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第1話 着任と最適化授業

「それ、効率悪くないですか?」


 着任初日の一時間目だった。


 新しい担任の挨拶も、初回確認問題の配布も、まだ半分ほどしか進んでいない。

 それなのに前列窓側の女子児童は、もう腕を組んでこちらを見ていた。


 天宮ひまり。

 肩口で揺れる髪、隠す気のない好奇心、そして明らかに“自分はできる側”だと知っている顔。


 児童用学習端末の進捗バーは、彼女だけが異様に速い。

 教室後方の担任用表示には、理解度と集中度の簡易メーターが淡く浮かんでいた。

 二〇五〇年前後の公立小学校ではもう珍しくない、AI最適化教育のいつもの風景だ。


 だが、目の前のクソガキまで最適化できるとは、どのマニュアルにも書いていない。


 橘理は教卓の前でひまりを見返した。

 今日から五年一組の担任になる男で、元ITエンジニア。

 分からないものに振り回されるくらいなら、先に見えるようにしておくべきだと信じている。


 だから授業も最初から整えて入った。

 自己紹介、初回設定、確認問題、反応観察、テンポ調整。

 全部、綺麗に組んできた。


 少なくとも、ここまでは。


「では、見直してください」


「えー、もう終わったのに?」


「終わったからこそです。確認工程は省略しないほうがいい」


「それ、効率悪くないですか?」


 一瞬、教室がしんとしたあと、くすくす笑いが広がる。


 橘はひまりを見る。


 ひまりは笑っていた。悪意ではない。たぶん本当に、思ったことをそのまま言っているだけだ。


「根拠はありますか」


「え?」


「効率が悪いと判断した根拠です」


「えっと……いや、だって、合ってるなら見直しって別にいらなくないですか?」


「合っているとどうして分かるんです」


「……え、たぶん?」


「たぶん、で工程を削ると事故になります」


 何人かが「うわ」と小さく漏らした。


 ひまりの口元が引きつる。

 しかしへこたれない。データ通りだ。


「いやでも、先生の説明もちょっと回りくどかったですよ? 私ならもっと上手くやれますよ?」


「どの部分が」


「えっ」


「指摘するなら具体的にお願いします」


 クラスの空気が、じわじわと“見もの”の方向へ傾く。


 橘はその傾き自体は把握していたが、止める必要はないと判断した。初回でルールを曖昧にしないほうがいい。


 ひまりは視線を泳がせてから、妙に堂々と胸を張った。


「じゃあ私がやります?」


「お願いします」


「え」


「もっと効率のいい説明ができるんですよね」


「…………」


 数秒の沈黙。

 教室のあちこちから期待の気配が立ちのぼる。


 ひまりは一度だけ「えー」と小さく引き延ばし、それから立ち上がった。


「じゃ、じゃあ……これって要するに、数字を見て、できてないところを、こう……いい感じに……」


「いい感じとは」


「そこ拾います?」


「説明なので」


 笑いが起きた。


 ひまりは露骨に頬を膨らませる。


「ちょっと! 今のは空気で分かるとこでしょ!」


「空気で分からない人もいるので、授業では言語化が必要です」


「うわ、めんど」


「聞こえています」


「聞こえるように言いました」


 また笑いが起きる。

 どうやら彼女は負けても空気は失わないタイプらしい。厄介だが、教室の推進力にもなる。


 橘がそのまま話を戻そうとしたときだった。


「でも」


 教室の中央より少し後ろ。

 静かな声がひとつ、流れに割り込んだ。


 橘が視線を向けると、ひとりの女子児童が頬杖をついたままこちらを見ていた。


 白坂ゆら。


 事前データでは、洞察力高、発話量低め、感情表出少、観察傾向強。


 要注意ではなく、読みにくい。


「でも、分かりやすさって、速さだけで決まる?」


 教室の笑いが、少しだけ質を変えた。


 ひまりが「え、なに急にこっち撃つの」と振り向く。


 ゆらは肩をすくめた。


「別に撃ってないけど。先生の説明、長いのは長い。でも、ひまりの説明は雑だった」


「え、味方してくれないの?」


「してるよ。半分くらい」


「半分しかない!」


 橘はゆらを見る。


 言っていることは妥当だ。

 だが、その妥当さの置き方が独特だった。


 賛成でも反対でもなく、争点をずらしている。


「白坂さんは、どうすればよかったと思いますか」


「どうすれば、っていうより」


 ゆらは自分の端末をくるりと回して、画面を見せた。


「先生は、ちゃんと全員分かるように話したい。ひまりは、自分はもう分かってるから飛ばしていいって思ってる。たぶん、ズレてるのそこですよね」


 静かに言ったあと、少しだけ首を傾げる。


「違う?」


 橘は数秒、答えなかった。


 論理は通っている。

 その上で、問いの形にして相手へ返している。


 断定しない。だが、逃がしてもいない。


「概ね、その認識で問題ありません」


「概ねだって」


 ひまりが不満そうに言う。


「じゃあ私ほぼ正解じゃないですか」


「雑なまま正解に近づくのが一番危ないです」


「言い方!」


 また笑いが起きる。


 橘はその笑いの中で、予定していた進行を一つ飛ばした。

 自己紹介のアイスブレイクをもう少し長めに取るはずだったが、このクラスではその必要は薄い。すでに空気が回っている。


「では、方針を少し修正します」


「お、アップデートですか」


 ひまりがすぐ食いつく。


