第1話 霧深く静かで平和な島
みんな大好き離島の学園物です
心温まるハートフルなお話です
『お客様にご案内申し上げます。本船は間もなく霧人港へ着岸いたします。携帯電話などお忘れ物・落とし物などなさいませんようお手回り品お確かめの上、下船のご用意をお願い申し上げます』
入港を告げる船内放送が流れる中、少年が一人デッキの上で徐々に大きくなる島を眺めていた。少年は海風が運ぶ潮の香りと波音を感じながら、その時を待っている。フェリーは少しずつ速度を落とし、そして静かに止まった。程なくして再び船内放送が流れてくる。
『お客様にご案内申し上げます。本船はただ今着岸いたしました。これより下船準備作業を行いますので、案内があるまで船室またはエントランスで今しばらくお待ちいただきますよう……』
「ここにいたのか、祐人」
再び船内放送が流れる中、不意に背後から声をかけられた少年は振り返る。そこには眼鏡の男性が立っていた。
「ど、どうしてここに……!?」
「くっくっく……お前を連れ戻すために地獄の淵から甦ったのさ!」
「そ、そんな……そんな馬鹿な……!」
「くっくっく……ハーッハッハッハ!」
「それで一体……何だと言うんだ、父さん……!」
祐人と呼ばれた少年は相変わらず芝居がかった口調で尋ねた。二人は親子だった。
「お前の姿が見えなくなったから探しに来たのさ。今放送で言っていたように、降りられるようになるまでもう少し時間がかかるらしい。どうする? 部屋で待ってるか?」
「もう少しここにいるよ。こうやって海を見てるだけでも楽しいしさ」
「そうか、それじゃあ次の案内があったら戻るようにな。……せいぜい遅れないように気を付けるんだな! ハーッハッハッハ!」
祐人の父もまた芝居がかった口調を崩さず、高笑いを残して船内へと引き上げていった。ノリのいい親子だった。
祐人は父の背中を見送ると、上陸予定の港に視線を移した。港の波止場にはすでに何艘もの漁船が停泊している。港町だけあって漁業が盛んなのだろう。日曜日の午後だというのに人の姿はなく、港は閑散としている。この島にとっては何てことのない日常的な光景だったが、島の外からやって来た祐人にとっては新鮮で興味を惹かれるものだった。
「……んっ?」
デッキの上から風景を眺めていた祐人は思わず違和感を口にした。人のいない波止場の上で、何か白いものがゆらゆらと蠢いている。
「なんだあれは……? 霧……? 靄……?」
そう思い目を凝らしてよく見てみたが、あれが何なのかよくは分からない。しばらく観察していると、何となく人の形をしているようにも見える。
「陽炎……それとも蜃気楼か……?」
祐人は両目をごしごしと擦り、再び波止場を見た。すると不思議なことに、その白い何かはいなくなっていた。
「き、消えた……!? 見間違いだったのか……? 幻覚……まさか幻術か!? 幻術なのか!?」
『お客様にご案内申し上げます。下船の準備が整いました。携帯電話などお忘れ物・落とし物などなさいませんよう今一度……』
たった今目撃した不可思議な光景に一人で騒いでいると、下船の準備完了を告げる船内放送が流れた。 祐人はしばらくの間、白い何かがいた場所に訝しげな視線を送っていたが、再びそれが現れることはなかった。
「道はこっちで合ってるの?」
助手席に座った女性が、運転席の眼鏡の男性に尋ねる。
「うーん、ナビによれば合ってるはずなんだがなぁ」
「このナビも古いものねぇ。まぁ、ゆっくり行きましょうよ。こんなにのどかな島なんですもの。何て言ったかしら? この島の名前……」
「霧人島だよ。ほら、ここに書いてある」
後部座席で観光案内のパンフレットを眺めていた祐人が答え、女性に渡す。
「そうそう、霧人島! 面白い名前よねぇ。だって音読みにしたら『むじんとう』よ? 人がいるのに無人島って……プッ……クク……!」
「ハッハッハ! 相変わらず母さんは笑い上戸だな!」
押し殺すように笑う女性に対し、祐人の父は豪快に笑った。
祐人は両親の他愛のない会話に耳を傾けながら、窓から流れる景色を眺めた。母の言う通り、確かにのどかなところだ。建ち並んでいるのは低い平屋ばかりで、高層ビルやマンションなどの高い建物は見当たらない。車道は綺麗に整備されているが走る車はなく、人の姿も見かけない。本当に無人島に着てしまったのではないかと錯覚してしまいそうになる。
「うん、ここだここだ。さっ、着いたぞ」
祐人の父はそう言って一軒の家屋の敷地内へと車を進め、そして停めた。敷地にはすでに白い車が一台停まっている。街でよく見かける営業車だ。先客だろうか?
