WAKAMATSU COLONY―若松コロニー―
1869年5月20日、男性4名と女性4名の合計3家族の日本人移民を乗せた外輪式蒸気船「チャイナ号(SS CHINA)」がサンフランシスコ港に入港した。彼らは、合計22人からなる日本人移民団の先発隊だ。
移民団を率いたのは、陸奥国若松[現、福島県会津地方]で軍事顧問(砲術指南)をしていたヨーハン・ハインリヒ・シュネル(平松武兵衛)【Johann Heinrich Schnell 1841–?】というプロイセン人だった。
ハインリヒ・シュネルの両親はドイツ連邦ヘッセン選帝侯国[現、ドイツ連邦共和国ヘッセン州]出身の人物で、オランダ領東インドのバタフィア[現、インドネシア共和国ジャカルタ]で結婚した。1841年2月、ハインリヒ・シュネルがバタフィアの地で生まれた(1)。父親を除くシュネル母子は1843年3月にバタフィアを離れ、母アンナの母国ヘッセン選帝侯国へ移住した(2)。
ヘッセン選帝侯国では弟のフリードリック・ヘンドリック・エドゥアルト・シュネル【Friedrik Hendrik Eduard Schnell 1844?–?】が生まれたが(3)、母親のアンナが長年外地に住んでいたこと、子どもたちもオランダ領東インド生まれだったことを理由に、母子はヘッセン選帝侯国の当局から外国人とみなされ、1851年にオランダへ移住した(4)。
弟のアドゥアルト・シュネルは、1858年3月25日付の書翰で日本へ向けて出港するスクリュー式蒸気船「ナガサキ号(NAGASAKI)」に乗船してジャワ島へ無料渡航する許可を得ている(5)。こののち、スクリュー式蒸気船「ナガサキ号」は1858年11月10日に長崎に入港した(6)。このときエドゥアルト・シュネルが直接日本へ渡航したかは不明だが、最古の横浜外国人居留地名簿と考えられる1860年7月4日付の居留地名簿の「和蘭」の項目に「ス子ル」という名前が登場する。兄のハインリヒ・シュネルは、1862年12月15日付の書翰の内容から、この時点でオランダ領東インドに滞在していることが分かる(7)。このため、居留地名簿の「ス子ル」は弟のエドゥアルト・シュネルだと判断できる。
横浜外国人居留地のディレクトリによれば、1862年の時点でオランダ弁理公使(Dutch resident)として「E. Schnell」の名前がある。1864年にはスイス人時計商のフランソワ・ペルゴ【Francois Perregaux 1834–1877】との共同経営で「スネル&ペルゴ商会(Schnell & Perregaux)」を設立し、1867年まで共同経営を続け、「Edward Schnell」、「F. Perregaux」、「H. Kremer」が在籍していた(8)。翌1868年には「E・スネル商会(E. Schnell)」が横浜外国人居留地44番に設立され、1869年の時点で「Ed. Schnell」、「Henry Schnell」、「H. A. N. Hegt」、「D. J. Hare」、「H. Kremer」が在籍している。ただし、「Henry Schnell」と「H. Kremer」とは「(absent)」、つまり不在となっている(9)。
一方、兄のハインリヒ・シュネルは日本駐在プロイセン公使館で1864年から1868年まで通訳官(Interpreter)や書記官(Secretary)を務めており、1868年1月16日付の書翰でハインリヒ・シュネルの離任が通知されている(10)。
戊辰戦争(1868年1月27日から1869年6月27日)のさなか、1868年6月25日に奥羽越列藩同盟が成立した。シュネル兄弟は新潟港を拠点に東北諸国に武器を斡旋しており、奥羽越列藩同盟への武器・弾薬の供給源のひとつだった。エドゥアルト・シュネルは、越後国長岡[現、新潟県長岡地方]の家老だった河合継之助(河合秋義)【かわい・つぐのすけ 1827–1868 新潟出身】に武器を売り込んだ経験があった。その河合と家老の梶原平馬【かじわら・へいま 1842?–1889 福島出身】とのあいだに交流があった関係で、陸奥国若松は河合の斡旋でシュネル兄弟と接触した。こうして、陸奥国若松もE・スネル商会から武器・弾薬を購入した。購入後、兄のハインリヒ・シュネルが乗船する蒸気船「カガノカミ号」で回漕して1868年4月18日に新潟港に陸揚げしている(11)。一方、弟のエドゥアルト・シュネルも7月1日に本拠地を横浜から新潟に移し、勝楽寺を事務所として武器の販売を開始した。
武器の販売をつうじて陸奥国若松と接点のできたハインリヒ・シュネルは、帰郷途中の陸奥国若松の家臣に伴われて若松へおもむくと、若松城下の屋敷を与えられ、のちには若松の軍事顧問を務めるまでになった。その一方で、千坂高雅【ちさか・たかまさ 1841–1912 山形出身】に同道して7月16日に越後国新潟[現、新潟県新潟地方]に到着し、同じ7月16日に越後方面軍の参謀に任命されている。
