第4話 遠雷は海の向こうから
ワシントンの夜は、東京より暗い。
ダウンタウンの灯りが落ちても、ホワイトハウス周辺の芝生は無口に広がり、街路樹の葉がこすれる音だけが、遠い海鳴りのように耳の奥を撫でた。
「時間どおりだ、総理」
外務省から出向している北米担当の神田が、黒いSUVのドアを開けた。待ち合わせ場所は、美術館の閉館後に貸し切られた小さなホール。表向きは「文化交流基金」の寄付者感謝レセプション。だが、裏の目的は別にある。
天城一誠はタイの結び目を指で整え、夜風を一度吸い込むと、ホールの灯へ向かった。
高くない天井、白い壁。展示が片づけられた空間に立食テーブルが並び、レモンの香りが薄く漂う。壁際では弦楽四重奏が静かに楽曲をなぞり、グラスの触れ合う音が時折それを横切る。
スピーチが始まる前、天城は短い挨拶を終え、自然な流れで参加者の輪に溶けた。実業家、大学の研究者、地方紙の編集長、退役軍人の団体代表――「文化」と「経済」を名目に、必要な駒が揃っている。
(文化は盾、会話は矛。順番を間違えなければ、刃は見えない)
天城の視線が一瞬だけ鋭さを宿す。笑みは崩さない。
最初に話したのは、中西部の地方紙を束ねる小出版社の社長だった。五十代、指先にインクの染みが残っている。
「あなたの演説、読んだ。『依存から自立へ』ね。だが、アメリカは日本を必要としてる。太平洋の海上ルートは、まだ我々の責任だ」
「責任を果たすには、余裕が要る」天城はグラスを置いた。「国防費は膨らみ、国内は分断し、景気の見通しも暗い。負担の分配を“合理的に”考え直す時期では?」
社長は鼻で笑い、すぐに笑わなかったことを悔やいるように咳払いした。「誰が書く? そんな社説を」
「読者が求めれば、記者は書く。数字を見せれば、読者は動く」
天城は小さなフォルダを差し出した。中には州別の国防関連支出と雇用データ、海外展開コストの推移、退役軍人の医療予算の逼迫を示すグラフ。
「この三本柱で一本の論説を。『世界の警察』から『国内の再建』へ、という筋書きは、極端ではない」
社長は資料の角を親指でなぞり、短く頷いた。言葉ではなく、紙の重さで頷く者の頷き方だった。
次に近づいてきたのは、退役軍人団体の代表。肩幅は広いが、目元は疲れていた。
「極東での任務は誇りだ。だが、若い連中は帰ってきてからが大変だ。医療も仕事も足りない」
「地域の工場で、彼らの技能は生きる」天城は言った。「もし太平洋の前線負担が減るなら、国内で再雇用する枠組みが必要だ。日本からも投資する。共同の訓練・生産・研究――名目は何でもいい。結果として、彼らの街に灯が戻るなら」
代表は長い沈黙ののち、握手を求めてきた。握るその手は硬く、しかし震えてはいなかった。
(こちらが差し出せる“善”は、いつも限られている。だが、限られた善でも届く場所がある)
神田が小声で耳打ちした。「予定の方が見えました」
振り向けば、保守系シンクタンクの副所長――ワシントンでは知る人ぞ知る「白書の影の執筆者」――が入ってきた。眼鏡の奥の眼差しは冷たいが、握手はやけに柔らかい。
「首相、お招きありがとうございます。あなたの国は、変わろうとしている」
「私の国だけではない。あなた方の国も」
軽口の応酬で温度を測る。副所長は一拍置いたのち、ワインを傾けた。
「仮に、米国が負担を減らす方向で“賢明な見直し”をするとして、太平洋は誰が埋める?」
「まずは当事者が。日本、オーストラリア、インド、ASEAN。米国は“要”にいればいい」
「あなたは、同盟を壊したいのでは?」
「いいえ。壊れずに形を変える物ほど、長持ちする」
副所長の目が、初めて少しだけ笑った。
「興味深い。……ところで、中西部のある州知事をご存知かな」
(来た)
「教育改革で名を上げ、財政は黒字。だが外交は内向き。『州民第一』を合言葉に、連邦の拡張に批判的」
「あなたのメモ帳には何でも載っているようだ」
副所長はグラスを置いた。「仮に彼が四年後、ここに座るとしたら――太平洋をどう見ると思う?」
「少なくとも、今より細く見る」天城は答えた。「だが、完全に手を引くのは賢くないと、誰かが数字で教える必要がある」
「誰か、とは?」
「あなた方の白書。あるいは彼の支持者の“声”」
「声は、どこから来る?」
「いつも、遠くから」
