第6話 静かな対峙──揺らぐ影と、揺るがぬ決意
朝の港は、冬の潮の匂いが濃かった。湾奥に浮かぶクレーンの影は長く、鉄骨の間を縫うように薄い霧が流れていく。始業サイレンが二度、短く鳴った。錆びたレールが軋み、トロリーが目を覚ます。鉄の擦れる音と圧縮空気の吐息が混じり、音の層がゆっくり厚くなる。
天城一誠はヘルメットの顎紐を指で確かめ、白線の外を踏まないよう気を配りながら造船ドックの床へ降りた。背後には官房長官・諸星、経産官僚の水谷、秘書官の秋山。視察と呼ぶには連日の顔ぶれだが、見られる側にとっては今日が初日だ。「総理」という肩書きは、現場の呼吸を半拍だけ狂わせる。
「総理、こっちです」
工場長の鷲尾が手を上げた。五十代半ば、日焼けで皮膚が厚い。指先は溶接痕と古傷で固く、握手は短いが印象は長く残る男だ。鷲尾は事務的な挨拶を最低限に済ませると、すぐに図面を広げた。紙の端に残る油の跡が、ここが会議室ではないことを念押しする。
「多目的船の一次設計です。名目は災害対応。平時は洋上変電のプラットフォームにもなる。航続と自立電源、通信冗長、医療ユニット搭載。――それと、艤装スペースに“余白”を残してます」
図面の白地が、沈黙で意味を主張した。天城はその余白を指先でなぞり、頷く。
「余白は約束だ。書けば敵が増える。空白なら、使える」
鷲尾の目尻に浅い笑みが走った。冗談ではない種類の合図だ。
歩を進める。床にマークされた緑の矢印、整然と積まれた鋼板、角に寄せられた赤い消火器。若い作業員の背中がこちらを意識して固くなる。振り向いた目に、期待と疑いと興味が同居しているのが見て取れた。彼らは政治の言葉に慣れない。だが、工程の未来には敏感だ。ラインが息を吹き返す音か、営業の言い訳の音か、現場は耳で見分ける。
「稼働は?」と天城。
「四割弱です」鷲尾は即答した。「受注が薄い。若いのは都会へ流れた。戻って来たのは、ここで稼いだ記憶が身体に残ってる連中だけだ」
「戻す。人を、仕事で戻す」
言い切る声は小さいが、鉄骨の間でよく響いた。自分の声が、約束に変わる瞬間の重さを天城は知っている。安請け合いではない。計算の裏付けがある声だけが、現場で生きる。
電装棟の扉を開けると、空気が一段ひんやり変わった。静電靴の粘る感触。未使用のカバーが掛かったマウンタが並ぶ。鷲尾が躊躇して覆い布をめくると、ガラスの向こうに新品の光沢が現れた。
「補助で入れたが、動かす仕事がない」
天城は額を近づけ、反射した自分の顔を見た。疲労の色を自覚しながら、その奥で燃えている焦燥を確かめる。――借り物の甲冑では、この国は次の冬を越えられない。
水谷がタブレットを差し出した。画面には工程図、下請けの一覧、資金繰りのスケジュール。
「総理、部材の国産化率を三年で二五%上げる案です。電力変換・耐環境基板・電磁環境整備を国内規格でまとめる。表の名目は“港湾のグリーン化”。裏は……」
「言わなくていい」天城は制した。「名目は盾だ。盾を汚すと、剣まで折れる」
ヘルメットの縁から見える若い技術者の瞳が、わずかに光ったのを天城は見逃さなかった。彼らは曖昧な勇ましさでは動かない。動くのは、手順と予算と納期だ。政治が現場語に翻訳される速度が、国家の根気を測る。
昼、港の食堂でカレーを食べた。ステンのスプーンが皿の縁に当たる金属音。窓の外をタグボートが横切る。対面のテーブルで町長が、湯気越しに尋ねた。
「総理、四年って、ほんとうに間に合うのか」
スプーンが止まる。四年――ここでは単なる期間に聞こえるが、天城の頭の中では別の時計が鳴っている。米国の政治時計、国内の選挙時計、設備投資の償却時計、人材育成の時間。ズレた針を同じ正午に合わせる作業は、机上では整然でも現実では暴れる。