こののち、8月21日に出羽国米沢[現、山形県米沢地方]を退去したハインリヒ・シュネルは、陸奥国若松へ向かった。若松に滞在したのちの行動をみると、10月6日には出羽国庄内[現、山形県庄内地方]で本多保之助【ほんだ・やすのすけ】に面会し、10月20日には仙台城に到着、11月3日には塩竃[しおがま]に到着してそのまま沖合にある寒風澤島[さぶささわじま]に潜伏、12月11日には上海で渋沢栄一【しぶさわ・えいいち 1840–1931 埼玉出身】に面会し、12月16日には渋沢とともに帰国している。
帰国してから約5箇月後の1869年4月30日6時53分、パシフィック・メイル・スチームシップ・カンパニーの所有する外輪式蒸気船「チャイナ号」が横浜港を出港した(12)。外輪式蒸気船「チャイナ号」には、ハインリヒ・シュネルと日本人妻のジョウ・シュネル【Jou Schnell 1846–?】、娘のフランシス・シュネル【Frances Schnell 1868–?】、そして日本人移民団の先発隊が乗船していた。
『外務省記録』に収録されている「海外行免状発行一件」によれば、1869年4月24日付で男性12名、女性8名の合計20名に対してアメリカ行きの渡航免状が発行されている。この20名は「孛人ケルムル」に雇われている(13)。ディレクトリには、1868年の時点で横浜居留地136番に「H・クレーメル商会(Kremer & Co., H.)」という会社があり、雑貨店主兼仲買業者(general storekeepers and commission agents)と記載されている。前述のとおり、「H. Kremer」という人物は、スネル&ペルゴ商会にも、E・スネル商会にも社員として在籍しており、エドゥアルト・シュネルとは数年来のつながりのあったことが分かる。さらに、1869年の時点でクレーメルはハインリヒ・シュネルとともに不在となっており、日本人移民団が出港した年と重なっている。『福音會沿革資料』によれば、「時に明治二年にして永き八年の労役に調契せしめて彼が率ひ来りし男女幼童二十有余名の一隊は此歳二月及び十月の二航海に分たれつつ汽船チヤイナ號にて桑港に送り来られたり」とあり、「八年の労役」契約を結んでいたことが分かる。
1869年5月20日10時、日本人移民団を含む総勢1,321名の乗客を乗せた外輪式蒸気船「チャイナ号」がカリフォルニア州のサンフランシスコ港に入港した。7日後の5月27日、カリフォルニアの地元紙『デイリー・アルタ・カリフォルニア(DAILY ALTA CALIFORNIA)』に「日本人移民団の到着(ARRIVAL OF JAPANESE IMMIGRANTS)」と題して、その到着が報じられた。記事には「この集団は、現在わが港へ向かう航路途上にある日本人40家族の先発隊だ(These families are the precursors of forty Japanese families now on the way for our port)」とあり、このほか、移民団の持ち込んだ物資、「スネル氏(Herr Schnell)」の素性と日本における経歴、移民団の目的について書かれている。到着した人数については、「日本人3家族―さらに、37家族がもうすぐ到着する―(Three Japanese Families―Thirty–Seven More Coming soon―)」とあるだけで具体的な人数には言及していない。到着から4箇月後の1869年9月18日付『サクラメント・デイリー・ユニオン(SACRAMENTO DAILY UNION)』の「プラーサーヴィルからの書翰[ユニオン通信]プラーサーヴィル 1869年9月16日 日本人町(LETTER FROM PLACERVILLE. [CORRESPONDENCE OF THE UNION] PLACERVILLE, September 16, 1869. The Japanese Colony.)」では、「ここには8名の日本人、男性4名と同数の女性がいるだけで、もはや誰も当地へ向かっていないことが知られている(There are but eight Japanese, four mailes and same number of fimailes, and it is not known that any more are on the way here.)」と報じられているので、5月27日から9月18日までのあいだに新たな日本人移民団の到着が報じられていないことから、5月27日に報じられた「日本人3家族」は、男性4名、女性4名の合計8名だったことが分かる。
1869年6月18日、ハインリヒ・シュネルは、160エーカー(64ヘクタール)の土地の不動産譲渡証書(Deed)を5,000ドルで取得する契約文書を土地の所有者であるチャールズ・メルチャー・グラナー【Charlres Melchour Graner 1825–1902】とのあいだで作成し(14)、6月22日に登記所に受理された(15)。土地の所有者であるグラナーは、1856年にアメリカへ移住してきたドイツ人だった。
