第5話『水面下の同盟――暗流』
ワシントンD.C.の夜は冷たかった。冬のポトマック川を渡る風は、都会のネオンすらかすませるほど鋭く、街を歩く人々は首をすくめ、足早に目的地へと向かっていく。
その中に、一人の日本人がいた。防衛省出向の外務官僚、片倉悟。天城一誠の直轄タスクフォースの一員であり、この夜は極秘任務のために米国へ派遣されていた。
片倉が向かうのは、ジョージタウンの奥にある古びたタウンハウスだった。表札もなく、外観はほとんど廃屋に近い。だが、内部は違った。重厚なカーテンで外界を遮断し、壁際には古いタイプライターや軍服、写真資料が並べられている。
部屋の中央に立っていたのは、米国海軍退役大佐であり、現在は保守系シンクタンクの戦略顧問を務めるハロルド・ケイン。反国際協調主義を掲げる急進的な孤立派で、日本の“自立”路線に一定の理解を示している数少ない人物だ。
「来たか、片倉。日本の総理は、本気らしいな」
「ええ、総理は躊躇しません。ただ、我々の動きが早ければ早いほど、ワシントンの保守派と孤立派を結びつける可能性が高まります」
「ふん……だが、その代わりにお前たちは米国政府の敵になる」
「承知しています」
片倉の返答は淡々としていた。
ケインはワインを注ぎ、片倉の前に置く。
「いいだろう。まずは情報と資金だ。孤立派の議員たちに流す“安全保障再定義”の試案を作れ。日本が自主防衛に移行することで、米軍の海外駐留経費を削減できる――そういう論法だ。財政赤字に苦しむ連中には、何より効く」
片倉は懐から封筒を取り出した。中には、日本国内で既に準備していた経済試算と、造船・電子産業の再編計画がまとめられている。米軍の負担軽減だけでなく、米国産業への限定的発注も盛り込み、完全な対立構造を避けるように調整されていた。
一方、日本。
総理官邸の地下会議室では、天城と篠宮を中心に極秘ブリーフィングが行われていた。
「片倉は予定通り接触に成功したようです」
「よし。これで米国内の足場が固まる」
天城は腕を組み、わずかに頷いた。だが篠宮の表情は硬い。
「総理……懐疑派との接触はいいとして、国内が持ちません。防衛族の議員や一部の経済界は、すでに“日米離間”の噂でざわついています」
「だからこそ、表向きは従来路線を強調する。メディアには“安保の深化”という言葉を使わせろ。裏では別の構造を作る」
会議室の空気は重かった。誰も声を荒げはしなかったが、全員が理解していた――これは国内世論を欺くことになる、と。
しかし天城は、その視線を正面から受け止めた。
「国家は感情で守れない。国民の不安を煽れば、必要な改革はできない。だから今は、真実を隠す」
夜遅く、天城は公邸の書斎に一人残った。机の上には、米国の政治地図と人脈図が広げられている。
赤く囲まれたのは孤立派の議員、その周辺には有力支援者の名がびっしりと記されていた。
鉛筆で新たな線を引きながら、天城は独りごちた。
「4年後……米国が再び内向きになった時、日本はもう元の位置には戻らない」
その目は、すでに未来の政権交代と、それに伴う外交秩序の変化を見据えていた。
◇◆◇◆◇◆
翌朝、ワシントンD.C.郊外の小さな会議室。窓には新聞紙が貼られ、外の光はほとんど入らない。
片倉悟は黒いケースから資料を取り出し、長机の上に並べた。そこに座っていたのは、下院国防委員会の一部議員、そして退役軍人を中心としたロビー活動団体の代表たちだった。
「これは、日本政府が独自に算出した防衛経費試算です。米軍のアジア展開規模を縮小した場合、貴国の財政赤字は年間で約4%改善します」
片倉は淡々と説明を続けた。
「我々は、日米安保条約を破棄する意図はありません。ただ、現行の形を“再定義”する必要があります」
一人の議員が口を開く。
「再定義? 聞こえはいいが、要するに自衛隊を前線に置いて米軍を引かせるってことだろ」
「正確には、アジアの前線管理を日本が担い、その分、米軍は他地域への再配置が可能になる……という形です」
彼らの関心は、安全保障よりも選挙資金と世論の数字にある。
片倉は、用意していた“餌”を出すタイミングを見計らった。
「この計画が実現すれば、米国内の造船業や電子産業には、日本政府からの限定的発注が発生します。数千人規模の雇用創出も見込まれます」
その瞬間、場の空気がわずかに変わった。
彼らの表情に、計算が始まった証拠が現れる。数字、票田、そして献金――。
一方、日本。
総理官邸の記者クラブでは、野党議員のリークを受けた記者たちが、天城政権の「安保再定義構想」を嗅ぎつけていた。
「総理、米国孤立派との接触は事実ですか?」
記者の一人が突っ込む。
天城は微笑みを崩さず、あえて曖昧な言葉を返す。
「我々は、あらゆる選択肢を研究しています。国民の安全を守るために」
記者たちはそれ以上の確証を得られず、会見は終わった。しかし、その夜、野党議員の一人がSNSで「日米同盟を壊す内閣」と投稿し、瞬く間に拡散された。
その頃、天城は首相公邸を抜け出し、虎ノ門の高級ホテルにいた。
スイートルームのカーテンは閉められ、部屋の中にはわずかなランプの光。
そこにいたのは、日本在住の米国シンクタンク支部長であり、情報操作の実務を担う人物――エヴァン・ローレンス。
「あなたが直接来るとは思わなかった」
「片倉には表の役を任せた。裏は俺が動く」
天城は封筒を差し出す。その中には、匿名の形で米国内メディアに流す予定の記事案と、反国際協調派シンクタンクの研究費口座への送金計画が入っていた。
「この記事は、米軍の海外展開縮小が“米国第一”に資するという論調だ。あなたの組織経由で、複数メディアに分散して出してくれ」
「受けた。ただし、日本国内への波及はどうする?」
「それは俺が制御する。メディアの視線を逸らすネタを用意してある」
その“ネタ”は翌週、見事に炸裂した。
閣僚の一人が不倫スキャンダルで辞任を発表。ワイドショーと週刊誌は一斉にこの話題を連日報じ、安保再定義への関心は一気に薄れた。
官邸スタッフの間でさえ、「総理が仕込んだのではないか」と囁く者がいたが、誰も証拠を掴めなかった。
ワシントンでは、片倉が再びケイン大佐のタウンハウスを訪れていた。
「こちらの孤立派議員グループ、概ね計画に同意しました。ただ……」
「ただ?」
「彼らは見返りを急ぎたがっている。来年の中間選挙までに成果を見せなければ、支持を失う」
ケインは渋い顔をした。
「それはお前たち次第だ、片倉。日本がどこまで踏み込む気か……そして天城がどこまで本気か、だ」
東京。深夜の総理執務室。
机に広げられた資料の山。その中には、米国だけでなく、東南アジア諸国や欧州の保守派ネットワークの情報も混ざっていた。
天城は一枚のメモを取り上げる。そこには短くこう書かれている。
《4年後、米国は再び内向きになる。その時、日本は既に別の地平に立っていなければならない》
窓の外には冬の東京タワーが赤く光っていた。
天城はその灯を見つめながら、低く呟いた。
「間に合う……必ず」