第7話 羅針の影──風を読み、地図を描く夜
午前十一時、冬の陽が霞ヶ関の硝子を白く曇らせていた。
官邸の玄関前に記者団が集まり、マイクの先が一斉に門へ伸びる。今朝の一面――「日本政府、米孤立派と接触」。匿名資料、赤ペンの走り書き、黒塗りの多いPDF。記事の粗雑さは、むしろ“本物臭さ”を増幅させる。
秘書官の秋山が早足で階段を上がり、執務室のドアをノックした。
「総理。予定外のブリーフ、避けられません」
天城一誠はペン先を置き、窓の外の薄い雲を一度だけ見た。
(来るべき時が、少し早く来ただけだ)
「諸星を。言葉の体温を合わせる」
官房長官・諸星はドアから滑り込み、手帳を開いた。
「フレーズ案、三つ。①“研究の一環”、②“従来方針の確認”、③“分担の合理化”。攻めは――“持たせる、形を変えて”」
「②は短く、③は太く。数字を添える。雇用、国内投資、港湾のレジリエンス」
天城は立ち上がり、ネクタイの結び目を人差し指で整えた。
恐怖は舵にもブレーキにもなる。今日は舵にする日だ。
会見室。フラッシュが白く弾ける。
「総理、記事は事実ですか」
「政府は、あらゆる情勢を研究しています。特定の政治勢力に肩入れすることはありません」
「米国の孤立主義者とのパイプを作っているのでは?」
「同盟は持たせます、形を変えて。負担の合理化は、双方の利益です」
「それは安保の“再定義”ですか、撤退準備ですか」
「再定義です。撤退は抑止を空洞化させる。――数字を申し上げます」
天城は手元のカードを見ずに続けた。
「国内投資四兆円、三年で港湾・造船・電装の雇用八万。サプライの国産化率は平均で+二五%。災害時の復旧時間を三割短縮。すべて公開監査の対象にします」
ペンの音が一瞬止まり、そして加速した。
(人の灯りに数字を結びつける。恐怖より強い素材だ)
「以上です。続きは官房長官から」
壇を降りた天城に、経済部の若い記者が無理に並走した。
「総理、“四年後”を見ているんですね」
天城は立ち止まらない。「政治家は明日の天気も見る」
◇
同じ頃、野党第一党の会議室。
党首・古賀は記事をテーブルに叩きつけた。
「“当事者”だと? 米国を怒らせる気か。攻める。証人喚問級だ」
若手議員が身を乗り出す。「ただ、世論が妙に割れてます。地方紙は“雇用”で好意的で……」
古賀は鼻を鳴らした。「だったら首都圏で叩く。霞ヶ関の“不透明な国家介入”、ここだ」
◇
午後、官邸地下。
極秘タスクの室内で、内閣情報調査室の川村がスクリーンを切り替えた。
「リーク元、三系統。①在米シンクタンクのメール箱、②外務省の共有ドライブ、③与党内の端末。③が本命です」
諸星の眉が跳ねる。「味方から、か」
「“味方”は状況で変わる。――罠を仕掛けます。微妙に文言を変えた三種類の偽文書を異なる人物に流す」
「釣る気か」
「“漏れ先で本文が違う”のは、裁判の要件に足りる」
天城は頷いた。「顔を見たい。敵ではなく、“怖がっている人”の顔を」
◇
夕刻。地方の造船所の食堂。
壁掛けテレビに、天城の会見の映像。カレーを食べる若者がフォークを止める。
「ほんとに、八万も増えるんすか」
教官が苦笑いした。「数字は約束の前提だ。約束は仕事で証明する」
◇
夜、経団連会館の小部屋。
会長・三谷は電話を切り、窓に映る自分の顔を見た。
(米国が圧を強める前に、国内の輪を太く)
机の上でペンが止まる。会長職は賭けを嫌う。だが、賭けない方が大敗する局面がある。
