【短編】婚約者に愛はいらないと言われた【コミカライズ】
一日で書き上げたので誤字が心配ですが、勢いのままに投げつけたいと思います。そいやっ!
2024/7/22 誤字脱字報告職人達の仕事が早すぎるのですが……いつも本当にありがとうございます!
「私は貴女からの愛を特に必要としていない」
いつもの無表情のままに婚約者が口を開く。
「アーネスト様にはどなたか想われている方がいらっしゃるのでしょうか?」
声が震えぬように、心の中で冷静にと自身を叱咤しながらフレデリカはアーネストへと問いかける。
淑女らしくあるようにと意識している微笑みを浮かべているつもりだが、甚だ怪しいところだ。
「よもや愛人を持つとでも?
婿入りする身の私が非常識な人間だと言われたいのか?」
「けれど、私を愛さないと宣言されるのですから、誰か他の方がいらっしゃるのかと……」
フレデリカの語尾がか細く消えていく。
「別に愛人を持つ気はないが、だからと言って貴女を愛する必要もない」
「そんな、政略結婚だとしても、そこから愛を育むことはできますわ」
「それは双方に好意があればだろう。
あいにく私にとってフレデリカ嬢は、婚姻の相手として条件の合う家の令嬢なだけに過ぎない」
婚約を結んで一年半。
婚約前と婚約して少しばかりの間は、こうも無表情ではなかったし、月に一度で約束されたお茶会には花や土産を持って訪れてくれていたのに。
今では手ぶらで訪れてはお茶が不味いと言い放ち、他家で美味しかった茶葉やお菓子の話をするだけして早々に去って行く。
「毎月のお茶会も義務だから訪れているだけだ。
それなのに好意も無い相手から向けられる感情など、はっきり言って迷惑でしかない。
来月のお茶会までに夢見がちな考えを改めないと、婚約の解消も視野に入れておく」
私の婿入りを望む家は他にもあるんだと言って、アーネストが席を立つ。
「相手を想うなどといった下らない考えを持つ前に、この伯爵家に私が婿入りするという栄誉にどう報いるかを考えた方がいい。
私は自分に釣り合うだけの女性を伴いたいと思っているが、フレデリカ嬢がそうかと聞かれれば否となる。
せめて慎み深く、私を立てて生活をするというのならば考えてやらないこともないが。
これは助言だ。貴女が私と婚約解消に至らないようにするためのね」
訪れて僅か1時間にも満たぬ交流すら早々に打ち切り、暇の言葉掛けも無く、立ち去る背を見送るフレデリカの視界がぼやけていった。
「あの方は本当に顔だけの最低な人間ですわ」
「そう言わないで。アーネスト様は学園での成績が優秀でいらっしゃるのよ」
「優秀な頭だろうと、むしろ優秀だと言うのならば、もう少し気の利いたことも言えるでしょうに。
悪態ばかりがご立派なばかり。きっと心根が腐っているのです」
断言したネロリーに思わず笑い、そうしてからハンカチをそっと膝の上に置いた。
お茶会の席でひとしきり泣いた後に部屋に戻れば、フレデリカ付きの侍女であるネロリーが氷水に浸したタオルを強く絞り、泣き腫らした目を冷やしてくれる。
「言い返せば、いいのでしょうけど」
フレデリカが言葉を溢せば、最近侍女になったばかりのジェナが違いますと声を上げた。
「いいえ、いいえ、フレデリカお嬢様が言い返す必要はありません。
そもそも、アーネスト様は本来あのようなことを口にするべきではないのです」
「そうね」
少なくとも婿入りをする気があるのならば、どんなに考えに相違があるのだとしても攻撃的な態度で否定するべきではない。
「アーネスト様は私のこと、きっと嫌いなのね」
ぽつりと落とした言葉が空気を重くし、それを変えようとするかのようにジェナが大袈裟なくらいの明るい声で喋り出した。
「そういえばお嬢様、侍女の間で流れている噂をご存知ですか?」
噂、とぼんやりする頭のままに反芻すれば、ネロリーが悪戯心一杯の笑みを浮かべる。
「ええ、なんでも不思議な魔法を売っているお店でございます。
誰かを誰かに惚れさせたり、逆に嫌いにさせたり、そういった人の心を操る類の魔法だそうですよ」
そんな魔法があるのだろうか。
確かに魔法を使える人はいるものの、それは目に見えるものばかりだ。
火を起こしたり、水を凍らせたり、今は不在の聖女様は傷や病を癒されることができると聞いたことがあるぐらい。
フレデリカの身にも魔法は宿っているが、ほんの少しだけ植物の成長を促す程度のものだ。
