第0話 転機の火種──あの大統領が教えた現実
――歴史に”もしも”はない。
だが、人は常に“もうひとつの歴史”を夢想する。
本作は、そんな架空の日本を舞台にしたフィクションである。
登場する人物・国家・団体・政策はすべて創作であり、
実在のものとは一切関係がない。
ここに描かれるのは、現実の延長線上にありながら、
誰も踏み出さなかった一歩を選び取った者たちの物語――。
政治の裏も、外交の綱渡りも、そして国のかたちすらも、
すべては作者の想像によって紡がれる“もう一つの日本”である。
読者諸君よ、これは現実ではない。
だが、もしも現実に起これば――あなたは、どちらの舵を握るか?
プロローグ
物事には、必ず転機がある。
人間関係においては――サードマン。
人生の転機となるきっかけを与える、第三の人物。
日本にとって、そのサードマンは、あの大統領だった。
彼は反面教師でありながら、日本の、いや世界の現状を容赦なく浮き彫りにした。
同盟の意味、国益の輪郭、そして他国に依存することの危うさを。
わたしは、日本を変える。
人は変化を恐れる。
だが、幸福とは――その恐怖を乗り越えて、はじめて見える頂なのだ。
この物語は、一人の男が十年の時をかけて仕掛けた、日本独立の物語である。
同盟を離れ、国軍を立て、世界の秩序を変える――誰もが夢想し、誰もが諦めた道を、
現実に歩みきろうとした男と、その時代の記録である。
◇◆◇◆◇◆
ワシントン、冬の空気
2017年1月末。
ワシントンD.C.の空は、薄い鉛色の雲で覆われていた。
冷たい風がポトマック川から吹き込み、コートの襟を立てても首筋に氷のような冷気が忍び込む。
外務副大臣・天城一誠は、政府車の後部座席からホワイトハウスの正門を見上げた。
正門に翻る星条旗は、冬空の中でも鮮やかで、まるでこの国の存在感そのもののようだった。
――この旗の下に、日本の安全は握られている。
その事実が、今日の会談の空気をさらに重くしていた。
車が正門を通過し、白い外壁が近づくにつれて、天城の胸中は静かに張り詰めていく。
今日は日米同盟の今後を占う初の高官協議。
そして、新しく大統領となったドナルド・トランプとの、初めての直接対面だった。
応接室に通されると、壁には金色の額縁に収められた歴代大統領の肖像。
だが室内の雰囲気は歴史的荘厳さよりも、選挙戦の熱気がまだ残る荒々しさを感じさせた。
机上には“Make America Great Again”の赤い帽子が置かれ、テレビにはFOXニュースが無音で流れている。
大統領はまだ椅子に深く腰掛けず、前傾姿勢で両肘を机に置いていた。
金色の髪と鋭い眼差しが、部屋の空気を掌握している。
「アマギ副大臣、よく来た」
「光栄です、大統領」
握手は短く、力強い。
そのまま大統領は、待っていたと言わんばかりに切り込んできた。
「日本は素晴らしい友人だ。だが、友人なら金は払う」
通訳がためらいがちに訳す。
天城は無表情を保ったまま、言葉の真意を測ろうとする。
「在日米軍の駐留経費を、今の五倍にしてほしい。払えないなら米軍は引き揚げる。シンプルだ」
隣の国防長官が補足する。
「日本の安全は我々にとって重要だ。しかしそれは、アメリカ国民の税金が許す限りの話だ」
言葉の端々に、“同盟”という言葉を条件付きの契約に変える冷たさがあった。
その後の議題は経済へと移った。
農産物市場の開放、自動車の関税見直し――TPP離脱の余波を背景に、日本を二国間交渉のテーブルに引きずり込もうという圧力が続く。
パリ協定離脱の話題になると、大統領は肩をすくめて言った。