取得した土地は、カリフォルニア州の州都サクラメントから東北東35マイル(56キロメートル)に位置する標高1,621フィート(494メートル)のゴールド・ヒルにある農場で、柵に囲まれた600エーカー(242ヘクタール)の土地(six hundred acres under fence)、果樹園(orcharf)、5万房のブドウ(50,000 bearing vines)、穀物畑(grain fields)、煉瓦造りの家屋(brick house)、家畜小屋(a barn)、ワイン蔵(wine house)、農具一式(implements of husbandry)、ウマ(horses)、荷馬車(wagons)、ウシ(cows)、ブタ(pigs)、ニワトリ(fowls)、すべてで5,000ドルだった。また、取得した土地には灌漑に適した良質で豊富な水もあった(16)。
移民団は日本から、樹齢3年のカラヤマグワ5万本(50,000 trees of the Morus alba, three years old)、厖大な量の竹(great number of bamboo plants)、樹齢3年で樹高4フィート(1.2メートル)のハゼノキ500本(500 vegetable wax trees, four feet high, and three years old)、600万個の茶の種子(6,000,000 of tea nuts)(17)、コイ(carp)(18)を持ち込んだ。
7月30日付の『デイリー・アルタ・カリフォルニア』の「進捗具合はいかに ―茶栽培―桑樹―生糸生産―米栽培―ワイン醸造など(How It Progresses―Something about Tea Culture―The Mulberry Tree―Silk Culture―Wine Making―Etc.)」では、移民団は茶栽培、桑栽培、生糸生産、米栽培、ワイン醸造などおこなっていることが報じられ、「彼らは全員が茶農家であり、茶の製造業者だ。彼らは茶の専門家ということだ(They are all tea-gardeners and tea-makers. They mean to make tea their speciality.)」と言及されている。その一方で、「彼らはブドウ畑とブドウ搾り機を持っている。……日本人好みの品種を作り、日本で市場を見つけることを夢見ている(They have vineyards and wine presses.……They hope to make varieties suited to the taste of their countrymen, and to find a market for it in Japan.)」とも報じられている。
9月8日付の『メアリースヴィル・デイリー・アピール(MARYSVILLE DAILY APPEAL)』の「州品評会(State Fair.)」では、「エル・ドラド郡にある日本人町の計画者であるスネル氏は今夜、品評会の展示品であるカリフォルニア産の発芽後6週間の桑樹と茶樹、および日本産の油脂植物を寄付した(Herr Schnell, the projector of the Japanese Colony in El Dorado, to-night, contributed for the exhibition specimens of mulberry plants and tea plants saised in California, and but six weeks old, and the Japanese oil plant.)」と報じられた。記事のなかでハインリヒ・シュネルは、「入殖地はうまくいっており、健康状態はどれも良好だ(He represents the colony doing well, and the health of all good.)」と答えており、「彼は大成功を収めると楽観視している(He is sanguine of achieving great success.)」とも報じられた。
10月24日付の『デイリー・アルタ・カリフォルニア』の「日本人町(THE JAPANESE COLONY)」では、「およそ3週間前、われわれはスネル氏から一通の書翰を受け取った。一度も入殖地に来たこともなく何も知らないのに、悪意をもって遠回しに嘘をつくプラーサーヴィルの何人かの水路工を公然と非難している(Some three weeks ago we received a letter from Mr. Schnell, denouncing the malicious misrepresentations of some ditch man at Placerville who never was at the colony and know nothing at all about it.)」と報じられており、10月初旬ごろには移民団の入殖地が「プラーサーヴィルの何人かの水路工」から嫌がらせを受けていたことを示唆している。
