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第2話 AI評価のズレ

 翌朝、橘理は職員室でコーヒーより先にログを開いた。


 五年一組、前日分授業記録。

 理解度推移、良好。

 授業テンポ適合率、高。

 全体満足度、基準値以上。


 数字だけ見れば、何も問題はない。


 なのに、昨日の教室には引っかかりが残った。


 ひまりの雑な勢い。

 ゆらの妙に的確なズラし方。

 そして、こちらの正しさがなぜかそのまま主導権にならない違和感。


 橘は一人ずつのログ詳細を開いた。


 その中で、ひとつだけ目に留まる名前がある。


 松井悠斗。

 感情安定性、低下傾向。

 参加度、基準未達。

 視線逸脱率、高め。


「……?」


 昨日の授業中、そんなに問題のある様子ではなかったはずだ。


 少なくとも目立っていた記憶はない。


 端末の右側には、システムからの推奨対応が機械的に表示されていた。


 要観察。

 早期声かけ推奨。

 心理的離脱兆候に注意。


 この種の表示を放置して、後で悪化した例を橘は前職でも嫌というほど見てきた。

 小さな異常を「気のせい」で流した結果、後から誰も責任を取れなくなる。


 だから、見えたものは拾うべきだ。


「橘先生」


 不意に横から声がして、橘は顔を上げた。


 若手教師の神代玲が、自分の端末を抱えたまま立っていた。


「朝からログですか。真面目ですね」


「前日の確認は必要です」


「まあ、分かりますけど。最近のシステム、感情検知の精度もかなり上がってますし。迷ったら拾ったほうが安全ですよ」


 神代は当然のように言う。


 橘も、その意見自体には異論がなかった。


「放置のほうがリスクですから」


「ですよね。教師って、気づかなかったじゃ済まされないので」


 その言い方が少しだけ刺さる。


 気づくための仕組みがあるなら、使わない理由はない。

 橘はそう思い直し、端末を閉じた。


 今日の一時間目までに、軽く確認しておく。


 それだけの話だ。


 五年一組の朝は、相変わらず雑にうるさい。


 誰かがランドセルを机に引っかけ、誰かが端末の充電を忘れ、誰かが昨日の続きみたいな顔で喋っている。


 その中心にいるのは、やはり天宮ひまりだった。


「先生、おはようございます。今日の私は昨日より三ポイントくらい賢いです」


「根拠は」


「起きて五分で支度できました」


「雑すぎます」


「でも速いですよ?」


「速さだけで賢さは測れません」


「出た。昨日からずっとそれ」


 ひまりが笑う。


 その少し後ろで、白坂ゆらが机に鞄を置きながらぼそりと呟いた。


「起きて五分で支度した人って、たいてい何か忘れてるけど」


「してませんし」


「ほんとに?」


「……筆箱はあります」


「答えになってない」


 朝からテンポがいい。

 いや、良すぎる。


 橘は出席確認を進めながら、教室の後方へ視線を流した。


 松井悠斗は、特に元気がないようには見えなかった。

 静かなタイプではあるが、俯いてもいないし、顔色も悪くない。


 ログの数値だけが浮いている。


 橘は帰りの会まで待つ案も一瞬考えたが、結局一時間目の終わりに声をかけることにした。

 早めの確認は悪いことではない。むしろそのためのシステムだ。


 一時間目は国語だった。


 昨日よりは、橘も少しだけ教室の呼吸に気を配って進めたつもりだった。

 説明を切る位置。

 ひまりを前に出しすぎないこと。

 ゆらに突っ込まれそうな曖昧さを減らすこと。


 表面上は、それなりにうまくいった。


 授業終了のチャイムが鳴り、端末の表示が休止モードへ落ちていく。


「松井くん、少しいいですか」


 声をかけると、教室の空気がほんの少しだけ止まった。


 大げさなものではない。

 だが、子どもはこういう気配に敏感だ。


 松井は椅子から半分だけ腰を浮かせたまま、「え」と言った。


「最近、授業に集中できていない原因はありますか」