沈黙は短く、しかし十分だった。副所長は視線だけで頷き、名刺ではなく、薄いカードを渡した。白紙に見えるそのカードは、光の角度で文字が浮かぶ。「研究寄付・問い合わせ窓口」。
「これはワインの礼だ。寄付は透明に、そして目立たないように」
「目立たない善意ほど、長く効きます」
レセプションの終盤、弦が最後の和音を引き伸ばす頃、天城は会場の隅で小さな輪に加わった。そこにいたのは、東海岸の名門大学の研究者三名。専門はエネルギー政策、サイバーセキュリティ、公共政策。
「共同研究の提案です」研究者の一人が言った。「“港湾の脱炭素化とレジリエンス強化”。助成金の枠は既に確保しました。日本側の窓口があれば、すぐにでも」
「あります」天城は即答した。「『災害対応』と『港湾競争力』の名目で、国内の政治も動きやすい」
「サイバーの方は、軍民両用に見えませんか?」
「見えます。見せ方はこっちで作る。あなた方は学術の言葉で、正確に強く」
握手を交わす掌の温度が、少しずつ現実を暖めていくのを、天城は確かに感じた。
(これで直ちに何かが変わるわけではない。だが、四年後の図を描く線が一本、また一本と増える)
レセプションが終わると、天城は裏口から出た。夜は深く、虫の声が遠い。黒い車が滑るように路地へと入る。
車内の灯りを落とし、神田がタブレットを差し出した。「地方ラジオの枠が二本。退役軍人のポッドキャストが一本。いずれも“国内再建”“連邦の節度”がテーマです」
「進めろ。名義は文化交流の寄付。出演者は、向こうの言葉で向こうの物語を語る人に」
「候補は?」
「『高い税と海外任務で疲弊した町』の校長、『連邦補助金の期限切れで閉じた診療所の医師』、そして『帰還兵の弟を持つ州議会スタッフ』――彼らに数字を渡せ。訴えは彼らの言葉で」
神田は頷き、少し躊躇してから言った。「総理、ここまでやると、いずれ気づかれます」
「気づかれてからが本番だ。こちらの意図に気づいた時、相手が“何を失うのを恐れるか”が見える」
「彼らは何を恐れる?」
「雇用の空洞化、予算の削減、地元への反発。つまり“票”だ」
天城は薄く笑った。「政治家は票に従う。ならば票の向きを変えればいい」
ホテルの部屋に戻ると、窓の外にポトマック川の黒い曲線が見えた。足元のカーペットは柔らかく、靴底の硬さをすぐに吸い込む。
照明を落とす前に、天城は机に薄い封筒を並べた。
――中西部の州知事のプロファイル。
――州ごとの軍需雇用マップ。
――港湾の災害対策助成金の分布。
――大学との共同研究の提案書。
紙の面が夜気で少し波打つ。彼は人差し指で、その波をならすように撫でた。
(この街で、私は味方を作るのではない。“都合”を作るのだ)
ノックが二度、控えめに響いた。神田がドアを開け、USBメモリを一つ机に置く。「副所長から。白書のドラフト。『選択的関与』という新章があります」
天城は頷いた。「目標はひとつ――“全面関与か全面撤退か”の二択を、彼らの手で壊させる」
画面に走り書きでメモを残す。《選択的関与=日本の自立余地》
ペン先が止まる。胸の奥の疼きが、波のように寄せては返す。
――間に合うのか。
問いは鋭い。だが、答えは一本しかない。
――間に合わせる。
深夜、携帯が震えた。発信者非表示。
「遅くに失礼。……君の“港湾計画”、興味がある」
低い声。南部訛り。名前は名乗らない。だが天城は、相手が誰の側近かを声の荒さで測る。
「港は、内陸と外洋を同時に救う装置だ。州の予算だけでは足りない。連邦のプログラムと民間の投資を引っ張る必要がある」
「そこに日本の金を入れる?」
「日本の“技術と共同研究”を入れる。金は自然についてくる」
沈黙。受話器の向こうで氷がグラスに当たる音がした。
「話を続けよう。近いうちに」
通話を切ったあと、天城はしばらく窓の外を眺めた。遠くでサイレンが短く鳴り、すぐに消える。
彼は時計を見た。東京は昼。官邸は動いている時間だ。
メッセージを一本だけ打つ。《“文化の盾”を厚く。交渉は“経済の語彙”で》
送信ボタンを押す指に、僅かな震えがあった。疲労の震えではない。海が満ちてくる音に身体が反応しているだけだ。
灯りを落とし、ベッドの端に腰を下ろす。靴を脱ぎ、指をひとつずつ伸ばす。
