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第3話 「静かな策謀──造船再編と米国世論の揺らし方」


 灰色の雲が低く垂れ、海は鉛のように重かった。

 地方空港から車で一時間、湾奥の造船ドックに着くと、錆びたクレーンが静まり返ったまま空に突き刺さっている。月に一度だけ受注があるかどうか――そんな場所だ。作業服の男たちが、総理の突然の視察に半歩引いた目を向ける。警備の動線が整えられ、白いヘルメットを渡される。天城一誠はそれをかぶり、深く一礼した。


 「稼働率は?」

 「四割を少し切るくらいです」工場長の声は乾いていた。「人も設備も余らせています。若いのは都会へ。残ったのは、海を知ってる年寄りばかりで」

 天城は黙って、組立工程の床に視線を落とした。鉄板の継ぎ目。溶接ビードの走り方。わずかな歪み。手の癖――人の生きた時間が金属に刻まれている。ここはまだ、息をしている。ならば蘇生できる。


 町長が横に並ぶ。「総理、国の支援はありがたいが、うちに軍需は荷が重い。噂じゃ……」

 「噂は噂です」天城は微笑を浮かべた。「公式には“環境対応型の次世代船舶開発拠点”。物流の電化、港湾の環境規制、災害対応の多目的船――どこにも嘘はありません」

 町長は目を細める。「“どこにも嘘はない”が、全部じゃない」

 「ええ。全部ではない」天城は頷く。「だが、ここで作る技術は、平時には物流と漁業を支え、非常時には国を守る。二つの顔をもつのが、これからの産業です」


 工場長が工具箱に手を置いた。「人を戻せるなら、何でもやる。だが、うちは特殊な部材が要る。米国のルートが止まったら、お手上げです」

 「止まらないようにする」天城は即答した。「当面は欧州と共同調達に切り替える。並行して国内サプライチェーンを再編する。下請けの工程を横につなぎ、部品の仕様を共通化する。あなたたちの腕が、最短距離で最終製品に届くようにする」

 「口で言うほど楽じゃない」

 「だから、国がやる」


 言い切った自分の声が、鉄骨に反響して耳に戻る。大きく出たな、と内側の別の声が囁く。だが、ここで引けば潮が引くように人心が離れる。港の空気は、風見鶏より敏感だ。天城はそれを知っている。


 視察団は電装棟へ移った。薄暗い建屋の中、未使用のはずの基板実装機が覆い布の下で眠っている。工場長が布をめくると、最新世代のマウンタが静かに現れた。

 「補助金で買ったんだが、仕事がない。電力ももったいなくて、ほとんど動かせない」

 天城は近づいて、カバーガラスに映る自分の顔を見た。そこには疲れがあった。だが疲れの奥に、焦がすような衝動がある。

 ――この国は、借り物の甲冑で戦ってきた。

 ――もう一度、自分の手で鍛え直す。


 同行の経産官僚・水谷が、タブレットの画面を天城に見せる。

 「総理、電子部品の再編案です。港湾の物流電化に合わせて、モーター制御と電力変換のラインを立てます。表向きはグリーン・ロジスティクス。実際は、軍用の電磁環境耐性を満たす規格で」

 「よくやった」

 「ただ……財務が渋い。『軍需転用が前提なら精査が必要』と」

 天城は短く笑った。「精査させろ。時間をかけさせる。こっちは先に動く」


 昼、港の食堂で天城はカレーをかき込んだ。窓の外を、錆色のタグボートがゆっくり横切る。向かいで町長が遠慮がちに口を開いた。

 「総理、本当に四年で何とかなるのかい」

 スプーンが一瞬、止まる。四年――その言葉は、ここではまだ“単なる政治日程”にすぎない。だが、天城の内側では別の意味で脈打っている。

 「四年“あれば”、形になる。四年“しか”ないなら、なおさら急ぐ」

 町長は深く頷いた。「なら、うちも腹を括る」


 午後、天城は造船所を後にし、山を越えた小さな電子部品工場へ向かった。途中、車窓に広がる海が鈍い光を跳ね返す。助手席の官房長官・諸星が低く言う。

 「米国大使館から、また『説明の機会を』です」

 「断れ。笑顔で、丁寧に、何も言わない」

 「向こうは苛立ちます」

 「苛立たせろ。苛立ちは、こちらが時間を稼げている合図だ」


 電子工場は、町の外れの小さな谷にあった。古い看板。新しい防犯カメラ。扉を開けると、清浄な空気が肺に入り、半田の匂いが微かに混じる。白衣の若い技術者が、天城を見るなり背を伸ばした。