「四年“あれば”形になる。四年“しか”ないなら、形を変え続けるしかない」
答える自分の声が、潮風に溶ける。町長は唇を結び、ゆっくり頷いた。諦めを捨てるには、根拠が要る。根拠が数字だけでは、人は動かない。数字に責任が伴って、初めて動く。
午後は、山の方にある小さな電子部品工場へ向かった。谷筋の道路を上る。ガードレールの錆を横目に、白い建物が現れる。玄関の横に新品の防犯カメラ。扉を開けると、空気が清潔で、薄くフラックスの匂いが混じっている。白衣の若い技術者が慌てて立ち上がり、帽子ごとお辞儀した。
「総理、ほんとうに……」
「君たちの時間を借りに来た」
工場長の小林が現れ、無言でラインへ案内する。ロール・トゥ・ロールの装置が薄い銅箔を送り、銀色のパターンがベルトの上に次々と生まれる。天城は手袋越しに治具の角を触り、振動の粒の細かさを確かめる。
「耐環境基板、試作は?」
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「できます。ただ、EDAが……米国のライセンスに触れると止まる」
「欧州二社と交渉中だ。ライセンスのスプリット、国内バックアップ拠点、ソースの一部開示。三点セットで飲ませる」
「飲むか?」
「飲ませる理由を作った。“日本市場の気まぐれ”だ。半月わざと在庫を切らす。支払いを遅らせる。痛みを先に、軽く。学んだ相手は、条件に寛容になる」
小林は苦笑した。「政治は時々ブラックだ」
「現場もな」
二人は短く笑い、すぐに無口へ戻った。機械音が、会話の余白を均していく。
工場の端で、訓練生の小部屋を覗く。半田ごての持ち方からやり直している若者の手に、教官がそっと触れる。モニタには波形。目は真剣だが、肩に力が入りすぎている。天城は一歩だけ近づき、声を落とした。
「肩は、最初に許してやる。精度は、最後に厳しくする」
若者が驚いて顔を上げる。天城は笑わない。笑いは逃げ道になる。逃げ道は必要だが、逃げる癖は害になる。
夕方、仮設の会議室。金属製の机に書類が積まれ、電気ポットが湯気を立てる。経団連の幹部・三谷、電子大手連合の門倉、財務主計の若い課長補佐が座る。窓の外では、港の灯が点き始めた。
「総理、民生と軍需を混ぜるのは、外の目が厳しすぎます」門倉が開口一番に言う。「コンプラで足をすくわれる」
「混ぜない。二層に分ける。表は従来規格、裏は“高耐性”。輸出は第三国との共同名義だ」
「どこと」
「バルトの一国、ASEANの二つ、欧州大手一社。もう話は通してある」
「リスクを投資家が嫌う」
「リスクは時間の別名だ。四年後の岐路までに、どれだけ内側に戻せるかだけが評価になる」
若い主計が、恐る恐る口を開く。「財源は……」
「基金は回転、国債は限定、初期需要は国が作る。税は触らない。触れば政治が死ぬ」
「歳出は?」
「箱を閉じる。誰かが泣く。泣く場所は私が決める」
空気が少しだけ震えた。言葉が刃物の硬さを持つと、部屋の温度は下がる。だが、その後に訪れる沈黙は、納得の合図にもなる。三谷が咳払いし、わずかに頷いた。
「内示まで三週間。経営会議で“雇用”を前面に出す。――総理、現場に嘘はつくな」
「嘘はつかない。言わないことが増えるだけだ」
「世間はそれを嘘と呼ぶ」
「歴史は、準備が終わるまで真実を待ってくれない」
三谷は口角を上げ、目だけで笑った。それで十分だった。
官邸へ戻る車中、諸星が暗号化通話を耳に当てる。
『総理、防衛・外務・財務が“安保再定義”草案の文言で揉めています。“対等”を“緊密”に、“自立”を“深化”にと言い換えたいと』
