第5話 暗闇の中で
久しぶりの月曜の午前9時投稿
前はこれを毎週やってたなんて信じられない
人気のない砂浜に座り、寄せては返す波を眺めながら祐人はしみじみとつぶやく。
「……海はいいなぁ」
黒い霧発生の翌日。日課のランニングに出かけた祐人は住宅街を過ぎ、長い松林を抜け、高い防波堤の先にある海岸へと来ていた。春先ということもあり祐人の他に人はいないが、夏になればきっと多くの海水浴客がここを訪れるのだろう。吹く風には潮の香りが混じり、聞こえるのはザーザーという穏やかな波の音だけだ。人気のない砂浜に響く潮騒は、まるで祐人を出迎えてくれているかのようでもあった。
こうしていると心が落ち着く。考え事をするにはぴったりの状況だ。
昨日のあれは一体、何だったのか? ぼんやりと海を眺めながら、祐人は改めて昨日の出来事を振り返る。
突如として発生した黒い霧。最初に話を聞いた時は半信半疑だったが、実際に遭遇してしまった今となっては疑う余地はない。事実、「黒い霧が発生する」という事象それ自体に対しては祐人も納得していた。問題はその後だ。発生した黒い霧は一か所に集まり、人の姿となって襲い掛かってきたのだ。しかしそんなことが現実にあり得るのだろうか? 実際に目の当たりにしたにも関わらず、祐人は昨日の出来事を受け入れられずにいた。コトの真相を確かめるべく昼間にクラス内で行った聞き取り調査の結果が、その疑念をさらに深めた――
「おはよう。みんなは超常現象って信じる? 僕は信じる」
「朝っぱらから、なんだいきなり」
「また何かに影響されたの?」
席に着くなり挨拶もそこそこにそう切り出した祐人に対して、健太と育美は慣れた様子で応じる。
「常識では考えられない出来事、アンビリーバボー! あなたの身に起こるのは明日かもしれません……」
「いや、どういうことだよ」
「私の身に起きたの昨日のことでした……」
「昨日、何かあったの?」
育美の問いに祐人は頷きながら答える。
「実は昨日、奇跡体験アンビリバボーに遭遇してさ」
「どんな?」
「……霧を見たんだ。それもただの霧じゃない、世にも恐ろしい黒い霧を……!」
「そりゃあ災難だったな」
「何ともなくてよかったね」
祐人は満を持して昨日遭遇した黒い霧のことを二人に伝えた。しかし熱弁を振るう祐人とは対照的に、健太と育美の態度はあっさりとしたものだった。適当にあしらわれていると感じた祐人は、真剣な顔で話を続ける。
「いきなりこんな話をされても信じられないかもしれない。でも本当なんだ。僕は昨日……」
「いや、信じるよ」
「この目で確かに黒い霧を……えっ?」
「だから見たんだろ? 霧を」
「いや、まぁ、うん、見たけど……でも僕が見たのは世にも恐ろしい……」
「黒い霧だろ? 知ってるって。別にそんなに騒ぐ程のことじゃない」
「えっ、そうなの?」
予想外の言葉に祐人が思わず聞き返すと、健太は何でもないような顔で答えた。
「この辺じゃ有名だよ。黒い霧が出たらすぐに逃げろってな」
「うわ、懐かしー! 私も小さい頃、親からよく言われたわ。危ないから絶対に近付くなって」
健太の言葉に同意するように育美が感慨深い様子で笑う。何と驚いたことに、ここでは黒い霧というのは一般的なものらしい。しかも二人の口振りからすると昨日今日始まったことではなく、昔からの事柄のようだった。確かめるように祐人は尋ねる。
「つまりこの島では黒い霧は日常茶飯事……ってコト!?」
「まぁ、よくあることだな」
「むしろそんなに珍しい? って感じ」
「なーんだ、そうなの? じゃあ僕が見たのはただの霧だったのか。恐怖のあまり気絶するかと思ったのに」
二人の言葉に祐人は拍子抜けしたように笑った。どういう原理で黒い霧が発生するのかは分からないが、自然現象と分かれば恐れることはない。祐人に釣られるように育美も笑う。
「あはは、そんなに?」
「いやー、あれにはさすがにビビったね。あんなにビビったのは初めてバイオハザードをやった時以来だよ。まさか霧が人の姿になるなんてさぁ」
「えっ?」
「んっ?」
その言葉に健太と育美は怪訝な顔をした。だが、祐人はそれに気付かずに話を続ける。
「でも正体がはっきりしてすっきりしたよ。てっきり幽霊かと思ってドッキリしたからね。霧だけに」
「霧が……何だって?」
「霧だけにはっきりしてすっきり」
「いや、そっちじゃなくて」
「ちなみにてっきりとドッキリにもかかってる」
「いらねーよ、その補足情報!」
健太がツッコミを入れる中、育美が恐る恐る尋ねる。
「五十嵐くんさぁ……何か怖いこと言わなかった?」
「怖いこと?」
「霧が人の姿になるとかどうとか……」
「あぁ、そのこと? あれには驚いたね。人の姿になったと思ったら、こっちに向かって来たんだからさぁ。心臓止まるかと思ったよ、ほんと」
祐人の言葉に健太と育美は互いに顔を見合わせる。
「……おいおい、何だよそれ?」
「またいつもの冗談?」
少しの沈黙の後、二人は笑いながらそう言った。その態度は明らかに祐人の話を信じていない様子だった。その反応に違和感を覚えた祐人は、確かめるように尋ねる。
「……じゃあ二人は見たことないの? 今まで一度も?」
「ないな」
「そんなのと出くわしたら大騒ぎになるよねー」
