第05話「グッドバイ・リトル・ムーン」(3/4)
それからの約二時間、マコトは力の限り奮闘した。自分一人でこれほど家事全般に、しかも自発的に取り組もうとしたことなど未だかつて無かった経験である。そして結果は、想像以上の大苦戦だった。
洗濯物を取り込もうとすれば、物干し竿が落ちてきて頭を強打する。食器を洗えば手を滑らせて皿を割り、破片を拾い集める最中に親指をザックリ切って血が溢れ出る。せめて計量カップで米を掬うぐらいは出来るだろうと思ったら米びつを蹴倒してしまい、結果キッチンの床一面に総重量三キロもの無洗米がぶちまけられる羽目に。見事なまでの満身創痍である。
マコトは、ロボットが絡まないことに対する自らの不器用さを、まざまざと思い知らされたのであった。
マコトが両手に絆創膏を三枚ほど増やしてリビングに戻ってくると、ケイは相変わらずソファで大人しくしていた。まさかあれから微動だにしなかったのでは、と一瞬不安になったがそんなことはなく、彼女はすぐ近くの棚にあった天球儀型プラネタリウム機を手に取り、まじまじと眺めていたのだ。
「……ケイ?」
「お疲れ様です、マコト……先程よりも、細かい怪我の数が増えているように見えるのですが……何か問題でも」
「いいから、いいから。大したことはないから。それより珪子姉ちゃんのソレさっきから眺めてるけど……何か気になることでもあった?」
「五十嵐珪子とは、どんな女性だったのでしょうか」
ケイに以前と同じことを訊ねられ、マコトは「んっ」と微妙な声を出す。
「……そんなに珪子姉ちゃんのこと知りたいの?」
「今なお私が一人前のお姉ちゃんになれないのは、私が本物と違ってマシンの如き存在であるからと思われます。ならば本来の五十嵐珪子を、私のモデルとなった人物について少しでも多くを学ぶことによって、マコトから見た本当のお姉ちゃんに近づけるのではないかと思うのです」
「言っただろ、別に失格だとかそんなことは……」
途中まで言いかけて、マコトはケイの眼差しが普段より真剣味を帯びていることに気がついた。というか、表情自体は変わらないハズなのに何故かそんな風に思えてしまったのだ。
マコトが再度口を開くまでに、若干の間があった。
「……優秀な人だったよ、とっても」
ケイの持つ天球儀に視線を注ぎながら、マコトは思い出を掘り起こすようにポツポツと話し始める。
「頭はいいし運動は出来るし。それでいて中学を卒業する前から留学の計画を立ててるぐらい行動的だし……見た目だって、学校でも近所でも、美人だって大評判だった。絵に描いた様な人気者だったよ」
「文武両道、才色兼備。そういうことですか?」
「そうだね。父さんや母さんも、口癖みたいに他人に自慢して回ってたっけな……『自慢の娘です』って。本当にね、ボクなんかとは大違いだったよ」
「……? マコトが自分を矮小化する発言が、理解出来かねます」
急に卑屈そうに笑ったマコトに、ケイがすかさず疑義を呈した。
「マコトは現在一級アンドロイド整備士資格を保有していますが、これは日本全国では僅かに九十七名、マコトと同年代にまで絞り込めば僅か二名余りと、極めて取得の困難な資格であり、それに弱冠十歳で合格したマコトは……」
「……それは今だから言える話だよ。まあ褒めてくれて嬉しいけどさ」
マコトの声がつい、くぐもった様な音色になる。
「珪子姉ちゃんが生きてた頃は……全然そんなこと無かったんだ。そりゃあ、他人よりちょっとだけ成績は良かったけど、パッとしないっていうか」
「そうなのですか」
「公的な証明はゼロだし、珪子姉ちゃんみたいな分かりやすい華がある訳でも無かったしね。他人が見たら、何処にでもいるごく普通のロボット馬鹿でしかなかったと思うよ。中途半端に頭だけ良くて、運動だってロクに出来ない根暗オタク……ナードっていうのかな。ボクは四六時中、周囲からイジメの標的にされてた。お陰で毎日泣いて帰ってきてたよ」