「言葉を弱くする者は、責任を弱くしたいだけだ。――夜、非会議だ。場所は執務室。入室は名札ではなく、顔で通す」
「はは……はい」
夜、官邸小会議室。扉には「使用中」。中にいるのは、諸星、防衛相の葛西、外務相の本城、財務の政務三役、若手官僚が数名。天城はA4一枚を配った。十行の短い文。
《安保の再定義。日本は“同盟の当事者”として責任を引き受ける。米軍の役割は“要”に再配置。基地は段階的に整理・共同化。装備は内製比率を引き上げ、共同開発は対等原則。外交は多極の網を編む。四年で、物と人と資金の導管を国内に作る。》
「骨だ。肉はあとで付ける」
本城が眉をひそめる。「“当事者”は刺激的です」
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「“従者”のままよりは、ましだ」
葛西が頷いた。「現物が要る。言葉は空回りしやすい」
「現物は揃える。四年で」
財務の政務が口を尖らせた。「四年四年と言うが、支持率は四年もたない」
「“四年後に何かが起きる”とは言えない。だが、“四年後にも選べる日本にする”とは言える」
若い官僚が手を挙げた。「米国から非公式の問いが増えています。“日本はどこへ行くのか”。外は笑顔、内は剣幕。『笑顔で沈黙』を続けるほど、相手は勘ぐる」
「勘ぐらせろ。勘ぐりは、こちらの時間を増やす。答えは、こちらが選ぶ瞬間にだけ渡す」
会議が散じ、廊下の突き当たりで諸星が足を止める。
「総理……怖くないのか」
「怖い。だから、間違えない。恐怖はブレーキにも、舵にもなる」
執務室に戻る。窓のガラスに都心の灯が逆さに映る。机一面に広げたのは、国内サプライチェーンの巨大な地図。造船、鋼材、電機、基板、光通信、衛星、ソフト。色の違うピンを糸で結び、欠けた箇所に赤い丸をつける。一本赤を打つたび、胸の内側が小さく疼く。痛みは、まだ間に合う証拠だ。
スマートフォンが震えた。ワシントンの片倉から。
《孤立派の議員グループ、白書を歓迎。州知事側近と接触。退役軍人団体、国内再建論に賛同の気配》
《“経済の語彙”で続けろ。安全保障は最後に》と返す。送信した親指に微かな震え。疲労ではない。満ち潮の音に筋肉が反応しているだけだ。
引き出しから、就任の日に自分に書いたメモを取り出す。紙は角が丸くなっている。
《恐怖を超えた先にしか、頂はない》
封を戻し、ランプを一段落とす。窓の外、港の灯が瞬く。焼けた鉄は、冷めると固い。今、鍛たねば形は変えられない。天城は背筋を伸ばしたまま目を閉じ、夜の色を見分ける訓練を短くだけ行った。夜明けを先に掴む者は、夜に目が慣れている。
――明日、米国大使が来る。笑顔で、あるいは牙で。どちらでも受けて立つ。
胸の内側で、潮が静かに満ちていく音がした。
◇◆◇◆◇◆
翌朝。官邸の庭に淡い霜が降り、玉砂利が白く光っていた。
応接室のドア前には旗章が立てられ、赤い絨毯が静かに敷かれている。秘書官の秋山が腕時計を確認し、うなずいた。
「……来ます」
黒い車列が止まり、ドアが開く。駐日米国大使マイケル・ローランドが姿を現した。柔らかな笑み、乾いた目。握手の力は適温、温度が上がりすぎないよう調整された外交の手だ。
「総理、朝早くから失礼を」
「ようこそ。どうぞ」
応接室。窓辺のブラインドから冬の日差しが細く落ちる。卓上の湯気が一本道で上り、空調の風に撫でられて消えた。儀礼の挨拶を交わし、茶器が下がると、場の音が一段深くなる。
ローランドは、クリーム色のファイルをそっと置いた。