目を閉じれば、湾の造船所で聞いた鉄の匂いが蘇る。電子工場の清浄な空気が混ざる。地方紙の編集室の埃っぽい光。退役軍人の手の硬さ。
それらが長い縄のように撚り合わさり、やがて一本の綱になる。綱は、舵輪に巻かれるためにある。
(四年後、合図は鳴る)
(そのとき、舟は――動く)
天城は横にならず、背筋を伸ばしたまま、目を閉じた。
眠るのではない。暗闇に目を慣らすのだ。夜の色を見分けられる者だけが、夜明けを先に掴む。
窓の向こうで風が少し強くなった。遠雷が、海の向こうで小さく鳴った気がした。
――聞こえた、と思った。
そして静かに、笑った。
◇◆◇◆◇◆
午後九時を過ぎても、総理官邸の執務室には明かりが灯っていた。
天城一誠は、机上に並べられた資料を無言で読み進めていたが、時折ペンを止めては、深く椅子の背にもたれた。表情に疲労の色はあっても、迷いの影は薄い。むしろ、練り上げられた戦略を前にした棋士のような眼差しを浮かべている。
その静寂を破るように、扉がノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは内閣官房副長官の篠宮だった。天城の右腕とも呼べる存在であり、政界の裏事情に通じた稀有な人物だ。
「総理、例の件ですが……米国側の反応が、少々想定よりも早いようです」
篠宮は封筒を差し出す。中には、在米大使館経由で入ったばかりの極秘報告が入っていた。
天城は一読し、わずかに眉を上げた。
「“日本政府内に、安保見直し論が強まっている”か……。向こうのメディアにリークされているな」
「ええ。まだ断片的ですが、米国内の保守系シンクタンクが、この情報を元に“日本の離反リスク”を煽り始めています」
篠宮は淡々と告げたが、その声の奥には警戒心があった。
「総理、ここは一旦、公式には“従来路線を維持する”と発信して、時間を稼ぐべきでは?」
天城は机上の地球儀をゆっくりと回し、指で太平洋をなぞった。
「時間は稼ぐ。ただし、稼いだ時間は攻めに使う。守りに徹している限り、こちらの主導権は戻らない」
「……攻めに、ですか」
「ああ。アメリカは今、内政で揺れている。保守派と孤立主義派の間で軋轢が強まっている。この亀裂を広げれば、日米安保の“再定義”を受け入れざるを得ない状況に持ち込める」
篠宮は沈黙した。これは危うい賭けだった。
「総理、それは米国の政権中枢を、あえて二分させるということになります」
「そうだ。だからこそ、準備がいる。今から米国内の“安保懐疑派”への水面下支援を強化する。世論と資金の流れを、こちらが調整する」
その言葉は、まるで戦略ゲームの駒を置くかのように冷静だった。
窓の外には冬の夜空が広がり、東京の街は光に包まれていた。だがその輝きの裏で、目に見えぬ情報の網が編まれつつあることを、知る者は少ない。
翌日、天城は公邸の一室で、少人数のブリーフィングを開いた。
出席者は防衛省、外務省、経産省から選ばれた極秘タスクフォースのメンバーだ。
「米国の反応は予想通りだ。彼らは、日本が自分たちの庇護下にあるという構図を手放さない。しかし、構図そのものを揺さぶればどうなる?」
天城は視線を巡らせ、一人一人の表情を見極める。
「我々は、自らの意思で安全保障を設計し直す。そのためには、まず“依存の構図”を終わらせる必要がある」
経産省の若い参事官が、意を決して口を開いた。
「ですが総理、それでは米国からの経済報復が避けられません。特に半導体と防衛関連の輸出規制は……」
「だからこそ、造船所の再編と電子産業の内製化を急いでいる。技術と生産ラインを国内で確保すれば、制裁は効かない。相手の武器を無効化してから交渉に臨む」
天城の答えは切り返しが早く、論点がぶれない。
会議室には、緊張と同時に奇妙な高揚感が漂った。
誰も口には出さなかったが、全員が理解していた――これは、戦争なき戦争の開戦前夜だということを。
会議が終わり、篠宮が天城に声をかけた。
「総理……もしこの計画が途中で漏れれば、内閣どころか政権そのものが吹き飛びます」
「わかっている。だからこそ、漏らさないための網も同時に張る。情報は制する者が勝つ」
天城は立ち上がり、窓越しに夜明け前の街を見下ろした。
「篠宮、覚えておけ。国家は時に、常識を裏切らねば生き残れない」
その声には、恐れよりも決意の響きがあった。