◇
深夜近く、官邸。
川村が駆け込む。「ヒット。偽文書“B”が海外メディアへ」
諸星が顔を上げる。「“B”は誰に」
川村は躊躇い、名を告げた。
室内の空気が一度だけ重く沈み、すぐに平常へ戻る。
天城は短く言った。「呼ぶ。怒りでなく、恐怖に寄り添う順番で」
◇◆◇◆◇◆
翌朝。薄暗い予備室。
呼び出された与党の中堅・大垣は、椅子に腰を下ろすなり、視線を床に落とした。
「……すまなかった」
天城は怒らなかった。怒りは相手を固くする。
「なぜ流した」
「怖かった。米国が相手にしなくなったら、地元の工場が死ぬ。“従者であることの安心”に、もう一度すがりたかった」
(そうだ。敵ではない。怖れている)
天城は紙を差し出した。
「地元の港湾更新計画。災害対応の多目的船と、電化物流の中核。雇用千三百。あなたの地元だ」
大垣の喉が鳴る。
「賛否は自由だ。ただ、未来の材料を捨て石にする政治は、もう終わりにしたい」
会は十五分で終わった。帰り際、大垣は立ち止まり、深く頭を下げた。
(赦しは取引ではない。再配置だ)と天城は思う。
◇
午後、国会。
野党の追及は苛烈だった。
「総理、“当事者”とは何か。条約の精神に反しないのか!」
「当事者とは、責任の主体です。条約は責任の更新を禁じていない」
「米国を刺激している!」
「刺激ではなく、調律です。音の高低を合わせる作業を、時に“刺激”と呼ぶ」
傍聴席の大学生が、静かに頷いた。
(言葉の比喩が届くかどうかは、数字の裏付けがあるかで決まる)
◇
夜、官邸地下。
川村が第二報を上げる。「偽文書“C”も外へ。ただし“B”のルートとは別線」
諸星が紙を叩く。「二系統か。片方は偶発、片方は故意」
「“C”の宛先は官邸外郭のシンクタンクです。担当者は若い。正義感の暴走」
天城は椅子を引き寄せ、机に身を乗り出した。
「会う。彼らには檻ではなく、梯子を」
◇
小さな会議室。
若い研究員は青い顔で座っていた。
「国益に資すると信じて……」
「信じる先を間違えた。だが、君の手はまだ空いている。港湾の研究班に移れ。匿名ではなく、名前で仕事を」
青年の目に涙が滲む。
(若さの過ちは、正しい役割に置き直せる)と天城は胸内で呟く。
◇
その頃、ワシントン。
片倉がケイン大佐のタウンハウスにいた。
「日本の内情が漏れた。だが、雇用の数字は効いている。中西部のラジオが“国内再建”を繰り返し始めた」
「いい。票は耳から動く」とケイン。「白書の第二稿、表現を“選択的関与”で統一する」
◇
深夜。官邸の灯が一つ、また一つ落ちていく。
天城は執務室で、造船所の写真を見た。焼けた鉄、汗、若い背中。
(恐怖を燃やして熱に変える。冷やせば凍るだけだ)
内線が鳴る。秋山の声が僅かに弾んでいた。
「総理、経団連会長の声明案です。“国内投資の拡大に協力”。明朝、発表予定」
「よし。発表の直前に、地方紙へ雇用面の先出しを」
「承知」
窓の外、港の灯がひとつ、またひとつ増える。
(灯りは、遠くを怖がらない)
天城は立ち上がり、椅子の背にコートを掛けた。
胸ポケットの紙切れを指で確かめる。角の柔らかさは、毎夜の確認でさらに丸くなっていた。
> 恐怖を超えた先にしか、頂はない
彼はランプを一段落とし、カーテンをひらく。
黒い空に、白い星がいくつか瞬いた。
噂は風だ。法は地図だ。
風は読めない。だが、地図は描ける。
そして、海図は――彼の脳裏で完成していた。