「地球よりもアメリカだ。それが私の仕事だ」
それは笑みを伴った発言だったが、天城には冷笑にしか見えなかった。
この国は、国際的合意すら国内利益のためなら平然と覆す――その事実を突きつけられた瞬間だった。
会談後、外に出ると雪がちらついていた。
通りを隔てた向こうで、反トランプ派の小規模なデモが横断幕を掲げている。
「AMERICA FIRST=ALLY LAST(アメリカ第一=同盟国は最後)」と殴り書きされた文字が、凍える風にはためいていた。
天城は車に乗り込み、窓から星条旗を振り返った。
その旗は美しくも、容赦のない現実の象徴だった。
――これは同盟ではない。条件次第で切られる命綱だ。
胸の奥で、その言葉がはっきりと形を取った。
帰国便の機内。
深夜、機内の照明が落ち、窓の外に太平洋が広がっている。
天城はシートに身を沈め、ワシントンでのやり取りを反芻していた。
北朝鮮ミサイル発射の映像、在韓米軍への圧力、シリアからの米軍撤退報道……。
どれも米国が、自国の判断だけで世界の安全保障地図を塗り替える実例だ。
大統領が変われば、同盟の性格も一夜で変わる。
天城は目を閉じ、静かに結論を下した。
――日本は、米国に頼らずとも立てる国になるべきだ。
それは安保破棄ではない。だが、いつでも安保を外せる国にならなければ、生き残れない。
機内アナウンスが日本到着を告げる頃、天城の胸にはひとつの計画の輪郭が固まりつつあった。
◇◆◇◆◇◆
東京、夜の密談
帰国から三日。
都心の細い路地を抜けた先に、街の喧騒から切り離されたような古い料亭があった。雨は一日中降り続き、瓦屋根の端から細い水の線が幾筋も垂れている。暖簾をくぐると、板場の香りと出汁の湯気がふっと鼻をくすぐった。
案内された離れは、庭に面した八畳間。障子ごしの灯りが白く揺れ、苔むした灯籠が濡れて光っている。部屋の中央には低い卓。土鍋の蓋が小さく鳴り、静かな湯気だけが時を告げるように立ちのぼっていた。
天城一誠は、卓の端に座って腕時計を外す。時刻は九時半。まもなく三人が現れた。防衛省戦略局長の桐生、経産省通商政策課長の水谷、そして古くからの盟友で、今では天城の影の右腕となる神田である。
雨音の中、短い挨拶だけが交わされた。全員が座ると、しばし沈黙が部屋を満たす。湯呑みに注がれた薄い番茶の香りが、張り詰めた空気の角をわずかに丸めた。
「結論から言う」天城が口を開いた。「向こうは、駐留経費を五倍にしろと言った。払えないなら撤収も辞さない、だと」
桐生の眉がぴくりと動いた。「ほのめかしではなく?」
「宣告に近い」天城は湯呑みを指で回す。「経済でも同じだ。TPPの枠組みなど関係ない。二国間で、農業も自動車も、こちらの“譲歩”を前提に積み上げる気だ。国際合意より、自国の利益が先――あの部屋では、それが常識だった」
障子の外で、しずくが軒を打つ規則的な音に、少し長い間が挟まる。水谷が小さく息を吐いた。「つまり、同盟の信頼は“条件付き”に変わった、ということですね」
「同盟が条件付きであることは昔からだ」天城は頷く。「だが今回は、その条件を“いつでも変えられる”と正面から言った。こちらの前提が崩れたと思った方がいい」
鍋の蓋がまた鳴った。桐生が身を乗り出す。「現実的に、米軍が引く可能性は低い。だが“いつでも引けると思っている”と示された影響は大きい。抑止の性格が変わる」
「変わるからこそ、こちらも変える」天城は短く言った。「防衛、経済、外交――三本を十年で作り変える。最初の三年で土台、次の三年で骨格、最後の四年で運用。目標は単純だ。いつでも安保を外せる国になる」
神田が静かに天城を見る。「その工程の総責任者は?」
