第22話 変化の兆し
久しぶりにあの人が登場!
朝。外から聞こえてくる鳥のさえずりに私は目を覚ました。枕元の置き時計に目をやると、時刻は8時20分を過ぎたところだった。ベッドから抜け出してカーテンを開けると、まばゆい光が部屋を照らす。いつもより1時間以上遅い起床。
洗面台へと向かった私は顔を洗い、顔を拭ったタオルと着ていたTシャツを洗濯機に放り込んだ。洗濯機を作動させてから部屋着に着替えると、窓を開けて部屋中に掃除機をかける。程なく部屋掃除を済ませるとキッチンへと移動し、朝食の準備に取りかかった。
オーブンレンジに食パンを入れてトースト機能のボタンを押す。数分後、焼き上がったトーストを丸い平皿に移すと同時に電気ケトルをセットする。トーストにバターを塗りながらお湯が沸くのを待っていると、ケトルからカチッと音がした。お湯が沸いた合図だ。マグカップにインスタントコーヒーの粉と沸騰したお湯を注いで、使い終えたバターナイフでそれをかき混ぜた。
マグカップとお皿を持ってリビングに戻った私は、テーブルにそれらを置いてから椅子に腰掛けた。トーストを一口齧り、コーヒーを啜る。侘しい朝食に虚しさが込み上げる。気晴らしにテレビを点けると、可憐な衣装の少女たちが何やら敵と戦っていた。脱水に切り替わった洗濯機がガタガタとうるさくて内容は聞き取れないが、どうでもよかった。昔は夢中になって見ていたけれど、今となっては素直に楽しむ気にもなれない。
その時、洗濯機がピーピーという甲高い鳴き声を上げて動きを止めた。無機質な賑やかさが収まった矢先、今度はテレビから軽快なメロディが流れ始めた。私は画面の中で楽しそうに踊る少女たちの姿をぼんやりと眺めた。
それから数十分後。我に返った私は固くなったトーストを冷めたコーヒーで流し込み、洗濯物を取り出してベランダに移動した。空は青く晴れ渡り、温かな日差しが降り注いでいる。これならよく乾くだろう。
部屋に戻り朝食に使用したマグカップとお皿を洗い終えると、もうやることがなくなってしまった。呼び出しでもあれば気を紛らわせられるのだが、こんな日に限ってスマホは鳴らない。
このままじっと家にいても仕方ないのでどこかに出かけようかとも思ったが、この島に見て回れるところなどない。そもそも私はここに遊びに戻ってきたわけではないのだ。
私は一体、何をやっているのだろう? もうすでに1年以上が経つというのに目的は未だ果たせず、ただただ日々を空費するばかり。何のために私は……
己の不甲斐なさを嘆きながら外に目をやると、相変わらず空は青く澄んでいる。それとは対照的に、私の心には暗い霧が広がっていた。
それから私は勉強をしたり、本を読んだりして過ごした。しかし気持ちが晴れることはなく、有意義な時間とは言えなかった。集中力を欠いた私は大きく伸びをしながら、時計を見た。時刻は午後4時過ぎ。私は読んでいた本に栞を挟んで閉じると、着替えて外へと出かけた。
晴れ渡る空の下を私は歩く。空は依然として青さを保っているが、昼間の青さとはどことなく異なり、夏の夕方特有の空気感に満ちている。
外出の目的は買い物だ。とはいってもお洒落なショッピングなどではない。食糧の買い出しだ。出かけるのは億劫だったが、そうも言ってはいられない。いくら文句を言ったところで、誰も代わりにやってはくれないのだから。
歩きながら私は深い溜め息を吐いた。今日も実りのない休日だった。これなら平日の方がずっといい。学校で授業を受けていれば余計なことを考えずに済むし、友達だって……
「……友達?」
自分の言葉に驚いた私は、思わずそれを口に出していた。今まで私には友達と呼べる存在はいなかった。クラスメイトとは必要以上に仲良くしないよう努めてきた。それなのに……いつの間にか私は変わっていった。挨拶をする程度だったクラスメイトたちとの関係は徐々に変わり、今では会話を交わすまでになった。それはきっと……いや、間違いなく彼のせいだ。
彼が来てから私は変わってしまった。この変化は私にとって大きな枷になるかもしれない。それを分かっていながら、私はこの変化を受け入れてしまっている。私は……私は……
そんなことを考えている内に、いつしか私の足は学校へと向かっていた。スーパーに行くはずが無意識に学校に来るなんて、相当疲れてるな。
苦笑しながら来た道を戻ろうとしたその時、私はあることに気が付いた。学校の方から何やら声がする。耳を澄まして聞いてみると、どうやら運動部が練習をしているようだった。
何となく気になった私は門の外からグラウンドの様子を窺うと、そこには白いユニフォームを泥だらけにして練習に励む野球部の姿があった。
「日曜日なのに……」
その光景に私は思わずつぶやいた。野球部が休日に練習する姿を見たのは、この時が初めてだった。この学校の野球部に休日練習をするような熱心さがあっただろうか?
