第10話 教師評価システム
「橘先生、今月の評価もう見ました?」
朝の職員室で、神代玲がやけに明るい声を出した。
その時点で、ろくでもない話だと分かる。
橘理が自席へ着くと、担任端末には未読通知が一件だけ浮かんでいた。
教員定例フィードバック更新。
昨日、子どもの体調とログのズレを考えたばかりだ。
その翌朝にこれが来るのは、あまりにも都合がいい。
「神代先生はもう見たんですか」
「見ましたよ。今回けっこう良くて」
神代は自分の端末を軽く持ち上げる。
「授業効率、改善速度、AI運用遵守率、全部先月より上です」
「そうですか」
「ちゃんと入力して、ちゃんと運用すれば伸びるんですよね。やっぱり」
その“ちゃんと”が二回入る感じが、妙に疲れる。
橘は通知を開いた。
画面に並ぶ項目は、いかにも整っていた。
授業効率。
情緒安定。
クレームリスク。
柔軟対応。
情緒的信頼。
改善速度。
総合評価は、悪くない。
むしろ平均よりは上だ。
前職の感覚で言えば、文句を言うほどではない数字だろう。
それでも、目が止まる項目は最初から決まっていた。
柔軟対応、低め。
情緒的信頼、平均未満。
そして補足コメント欄。
『児童への共感演出不足の可能性』
『入力品質向上で改善余地あり』
『非常時ログ欠損により、緊急対応の再現性評価を保留』
橘は、一瞬だけ画面を閉じかけた。
言い回しが、嫌になるほど見覚えのある種類だった。
可能性。
改善余地。
再現性評価。
前職のレビュー画面とほとんど同じである。
違うのは、相手がサーバではなく子どもになったことと、自分の肩書が教師に変わったことくらいだ。
「ああ、それです」
神代が横から覗き込んできた。
「その“共感演出不足”って、僕も最初出てました」
「演出、ですか」
「言葉悪いですよね。でも要するに、ちゃんと声かけしてログ残せってことです」
神代は気軽に言う。
「僕、今は児童対応のあとテンプレート入れてるんですよ。推奨文面の候補、あるじゃないですか。あれ使うと評価安定します」
橘はゆっくり瞬きをした。
「テンプレートで」
「はい。“気持ちに寄り添いました”“安心感の提供を意識しました”みたいなやつです」
「それで上がるんですか」
「上がりますよ。システム側が拾いやすいので」
拾いやすい。
その言葉が、妙に生々しく耳に残る。
佐伯恒一が、そのやり取りを聞いて鼻で笑った。
「まだ朝だぞ。よくそんなもんで盛り上がれるな」
「佐伯先生は見ないんですか?」
「見たって腹立つだけだろ」
佐伯は自分の湯のみを置いて言う。
「だいたい、授業が回ったかどうかより、打ち込んだかどうか見てる数字なんざ参考程度だ」
「でも管理職は見ますよ」
神代が言う。
「見ればいいさ。俺は子ども見てるから」
それで済ませられるのが、橘には少し羨ましい。
自分はそこまで割り切れない。
数字が出れば、見てしまう。
見れば、改善したくなる。
改善できるはずだと思ってしまう。
それがもう、かなり深いところまで染みついている。
一時間目と二時間目は、表面上いつも通り進んだ。
子どもたちは教師評価システムのことなど知らない。
知る必要もない。
それでも橘の頭の片隅には、朝のコメント欄がずっと残っていた。
共感演出不足。
演出、という単語がとにかく嫌だった。
必要なのは演出ではなく、たぶん実際の信頼のはずだ。
だがシステムの側から見れば、その違いは扱いにくいのかもしれない。
見えるのは記録だけで、空気そのものは項目化しづらい。
分かる。
分かるからこそ、余計に腹が立つ。
昼休み、橘は評価詳細をもう一度開いた。
障害対応履歴の欄に、第6話の日付が残っている。
校内認証障害。
暫定復旧完了。
その下に、機械的な注記が一行だけついていた。
『非常時ログ欠損により、対応品質の十分な検証不可』
直したこと自体には、ほとんど触れられていない。
あるのは、記録が足りなかったという減点だけだ。
「うわ」
気づくと、声が漏れていた。
「何かありました?」
神代がまた反応する。
「ああ、障害対応のやつですか。あれ、緊急時用の別フォームあるんですよ」
「聞いていません」
「メール来てませんでした?」
「障害対応中に確認しろと」
「いやまあ、そこは……」
神代は少しだけ気まずそうに笑う。
「でも、残してないと評価しようがないですから」
その理屈も、分かる。
問題は、分かることと納得できることが違う点だ。
あの日の朝、誰が何を優先すべきだったのか。
端末の前でフォームを探すことではないはずだった。
けれど評価画面の中では、探さなかった側が雑に負ける。
責任の置き場が、きれいに人間へ戻されている。
放課後。
橘は自席で、三つの入力画面を並べていた。
観察ログ。
情緒対応ログ。
保護者共有メモ。
内容はよく似ている。
今日の白坂ゆらの立ちくらみについて、三か所で少しずつ違う書き方を要求されていた。
『児童状態の観察事実を入力してください』
『感情面への配慮内容を入力してください』
『家庭共有向けに、安心感のある表現で要約してください』
橘は、こめかみを押さえた。
観察事実。
二時間目途中、顔色不良、立位保持不安定、保健室対応。
情緒対応。
本人申告は平気だったが、無理をさせず保健室へ誘導。
保護者共有。
本日一時的な体調不良が見られましたが、休息後は落ち着いています。