「……心中お察しします。ですがマコト、マコトは既に自らの――」
「――『みっともないからメソメソ泣くな。恥ずかしい』。ボクがイジメられて帰って来る度に……珪子姉ちゃんはそう言ってボクを怒ったんだ」
マコトの声に突然、力がこもる。
ケイは言いかけた言葉を直前で飲み込み、そして黙りこくった。
「珪子姉ちゃんはいつもそうだった。ボクが弱虫で、泣いてばかりいることが許せなかったんだ。みっともない、泣いて解決するなんて思うな、恥ずかしいと思わないのか……そりゃそうだよ。父さんと母さんは天才科学者で、自分も生まれつき優秀、何をやっても上手くいく。姉ちゃんを基準に考えたら、ボクなんて甘えているようにしか見えなかったんだ。それがボクにとってどれだけ苦しくて、辛い思いをして出した結果でも、姉ちゃんにはゴミでしかなかった……姉ちゃんにとって、ボクは恥ずかしい存在だったんだ」
「…………」
ケイは、黙って立ち尽くすばかりだった。
「ボクは珪子姉ちゃんが大嫌いだった。多分姉ちゃんの方もボクが嫌いだった……その証拠に、家族全員で行った最後の遊園地、本当ならボクは来るなって言われてたんだ。次の日が整備士試験だからって理由だったけど……こないだカオルの話を聞いてハッキリ分かったよ。姉ちゃんは自分で稼いだお金がボクなんかのために使われることが、許せなかったんだ」
「……マコト……ですが……」
「本当はね、ロボットたちに狙われる理由も最初から分かってたんだ」
「……それは、どのような」
「姉ちゃんの怨みだよ。ボクの身代わりで死んだ……珪子姉ちゃんの」
マコトの口から爆弾発言が飛び出した。
「あの日、ボクは整備士試験が終わった直後で……自己採点が満点に近かったのもあって浮かれてた。音楽を聞きながら、余所見をして横断歩道を渡ろうとして……そこにトラックが突っ込んできて……それで……」
「…………マコト…………」
「……気づいたら、姉ちゃんが倒れて動かなくなってた。姉ちゃんは偶然通りがかって、ボクを庇おうとして自分が撥ねられたんだ。意識が戻らないまま、姉ちゃんは死んだ……よりにもよって、大嫌いだったボクなんかの身代わりで死んじゃったんだ……だから……」
「マコト、馬鹿なことを言わないで下さい」
「あれは姉ちゃんの怨みが送り込んだんだよ……自分の未来を奪ったボクにも地獄に落ちろっていう、珪子姉ちゃんの亡霊なんだよ!」
「弟を殺したがるお姉ちゃんなど存在しません。マコト、私は」
「出てってよ、ケイ」
マコトは指を握りしめ、顔を伏せて絞り出すように告げる。
いつしか、ひどく重たい空気が部屋に立ち込めていた。部屋中の酸素という酸素を追い出して、人間はおろかケイさえをも窒息させるような環境が、気がつけば出来上がってしまっていた。
「キミの気持ちは、嬉しいよ……嬉しいけど……嬉しいハズなのに……キミがボクに優しくすればするほど、逆に辛くて仕方ないんだ……珪子姉ちゃんならそんな風にしてくれるハズないから。本当の姉ちゃんなら、ボクのことを凄く怨んでるハズだから……だから……だから……ごめん……」
ゴトリ、とケイの手にした天球儀が床に落ちて音を立てる。
マコトの死んだような眼差しが、それに一直線に注がれた。
「……………………エラー」
ケイは鉄仮面を崩さなかったが、次にどうするのが正しいか一切判断がつかなくなっている様子だった。初めて動揺が表に出たように体を揺らし、やがてマコトに視線を向けるが彼が目を伏せたままと分かると、最後には静かに背を向けリビングから去って行った。
しばらくして玄関の方から開閉音が聞こえると、そのまま静寂が広がる。
ケイはそれから、二度と帰って来なかった。




