第03話「君の青春は輝いているか」(2/4)
翌日になっても、灰色の空が開けることはなかった。雨足は弱まるどころかむしろその勢いを戻しつつあり、重苦しい停滞感が湿気と一緒に街中を覆って離れようとしなかった。
五十嵐邸では、ケイがすっかり綺麗になった階段をその足で軋ませながら、ゆっくり二階へと上っていた。手にした銀色トレイには水とおしぼりが丁寧に整えられて乗っている。彼女はそのトレイが気に入ったようだ。
二階にある主人の部屋の前に来ると、ケイは軽く戸をノックした。その日の邸内はあらゆる音が大きく響く。むしろケイが挙動しなければ雨の音以外他に何も聞こえないほど静かで、寂寥感に包まれてさえいた。
「……マコト、お水をお持ちしました」
「出てけ!」
戸を開けて早々に、ケイの顔を狙って分厚い本が飛んできた。彼女は動じることもなく難なく片手でそれをキャッチ。受け止めた物体をチラッとだけ眺めてから、再び彼女は部屋の奥へ視線を戻した。
カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で、毛布に全身を包み込み出て来ようとしないマコトの姿があった。微かに覗いている視線は上目遣いでケイのことを睨み付けている。よく見ると彼は小刻みに震えていた。
ケイは特に訊ねるでもなく部屋の灯りをつけ、部屋の中に一歩足を踏み入れて言う。
「……マコト、お水を」
「黙れ、黙れ! 出てけって言ってるだろ! キミらの顔なんか見たくもない……ロボットなんて、みんな大っ嫌いだ!」
「半径二百メートル以内に敵性反応は存在しません。安心してください」
感情的に叫ぶマコトと反対に、ケイは淡々と不動の姿勢のまま告げる。
「現在、マコトに危害が加えられる確率は限りなくゼロに近いと言えます」
「安心だって? そんなの出来るか! キミがそこに立ってるじゃないか……ボクを安心させたかったら、とっととこの家から出てってくれよ!」
「エラー」
もう何度目になるのやら、またもや棒と化して倒れ込むケイ。
開けっ放しのドアに彼女は頭から突き刺さって、斜めのつっかえ棒のような有り様になった。その足元にトレイとコップが落下して周辺が水浸しになる。マコトは思わず布団から飛び出しそうになった。
「人の部屋に何してんだよ!?」
「……先程の命令は実行不可能です、マコト」
まるで何事も無かったみたいに、真顔で体勢を戻すと落ちたトレイやコップを拾い上げるケイ。エラーを起こしてからのリカバリーも大分手慣れたものとなってきていた。
「マコトの傍にいることは、私の中で最重要事項に定められています。よってマコトのため当家を離れること、それは前記事項に違反することとなります」
「ボクの傍を離れないのは、監視してるからだろ!? そうやって見張っておいて、油断したらあの偽物シスターみたくボクを殺そうとする気なんだろ!」
「その可能性はゼロです」
ケイは断言した。
「この私にマコトを害する意思があった場合、この瞬間に実行していないことは不合理だからです。先日私が目覚めた時点からその条件は変わらず、現在もマコトは非常に無防備な状態です」
「ず、随分とハッキリ言ってくれるな……! いつでも殺せるんだって、そう言いたいのか!?」
「マコトを襲ったロボットの発言内容からは、襲撃を命令した何者かの存在、またマコトに対する極めて強い懲罰感情が窺えます。しかしながら、私が保有するプログラムやデータベース内に、そのような情報は確認できません。私がマコトに危害を加える理由は存在しないのです」
「それは……いや、そんなこと言っても信用出来る訳ないだろ」
「マコトは、責められる理由に心当たりがおありなのですか?」
「ある訳ないだろ!」
「ならば、問題ありません」
ケイは大真面目な顔で断言してみせた。
「私はマコトを信じます。マコトが身に覚えのない理由で追及され、一方的に害を及ぼされる必要はありません。私はマコトの味方です」
あんまり自信満々に言い切るので、マコトは思わず口籠ってしまった。
正直に言えば、心当たりがゼロという訳ではない。先月事故に遭って死んだマコトの両親。彼らの死がマコトの予想通り偶然ではなく、ロボットの関わる意図的な殺人であったならば、残ったたった一人の親族であるマコトに余波が降りかかって来るというのは、充分考えられる話だ。
五十嵐家は思った以上に、大変な陰謀に巻き込まれているのかもしれない。
「それと、再三申し上げておりますように」
ケイがマコトの思考を断ち切るかのように言った。
「私はマコトのメイドであると同時に、お姉ちゃんなのです。マコトの生命と安全を守ることは私にとって最重要事項であり、他の何者から命令されようとそれが覆ることはありません。よってその意味でも、私がマコトの命を狙う可能性はゼロです。弟を殺そうとする姉などいないのです」
疑問の欠片さえ垣間見えないその言葉。しかし、それこそがマコトにとって最大の地雷であることを、ケイは理解していなかった。
「……それが胡散臭いんだよ」
「……? それはどのような」
「胡散臭いって言ってるんだよ、何もかもがさ!」
マコトはとうとう、耐え切れずに絶叫を繰り出した。
「ボクのメイド? お姉ちゃん? そんなの所詮……全部プログラムに従って喋ってるだけじゃないか。何が……何がボクのことを信じるだよ。心の底からそう思って言ってる訳じゃないだろ!?」