「私だ」ためらいはなかった。「ただし、目立たせない。表では“現状強化”を言う。裏で“依存の縮小”を進める」
水谷が手帳を開く。「経済から申し上げます。まず決済の多通貨化です。ドル一本足をやめる。ユーロ、豪ドル、ルピー、人民元の枠を作る。金融機関には“危機対応名目”でストレステストを課し、ドル遮断の想定で回す」
「エネルギーは?」天城が問う。
「中東は政情が揺れる。アフリカ・中南米と長期契約を増やす。液化設備と受け入れの港湾は国家補助を厚くする。備蓄も増やす。穀物は国産比率を上げながら、輸入は複線化。農業補助金の枠を“食料安全保障”で守る必要があります」
「やれ」天城は短く返す。「見返りは“国内の雇用”で説明できる。反発は殺せる」
桐生が紙束を卓に置いた。「防衛は三層で考えます。第一に装備の独立化。艦の戦闘システムは、見かけ上はいまの枠を保ったまま、基幹部分を国産OSに二重化します。切替試験は海保の船で、研究名目なら目立たない。第二に迎撃の多層化。地上配備の迎撃、無人機の広域網、固体レーザーの試験配備。第三に情報と衛星。偵察衛星は追加、通信は冗長化。サイバーは省庁横断で“情報安全保障庁”を設け、一元化する」
「部品の問題がある」天城が指摘する。「止められたら、止まる」
「主要兵器の消耗品と基幹部品は五年分以上を先に積みます。同時に互換部品を国内ラインで作る。品質証明は“整備記録の電子化”でごまかせる余地がある」桐生の声は乾いていた。「時間はかかりますが、動かします」
神田が二人の間を見て、低くうなずいた。「外交は私が下地を作る。英仏豪印、そしてASEAN。まず“演習”と“人材交流”。アジアの安全保障フォーラムは、米を排除しない。だが中心に座らせない。形式は中立、実質は多極。発表は遅らせる。国内が整ってからだ」
天城は頷き、湯呑みを置いた。「沖縄は?」
桐生が少しだけ表情を曇らせる。「一番難しい。正面衝突は避けるしかない。“共同使用”を名目に権限を薄め、段階的に主導権を取り戻す。撤退の“出口戦略”は、グアム・ハワイ・フィリピンの選択肢を先にこちらで用意し、費用の一部を持つ――“名誉ある撤退”にしか道はない」
「地元経済は?」水谷が受ける。「基地依存から“物流・観光・防衛産業特区”に転換する。雇用は落とさない。中央の補助は厚くすべきです」
「やれ。計画は県内経済界と固めておけ」天城は迷わない。「反対は出る。だが“失われる雇用はない”と具体数字で潰せる」
神田が静かに問う。「世論は?」
天城は一呼吸置いた。「物語が要る。“自立”を語る。防災、技術、教育と結びつける。軍備の話を直接しない。『自立国家ビジョン2035』――名前は凡庸でいい。中身は鋭くする。高校の副教材に“国際自立”の単元を入れる。テレビは若手の起業家と研究者を前に出す。スポーツの国際大会と絡めて“自分の足で立つ”映像を打つ。人は理屈では動かない。映像で動く」
水谷が思わず笑った。「相変わらず手が早い」
「遅いんだよ、これでも」天城は薄く笑った。「十年は長い。だが、瞬きしていると過ぎる」
雨音が強まった。障子が微かに揺れる。三人の視線が自然と天城に集まる。彼は卓の端に置いていた地図帳を引き寄せ、ゆっくりと開いた。日本列島の上に置かれた透明定規が、白い紙の上で冷たく光る。
「線を引く」天城はペン先を紙に落とした。日本から、太平洋を越えて、米本土の西海岸に向けて一本。細く、真っ直ぐな赤。「これは私たちにとっての臍の緒だ。いまは必要だ。だが、切れるようにする」
部屋の空気がさらに静かになる。桐生が低く呟いた。「切るのは、いつです」