「……え?」


「少し参加度が落ちているようなので、確認です」


 松井は目を瞬かせる。


 予想していた反応ではなかったのか、数秒だけ完全に固まった。


「別に、ないです」


 短い返答だった。


 橘は続ける。


「無理に今すぐ話さなくても構いません。ただ、何か困りごとがあるなら早めに」


「いや、ほんとに別に……」


「昨日も視線の逸脱が多くて」


「しせん?」


 そこまで言って、教室のあちこちから微妙なざわつきが起きた。


「なにそれ」

「見られてんの?」

「こわ」


 まずい、と思ったときにはもう少し遅い。


 ひまりが机に肘をついて、松井のほうを見た。


「え、でも普通に元気そうじゃないですか?」


「天宮さん」


「いや、だってそう見えるし。困ってる感じしないですよ?」


 悪意はない。

 ないからこそ厄介だ。


 松井はますます困った顔になる。


 橘は場を戻そうとした。


「見た目だけでは分からないこともあります」


「じゃあ、ログだと分かるんですか」


 横から、ゆらの声が入った。


 橘がそちらを見ると、ゆらは頬杖をついたまま、眠そうな顔でこちらを見ていた。


「分かる部分はあります」


「へえ」


 気のない返事。

 だが、そのまま終わらない感じがある。


 橘は一度、松井へ向き直った。


「昨日、授業中に何か気になることがありましたか」


「……あの」


 松井がようやく口を開く。


「別に、集中してなかったわけじゃなくて」


「はい」


「隣の佐原が、最初ログインできてなくて」


 教室の空気が少し変わった。


 松井は言葉を選びながら続ける。


「その、ずっと困ってたから。先生まだ前で説明してたし、ちょっとだけ見てただけで」


「ちょっとだけじゃなかったよ」


 ぽつりと、ひまりが言った。


 全員がそちらを見る。


「けっこうずっとやってましたよね。だから昨日、松井ぜんぜん前見てなかったし」


「天宮さん」


「いや、でもほんとじゃないですか? 優しいのは優しいけど、自分の授業聞けてないなら微妙じゃないですか?」


 教室の空気がまた少し冷えた。


 ひまりは自分では普通のことを言っているつもりなのだろう。

 実際、理屈だけ見れば間違ってはいない。


 ただ、今それを言うと、善意が損か得かみたいな話になる。


「普通に損じゃん」


 ひまりが追撃するように言った。


「手伝って評価下がるの、最悪じゃないですか」


「天宮さん、言い方を考えてください」


「え、でもほんとにそうじゃないですか? じゃあ助けないほうがよかったってことになるし」


「そういう話では」


「じゃあどういう話ですか」


 その問いに、橘は一瞬だけ詰まった。


 システムの判定は、授業参加の面では正しい。

 だが松井の行動自体が問題だったわけではない。

 両方が同時に成立している。


 そこをどう言葉にすればいいのか、一拍だけ遅れた。


 ゆらが、机に頬をつけたまま口を開く。


「困ってるならズレてるけど」


「え?」


 ひまりが振り向く。


 ゆらは松井ではなく、橘を見ていた。


「松井は困ってないんでしょ」


「……うん」


 松井が小さく答える。


「佐原が詰まってるの、そのままにするほうが気まずかったし」


「じゃあ、ログが困ってるだけじゃん」


 ゆらはそう言ってから、少しだけ首を傾げた。


「そういうのも間違いって言い切れる?」


 教室が静かになる。


 橘は答えを選んだ。


「行動の背景次第です。ただ、授業への参加が落ちていたこと自体は事実です」


「でも、それって松井が悪いって話ではなくないですか」


 今度は、ひまりではなく別の児童が言った。


 たぶんクラス全体が、どこかで引っかかっている。


 橘は慎重に言葉を整える。


「悪い、という話ではありません。データに異常があるなら、その理由を確認する必要があるということです」


「確認って」


 ゆらが言う。


「本人が別に困ってないのに?」


