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第5話 生活最適化

「先生、それ一位あります?」


 天宮ひまりは、配られたプリントを見た瞬間にそう言った。


 朝のホームルーム。

 橘理が教卓の上に置いたのは、今週限定の記録シートだった。


 生活最適化シート。


 睡眠時間。

 朝食内容。

 運動量。

 家庭学習時間。

 体調自己評価。


 昨日の「空気を読む疲れ」を経て、橘なりに考えた結果だった。

 教室全体に薄く広がる疲れや気まずさは、感情の問題である前に、生活リズムの乱れから来ている部分もあるかもしれない。


 ならば、まず土台から整えるべきだ。


 その発想自体は、橘にとってごく自然だった。


「順位はありません」


 即答すると、ひまりは露骨に嫌そうな顔をした。


「えー。じゃあ面白さ半分以下じゃないですか」


「面白さで配っていません」


「でも記録するなら勝ち負けあったほうがやる気出ません?」


「出し方を間違えています」


「先生って、そういうとこありますよね」


「どういうところですか」


「楽しそうな入り口を自分から潰すところです」


 教室に笑いが起きる。


 橘は溜息をついた。


「これは競争ではありません。自分の状態を把握するためのものです」


「把握してどうするんですか」


「生活を整えます」


「整ったらどうなるんですか」


「疲れにくくなります」


「じゃあつまり、強くなるってことですよね?」


「なぜそうなるんです」


「だって疲れないほうが勝つじゃないですか」


「何に」


「学校生活に」


 雑な理屈なのに、一瞬だけ妙な説得力があった。


 ひまりはもう自分のシートを覗き込んでいる。


「睡眠時間って、何時間から強い判定ですか」


「強い判定はありません」


「え、あるでしょ普通」


「ありません」


「先生、人生の楽しみ方へたくないですか?」


「配布三分でそこまで言われたくないですね」


 また笑いが起きる。


 その横で、ゆらがプリントを指先でぱらりと揺らした。


「生活って、最適化しようとすると急に面倒になるよね」


「白坂さんは、何か懸念がありますか」


「懸念っていうか」


 ゆらは眠そうなまま言う。


「ちゃんとし始めると、それをちゃんと続けないといけなくなるじゃん」


「続けることは大事です」


「うん。でも、それがもう面倒」


「出た、ゆらの省エネ思想」


 ひまりがすぐ笑う。


「負けますよ?」


「何に」


「学校生活に」


「別に勝ちたくないし」


「敗北主義だ」


「朝からうるさいな」


 そのやり取りを聞きながら、橘は説明を続けた。


「重要なのは完璧に埋めることではありません。自分がどういう生活をしたときに調子が良いのか、傾向を見ることです」


「完璧に埋めなくていいんですか?」


 ひまりが聞く。


「はい」


「ほんとに?」


「ほんとにです」


「ふーん……」


 その“ふーん”は、橘の意図を理解した人の声ではなかった。


 何かよからぬことを思いついている顔だ。


 橘は薄く嫌な予感を覚えたが、その時点ではまだ止める理由がなかった。


 翌朝。


「先生、見てください」


 教室に入った瞬間、ひまりがすでに立っていた。


 妙に目が冴えている。

 そして妙に胸を張っている。


「何をですか」


「今日の私、かなり最適化されてます」


「知りません」


「睡眠七時間四十分、朝食はたんぱく質・炭水化物・乳製品をバランスよく摂取、登校前に二千歩追加、宿題も昨日のうちに完了です」


「報告が細かいですね」


「つまり最強です」


「なぜそうなるんです」


「見れば分かるじゃないですか」


 ひまりは自分のシートを見せつけてくる。

 確かに綺麗だ。記入漏れもない。数値も整っている。


 橘としては本来、こういう使い方を想定していた。

 していたのだが、どうにも嫌な予感が消えない。


「他の人に強要しないでくださいね」


「しませんよ」


 ひまりはにっこり笑った。