目の前には豪勢なお屋敷がデンとそびえ立っている。白を基調とした大きな二階建てで、家族三人で住むには些か広すぎるように思える。家の大きさに比例するように庭もまた広く、キャッチボールも余裕でできそうだ。
「おー! 豪邸だー!」
「ほんと、立派ねー」
二人が歓声を上げていると玄関のドアが開き、中から温和そうな白髪頭の男性が姿を現した。男性はぺこりと頭を下げると、右手を上げながらこちらに近付いて来た。
「や、これはどうも。管理会社の田中といいます。お宅が五十嵐さんですか?」
「どうもお世話になります、五十嵐です。こちらは妻と息子です」
「どうもー、五十嵐の妻です」
「こんにちは! 五十嵐祐人です!」
「これはどうもご丁寧に。田中です」
田中と名乗った男性は挨拶を済ませると、祐人の父に向き直り話を続ける。
「では五十嵐さん、こちら家の鍵です。電気ガス水道はもう使えるようになってますので。何かあればこちらにお電話ください」
田中は祐人の父に家の鍵と名刺を渡すと、庭に停めていた白い営業車に乗り込んでエンジンをかけた。すると入れ替わるように、今度は大きなトラックがこちらに向かって来るのが見えた。
「おっ、あれは引っ越し業者のトラックだな。ちょうど荷物も届いたか」
「さっそく荷解きをしないとね~。三人で頑張れば今日中に終わるわよ~」
両親の会話を聞きながら祐人は田中を見送り、トラックを出迎えた。
それからおよそ数時間後。一家は新居での生活を始めるための仕上げに取りかかっていた。どの部屋も掃除が行き届いており、管理体制の良さが窺い知れる。家具付きの物件のため引っ越し業者による荷物の搬入もすぐに終わった。
「おっと、もうこんな時間か。ここら辺で少し休憩するか」
祐人の父は先程壁に掛けた電波時計を見て、言った。時計の針は午後6時を少し回ったところを指していた。
「そうねぇ、そろそろ夕飯にしましょうか。とは言っても食べる物はなーんにもないけど」
「それなら何か買って来るよ。父さんと母さんは休んでて」
「それじゃあ、何か適当に買ってきてくれ。弁当とかパンとか。あと飲み物も欲しいな」
「はい、お金。暗くなってきたから気を付けるのよー?」
「ラジャー、了解。いってきマンモーニ」
母から財布を受け取った祐人は独特のノリでそう答えると、食料調達のために家を出て行った。
「ありがとうございましたー」
気怠げな店員の声に見送られ、祐人は店を出た。スマホのナビを頼りにコンビニを見つけた祐人は、無事に食料の確保に成功したのだった。
「いやー、近くにコンビニがあってよかったなー。さーて無事にミッションも完了したことだし、家に帰るかな」
目的を達成した祐人は家に戻るために、悠々と歩き始めた。その道の途中にそれはいた。
「あ、あれは……!?」
祐人は驚きの声を上げた。暮れ始めた夕闇とコントラストを成すように、昼間に港で見た白い人影のような何かが佇んでいたのだ。
正体不明の白い何か。得体の知れない謎の現象を目の当たりにしているにも関わらず、恐怖や不安は感じなかった。むしろ心がほっと落ち着くような、希望が湧いてくるような……そんな温かな気持ちになった。
人影のような白い何かは数分間ぼんやりと佇んでいたが、やがてゆっくりと道の脇に外れ、背の高い草むらの中へと消えていった。
「あっ……ちょっと……!」
祐人は無意識に飛び出すと、その後を追うようにして白い何かが消えた草むらの前へと歩み寄った。
「あれは一体、何なんだ?」
祐人が小さくつぶやき草むらを眺めたその時だった。
ガサ……ガサ……
草むらが音を立てて揺れる。風のせいかと思ったが、今は風など吹いてはいない。つまり風ではない何かが草むらを揺らしているということになる。
祐人は思わず息を呑んだ。鬼が出るか蛇が出るか。一体、何が姿を現すのか? 草むらを飛び出したそれは鳴き声を上げると、一目散に祐人に襲い掛かって来た。
「ミャーオ」
突如として姿を現した黒い影。草むらから飛び出してきたのは一匹の黒猫だった。
「猫……? さっきの正体はこいつか? それにしては大きさが全然違うような……っていうかそもそも色が全然違う……」
祐人が腑に落ちない様子でつぶやくと、黒猫は足元にすり寄ってきた。出会ったばかりにも関わらず、警戒心は皆無に等しい。体の大きさからすると、どうやらまだ子供のようだった。
「首輪はしてないみたいだけど、野良猫かな?」
「ミャー」
黒猫はまるで「撫でろ」と言わんばかりにもう一度鳴き声を上げた。祐人はしゃがみ込んで黒猫の体を撫でる。
「よしよし」
撫でてやると黒猫は気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「ずいぶんと人懐っこい猫だな……よし、お手!」
祐人が手を差し出すと、黒猫はふんふんと匂いを嗅いだ。そして――
「あああああああ!」
祐人は情けない叫び声を上げた。黒猫が差し出した手に思い切り噛みついたからだ。その声に驚いた黒猫はびくりと体を震わると、草むらの中へと逃げていった。
「思わず情けない声を出してしまった……恥ずかしすぎる……誰かに聞かれなかっただろうか……さっさと帰ろう」
祐人は情けない声を上げた自分を恥じると、逃げるようにしてそそくさとその場を後にした。
「……」
再び姿を現した白い霧のような何かが遠ざかる祐人の背中を見つめていたが、彼がその視線に気付くことはなかった。