「広瀬さん?」
そんなことを考えていると、不意に背後から名前を呼ばれた。振り返るとそこには、私のよく知る人物の姿があった。
「五十嵐……くん」
私が名前を呼ぶと、その人は嬉しそうな笑顔を見せた。
「よかった、やっぱり広瀬さんだった! 私服だから一瞬分かんなかったよ。全然知らない人だったらどうしようかと思った。日曜なのに学校に何か用事?」
「私は……ちょっと買い物に。五十嵐くんたちこそ、日曜日なのに練習?」
いつもの調子で喋り始めた彼に私は答える。
「うん。何かみんなやる気満々で、急にこの土日も練習することになってさ」
「……ってことは昨日も来てたの? 珍しいね。野球部が土日返上で練習なんて」
「きっと試合の日まで残り一週間切ったから、みんなやる気スイッチが入ったんだろうね。いいことだよ、うん」
「そうなんだ。頑張ってるんだね。それで……どうして五十嵐くんはグラウンドじゃなくて、こんなところにいるの?」
「それがバッティング練習中に鈴木くんが特大の場外ホームランを放ってさぁ。見事な一発だったよ、あれは。あれを試合で打ってたら、相手チームは恐れをなして棄権してるね」
「そんなに?」
大袈裟な語り口に私はくすりと笑う。
「そりゃもう! あれは推定飛距離150メートルぐらいはあったよ多分。恐るべきパワー! それで飛んでったボールを探してたんだけど、ようやく見つけて戻ってきたんだ」
「それは大変だったね。練習は何時まで?」
「もうそろそろ終わると思うよ。明日も学校だし、早く帰ってサザエさん見なきゃいけないし」
「……サザエさん好きなの?」
「プリキュアとサザエさんが日曜日のお楽しみでね。ただ今日は途中までしか見れてないんだよね。9時から練習だったから。まぁ、Tverとかで見るからいいけど。その分サザエさんはリアルタイムで見ようと思ってさ。連敗ストップもかかってるし」
「連敗ストップって……?」
「じゃんけんの話。今、引き分けを挟んで5連敗中でさぁ。いや、まいったよ」
そう言って肩をすくめる彼に、私は恐る恐る尋ねる。
「もしかして……何を出したか覚えてるの……?」
「うん。毎週結果をノートにまとめてる」
「わ、わざわざノートに……?」
「最近全然パーを出さなくってさぁ。そろそろパーを出すだろうと思って毎週チョキを選ぶんだけど、おかげで連敗地獄」
「ぷっ……あはははは!」
大真面目に語る様子に、私はこらえきれずに思わず声を上げて笑ってしまった。こんなに真剣にサザエさんのじゃんけんに取り組む人がいるなんて思うと、おかしくて仕方なかった。
「あはははは……あぁ、おかしい」
私は笑いすぎて乱れた呼吸を整えながら、指先で涙を拭った。
「やっぱり面白いね。五十嵐くんは」
「え、そう? でもまだボケてないんだけど……」
「ボケてない方が面白いかも」
「えー? それはそれでちょっと複雑」
「ふふっ」
「おーい、ボールは見つかったのかー?」
私たちが話をしていると、背後から彼を呼ぶ声がした。声の方を見た彼は言う。
「広瀬さんごめん! そろそろ戻らないと」
「うん。忙しいのに引き止めてごめんね?」
「全然! 久しぶりに話せてよかったよ。最近、あんまり話せてなかったから」
「私も話せてよかった。じゃあ……私行くね?」
「うん、じゃあね! 生徒会のみんなによろしく!」
「うん、伝えておくよ」
私は彼に別れを告げると、来た道を戻り始めた。
「あ、そうだ! 広瀬さん!」
背後からそう声をかけられた私は、足を止めて振り返る。
「うん?」
「サザエさんってデータ放送に対応してて、そこでもじゃんけんできるんだよ!」
「そ、そうなの……? 呼び止めてまで言うこと……?」
「それでじゃんけんの結果によってスタンプが貰えるんだけど、スタンプの数に応じて豪華賞品が……」
「まだ何か言ってる!? もういいよサザエさん情報は! じゃあね!」
予想外の言葉に戸惑いながらもツッコミを入れつつ、私は再び別れを告げて歩き出す。
「広瀬さん!」
「もー、まだあるの?」
苦笑いをしながら振り返ると、大きく手を振る彼の姿があった。
「また明日! 学校でね!」
「うん、また……」
私は小さく手を振り返す。それを見た彼はもう一度手を振ると、グラウンドへと駆けていった。
夕焼けが辺りをオレンジ色に染める中、私はもう一度歩き出した。心の中のもやもやは、いつの間にか消えていた。