「で、でもよくあることだって……」
「確かによくあることとは言ったけど、それは黒い霧の話だぜ?」
「うん……私も聞いたことないよ、人の姿の霧なんて。何かの影と見間違えたんじゃない?」
追いすがるような祐人の言葉に、二人は素っ気ない様子でそう返すだけだった――
その後、どうにも納得のいかない祐人はクラスメイト全員に同じ話をして回った。しかし反応はいずれも同じだった。クラスメイトたちは黒い霧については知っていたが、人の姿をした霧を見た者は一人もいなかった。
「やっぱり、あれは見間違いだったのか……?」
海を眺めながら祐人はぽつりとつぶやく。自分は昨日、黒い霧が人の姿になるのを見た。確かに見た。だが、これだけ意見を否定されるとさすがに自信がなくなってくる。
「……よし!」
しばらく考えた後、祐人はある決断を下した。
「昨日のは夢だった! そういうことにしよう!」
祐人が下した決断。それは昨日の出来事を夢と思い込むことだった。何の解決にもならないある種の現実逃避だったが、これ以上時間を費やしたところで何かが分かるわけでもない。今の彼にとってこれがベストの選択だった。
「さて、考えもまとまったことだしそろそろ帰ろう」
立ち上がった祐人がジャージについた砂を払っていると、突如として一陣の風が吹いた。風は砂塵を巻き上げ吹きすさび、祐人はたまらず両腕で顔を覆った。数秒後風が止んだのを確認し、ゆっくりと目を開ける。するとそこには信じがたい光景が広がっていた。
「なっ……!」
祐人は絶句した。いつの間にか周囲を黒い霧に取り囲まれていたからだ。さっきまで霧なんて出ていなかったのに……何故? そんなことを考えていると霧は少しづつ集まり、例の姿を形作っていく。まるで昨日の再現を見ているかのようだ。そうして再び人の姿となった霧は、祐人の前でゆらゆらと蠢いた。
「ひぃ! せっかく夢だったと言い聞かせて自分を納得させようとしてたのに!」
ゆらゆらと不気味に蠢く霧を前に、祐人はやけに説明じみた台詞を吐いた。しかしそれは落ち着いている証拠でもあった。昨日は恐れをなして逃げ出すばかりだったが、今日は軽口を叩く余裕すらある。不可解な現象も二日連続となると、意外に冷静でいられるものだ。
祐人は霧と一定の距離を保ちながら、辺りをぐるりと見渡した。周囲は黒い霧に取り囲まれ、逃げ道は塞がれている。霧の中に飛び込んで一気に突っ切ってしまえば逃げられるかもしれないが、祐人はそうはしなかった。
『黒い霧が出たらすぐに逃げろ。でなけりゃ死んじまうぞ』
『この辺じゃ有名だよ。黒い霧が出たらすぐに逃げろってな』
『私も小さい頃、親からよく言われたわ。危ないから絶対に近付くなって』
祐人が聞いた黒い霧についての噂はいずれも、その危険性を示唆するものだった。故に不用意に近付くのを躊躇ったのだ。祐人がどうしようかと逡巡していると、霧はゆらゆらと迫ってきた。驚いた祐人は後ろに下がり距離を取るが、霧はじりじりと近付いてくる。祐人が接近をかわす度に霧は何度も襲い掛かって来る。まるで何か意思を宿しているかのように。
「はぁ……はぁ……!」
この不可解な状況のせいかはたまた黒い霧の影響か、どんどんと息が上がっていく。このままでは……!
「……これでも食らえ!」
身の危険を感じた足元の砂を素早く掴み取ると、言うが早いか砂を投げ付けた。投げ付けられた砂によって霧は一瞬形を崩したが、すぐに人の姿に戻ると何事もなかったかのように再び動き出す。
「さらにもう一発!」
それでも祐人はめげずに再度砂を見舞う。しかしその瞬間、折悪く吹いた浜風が砂の軌道を大きく変えた。
「あああああああ!」
その結果盛大に自爆した祐人は自らの手で自らの視界を塞ぐこととなった。その姿はさながらム〇カ大佐のようだった。
「目がああああ!」
祐人が悶え叫ぶ間に霧は音もなく徐々に忍び寄り、手を伸ばせば届くまでの距離までに肉薄していた。そして霧は何を求めるように、祐人に向かってゆっくりと手を伸ばす。その時だった。
「……こっち!」
背後から声がしたかと思うと、不意に右腕を掴まれた。ひんやりとした冷たい感触と何者かの人の声に、祐人は息が止まりそうになる。
「えっ!? 誰!? 何!? 怖い!」
「……いいから早く!」
声の主はその場から連れ出すように祐人の腕を引く。祐人には何が起きたのかさっぱり分からなかったが、どうやらこの人物は自分を助けてくれようとしているらしいということは分かった。
何も見えない闇の中で懸命に足を動かしていると、不意に腕に伝わる圧力が弱くなったのを感じた。先導者が足を止めたのだ。しかし目を閉じていた祐人は急には止まれず、勢いそのままに顔面から砂浜にダイブした。
「目がああああ!」
「ご、ごめん! ……大丈夫?」
再びバルス状態に突入した祐人に、腕を引いていたその人物は申し訳なさそうに声をかける。涼やかな女性の声だ。
「はい、何とか……」
祐人はそう返事をしながら顔についた砂を払うと、二度三度と瞬きを繰り返した。
「……あれぇ? 何でここに?」
ようやく視界を取り戻し声の主の正体を知った祐人は、何とも間の抜けた声を上げた。そこにいたのは、彼の隣の席の少女だった。