「切れるようになった時だ」天城は迷いなく答える。「そして――向こうが自ら切りたくなる時だ」
水谷が顔を上げた。「向こうの政治、ですか」
「十年前から始める」天城はペンを置いた。「米国世論への種まきは民間の財団を使う。シンクタンク、退役軍人団体、地方ラジオ局。主張は単純でいい。“世界の警察は終わり”“海外駐留は税金の無駄”。やり過ぎれば跳ね返る。控えめに、長く」
神田がノートに線を引く。「候補者の育成は?」
「孤立主義の香りがする若手。軍人出身、州知事、上院議員。アメリカ人ファーストで、海外駐留コストに疑義を持つ者。名前は出すな。資金は第三国を経由する。文化交流と研究助成に偽装する。直接の関与は避ける」
桐生が腕を組む。「危うい橋です」
「渡らずに済む橋は、そもそも架かっていない」天城は言う。「我々は“最悪を避けて最低に留まる”をやめる。そのための準備に十年を使う」
湯気が鍋からふわりと立ち、天城の顔に薄くかかる。彼の目元は柔和だが、瞳だけが冷たく澄んでいた。父の背中、母の講義室、国連の廊下、ワシントンの執務室――断片が心の底でひとつに結びつく。
神田が問いかける。「いつから、この絵を?」
「あの男がホワイトハウスに入った日からだ」天城の声は低い。「大統領が変われば、国の顔が変わる。そんな国に命綱を預ける愚かさに、私たちはあの日、はっきりと触れた」
沈黙。雨の音だけが、障子の向こうで途切れず続く。やがて桐生が姿勢を正した。「やりましょう。工程は危険でも、終着点は明瞭だ」
水谷も頷く。「経済は、痛みの説明を先に用意します。“雇用”と“安定”で包む。数字を整える」
神田が天城を見た。「政治は?」
「私が引き受ける。派閥は借りる。返すときには、別の景色を見せる」天城は淡々と言った。「敵は増える。だが、賛否の境界線をこちらが引く。踏み絵は、こちらが用意する」
その言葉に、三人の口元が同時にわずかに緩んだ。卓の端で、湯呑みの縁が小さく触れ合う音がした。
「今夜は合意だけでいい」天城は地図帳を閉じる。「明日から動く。表向きは“同盟強化”。裏では“依存縮小”。二年で見える形にしろ。十年で切れる形に」
神田が手帳を閉じ、深く一礼した。「承知しました」
桐生は資料を素早くまとめ、鞄に滑り込ませる。「最初の実験は海保で回します。三か月で結果を」
水谷は携帯を裏返す。「金融庁と食い合わせます。通貨の枠組みは“危機対応演習”で押し通す」
天城は立ち上がり、障子に近づいた。雨は相変わらず降り、灯籠の石肌に水が細く走っている。遠くで車の音がして、また静けさが戻った。彼は障子に手を添え、薄く息を吐く。
「現状維持は、安全ではない」独りごとのように言う。「ゆっくりとした死だ」
振り返ると、三人はそれぞれの覚悟の顔をしていた。恐れがないわけではない。だが、その恐れに居場所を与えない種類の静けさが、部屋に満ちていた。
「行こう」天城は言った。「これは長い戦いだ。だが始まりは、いつも静かだ」
離れの扉が開き、廊下に出る。畳の匂い、木の軋む音。玄関で草履を履く間、女将が「足元にお気をつけて」と小さく頭を下げた。暖簾をくぐると、街の夜気が濡れてまとわりつく。三人は散るように別れ、暗がりへ消えた。
天城は傘を差し、しばらく雨の筋を眺めてから歩き出した。胸の内で、見えないメトロノームが静かに打刻を始める。二年の刻み、十年の刻み。遠くで雷鳴がかすかに響いた。
この夜、誰も知らないところで、ひとつの国の時刻表が書き換えられた。翌朝の新聞には何も載らない。だが、未来の紙面は、この夜に遡って線を引くだろう。
――あの線は、ここから始まっている、と。