第1話 所信表明
議長席から、朗々とした声が議場に響き渡った。
「内閣総理大臣、天城一誠君。」
静まり返っていた議場が、ざわりと揺れる。与党席からは待ちわびたような拍手が沸き起こり、野党席の一部は腕を組んだまま動かない。
天城はゆっくりと立ち上がり、胸元のネクタイを軽く整えた。
視線の先には、総理大臣として初めて向き合う日本の代表者たちと、そして中継を通して見守る国民がいる。
彼は、一歩一歩壇上へと歩みを進めた。
議事堂の天井は、朝の光を受けて鈍く輝いていた。重厚な木の壁、赤い絨毯、議席の列。すべてが歴史の重みを湛えながらも、この日だけはどこか緊張に震えているように見える。
――ついに、この日が来た。
天城一誠は、壇上へ向かう階段を一歩一歩上がった。足取りはゆっくりだが、決してためらいはない。背広の内ポケットには、原稿が入っている。だが、彼はそれを最後まで読み返すつもりはなかった。すでにすべてを頭に叩き込み、言葉の流れも抑揚も、何度も自分の耳で確かめてきたのだ。
衆参両院合同会議。報道陣は上階の傍聴席にびっしりと詰めかけ、数十台のカメラが一斉に天城を追う。フラッシュは焚かれない。テレビ中継用の照明が、壇上の彼を白く浮かび上がらせている。
議長が着席し、議場が静まり返る。咳払いひとつすら憚られる空気の中、天城はマイクの前に立った。
「議長、並びに両院の諸君、そして国民の皆さん」
低く、しかしよく通る声が、議場全体に広がった。冒頭の言葉だけで、傍聴席の視線が集中する。与党議員の中には、すでに頷きながら耳を傾ける者もいれば、野党側のベテラン議員の何人かは、腕を組んで表情を動かさないまま見つめていた。
「私が総理として最初に申し上げたいのは、ひとつの簡潔な真実です。物事には転機がある。国にも、人にも、社会にも」
その言葉に、一部の若手議員が背筋を伸ばした。天城が「転機」と口にする時、それは単なる時期の変化ではない。この国の骨格を揺さぶる瞬間のことを意味する――彼の支持者なら誰もが知っている。
「世界が加速度的に変化するいま、日本だけが、戦後の枠組みに立ち尽くしているわけにはいきません。恐怖を超えた先にしか、真の幸福はない。私はその信念をもって、これより日本の新しい航路を示します」
マスコミのペン先が一斉に走る。天城は、ここから先の一語一句が切り取られ、見出しになることを承知していた。だからこそ、言葉は濁さない。曖昧さは、敵にも味方にも利用される。
「戦後七十余年、日本は憲法と同盟の庇護のもとで繁栄を築いてきました。私はその歴史を否定しません。むしろ感謝しています。しかし、同じ枠組みが、ある時代には盾であっても、別の時代には足かせとなることがある。自分の国を自分で守るという当たり前の権利と責務を、私たちは取り戻さねばなりません」
その瞬間、議場の奥で小さなざわめきが起こる。野党のある議員が隣に身を寄せ、何事か耳打ちする。天城の耳には届かないが、その視線が確かに動揺を含んでいるのは見て取れた。
「私はここに、日本の安全保障を『依存』から『自立』へと再構築する方針を宣言します。日米安全保障体制については、同盟を一方的に断つのではなく、対等な関係へと段階的に改めます。具体的には、共同運用の見直し、在外部隊の任務整理、基地の段階的縮小・返還を、両国の合意のもとに進めます。友誼は保ちます。けれども主従の影は、ここで終わらせる。これが私の覚悟です」
傍聴席の一角で、元外務官僚と思しき人物が微かに眉を上げた。戦後日本の外交基盤を根底から変える発言――それは、過去のどの総理も避けてきた地雷だった。
だが天城は、その地雷の上に堂々と足を置いたまま、さらに言葉を重ねる。
「この再構築の前提として、私は自衛隊を『国防軍』へと位置づけ直します。現行法制の下で可能な最大限の整備を直ちに実施し、必要な憲法上の整合については、国会と国民に正面から問い、段階的に進めます」
このあたりで、議場の緊張はさらに高まった。与党議席からの小さな拍手と、野党席からの冷ややかな視線。天城はそれらを一瞥もせず、演説の航路を進める。
「領域を守る陸海空の態勢に加え、宇宙・サイバー・電磁波領域を含む総合防衛力を整えます。縦深防空、海上阻止、離島防衛、そして本土打撃に対する多層抑止を構築します。これは誰かを敵視するための力ではない。対等に語り合うための力です」
記者席の前列で、外国メディアの女性記者が目を細めた。彼女の手元のメモには、「Equal Negotiation Power」の文字が走り書きされる。英訳された瞬間、その意味はさらに鋭く響くだろう。
「防衛力の中核は、他国の気分で止まることのない装備・補給・情報です。中枢ソフトウェアの国産化、部品の国内調達比率の引き上げ、衛星・監視・通信の冗長化を急ぎます。防衛産業は、経済の重荷ではなく、技術と雇用を牽引する推進力です」
彼の言葉は、軍事論ではなく産業論にも聞こえる。経済界出身の与党議員の何人かが、机上の書類に印を付けた。
天城は、まだ序盤だというのに、すでに議場の空気を完全に掌握しつつあった。
彼は、この先にもっと鋭い言葉を用意している――そう思わせる張り詰めた気配が、誰の胸にもじわりと広がっていく。
◇◆◇◆◇◆
壇上の天城一誠は、演説の第一章を終え、わずかに水を含んだ。視線は傍聴席の奥――カメラの向こうにいる、まだ見ぬ国民の顔を見据えている。