その一方で、「最後の蒸気船で到着した13名の男性、女性と子どもが現在も舷側におり、スネルを待っている。……この蒸気船は、当地でどの植物が発芽するかを研究するためにユージン・ヴァン・リード殿が送り出した、ひとりの経験豊かな農業の専門家を日本から連れてきた(Now, by the last steamer there have arrived thirteen men, women and children, who waiting for Schnell.……This same steamer brings us one of the most experienced agriculturists of Japan, sent over by Eugene Van Reed, Esq, to study what plant can be sent here to profit.)」とも報じられている。記事のなかで言及されている「ユージン・ヴァン・リード殿」とは、ユージン・ミラー・ヴァン・リード【Eugene Miller VanReed 1835–1873】のことで、横浜外国人居留地で『横濱新報もしほ草』の出版に携わる一方、1869年10月刊行の『もしほ草』第三十九篇のなかで「ワカマツ・コロニー」関係者との交信を公言していた(19)。
『デイリー・アルタ・カリフォルニア』の記事からは蒸気船の名前が分からないが、同紙の「船舶情報(Shipping Intelligence)」を確認すると、10月24日以前にサンフランシスコ港に入港した蒸気船のうち、横浜を経由してきたのは、9月26日に横浜港へ入港して9月29日に出港し、10月20日にサンフランシスコ港に帰港した「アメリカ号(SS AMERICA)」のみだ。このため、記事中の「the last steamer」は「アメリカ号」だと判断できる。
10月27日付の『サクラメント・デイリー・ユニオン(SACRAMENT DAILY UNION)』の「日本人町の補強(REINFORCEMENT FOR THE JAPANESE COLONY)」では、2日前の10月25日にサクラメントに到着した14名の日本人(fourteen Japanese)がシュネルの農園にいる同胞に加わるために、10月26日の朝にプラーサーヴィルへ向けて出発したと報じられた。10月24日付の『デイリー・アルタ・カリフォルニア』の報道とは日本人の人数が異なるが、詳細は不明だ。
1870年3月2日付の『サクラメント・デイリー・ユニオン』の「短文記事(BRIEF ITEMS)」では、ハインリヒ・シュネルが「14万本の茶樹を良い状態で受け取り、可能な限り早く植えようとしている(Schnell has just received, in excellent condition, and is having them set out as fast as possible, 140,000 of the tea plant.)」と報じられ、1箇月後の4月2日付の同紙には、1年から3年ものの茶樹1万本を100本につき50ドルで販売する広告がハインリヒ・シュネルの名前で出されており、茶樹の販売を手掛けていることが分かる。
7月13日付の『デイリー・アルタ・カリフォルニア』の「編集手帳(EDITORIAL NOTES)」では、「サクラメントの『レコード』紙は、エル・ドラド郡には多数の卑劣な人びとがいるという事実に注意を呼びかけている。鉱山夫を自称する彼らは、コーカサスの血統を猛烈に主張している……『レコード』紙によれば、彼らの行動計画はスネル氏を監視し、“彼が茶や何かを植えたらすぐに、どんどんと彼の土地を掘り返すこと”だという(The Sacramento Record calls attention to the fact that a number of worthless persons in El Dorado county, calling themselves miners, and inisisting with much vehemence upon their Caucasian descent……Their plan of operations, according to the Record, is to watch Mr. Schnell and “as soon as he has set out a plantation on tea or anything else, start in and mine his ground away.”)」と報じられた。1869年10月24日付の同紙で示唆された嫌がらせ行為がエスカレートしていることが分かる。