「ロボットである私に、心が存在しないことは明白です。しかしながらマコト、私がマコトを守りたいと考えているのは本当のことです。私が誕生した時からその想いが、私の中に息づいているのです」
「はん、理由も分からないのにか?」
マコトは思いきり鼻で嘲笑してやる。マコトは普段は決してそんな振舞いをしないが、ケイと対峙する時だけは、それはもうイラついてイラついて仕方がないのだった。
「そんなのは、考えてるって言わないよ。キミはただ仕込まれた命令に従って動いてるだけだ。自分じゃ思ってもいないことを、全自動でベラベラ喋ってるだけなんだよ!」
「……お言葉ですがマコト、自身が思ってもいないことを口にしているのは、マコトも同様なのではないかと」
「……なんだよ、それ」
「先日掃除を行った際、この部屋に保管されている書籍の数や内容を大まかにですが把握致しました」
隙あらば噛みついてやろうと殺気立つマコトを意に介する風もなく、ケイは室内をゆっくり見回しながら言った。その瞳の奥では、不思議と穏やかな光が渦巻いていた。
「室内には合計で百五十二冊の書籍が存在します。内訳としては本棚に十九、クローゼットに百二十九、ベッドの下に四……」
「ちょっと待った、ベッドの下って言った!? いつの間に、勝手にそんなとこまで覗いたんだ!?」
「マコトの名誉のため、ベッドの下にあった書籍の内容については公表を差し控えるものとします」
「変な言い方しないでくれる!?」
マコトのプライバシーが、知らぬ間に危機に晒されていた。
「ですが、それ以外の場所にあった書籍についてはおよそ八割が、ロボットに関連する内容でした。実用性の高い技術書、先端研究を掲載した科学雑誌、人間とロボットの交流を描いた古典小説や漫画など、これらの内容からはマコトのロボットに対する高い関心が窺えます」
「……ッ!」
「マコトは、本当はロボットが大好きなのではないですか? そうでない場合この数値に関して、説明がつかないということになります」
「そんな、こと……」
ない、と言いかけてマコトはまた言葉を飲み込んだ。
唇を、知らぬ間に強く噛んでいた。毛布を掴む手を目元まで引き寄せ、顔を埋めて表情が見えないようにする。図星を突かれた悔しさを、悟られたくない想いがそうさせたのかもしれなかった。
「……好きだったよ、そりゃ」
ボソボソと、言い訳のように呟き始めるマコト。
ケイは何も言わず、その光景をじっと見つめる。
「だけど今は嫌いになったんだ。当たり前じゃないか……父さんと母さんはロボットの所為で死んだんだ。だから全部クローゼットに放り込んで、見えなくしたんだ。もうロボットのことなんて考えたくないから……」
「ですが視界から外したというだけで、室内に保管されている状況に変わりはありません。もし完全に生活から排除しようと思うなら、私が処分した品々のように、ゴミとして一斉に処理してしまうハズです」
「……」
「マコトは、本当はロボットをもう一度好きになるかもしれないと、あるいは好きだった頃の自分に戻りたいと、その可能性を破棄していないのではないですか?」
「だったら……なんだっていうんだよ」
絞り出すような声の中に、自ずと敗北感が滲んでいた。
間違いではない。ケイの指摘は明らかに的を得ている。
けれども、こんな顔色一つ変えず人の内面にズケズケと踏み込んでくる奴の言うことを認めたくない。顔を合わせたくない。そういう想いがマコトをより頑なにしてしまっていた。
「それでも、そうだとしても……キミが信用できないのに変わりはないんだ。見た目が珪子姉ちゃんそっくりだからって、ボクは騙されないぞ……そもそも全然、姉ちゃんはキミみたいな人じゃなかったんだよ!」
「……マコト」
「姉ちゃんは、ボクの姉ちゃんはもっと――」
「――どんな方だったのですか?」
「え……」
ケイが、いつしかマコトの眼前で跪いていた。腰をかがめて手を差し伸べ、毛布にくるまったマコトの頭を、優しい手つきをして撫でてくる。
たちまちマコトの動悸が激しくなった。思考が硬直し殆んど真っ白になる。自分を真っ直ぐ見つめる、在りし日の姉と殆んど瓜二つな青い瞳の中へと吸い込まれてしまいそうになる。
「五十嵐珪子とは、一体どんな方でしたか? 教えて下さい。どうすれば私はマコトのお姉ちゃんに……本当のお姉ちゃんに近づけるのですか?」
「ううう、うるさい! うるさい!」
マコトは自分でもよく分からないうちに、その手を乱暴に払いのけていた。
「ボクに近づくなって言ってるだろ! 頼むから出てってくれよ!」
「しかし、マコト……」
「出てってくれ! ボクをひとりにして……二度と近づくな! 分かったか!」
「エラー」
もう数えるのも飽きるくらい何度目かのエラーを起こしたケイが、後ろ向きにひっくり返って部屋の本棚に頭から突っ込んだ。棚の一部が破砕され、落下してきた本や木くずの雨がケイの上に降り注ぐ。
こんな状態で落ち着いていられるものかとマコトは思った。
「……いいよ、そっちがその気ならボクが出て行く」
マコトはベッドから出ると近くにあった上着を引っ掴み、大急ぎで部屋を出て行った。一階まで玄関を駆け下り、戸を開け放つと鍵もかけずに雨の中へと走り出していく。
部屋で本棚の残骸に埋もれたままのケイのセンサーに、マコトの遠ざかっていく音だけがずっと聞こえ続けていた。