 その十分後、もうしていた。


「え、朝ごはんパンだけ?」


 教室中ほどで、ひまりの声が響く。


「それで一時間目もつんですか?」


「別にいつもそうだけど」


「いやいや、生活最適化シート見ました? 今日はもう敗北確定ですよ」


「何の?」


「学校生活の」


「まだそのルール生きてたんだ」


 ゆらが横から冷たく言う。


 ひまりは構わず別方向へ向く。


「え、昨日十一時半まで起きてたの? それもう普通に危険じゃないですか?」


「ゲームしてただけ」


「だめだめだめ。睡眠敗北者です」


「言い方」


 教室に笑いが起きる。


 笑いではある。

 だが、昨日までとは別種のざわつきが混ざっていた。


 ひまりのノリは基本的に強い。

 その強さは場を回すこともあるし、雑に誰かを下へ置くこともある。


 今日は明らかに後者へ傾き始めていた。


「天宮さん」


 橘は早めに声をかけた。


「生活シートは自己管理のためのものです。他者評価には使いません」


「してませんよ?」


「今していました」


「いや、軽く事実確認しただけです」


「その“軽く”で済まないから言っています」


「でも、ちゃんとしたほうがよくないですか?」


「それはそうです」


「ですよね」


「だからといって、他人へ優劣をつけていい理由にはなりません」


「優劣じゃないです。現状把握です」


「言い換えが雑です」


「先生にだけは言われたくないんですけど」


 笑いが起きる。


 ひまりは怒られているのに、なぜかやや嬉しそうだった。

 多分こういうやり取りそのものがもうゲームになっている。


 橘は頭が痛くなった。


 その日の昼休みには、事態が少し進んでいた。


 黒板の隅に、誰が書いたとも知れない簡易表ができていたのである。


 睡眠。

 朝食。

 歩数。

 やる気。


 その横に丸や三角が並んでいる。


「誰がやりましたか」


 橘が低く訊くと、教室中の視線が一斉にひまりへ向いた。


 ひまりは一拍だけ耐えたあと、素直に手を挙げた。


「いや、でもこれ便利じゃないですか」


「便利ではありません」


「可視化ですよ?」


「集団圧力です」


「そこまで言う?」


「言います」


 橘は黒板の表を消した。


 チョークの粉が薄く舞う。


 ひまりは不満そうに唇を尖らせた。


「先生、せっかくやる気ある側の芽を摘むタイプですよね」


「芽の方向が間違っています」


「方向修正して育てればよくないですか」


「もう少し静かに育ってください」


「植物扱いされた」


 また笑いが起きる。


 その横で、ゆらが机に頬杖をついていた。


「健康にしようとしてるのに、クラスの治安悪くなってるのちょっと面白いね」


「面白くありません」


「私はちょっと面白い」


「白坂さんは止めないんですか」


「止めてるよ」


「全然止まってないですけど」


「ひまり、向いてるから」


「何が」


「そういうの本気でやって事故るの」


 ひまりが眉をひそめる。


「事故ってませんし」


「もうしてるよ」


「してないって」


 言い返しながら、ひまりはあくびを噛み殺した。


 橘は見逃さなかった。


「昨夜、何時に寝ましたか」


「十時」


「十分です」


「いや、でも歩数足りなかったから、ちょっと家の中うろうろして」


「何分」


「……四十分くらい?」


「十分ではありません」


「でもシート綺麗にしたかったし」


 言いながら、ひまりはもう一度小さくあくびをした。


 橘は額を押さえた。


 なるほど。

 正しい生活習慣を整えるために、余計な努力を積み上げて逆に疲れている。


 最悪の使い方ではない。

 だが、かなり想定通りでもない。


 三時間目の途中から、ひまりは明らかにおかしくなった。


 普段なら誰より早く手を挙げるのに、今日は反応が半拍遅い。

 ノートも綺麗だが、途中から字が少し傾く。


「天宮さん、聞いていますか」


「……聞いてます」


「今、何の話ですか」


「えーと」