その一方で、「彼と日本人町は、カリフォルニアの地場産業に茶樹栽培を加えようと真剣に努めている。もし彼が成功すれば、エル・ドラド郡は経済的地位を確立し、往時の金騒動の経験すら凌ぐだろう(who, with a colony of Japanese, is endeavoring to add the culture of the tea tree to the other industrial pursuits of California, and by which if he should be successful, that county would attain to a degree of wealth and prominence even superior to that which it enjoyed in the early days of the gold excitement.)」とも報じられ、ハインリヒ・シュネルと移民団の事業が期待されていることがうかがえる。
8月11日付の『カリフォルニア・ファーマー・アンド・ジャーナル・オブ・ユースフル・サイエンス(CALIFORNIA FARMER AND JOURNAL OF USEFUL SCIENCE)』の「胡麻油(GOMA OIL.)」では、「カリフォルニア州プラーサーヴィルの日本人町では、近ごろゴマと呼ばれるイラクサ科の油脂植物の栽培に没頭している。この植物の種子はとても高価な油になるといわれ、1エーカーの作付面積から136ポンドの油が採取できる(The Japanese colony, at Placerville, California, has lately engaged in the cultivation of an oil-plant, of the nettle family, called Goma. The seed of this plant are said to be so rich in oil,that one hundred and thirty–six pounds of oil can be obtained from the product of an acre.)」と報じられ、新たに胡麻油の採取を目的としたゴマ栽培が投入されたことが分かる。
アメリカでは1870年6月1日から8月23日にかけて第9回国勢調査(NINTH CENSUS)が実施され、人口調査票(population schedule, questionnaire)の結果をまとめた報告書が1872年に公表された(20)。
第9回国勢調査は、アメリカ下院から任命された調査員が各世帯を訪問し、20項目の質問にそって調査対象者に質問するという方法で実施された。質問項目には「color(皮膚の色)」という項目があり、その分類項目として「White(白人)」、「black(黒人)」、「mulatto(ムラート)」、「Chinese(中国人)」、「Indian(インディアン)」の5種類があった。分類項目のうち「Chinese」は1870年の調査で初めて登場した項目で、第9回国勢調査報告書の序文には、「中国人―23州で見つかった“中国人”を含む。彼らを国勢調査に記載する目的は、日本人を包括的にとらえることだ[しかし、人口統計表のなかでは区別されている。]一方で、ハワイ人を除外する。(Chinese―Twenty–three of the States were found to contain “Chinese,” which description for census purposes was held to embrace Japanese, [who are, however, distinguished in the table of population,] but to exclude Hawaiians.)」とあり、独立項目ではなかったものの、「Chinese」の下位分類として「Japanese(日本人)」があった。ただし実際の調査では、「color」については直接質問せず、調査員が対象者を外見で判断して「color」欄に書き込むことが多かったようだ。
こうして第9回国勢調査に初めて登場した「Japanese」は、アメリカ全土で合計55名が記載されている。このうちカリフォルニア州には33名がおり、その内訳をみると、エル・ドラド郡に22名、ロサンゼルス郡サン・ガブリエルに2名、サクラメント第4区に1名、サンフランシスコに8名となっている。
エル・ドラド郡の調査票をみると、1870年7月2日付でコロマ地区において調査が実施されている。22名の日本人が記載されている箇所の先頭は「Schnell John」で始まっており、「ワカマツ・コロニー」の面々であることが分かる。22名の内訳は、男性14名、女性6名、女児2名となっている。女性のうち、ハインリヒ・シュネルの妻と考えられる「Jou」、および「Wozezoro」という男性のひとつ下に書かれた「Amanin」という者だけは名前が記載されている。日本人のほかにも「Schnell John」のふたつ下に「Frances」と「Mary」という女児がおり、さらに、ハインリヒ・シュネル一家のひとつ下に「Dielbol Fred」という白人男性の名前もある。調査票からすると、日本人22人と、「Schnell John」、「Frances」、「Mary」、「Dielbol Fred」の4名を含む26名が「ワカマツ・コロニー」の面々だと考えられる。
