第1話『お前のドリブルは要らない』
「またお前かよ、日野原!」
ピッチの向こうで、監督の怒鳴り声が響いた。
久留米南高校・女子サッカー部。県ベスト4常連の名門だが、いぶきはもう何度この叱責を聞いたかわからなかった。
「パスが遅い」「ドリブルが無駄だ」「連携を乱すな」
——でも、ボールが足元にあると、止められなかった。
ロナウジーニョのように、重力を無視して踊るようにボールを操りたかった。
幼いころYouTubeで見た、笑いながらトリックを決める彼に憧れて、ただ夢中で練習した。
だけど、チームではそれが“我が強い”にしか見えなかった。
「今日の練習、もういい。いぶき、ベンチ外な」
監督の一言で、空気が凍る。誰も庇ってはくれなかった。
夕暮れの部室。泥だらけのスパイクを雑巾で拭きながら、いぶきは唇を噛んだ。
(こんなはずじゃなかったのに…)
その足でグラウンドを後にし、ひとり町へ出る。
寂れた商店街のアーケード。シャッターが下りた店の前で、ふと音楽が聞こえた。
「ンッ、チャ!ンッ、チャ!」
ビートの波に乗って、誰かがステップを踏んでいた。
若い男。Tシャツ、ジャージ。小さなスピーカー。
足元にはひとつのサッカーボール。
が、その動きが尋常じゃない。
ボールが肩に乗り、頭に跳ね、背中で転がり、また足元に戻る。
足の甲で挟んで持ち上げると、くるりと空中回転——
そしてノールックでつま先に着地。
「え……なに、それ」
思わず声が出た。男が笑ってこっちを見た。
「フリースタイルフットボール。知らない?」
「サッカーじゃ、ないんだよね」
「サッカーから生まれたけど、違う。
パスもしないし、点も取らない。
ただ、自分の好きなように、ボールと遊ぶだけ」
それを聞いて、いぶきの胸に火がついた。
さっきまでの怒声が、ユニフォームの重みが、どこか遠くに消えていく。
「……楽しそうだね」
「うん。めっちゃ楽しいよ」
男はまた、軽やかに踊りはじめた。ボールと一緒に。
その姿を見て、いぶきはふと思った。
(もしあたしが、ここにいたら……)
もしあたしが、こんな風に自由に蹴っていい場所にいたら。
あのドリブルも、怒られずにすんだのかな。
「名前、なんていうの?」
「白石ソウタ。駅前でよくやってる。
見たい時は、またおいでよ。ボール、蹴りたくなったら」
言葉のかわりに、軽くボールをトスしてくれる。
それをいぶきは、すっと足で止めた。
ブレずに、静かに止まったボールの感覚。
誰の視線もない場所で、思いのままに蹴れそうな気がした。
(これが……ほんとの自由ってやつか)
帰り道。スパイクのまま舗道を歩きながら、いぶきはふと、ある“蹴り方”を思い出していた。
幼い頃、祖母の家で履いた、布の足袋。
裸足みたいで、でもちゃんと守ってくれる、不思議な履き心地。
(あれで蹴ったら、どんな感じなんだろう)
久留米の風が、いぶきの背中をそっと押していた。