末ないと先生ちょっと弱くないですか?」
率直すぎる一言に、教室がざわっと笑う。
橘は反射的に言い返しかけて、やめた。
完全に否定できない。
「弱い、ではありません」
「でもちょっと困ってますよね」
「多少は」
「認めた」
「障害対応の後で余裕がないだけです」
「それ、困ってる人の言い方では?」
また笑いが起きる。
空気は悪くない。
だが、落ち着いてもいない。
子どもたちは朝からのトラブルで、妙に気分が浮いている。
こういうときに授業を始めるには、ただ内容を置くだけでは足りない。
橘は黒板へ要点を書きながら、それを半分理解し始めていた。
「本文の状況と、登場人物の感情を」
そこまで言ったところで、後ろの席から「先生、それ今日の学校と同じじゃないですか」と声が飛ぶ。
別の誰かが笑う。
流れが切れる。
橘は戻そうとする。
「共通点はあるかもしれませんが、今は課題に集中してください」
言葉としては正しい。
だが、それだけだった。
教室の熱は、うまく掴めないまま漂っている。
そのとき、教室の後ろの扉が開いた。
「おい、橘」
佐伯恒一だった。
片手に丸めたプリントの束を持ち、いかにも自分の教室から抜けてきた顔をしている。
「紙、余ってるぞ。隣が思ったより静かで気味悪いから、少し分けてやる」
「助かります」
橘が受け取ろうとすると、佐伯はその前に教室を見回した。
「なんだ、こっちは機械止まっただけで頭まで止まってるのか」
数人が吹き出す。
言い方は雑だ。
でも、雑なのに空気が悪くならない。
「よし。せっかくだ」
佐伯は勝手に黒板の端を使った。
「今から俺が一回だけ文章読む。聞いた内容を、班で三十秒で再現しろ。端末なし、検索なし、先生の顔も見なくていい。耳と頭だけでやれ」
「え、なにそれ」
「ゲーム?」
「ちょっと面白そう」
さっきまで散っていた声が、一気に前向きなざわめきへ変わる。
佐伯は構わず、教科書の一節を大げさなくらい調子よく読み上げた。
読み終わるや否や、班ごとの小声の相談が一斉に始まる。
「“青い”だっけ?」
「違う、“薄い”」
「いや、そこじゃなくて先に人物」
教室が動き出す。
しかも無理がない。
子どもたちの熱が、障害のざわつきからそのまま授業の側へ流れ込んでいく。
橘は思わず、その光景を見てしまった。
佐伯は別にすごいことを言っていない。
高度な理論も、精密な設計もない。
ただ今の空気に合わせて、子どもの熱を別の方向へ向けただけだ。
それだけで、教室はちゃんと回る。
「ほら、担任」
佐伯が小さく顎で前を示す。
「続きはお前がやれ」
橘は一拍遅れて頷いた。
「……では、今の再現で出た違いを見ていきます。どの情報が残って、どこが抜けたか」
さっきより声が届く。
子どもたちも返してくる。
授業はようやく、授業らしくなった。
だが、それを始めたのが自分ではなかったことを、橘ははっきり自覚していた。
昼前には、校内連絡網と教材配信の一部が復旧した。
午後には児童端末も、完全ではないがだいぶ安定する。
職員室の空気もようやく落ち着き始め、ICT担当が何度も頭を下げてきた。
「橘先生、本当に助かりました。あそこで切り分けてもらえなかったら、たぶん現場全体で端末再起動祭りになってました」
「それは避けられて良かったです」
神代も疲れ切った顔で椅子に沈みながら言う。
「正直、今日の橘先生ちょっとかっこよかったです」
「男の先生に言われても嬉しくありません」
「そこは喜んでくださいよ」
そう言われても、達成感はあまりなかった。
確かに障害の当たりは引けた。
業者との会話も通じた。
学校全体で見れば、かなり役に立ったほうだろう。
けれど、一時間目の教室に戻ったときの手触りだけが、ずっと引っかかっていた。
システムが止まったとき、何をすべきかは分かる。
だが子どもの空気が止まりかけたとき、どう戻すかはまだ分からない。
その差が、思った以上に大きい。
放課後。
橘が空になったマグカップを洗っていると、後ろから佐伯の声がした。
「朝は助かった」
振り向くと、佐伯はいつもの無愛想な顔で立っていた。
「いえ。現場判断が早かったのは佐伯先生のほうです」
「そりゃどうも」
佐伯はそこで少しだけ笑った。
「止まったもんを直せるのは立派だよ」
その言い方は、珍しく素直だった。
だが、次に来る言葉も何となく予想がつく。
「けどな」
やはり、と思う。
「教室ってのは、止めないのも仕事なんだよ」
橘は返事をしなかった。
反論できることはある。
いや、あるような気もした。
ただ、今日の一時間目を思い出すと、そのどれも薄い。
「……覚えておきます」
「忘れてもいい。次に困れば思い出す」
佐伯はそれだけ言って去っていく。
厳しいのか雑なのか、最後まで分かりにくい。
そのあと、橘はようやく五年一組へ戻った。
教室にはもう残り数人しかいない。
ひまりとゆらは、なぜか帰る直前まで残っていた。
「先生」
ひまりが振り向く。
「なんでしょう」
「今日、ほんとに頼もしかったです」
珍しく真っ直ぐな言い方だったので、橘は少しだけ面食らった。
「それはどうも」
「授業以外は」
「余計な一言が早いですね」
「だってそこ大事じゃないですか」
ひまりは悪びれずに言う。
たぶん本気で褒めてもいるし、本気で刺してもいる。
ゆらが鞄を肩にかけながら、静かに続けた。
「でもまあ、今日はほんとに本職っぽかったよ」
「今日だけ、みたいな言い方ですね」
「そこはひまりと同じ」
「合わせなくて結構です」
ゆらは少しだけ目を細めた。
「ただ、止まったシステム戻すより、止まった空気戻すほうが遅かったね」
さらりとした言い方なのに、きちんと痛い。
橘は一瞬だけ言葉を失った。
それを見て、ひまりが妙に満足そうに笑う。
「じゃ、先生。今日はちょっとだけ先生でした」
「基準が厳しいですね」
「先生、まだ伸びしろ多いんで」
「前向きなのか分かりません」
「通じないのに返してくれるの、先生そういうとこですよ」
結局最後まで調子がいい。
二人はそのまま教室を出ていく。
廊下の向こうで、すぐにまた雑な言い合いが始まった。
「ゆら、最後ちょっと言いすぎじゃない?」
「ひまりも同じこと言ってたけど」
「私は可愛げあったし」
「自分で言うんだ」
声が遠ざかる。
誰もいなくなった教室で、橘はひとり立ち尽くした。
障害は、ほぼ復旧した。
学校全体で見れば、今日はちゃんと役に立った。
それでも胸の奥に残っているのは、達成感より、別の種類の疲れだった。
直せるものは直せる。
だが、それだけでは足りない。
その事実だけが、朝より少し重くなって残っている。
橘は小さく息を吐いて、教卓の端に手をついた。
「……疲れたな」
独り言のまま終えるつもりだった。
けれど本当に少しだけ、座ってから動きたくなった。
保健室で五分だけ休むか。
そう考えてしまった時点で、たぶん思ったより消耗している。
橘は端末のない静かな教室を見回し、それからゆっくり廊下へ出た。
今日の学校は、朝よりずっと静かだった。
その静けさが、少しも勝った気にさせないまま。