国勢調査を終えたのちの9月3日付の『サクラメント・デイリー・ユニオン』の「価値ある植物(VALUABLE PLANTS.)」では、『サンフランシスコ・コール(THE SAN FRANCISCO CALL)』がサンフランシスコ市内で開催中の園芸品評会(Horticultural Fair)に言及していることが報じられ、記事からはハインリヒ・シュネルが複数の農産物を出品していることが分かる。それらは、日本および中国の植物(Japanese and Chinese plants)、茶樹(tea plants)、ゴマ(goma)、胡麻油の見本品(a sample of the oil)、稲(rice plamts)、和紙の原木(Japanese paper tree)であり、入殖時に持ち込んだものから農産品の種類が増えていることが分かる。
1871年2月27日、ハインリヒ・シュネルが彼の茶農園のためにカリフォルニアの公有地内の一区画の所有を申請し、購入することを可能にする法律が成立した。この法律によると、ハインリヒ・シュネルは、カリフォルニア州エル・ドラド郡の茶農園とほかの耕作地を含む、彼の開墾地の境界線に沿った640エーカーを超えない土地を最少額で所有する権限を合衆国公有地管理局(United States Land Office)から与えられた。そもそもハインリヒ・シュネルが使用していた600エーカーの土地は未測量の公有地上にあり、この法律は、公有地を引き継ぐ方法を知らなかったハインリヒ・シュネルのために成立したものだった。こうして、1エーカーにつき1ドル25セント、合計800ドルで640エーカーの土地を取得できるようになった。
これまで引用してきたとおり、移民団の試みは新聞紙上で期待を持って報道され、ハインリヒ・シュネル自身も各種の品評会に出品するなどの成果を収め、さらには合衆国議会が彼のための法律を作るまでに期待値は高かったことが分かる。しかし、8月6日付の『デイリー・アルタ・カリフォルニア』の「茶樹(The Tea Plant.)」で突如、「スネル氏は昨年、プラーサーヴィル近郊で大規模な茶栽培を試み、失敗した(Herr Schnell tried it on a large scale near Placerville last year, without success.)」と報じられた。報道によれば、金鉱に囲まれた水脈から水を引いていたために鉄と硫黄が苗木に堆積して死滅したことが失敗の原因だという。さらには、移民団の面々が月給4ドルに不安を覚え始め、近隣の労働者に反発するようそそのかされ、ハインリヒ・シュネルは妻子を地主に預けて事業を終わらせたという。
ドイツ帝国[現、ドイツ連邦共和国]の外交官のマクシミリアン・アウグスト・スキピオ・フォン・ブラント【Maximilian August Scipio von Brandt 1835–1920】の回想録には、1871年6月22日の午前中にハインリヒ・シュネルに会ったことが記されている。そこには、「日本人の一団とともに、金鉱地に行ったが、利益を上げることはできなかったようだ。……彼は、おそらく数多くの裁判に巻き込まれ商売がうまくいかず、金儲けはできなかった」とある(21)。『デイリー・アルタ・カリフォルニア』で報道される1箇月半前の時点で、移民団の事業はすでに失敗していたことが分かる。
2年後の1873年5月3日付の『サクラメント・デイリー・ユニオン』では、5月1日にフランシス・ジョーゼフ・アーノルド・ヴィアカンプ【Francis Joseph Arnold Veerkamp 1822–1905】がエル・ドラド郡内の160エーカーの公有地を1エーカーにつき1ドル25セントで購入したことが報じられた。そしてこれ以後、「ワカマツ・コロニー」に関連する記事はほぼ無くなり、20世紀初頭になるまで新聞紙上からその話題は無くなる。
1913年8月29日付の邦字新聞『新世界(THE NEW WORLD)』の「サクラメント」に、明治4年(1871年)に建てられた日本人の墓についての記事が掲載された。この墓は、現在「おけいの墓」として知られる墓だ。
▲明治四年の墓
コロマタウンの附近に明治四年に建てた日本人の墓がある。何故斯かる山奥に日本人が移転したのであるか、其の不思議を糺だすに、コロマ金鉱発見以来、此の地方へ来集する白人至って多く、白人の或る者は三十餘人の日本人を此の地に移して茶山を造営する計画を策した相である。然るに当時は日給の安価なるに加へて、茶山造営の失敗と共に日本移民等は漂浪の客となり、非常に困難したとのことで、其中の一人の婦人は悲惨の最後をしたのである。白人等は遂に墓を建てたのだ相だ。