 「総理……本当に、ここに?」

 「君たちの時間を借りに来た」

 工場の社長は五十代半ば、目尻の皺が深い。挨拶もそこそこに、天城は基板のリール棚と実装治具を見て回る。

 「このライン、耐環境規格は?」

 「今は民生向けです。ただ、設計を少し変えれば――」

 「変えてくれ。港湾の制御装置という名目で。仕様書はこっちが出す」

 社長は息を呑んだ。「総理、軍需は……」

 「言葉の問題だ」天城は静かに言う。「平時に民生として普及し、非常時に国を守る。言葉を分ける時代は、もう終わる」


 若い技術者が目を輝かせた。「国家プロジェクトに、僕らの基板が?」

 「国家は、君たちの手付きでできている」天城は笑った。「だから借りに来た」

 彼は冗談めかして言い、心の中で付け足した――この国の明日まで。


 夕方、公設試験場の会議室で、地元の金融機関の頭取、港湾局、商社の支店長が顔をそろえた。白いテーブルに配られた資料の表紙には「地方産業強靭化モデル事業(海陸統合)」の文字。

 諸星が説明する。「名目は港湾の災害対策と物流電化です。実際には、造船・電子・ソフトの三位一体再編。補助金は三年で段階的に」

 頭取が眉を上げる。「三年で収益化の道筋が見えなければ、銀行は貸せませんよ」

 天城が言った。「だから、三年目で“見せる”。四年目に“化す”。そのための初期需要は国が作る。防災船、洋上変電設備、港湾管制――全部、発注する」

 商社の支店長が即座に反応した。「輸出の目は?」

 「欧州・ASEAN。環境規制の厳しい市場と、成長の速い市場に同時に打つ」

 港湾局の責任者がメモを取る。「地元雇用は?」

 「倍にする。職業訓練校と連携して、若い手を戻す。奨学金は給付で出す。条件は、五年はこの地で働くこと」

 部屋の空気が、わずかに明るくなる。希望は数字で与える――天城はそれをよく知っている。


 会議が終わると、諸星がそっと近寄った。「総理、財務はきっと嫌がります」

 「嫌がらせておけ。彼らは“嫌がる役”を果たしてくれればいい。最後は私が押す」


 夜、海沿いの小さなホテルに入る。窓を開けると、遠くでブイが寂しげに鳴く。コートを脱ぎ、机についた天城は、鞄から一枚の紙束を取り出した。

 《在米世論プラットフォーム構築案》

 項目が淡々と並ぶ。シンクタンク交流、地方ラジオ出演、退役軍人団体の寄付、大学の共同研究名目――どれも合法の範囲、だが意図は一つ。“世界の警察はもう要らない”という言葉を、米国の口で育てること。自分が言えば反発を生む。だが、彼ら自身が言い始めれば、潮流になる。


 スマートフォンが震えた。神田からの暗号化メッセージだ。

《向こうの若手議員、接触に前向き。ただし、直接は危険。文化交流会で立ち話の形を》

 天城は短く返信する。《文化は盾、会話は矛。順番を間違えるな》

 送信を終え、彼は額に手を当てた。目を閉じると、造船所の鉄の匂いと、電子工場の清浄な空気が混ざり合う。港の風。若者の瞳。町長の皺。工場長の手の傷。

 ――この国は、まだ立てる。

 そう言い聞かせると同時に、胸の内側で小さな恐怖が牙を見せる。間に合わなければ、すべてが露見し、全方位から叩き潰される。米国から、国内から、歴史から。

 その恐怖を、彼はゆっくりと呑み込んだ。恐怖はエンジンだ。燃やせば熱になる。凍らせれば、動けなくなる。


 深夜、海霧が窓を曇らせる。デスクランプの光の下、天城は新しい地図を広げた。海上交通路、港湾、変電所、光ファイバー幹線。そこに赤い細線を何本も引く。線と線が結ばれて、やがて網になる。網は、獲物を捕えるためでなく、国を支えるために張るものだ。