「“共同運用の高度化”計画、興味深く拝読しました。率直に申し上げれば、ワシントンには懸念もあります。機能の移行は、地域抑止の空隙を誘発しうる」
天城は一拍置いてから、カップを口に運んだ。湯の温度が舌を通り、喉にじわりと落ちる。
「空隙を生むのは“撤収”です。私たちが提案しているのは、分担の見直し。日本が前段を担い、米国は“要”に残る。抑止の幾何学は変わらない」
ローランドは目を細めた。「しかし、その“要”の定義は誰がする?」
「“同盟の当事者”が協議して決める。これまでのように“従者”が追認するのではなく」
応接室の空気がわずかに張った。秋山の指がノートの角をそっと押さえる。ローランドの笑みの下、顎の筋肉が小さく動いた。
「総理、日本は米国の一番の同盟国です」
「そこに疑いはありません。だからこそ、依存でなく、選択で結ばれたい」
沈黙。時計の針が一目盛り進む音が、普段より大きく聞こえた。
ローランドはファイルを開き、数枚の紙を抜いた。「もう一点。“産業再編”です。貴国が造船、電子、基盤ソフトを国内で囲うなら、サプライチェーンの透明性が損なわれる。市場は敏感だ」
「国内雇用と安全保障の冗長性は、透明性と矛盾しません。必要なら第三国との共同名義で輸出枠を設ける。監査も受ける。——ただ、設計の“中枢”だけは、日本に置く」
「それは“壁”だ」
「それは“家”です。家に鍵があるのは、壁があるからです」
ローランドは笑い、笑わなかった。やがて静かに立ち上がった。
「理解しました。ワシントンに持ち帰りましょう。最後に、個人的な質問を一つ。……総理、四年後を見ている、ね?」
天城はわずかに目を伏せ、すぐに顔を上げた。「政治家は明日の天気も見る」
「そうですか」
握手。温度はやはり適温だったが、指先に前より硬さがあった。
大使が去ると、秋山が小走りに近づいた。「議事概要、どうしますか」
「極秘。要旨だけ外務省に回せ。ニュアンスは書くな。——“温度”が漏れる」
秋山がうなずく。その頬の筋肉は強張っていた。天城は気づきながらも、別のファイルを開く。
◇
昼前、永田町の一室。経団連幹部、主要行の頭取、商社の役員が狭い円卓に集まっていた。配布された資料の表紙には「地方産業強靭化モデル(海陸統合)」とある。
プロジェクタに映されたのは、港湾の災害対応設備、洋上変電、物流電化の試作。だが説明の言葉は、雇用と生産性に絞られている。
「要は、**“国内で回せる輪”**を太くする、ということです」
諸星が淡々と述べる。「輸出の目はASEANと欧州で両睨み。米国市場は維持しつつ、ショックに耐える厚みを——」
「総理、現実の話をしましょう」三谷が割って入った。「米国は動きます。圧力も来る。——いま朝のニュースで“大使が官邸を訪問”と流れている。市場は繊細だ」
天城は頷いた。「だから、先に“雇用”を市場に流す。投資家は数字に反応する。雇用の数字は、恐怖より強い」
門倉が資料をめくり、眉根を寄せた。「“高耐性規格”の枠、広すぎませんか。米国のEDA規制に触れると——」
「欧州の二社と交渉は詰めている。条件は譲らない。代替の試作も始めている。“切られても死なない構造”が必要だ」
会議室の照明が少しだけ熱を帯びた。
重役の一人がため息をつく。「……腹は括る。だが、嘘はなしだ」
「嘘はつかない」天城は短く答えた。「——言わないことが増えるだけだ」
数人が苦笑した。政治と言葉の距離、現場は知っている。
◇
午後、記者クラブ。国旗の前、演台のマイクに白い反射が走る。
「総理、“共同運用の高度化”は実質的な米軍撤退準備では?」
「違います。負担の合理化です。——質問をどうぞ」