以上のとおり、「日本移民等」が「茶山の造営する計画を策し」て「失敗」し、「其中の一人の婦人は悲惨の最後をした」という。この「婦人」は「おけい」を指していると考えられる。
そして、この「おけいの墓」は、3年後の1916年7月12日から15日にかけて、現地の新聞記者である竹田雪城(竹田文治郎)【たけだ・せつじょう(たけだ・ぶんじろう) 1883–1940 山形出身】によって邦字新聞『櫻府日報(THE SACRAMENT DAILY NEWS)』で「おけいさんの墓に詣づるの記」としてその存在が改めて紹介される。一連の記事のなかでは「白人の古老」が語った「シュナイル」、「松之助」、「國五郎」、「進之丞」という4名の名前も記載されている。
この記事から11年後の1927年9月22日から30日にかけて、四至本蜂郎(四至本八郎)【ししもと・はちろう 1891–1979 大阪出身】によって邦字新聞『日米新聞(THE JAPANESE AMERICAN)』で「米国に渡つた最初の日本娘おけいの墓に詣づ」として再度言及される。第1回の「まへがき」には、「それはいふまでもなく加州在留同胞の人口に膾炙された所謂「おけいの墓」である」とあるので、1927年当時、「おけいの墓」がカリフォルニアの日本人社会において広く知れわたった存在だったことが分かる。一連の記事のなかでは、当時「十七の美少年」だった「七十七になる」「ヴアカンプ老人」の語った「ス子ール」、「ジョヂ畑中」、「シゲ」、「玉木」、「櫻井松之助」、「同松五郎」、「同市五郎」、「増水國之助」、「ケンパチ」、「おけい」、「みわ」、「おきよ」という12名の名前も記載されており、「一番最後まで残ったのは松之助(櫻井)だった」とある。第6回の記事では、「葵の紋入りの立派な短刀」と題して「スネールの持参した短刀とテーブル掛け」が写真入りで紹介されている。これらは、表に十六葉菊紋、裏に葵紋と輪違紋と丸に立葵紋と違釘抜紋と九曜紋とが入った白旗、金梨地に五雲をあしらった鞘に納められた腰刀であり、現在でも保管されている。また、記事中の「ヴアカンプ老人」は「七十七になる」ことから、ヘンリー・B・ヴィアカンプ【Henry B. Veerkamp 1851–1934】であることが分かる。
四至本の連載から5日後の10月5日付の『日米新聞』には、四至本の連載を読んで日米新聞のサクラメント支社を訪れた増水國之助【ますみず・くにのすけ 1849–1915】の次男と竹田との対談の様子が掲載されている。記事のなかで増水の次男は、「私は明治初年松平ス子ールの一行と渡米した増水國之助の忰だ」と竹田に伝えている。増水は1877年12月28日にキャリー・ウィルソン【Carrie Wilson ?–1943】という女性と結婚し、二男三女をもうけている。
1930年5月28日付の『日米新聞』には、竹田が「國の未亡人」から入手し複写したという増水の写真が掲載されており、大工だった「國の建た家屋はコルマにもオーブレにも未だ殘つてをり」、「國の墓は先年コルサに建られ」たという。記事のなかで言及されている「コルマ」と「オーブレ」と「コルサ」は、それぞれカリフォルニア州の「コロマ(Coloma)」と「オーベリー(Auberry)」と「コルサ(Colusa)」だ。
1934年6月23日から26日にかけて、四至本によって邦字新聞『日米新聞』で「在米同胞最古の二世 柳澤米女史と語る」が連載された。この記事のなかで柳澤米子【やなぎさわ・よねこ 1873–1942 東京出身】は、「私の父は、スネール一行に加はつて渡米したのですが、よく私が子供の時、父がエルドラルドにゐて苦労したことを聞かされました」と「ワカマツ・コロニー」に言及している。この「私の父」とは、『福音會沿革史』にも名前のある柳澤佐吉【やなぎさわ・さきち 1847–? 群馬出身】のことで、「海外行免状発行一件」にも「佐吉」という名前が記されている。米子によれば、「何でも父の話では毎日ゴールドの大きな塊をもつてタウンに買物にいつたが、折角、苦労して取つて来た金塊一つがフラワ一袋やエツグス一袋と交換されるので餘り馬鹿々々しくて採金をやめてしまつたとの事でした。其後、父はオークランドの八番街にレストラントを開き次に桑港に移りセコンド街とハワード街に、次にユニオン・スコヤー前に店をもつてゐました」という。柳澤佐吉の妻は柳澤なみ子【やなぎさわ・なみこ 1851–1886】という名前で、「佐吉」と同じく「海外行免状発行一件」に「なみ」という名前がある。米子の話では「桑港にはよい医者や産婆が居らぬと云ふので」、妊娠するたびに日本へ帰り出産していたという。記事のなかで言及されている「フラワ」は「小麦粉(flour)」だ。