「そうです。理解が早い人は、早く終わったあとに他者へ説明する準備をしてください。自分が分かることと、相手が分かるように言えることは別です」


「う」


「白坂さんは、説明の補助に回れますか」


「めんどくさくなければ」


「基準が曖昧ですね」


「先生も今、概ねとか言ってたし」


「……」


 教室がどっと沸いた。


 橘は一瞬だけ言葉を失った。


 理屈としては返せる。

 だが、この場でそれを返すと、勝ち負けの応酬になる。初回でそこまでやる意味は薄い。


「分かりました。今のは私の表現が曖昧でした」


「おおー」


「先生えらい」


「ちゃんと直した」


 子どもたちが勝手に盛り上がる。


 なぜだか、正しい訂正をしただけでこちらが押された空気になっている。


 橘にはそれが少し解せなかった。


 その後の授業は、表面上はうまく進んだ。


 ひまりは相変わらず速く、何度か余計な一言を挟みつつも、説明役として前に出ると意外にクラスを引っ張った。

 もちろん細部は雑だったが、雑なりに勢いがある。


 ゆらはそんなひまりをたまに止め、たまに放置し、たまに一番鋭い角度で補足した。

 しかも自分はあまり前へ出ようとしない。


 バランスが悪いようでいて、この二人のあいだだけで一つの流れができている。


 主人公は担任のはずなのに、教室の中心にいるのはもう別の誰かだ。


 昼休み前、橘は短い確認テストを終えて、担任用ログを確認した。


 理解度推移、良好。

 集中度、平均以上。

 感情安定性、概ね正常。

 授業テンポ適合率、高。


 データだけ見れば、何の問題もない。


 むしろ成功に近い。


 なのに、胸の奥には妙なひっかかりが残っていた。


 教室は回っていた。

 子どもたちも笑っていた。

 計画した内容も、大きくは崩れていない。


 それでも、自分がこの空間を“握れている”感じがしない。


 放課後。


 帰りの会を終えると、子どもたちは一気にほどけた。

 椅子の脚が鳴り、端末が閉じられ、明日の予定より先に雑談が飛び交う。


 橘が配布物の確認をしていると、教卓の前に影が二つ止まった。


「先生」


 ひまりだった。隣にゆらもいる。


「なんでしょう」


「今日の感想、聞いてもいいですか?」


「なぜです」


「え、気になるからですけど」


「アンケート機能があります」


「そういうのじゃなくて、人間のやつ」


 橘は少しだけ黙った。


 ひまりはにやにやしている。

 ゆらは特に助け船も出さず、横で眺めているだけだ。


「概ね想定通りでした」


「うわ、つまんない」


「事実です」


「絶対ちょっとイラッとしてたじゃないですか」


「していません」


「しましたよね」


 ゆらが静かに割り込む。


「してたね」


「白坂さん」


「でもまあ、あれくらいで怒るほど子どもじゃないでしょ、先生も」


 言いながら、ゆらは少しだけ目を細めた。


「思ったよりカタかったけど」


 ひまりがすぐに乗る。


「分かる! もっとこう、優秀そうなのに融通きかない感じ」


「褒めてませんよね」


「半分は褒めてます」


「さっきから半分が便利すぎます」


「便利なものは使ったほうがいいので」


 ゆらがさらりと言う。

 ひまりはそこで我慢できずに吹き出した。


「あはは、先生、今日いちばん負けてるのそこですよ」


「負けていません」


「え、今の0点じゃないですか?」


「採点基準を提示してください」


「めんどくさ!」


 ひまりが笑いながら踵を返す。


 そのまま帰るのかと思ったが、教室の後ろまで行ってから、くるりと振り向いた。


「でも、授業は分かりやすかったです。ちょっとだけ」


「ちょっとだけなんだ」


「全部認めると調子乗るじゃないですか」


「誰が」


「先生が」


 即答だった。


 横で、ゆらが小さく肩を揺らす。


「まあ、壊れやすそうではある」


「何の話ですか」


「別に」


 その“別に”だけ妙に含みがあって、橘は返事に困る。


 二人はそんなこちらを置いて、さっさと教室を出ていった。

 廊下の向こうで、もう言い合いが始まっている。


「ゆら、さっきフォロー遅くなかった?」

「してたよ、半分くらい」

「だからその半分やめてって!」


 声が遠ざかっていく。


 教室に静けさが戻った。


 橘は教卓の端に手をつき、もう一度だけログを開いた。


 数値に問題はない。

 むしろ良い。


 だが、あの二人が残したものは、どこにも記録されていない。


 ひまりの雑な自信。

 ゆらの曖昧なくせに逃がさない言い方。

 あの場の笑い。

 こちらが正しく返しているはずなのに、いつのまにか主導権がずれていく感覚。


「……データ上は、成功か」


 そう口にしてみても、しっくりこない。


 橘は端末を閉じた。


 新しい教室。

 新しいクラス。

 そしてたぶん、自分が思っていたより、ずっと面倒な子どもたち。


 正しく整えれば、問題は減るはずだった。


 けれど、もしかしたら。

 減らない問題というものが、最初からここにはあるのかもしれない。


 教室の電源が順番に落ちていく。

 窓の外では、やわらかい春の光がまだ残っていた。


 橘理は、誰もいなくなった五年一組を見回して、小さく息を吐く。


「……なんだ、このクラスは」


 もちろん、答える者はいない。


 ただ、答えがないまま始まるものもあるのだと、その教室だけが先に知っているようだった。

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