 答えが出ない。


 その様子に、周囲が少しざわつく。


「もしかして最適化失敗?」

「寝ろよ」

「歩きすぎなんじゃない?」


 ひまりは顔を上げた。


「失敗じゃないし。これは過程だから」


「過程で寝そうになってるけど」


「うるさ」


 少しだけ語気が荒い。


 自分でも余裕がないと分かっている顔だった。


 橘は授業を区切った。


「天宮さん、少し水を飲んできてください」


「平気です」


「平気そうには見えません」


「平気じゃなく見えても、数値は整ってるんですけど」


 そこで教室の何人かが吹き出した。


 ひまりはますます不機嫌になる。


「笑うとこですか?」


「天宮さん」


「だってほんとじゃないですか。ちゃんと寝たし、ちゃんと食べたし、歩いたし、記録もしたし」


 そこでひまりは机に突っ伏しそうになり、寸前で持ちこたえた。


「……なのに、なんでこんな眠いんですか」


 その言い方には、苛立ちより困惑が強かった。


 橘はそこで、ようやく自分の設計ミスを認めた。


「継続性の説明が不足していました」


「不足のレベルじゃなくないですか?」


 ゆらが横から言う。


「健康にしようとして不健康になってるの、わりと本質かも」


「本質にしないで」


 ひまりは机に頬をつけたまま言った。


「最適化って、もっと楽になるやつじゃないんですか……」


「本来はそうです」


「全然そうじゃないです……」


「やり方を間違えました」


「先生が?」


「両方です」


 橘がそう言うと、ひまりは机に伏せたまま小さく笑った。


「珍しく認めた」


「珍しく、は余計です」


「でも、ちょっとマシ」


 その一言だけは、少し眠そうで、少し素直だった。


 放課後。


 橘は生活最適化シートの運用ルールを修正した。


 数値の競争禁止。

 他人への評価禁止。

 完璧記録の推奨禁止。

 まず一週間は“だいたいでよい”に変更。


 教室前方の表示にも、その注意事項を簡潔に出す。


「先生、それもう最適化じゃなくないですか?」


 帰り支度をしながら、ひまりが半目で言った。


「暴走対策です」


「私のせいみたいじゃないですか」


「違うんですか」


「半分くらい」


「便利な言葉ですね」


 橘が返すと、ゆらが小さく笑う。


「最適化、向いてる子ほど事故るよね」


「喜ばないで」


「喜んではないよ」


「目が喜んでる」


「眠そうなだけ」


 ひまりは鞄を持ち上げる。

 そして教室の出口まで行ってから、ふらりと振り向いた。


「先生」


「なんでしょう」


「今日はもう早寝しません」


「なぜです」


「眠いからです」


 意味が分からない。


 橘が答えに詰まっていると、ゆらが即座に言った。


「もうだめだ」


「だめじゃないし」


「だめだよ、それは」


「でも眠いんだからしょうがなくない?」


「早く寝る理由にしかなってない」


 ようやくいつもの調子に近い言い合いが始まる。


 それを聞きながら、橘は小さく息を吐いた。


 正しい習慣は正しい。

 だが、子どもは正しさをすぐゲームにする。


 そしてゲームになった瞬間、本来の目的は簡単に捻じ曲がる。


 シート一枚で生活を整えるつもりだった。

 だが実際に起きたのは、ひまりの奇行と、少しだけ疲れた教室と、妙に綺麗な記録だけだ。


 橘は教卓の上に残った生活シートをまとめる。


 見えるようにすること。

 測れるようにすること。

 それ自体はやはり間違っていない。


 ただ、人間は見えた途端に、別の壊れ方をする。


 そこまで込みで設計しないといけないのだとしたら。


「……面倒だな」


 独り言に答える者はいない。


 ただ廊下の向こうでは、まだひまりとゆらの声が続いていた。


「だから今日はもう最適化しない!」

「その宣言がもう最適化に振り回されてるよ」

「うるさーい!」


 その雑なやり取りだけが、少し救いみたいに聞こえた。

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