「諸君、力なき正義は空虚です。しかし、正義なき力は暴走します。ゆえに、私たちは力を持つと同時に、それを制御する知恵を育まねばなりません。その知恵は、外交によって鍛えられる」
議場の空気が少し緩む。国防の話は尖るが、外交の話は耳に入りやすい――そう思った議員も少なくないだろう。しかし天城の表情は柔らがず、むしろ次の一節を鋭く放つ。
「私は、日本が『受け身の外交』から脱することを宣言します。国益を明確に掲げ、世界の諸国と対等な交渉を行います。アジアにおいては経済と安全保障の共同体構想を提示し、資源・食料・エネルギーの安定供給を共に築きます。欧州・中東・アフリカとも、援助一辺倒ではなく、対等な利益交換の枠組みを整えます」
この言葉に、与野党問わず数名の議員がメモを取った。単なる理念ではなく、各地域ごとの戦略を明言した総理は稀だ。
「経済政策について申し上げます。第一に、失われた三十年を終わらせるため、生産性革命を断行します。デジタル化の加速、国内産業の再編、そして中小企業の付加価値向上を国家的プロジェクトとして進めます。第二に、国家資金の投資対象を『未来をつくる事業』に限定し、既得権益のみに流れる構造を破壊します。第三に、地方の潜在力を引き出すため、東京一極集中を是正します」
その瞬間、地方選出議員の一部が小さく頷いた。言葉が机の奥深くまで届いたのだろう。
「財源はどうするのか――そう問われるでしょう。答えます。無駄な予算を削ることはもちろんですが、真の財源は『成長』そのものです。国民が稼ぎ、納め、再び投資できる循環を作ること。それが最大の財源です。増税は最後の手段であり、私はそれを安易に選びません」
天城は言葉を切り、少し呼吸を整える。演説は終盤に近づいていた。
「教育なくして国家なし。私は教育を国防と同等の基盤と考えます。すべての子供に等しく学びの機会を保障し、才能ある若者には経済的な制約を取り除きます。奨学金制度を全面的に刷新し、返済不要の給付型を主軸とします。さらに、社会人の再教育を国が支援し、年齢に関わらず学び直せる社会を築きます」
傍聴席の隅で、若い大学生のグループが小さく拍手を送った。彼らの未来に直接触れる言葉だった。
「少子高齢化は待ったなしの課題です。私は子育て世帯への直接支援を大胆に拡充します。出産費用の完全無償化、育児休業の所得全額補償、保育の完全無料化。これらは単なる福祉ではない。国家の存続戦略です。同時に、高齢者には健康寿命を延ばすための予防医療と就業機会を提供し、世代間の断絶を防ぎます」
議場の空気は、重さと期待が混じった独特の色を帯びていた。
天城は、ゆっくりと最後の章へ歩を進める。
「私は信じています。日本はまだ、自らを変えられる国だと。人は変化を恐れます。しかし幸福とは、恐怖を乗り越えた先にしか見えない頂です。転機は、必ず人からもたらされます。人間関係であれば、サードマン――人生を変える第三の人物のように。この国にとって、それは私であると、今日ここに名乗りを上げます」
傍聴席から微かなざわめき。敵か味方かを問わず、誰もがその自信に圧倒されている。
「いじめられっ子が転校するなんて、逆だろう。私はこの国が逃げるのをやめ、日本丸の舵を自ら握ります。正論こそが正しいのに、誰もやらないなら――私がやる。それが天城一誠という人間です」
その言葉を最後に、天城は原稿を閉じた。沈黙が、数秒間だけ議場を支配する。やがて与党席から拍手が広がり、傍聴席のあちこちでも手が鳴った。野党席の一部は依然として腕を組んでいたが、その表情には揺れがあった。
壇上を降りる天城の足取りは、登壇時と変わらない。しかし、その背には確かに何万人もの視線が突き刺さっていた。それは期待であり、不安であり、そして――日本の未来を賭けた試練の始まりだった。
◇◆◇◆◇◆
拍手はやがて収束し、議場に再び秩序が戻る。天城一誠は壇上を降り、控席へ向かう。
――予定通り、言い切った。
頭の奥底で、そう冷静に確認する自分がいる。拍手の量ではなく、その質を感じ取る。単なる賛同の拍手と、本気で共鳴した拍手は音が違う。今日は、その両方が混ざっていた。
野党第一党の党首、古賀は腕を組んだまま、視線だけで天城を追っていた。
(言葉は立派だ。だが、それを実行できるかどうかだ)
そう心の中で呟きながらも、古賀は胸の奥に小さな焦燥を覚えていた。国民の耳には、この演説は刺さる。次の選挙で何が起こるか――計算が狂うかもしれない。
一方、与党の中堅議員・吉川は、演説の最中から何度もメモを取っていた。
(これまでの総理とは違う。理念だけじゃなく、手順まで示した……これなら地方の支持も取れる)
心中でそう評しつつも、同時に思う。
(だが、これだけ派手にぶち上げれば、必ず反発が来る。外だけじゃない、党内からもだ)
傍聴席に座っていた大学生・安田は、演説を聞きながら拳を握っていた。
「これだ……こういう政治家を待ってた」
小さく呟いたその声は隣の友人にしか届かなかったが、その目は確かに光っていた。
天城は控席に腰を下ろすと、わずかに肩で息をした。緊張からではない。全力で言葉を叩きつけた直後の、戦場から帰還したような呼吸だ。
(さて――ここからが本番だ)
言葉で掲げた旗を、現実に立てる。それは演説よりも遥かに困難な戦いだ。だが天城の中に迷いはなかった。
議長が議事を進める声が響く中、天城はひとり静かに視線を前へ向けた。
――日本丸の舵は、もう自分の手にある。
あとは、どこへ進めるかだけだ。