 最後に彼は一つの丸で、四年先のカレンダーの日付を囲んだ。墨がじわりと紙に滲む。


 「四年で、準備は終わらせる」


 自分にだけ聞こえる声で言い、ペンを置く。窓の外、潮騒がひときわ強くなった。その音は、まだ見ぬ嵐の前触れにも、夜明けの合図にも聞こえた。


 ――明日、ワシントンで一枚のカードを裏返す。

 天城はベッドの縁に座り、靴紐をゆっくり解いた。靴が床に落ちた小さな音が、奇妙に遠く響いた。

 目を閉じる直前、彼は思う。

 勝つのは、いつも最初に準備した者だ。


◇◆◇◆◇◆



 午後七時を回っても、総理官邸の執務室にはまだ明かりが灯っていた。

 天城一誠は背もたれに深く腰を預け、窓の外に沈みかけた都会の夜景を見つめていた。


 机の上には、地方造船所再編の進捗資料、電子産業の国産化計画、そして米国動向分析の分厚いファイルが山のように積まれている。

 しかし、彼の視線は紙面にはない。心の中では、別の地図──日本列島を中心に広がる国際関係の立体地図──を思い描いていた。


 「地方造船所の再編は半ばまで進んだ。だが、本番はここからだ」

 彼は机上のメモにそう走り書きすると、一本の電話に手を伸ばした。暗号化通信専用の回線だ。


 「例の調査は?」

 『予定通りです。米国造船業界の一部は海軍契約削減を望んでいます。』

 「いい。彼らに“日本の自立”が利益になると気づかせろ。直接の言葉はいらない、数字と事実だけで充分だ。」


 それは、米国の世論を水面下で揺らす第一歩だった。直接的に日米安保を口にすれば、たちまち反発を招く。だから、経済と雇用という“感情”に訴える情報を忍び込ませる。

 米国が「日本の自立」を歓迎する理由を、向こう側から作らせるのだ。


 だが、国内はそう簡単にはいかない。

 その夜遅く、総理執務室に呼び出されたのは外務大臣と防衛大臣だった。二人とも官僚出身、いわゆる“保守本流”の典型だ。


 「総理、米国への情報操作など…危険です。失敗すれば、日米関係は取り返しがつかないことになる。」

 外務大臣は低い声で切り出した。その視線の奥には、「現実を知らない理想家め」という苛立ちが潜んでいた。


 天城は無言のまま、彼らの言葉を最後まで聞いた。防衛大臣も同調する。

 「自衛隊の近代化、造船所の再編、それは支持します。しかし安保体制を揺るがすような行動は…国防の空白を招きます。」


 その瞬間、天城の脳裏には、若いころ外交官として米国に赴任した日の記憶がよみがえる。

 あの時、ワシントンの会議室で、米国高官から半ば笑いながら言われた言葉──

 「日本の安全は我々が保証してやっている」

 恩着せがましい響きに、彼は拳を握りしめながらも、笑顔を作るしかなかった。

 (二度と、あの笑顔は作らない。日本は日本の手で舵を取る)


 「諸君、君たちは“空白”を恐れる。しかし、私は“依存”を恐れる。」

 天城の声は穏やかだが、鋼の芯が通っていた。

 「米国が永遠に友好国であり続ける保証はない。いや、世界に永遠の友好国など存在しない。」


 外務大臣が口を開こうとした瞬間、天城は手を軽く上げて制した。

 「私は米国を敵に回すつもりはない。むしろ、彼らの利益と私たちの利益を一致させるつもりだ。今、米国は“世界の警察”を降りたいと思っている層が増えている。彼らに、日本の自立は歓迎すべきことだと“向こうから”言わせる。」


 沈黙が流れた。防衛大臣の表情がわずかに緩む。だが、外務大臣はまだ渋い顔だ。


 天城は椅子から立ち上がり、二人の正面に歩み寄った。

 「私は諸君の経験と忠告を重んじる。しかし、未来を見据えねばならない。この国が自分の船を造り、自分で舵を握れるようにするために、今のうちに造船所も電子産業も、国の血肉として強化する。」


 会談が終わり、二人が退出した後、天城は深く息をついた。

 彼らを完全に納得させるには、まだ時間がかかる。だが、今日の会話で“理解の芽”は植えられたと感じていた。


 机上の資料を片付け、最後に一枚の紙だけを残す。それは、米国世論調査の予測グラフだった。

 支持率の波形が、じわじわと「孤立主義」側に傾きつつある。天城はそのカーブに指先を滑らせた。


 「あと四年──。それまでに国内の備えを整え、向こうの地盤も固める。」


 窓の外、官邸の庭に立つ桜の木が、夜風に揺れている。

 その揺れは、これから訪れる激流の前触れのようにも見えた。

 天城は胸の奥で静かに呟いた。


 「日本丸の舵は、もう俺の手にある。」

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