『大阪市産業叢書第十九輯 大阪の罐詰工業』によれば、「明治八年には東京新宿にあつた内務省所管の勧業寮内藤新宿出張所樹藝掛に於て果實蔬菜罐詰の試製が行はれたが、米國加州より歸朝せる柳澤佐吉により桃の砂糖煮罐詰が」試作されたという。「明治八年」は1875年であり、「ワカマツ・コロニー」の失敗から4年後ということになる。柳澤佐吉は1877年10月6日にサンフランシスコで創設された福音會の創設メンバーでもあったので、1877年10月までに再渡米していることが分かる。また柳澤は、1903年に『農事ニ関スル意見』という書籍を東京で出版している。このことから、「ワカマツ・コロニー」関係者の中に帰国者がおり、日米間を往復していたことも分かる。
一方、米子は、1894年にパシフィック大学に入学後、翌1895年にカリフォルニア大学に2年生として編入し、1898年に同大学を卒業して文学博士号を取得し、1901年にはカリフォルニア大学医学部を卒業し医学博士号を取得した。大矢という男性と結婚して日本へ帰国して一時は開業したが、のちに夫の大矢氏は病死したという。また、1911年6月7日に『裸體生活』という翻訳書を出版している。原著は、デンマークの体育教師であるヨルゲン・ピーター・ミューラー【Jørgen Peter Müller 1866–1938】の『Mit System―15 Minutters dagligt Arbejde for Sundhedens Skyld!(自分の体―健康のために毎日15分運動しよう!)』という書籍で、1904年に出版され、英語やドイツ語にも翻訳されている。
このほか、「ヴアカンプ老人」の話と一致する人物がもうひとりいる。大藤松五郎【おおとう・まつごろう 1838–1890 千葉出身】の妻、大藤みわ【おおとう・みわ 1845–?】だ。除籍謄本によると、1867年には長女のよしが誕生しており、大藤が「ワカマツ・コロニー」の一員だった場合、家族3人での渡米だったことになる。さらに、1870年には長男の酒造太郎が、1873年には次女のさくが誕生している(22)。先述の『大阪市産業叢書第十九輯 大阪の罐詰工業』は、「又翌年には同じく米國より歸朝せる大藤松五郎によりトマト罐詰が續いて試製された」と続いており、明治9年、つまり1876年には大藤はアメリカから帰国して東京にいたことが分かる。大藤は翌1877年、山梨県の葡萄酒醸造所に主任として招聘され、白ワインやブランデーの試作をおこなっている(23)。
注
(1)箱石大・編『戊辰戦争と史料学』p. 117
(2)箱石大・編『戊辰戦争と史料学』p. 116
(3)箱石大・編『戊辰戦争と史料学』p. 117
(4)箱石大・編『戊辰戦争と史料学』pp. 119–121
(5)箱石大・編『戊辰戦争と史料学』p. 123
(6)文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』p. 81
(7)箱石大・編『戊辰戦争と史料学』pp. 126–127
(8)『The Chronicle and Directory for China, Japan, and the Philippines』1865、1866、1867
(9)『The Chronicle and Directory for China, Japan, and the Philippines』1869
(10)外務省調査部・編『大日本外交文書』第一巻第二冊p. 42
(11)会津戊辰戦史編纂会・編『会津戊辰戦史』pp. 175–176
(12)1869年5月21日付『DAILY ALTA CALIFORNIA』「Shipping Intelligrnce」
(13)上白石実「明治維新期旅券制度の基礎的研究」
(14)竹田正夫『おけいと若松コロニー―日本最初のアメリカ農業移民 その資料のすべて』p. 67
(15)John E. Van Sant『Pacific Pioneers: Japanese Journeys to America and Hawaii, 1850–80』
(16)1869年6月16日付『DAILY ALTA CALIFORNIA』「THE JAPANESE SETTLEMENT」
(17)1869年5月27日付『DAILY ALTA CALIFORNIA』「ARRIVAL OF JAPANESE IMMIGRANTS」
(18)1869年6月16日付『DAILY ALTA CALIFORNIA』「THE JAPANESE SETTLEMENT」
(19)海外移住150周年研究プロジェクト・編『遥かなる「ワカマツ・コロニー」―トランスパシフィックな移動と記憶の形成』p. 109
(20)菅(七戸)美弥「55名の「ジャパニーズ」:1870年米国人口センサスの調査票(population schedule)への接近」
(21)海外移住150周年研究プロジェクト・編『遥かなる「ワカマツ・コロニー」―トランスパシフィックな移動と記憶の形成』pp. 51–52
(22)海外移住150周年研究プロジェクト・編『遥かなる「ワカマツ・コロニー」―トランスパシフィックな移動と記憶の形成』p. 149
(23)西田博太郎・監修『大日本之化學工業』p. 344