ほぼ同じだ。
だが、完全に同じ文を入れると自動で警告が出る。
『入力差分が少ないため、記録品質低下の可能性』
橘は画面を見つめたまま、数秒固まった。
「喧嘩売ってるのか」
小さく呟く。
すぐ横で、佐伯が書類をめくりながら言った。
「売ってるだろ。毎日」
「佐伯先生」
「なんだ」
「これ、全部必要だと思いますか」
佐伯はちらりと画面を見る。
「必要なのは子ども見たかどうかだろ」
「記録は」
「あとで揉めたときには要る」
「では」
「でも三回同じこと書かせる必要はねえな」
即答だった。
「書いた奴が楽なんだよ。読む側も、責任持つ側も」
佐伯はそこで鼻を鳴らす。
「だから現場が埋める」
身も蓋もない。
だが、たぶんかなり正しい。
橘は未入力欄へ戻る。
右上には、赤い小さな通知が点滅していた。
『未入力項目あり』
『継続時は改善意欲不足フラグ候補』
改善意欲不足。
今日、子どもの顔色を見て保健室へ連れて行ったことより、ここを空欄にしたほうが強く問題になるのだとしたら。
それは、どこか根本から順番が違う。
なのに、その順番違いを正す方法が、今の橘には見つからない。
ようやく三つ目の保存を押したところで、職員室のドアが開いた。
藤崎真琴だった。
「まだ残ってたんですね」
「記録が終わっていません」
「見れば分かります」
藤崎は橘の端末画面を見て、少しだけ眉を下げた。
「わあ」
「同じ反応をしました」
「これはちょっと多いですね」
「ちょっと、で済ませていい量ではありません」
言い方が少し強くなる。
自分でも分かったが、抑える余裕がなかった。
藤崎は気にした様子もなく、横の椅子へ軽く手を置いた。
「数字、気にしすぎないでくださいね」
「気にしないと改善できません」
ほとんど反射だった。
けれど、言ったあとの声に前ほどの自信がないことも、自分で分かっていた。
藤崎はその揺れを見逃さない。
「改善って、何をですか」
「評価項目への適合を」
「そこなんですよね」
藤崎は静かに言う。
「橘先生、たぶん“良くなること”と“評価に残ること”を、まだ少し同じに見てます」
橘は返事をしなかった。
できなかった、のほうが近い。
図星に近すぎると、人はきれいに反論できない。
「今日、白坂さんに気づけたのは、画面でしたっけ」
「違います」
「ですよね」
藤崎はそれ以上責めない。
責めずに置く。
それが、かえって厄介だった。
「でも、記録が要らないわけでもありません」
橘はようやく言う。
「あとで説明できないと困る場面はあります」
「ありますね」
「なら」
「だから余計に、全部を点数にしすぎると変になるんですよ」
藤崎は笑わなかった。
やわらかい声なのに、言っていることはかなり容赦がない。
「直したことより、書いたことのほうが残るときって、ありますから」
その一言で、橘は朝から胸に引っかかっていたものの輪郭を、ほとんどはっきり見た。
残ること。
評価されること。
確認できること。
それらは似ているが、同じではない。
同じではないのに、運用の中では簡単に混ざる。
「……嫌な話ですね」
思わずそう漏らすと、藤崎は少しだけ肩をすくめた。
「嫌ですよね」
否定しない。
慰めでもない。
ただ、そこが嫌だと認める。
そのだけで、わずかに息がしやすくなる自分がいる。
職員室の明かりは、気づけばだいぶ落ちていた。
神代は先に帰り、佐伯もいつのまにかいない。
残っているのは、橘と藤崎と、空調の音だけだ。
画面の中では、今日の入力がようやく全部緑色になっていた。
未入力なし。
共有完了。
保護者送信待機。
きれいだ。
きれいすぎる。
橘はその画面を見ながら、小さく息を吐いた。
障害を直したことより、非常時ログ欠損の減点が残る。
子どもの違和感に気づけたことより、三系統の記録を埋めたことが先に整う。
それはシステムの限界であり、同時に人間の運用の問題でもある。
そして自分は、たぶんそういう仕組みをずっと信じてきた側だ。
「橘先生」
藤崎が立ち上がる。
「帰れそうですか」
「……たぶん」
「よかった」
それだけ言って、藤崎は職員室の出口へ向かった。
途中で一度だけ振り返る。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
前にも聞いた言葉だった。
でも今日は、少し別の意味で聞こえる。
改善を急ぐこと。
評価を埋めること。
見えるようにすること。
それら全部を急ぎすぎると、本当に見たいものまで平らになるのかもしれない。
「……覚えておきます」
橘が言うと、藤崎は小さく笑って今度こそ出ていった。
誰もいなくなった職員室で、橘はもう一度だけ自分の評価画面を開く。
総合評価は、悪くない。
改善余地も、再現性も、入力品質も、全部言葉としては正しい。
正しいから、余計に嫌だ。
「直したことより、記録したことのほうが評価されるのか」
独り言は、画面の光に吸われて消える。
それはかなり嫌な納得だった。
そして、その納得をしたまま教室へ戻るのは、たぶんあまり良くない。
良くないのに、次から少しだけそうしてしまいそうな自分がいる。
橘は端末を閉じる。
薄暗い職員室の窓に、自分の顔がぼんやり映った。
教師になっても、まだ評価される側から完全には抜けられていない。
その事実だけが、夜の手前の空気みたいに重く残っていた。