「米国は反発しています。日米関係は冷却化するのでは?」
「冷却ではなく“再定義”です。同盟は壊しません。持たせます。形を変えて」
フラッシュ。ペン先の音。
天城は答えるたび、言葉を半歩だけ先に出し、半歩だけ引いた。前のめりになれば国内が騒ぎ、引きすぎれば現場が冷える。言葉の“体温”を微調整しながら、彼は会見を走り切った。
壇を降り、廊下で諸星が早足で追いつく。「総理、米大使館が一部メディアに“国家介入”とリークをかけ始めています」
「予想通りだ。こっちは“地域雇用特集”を今夜のニュースに。数字と顔を出せ。——“人の灯り”は、報道の一番強い素材だ」
「了解」
◇
夜。官邸の小会議室。
秘密の“非会議”は再び開かれた。防衛相・葛西、外務相・本城、財務の政務三役、若手官僚たち。
テーブル上に一枚の紙。見出しは短く、骨だけが並ぶ。
《同盟の再定義:日本は“当事者”。米軍は“要”に再配置。基地は段階的共同化。装備は内製比率引上げ、共同開発は対等原則。外交は多極の網。四年で“国内導管”を敷設。》
本城が慎重に口を開いた。「総理、“当事者”はなお刺激的です。米側は“勝手に大人になった”と受け取る恐れが——」
「いつまでも子供ではいられない。子供のふりは、もう通用しない」
葛西が横から支える。「現物側も間に合わせる。足りないのは時間と人。採用と訓練、予算の前倒しが要る」
「やる」天城は短く言った。
財務の政務が吐息を洩らす。「支持率は……」
「“四年後にも選べる日本にする”とだけ言う」
若手官僚の一人が恐る恐る手を挙げた。「総理、米国から“ほんとうは何をする気だ”という非公式の問いが増えています。笑顔の沈黙は長く持ちません」
「勘ぐらせろ」天城は、迷わず答えた。「勘ぐりは、こちらの時間になる。答えは、こちらが選ぶ瞬間にだけ渡す」
空気が固まり、やがて解けた。
会は解散。廊下の突き当たりで諸星が立ち止まり、ぽつりと聞いた。
「総理……怖くないんですか」
「怖いさ」天城は素直に言った。「だから、止まらない。恐怖はブレーキにも舵にもなる」
◇
執務室。
窓に映る都心の灯が風で揺れ、光が水面のように波打つ。机には国内供給網の地図。ピンと糸、赤い丸。足りない点に赤を打つたび、胸の内側が小さく痛む。痛みは、生きている証だ。
スマートフォンが震える。ワシントンの片倉から。
《孤立派議員、白書を引用。“選択的関与”の表現が広がる。退役軍人団体が地方紙に寄稿。州知事陣営、港湾計画に関心。》
《経済の語彙で続けろ。安全保障は最後に》と返す。打鍵の親指に、わずかな震え。満ち潮の音に身体が反応しているだけだ。
引き出しから、就任の日のメモを取り出す。角はすり切れ、紙は柔らかい。
《恐怖を超えた先にしか、頂はない》
天城はそれを見つめ、そっと戻した。
ランプを一段落とす。
ふいに、内線が鳴る。秋山の声。「総理、経団連から。明朝、三谷会長が“乗る”と」
天城は短く「わかった」とだけ答え、受話器を置いた。
窓の外、港の灯がまた一つ増える。灯りは、遠くを怖がらない。
目を閉じる。瞼の裏に、造船所の鉄の匂い、電子工場の清浄な空気、若者の掌の熱、退役軍人の固い握手、地方紙のインクの染み——それらが縄のように撚り合わさって一本の綱になる。綱は、舵輪に巻かれるためにある。
(四年後、合図は鳴る)
(こちらの準備が整っていても、いなくても、鳴る)
(そのとき、舟は——動く)
彼は椅子から立ち、カーテンをわずかに開けた。真冬の空は硬く澄み、星がいくつか白く瞬いている。
揺らぐ影の中に、揺るがぬ芯を立てる。
静かな対峙は続く。だが、舵はもう、彼の掌にあった。