「困りごとは本人が自覚していない場合もあります」


「まあ、それはあるかもね」


 ゆらはあっさり一度だけ引いた。

 そのまま引き下がるのかと思ったら、続けて言った。


「でも、困ってるかどうかより先に、数字が変だったから声かけたんでしょ」


「それは」


「便利だよね、そういうの」


 声は静かだった。

 責めているようにも、感心しているようにも聞こえる曖昧さで。


「責任を数字に置けるから」


 ひまりが「うわ」と小さく漏らす。


 橘は思わず、ゆらを見た。


 その一言は、予想より深く刺さった。


 責任を数字に置く。


 そんなつもりはなかった。

 少なくとも、橘自身は善意で動いている。


 だが善意と、そう見えることは別だ。


 松井はもう困った顔を通り越して、完全に「早く終わってほしい」顔になっていた。


 橘はそこでようやく、介入のタイミングそのものが少しずれていたと気づく。


「……分かりました。この件は、いったんここまでにします」


 教室の空気が、わずかにほどけた。


「松井くん、確認ありがとう。佐原さんのフォローをしていたこと自体を問題視しているわけではありません」


「はい」


「ただ、授業中に同じことが続くなら、こちらでも対応を考えます」


「……はい」


 すっきりした返事ではない。


 だが、これ以上この場で掘るのは逆効果だ。


 休み時間が一気に戻ってきたみたいに、教室の音が再開する。


 ひまりはまだ納得していない顔だったが、ゆらはもうこの件に興味をなくしたみたいに窓の外を見ていた。


 放課後、橘は職員室で再びログを開いた。


 松井悠斗の評価欄は、仮保留に変更してある。


 判断自体は間違っていない、と思う。

 少なくとも、完全に見逃すよりはいい。


 だが、あの場で教室に残った空気は、ログのどこにも記録されていなかった。


 松井の戸惑い。

 ひまりの無邪気な乱暴さ。

 ゆらの、責めるでもなく逃がしもしない言葉。


 端末の画面には、整った数字だけが並んでいる。


「先生」


 振り向くと、ちょうど帰るところらしいゆらが職員室の入り口に立っていた。

 ひまりの姿はない。先に帰ったのだろう。


「どうしました」


「別に。通りかかっただけ」


「用がないなら、ここは」


「先生ってさ」


 ゆらは話を切らずに入ってきた。


「数字、好きだよね」


「好き嫌いの話ではありません。判断材料です」


「うん」


 それを否定せず、ゆらは少しだけ考える顔をした。


「便利だけど」


 そして、昨日より少しだけ近い距離で言う。


「責任も押しつけやすいよね。数字って」


 橘は返事をしなかった。


 できなかった、のほうが近い。


 ゆらは特に答えを待つこともなく、職員室のドアへ戻る。


「じゃ、おつかれ」


「白坂さん」


「なに」


「今日の件、私は」


 言葉が続かない。


 正しかったと言いたいのか。

 正しくなかったと言いたいのか。

 自分でもまだ、はっきりしない。


 ゆらは少しだけ目を細めた。


「まあ、間違ってはないんじゃない」


 いつもの、逃がしているのか突き放しているのか分からない言い方だった。


「でも、合ってるとも限らないけど」


 それだけ言って、今度こそ出ていく。


 扉が閉まる。


 職員室の中には、キーボードの音と空調の音だけが残った。


 橘は端末画面へ視線を戻す。


 感情安定性。

 参加度。

 視線逸脱率。


 数字は整っている。

 綺麗だ。

 綺麗すぎるくらいに。


「……なら、もっと精度を上げるしかないか」


 小さく呟いて、松井のログを閉じる。


 文脈を拾いきれないなら、拾える設計に変える。

 今のところ、橘に考えつく答えはそれしかなかった。


 そしてその答えが、まだ少しも揺らいでいないことを、橘自身はまだ知らない。

 ただ、昨日よりわずかに厄介な違和感だけが、胸の奥に残っていた。

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