フォスター伯爵領は小麦の特産地であり、特に虫や水に強い品種への改良を行っているので、領に住まう研究者からは重宝されているが。
だから人の心を操ると言っても、俄かには信じがたい。
「それが本当だとしても、人の心を操るなんて危険だし、なにより相手を蔑ろにしているのではないかしら?」
「ええ、ええ、ですから店主はやって来た客の話をよく聞いて、そこに疚しい気持ちがあるようでしたらお断りするのだそうですよ」
胡散臭いですよね、とジェナがあっけらかんと笑う。
「きっと魔法ではなくて、その店主と話をすることによって踏ん切りをつけているんじゃないかって私は思いますけどね。
噂には尾ひれが付くものですから」
「それなら確かに納得できるわね」
まったく自分とは関係ない人に話をするだけで、少し考えも、感情も整理がつけやすくなるのかもしれない。
「私もそのお店に行けば、アーネスト様への気持ちを無くすことができるかしら」
あそこまで言われたのだ。
今想う女性がいないのだとしても、フレデリカのことを好きになることなどないのだろう。
ベッドから起き上がって、机の二番目の引き出しを開ける。
入っているのは封筒が三通と季節の挨拶のカードが2枚、それから誕生日に贈られた万年筆。
もう一本ある万年筆は年明けの祝いに贈られたもので、誕生日の万年筆とまったく同じものだ。フレデリカの誕生日は年の明ける三ヵ月前で、婚約者の贈り物を忘れる程に日が過ぎているわけではない。
こういった贈り物は誰かと相談して買うものなのだが、誰にも相談することなくアーネストが無頓着にも同じ物を購入したのか。
フレデリカのことを本当に嫌っているのかもしれない。
アーネストとの交流は、全て父である伯爵へと報告が上がっているはず。
幸い、父は領地に戻っていることから、今日のことが伝わるのは少し後になる。
常々父は、女伯爵となるフレデリカのためになる相手を見つけるのだと言っていた。
今日あったお茶会の会話が報告されれば、良くてアーネストとの婚約解消か、最悪な場合はアーネストの家に婚約破棄を言い渡すことになるはずだ。
アーネストの父親であるコリンズ子爵が何と言い縋ろうとも、婚約継続はありえないだろう。
フレデリカだってアーネストの態度を見れば見る程に、結婚する相手として望ましくないとわかっている。
ただ、頭で整理できたとしても感情が伴わないのだ。
出会った時のアーネストは自信家ではあったけれど、今のような態度ではなかったのに。
以前は話は弾まなかったら話題を探そうとしてくれていたり、花言葉の意味を配慮しなかったが喜んでほしいと花を買ってくれたりした。
一体何が切っ掛けなのかはわからないが、フレデリカではどうにもできそうにない。
ならば婚約は続けられない。
明日そのお店に行ってみよう。
噂のお店に本当は魔法がなくてもいい。噂は噂でしかなくてもいい。
アーネストから離れようと動き出すのが大事なのだから。
翌日、ネロリーに噂好きの侍女から色々聞き出してもらい、貴族令嬢だとわからないようにネロリーのワンピースを貸してもらう。
コルセットをしない腰回りは少し不安になるも、それ以上に自由になった気がして、同じように他の侍女から帽子を借りれば裕福な家のお嬢さんくらいに見えた。
護衛にも無理を言って着替えてもらい、仕事終わりの使用人と紛れて裏口から家を出る。
近くに停まっていた辻馬車に乗り込んでしまえば、ドキドキも最高潮だ。
噂の店がある近くで降ろしてもらい、先にネロリーに店の場所を確認してもらう。
小さな焼き菓子のお店と安価な雑貨店の間、日差しの僅かにしか入らない路地の奥まった場所に、噂の店はあった。
想像していたよりも胡散臭さはなく、外から見ただけだと誰かの家かと思う佇まいだ。
門が開けられ、扉に小さな看板と来訪を知らせるベルが付いているから、ここが店舗なのだと判断できるくらいでしかない。
一瞬迷ったが、後二日もすれば父の耳に入り、書類の準備を進めながら王都にやって来るのだと思い、首を軽く振ってから足を進める。
そっと扉を開けば、チリンとベルが軽やかな音を鳴らした。
ハーブだと思われる独特の香りが鼻腔に届き、その香りに緊張していた心がほぐれていく気がする。
勇気を出して一歩入れば、小さな店内に自分のものではない声が響く。
「おや、お客様か」
想像したのと違う低い声。
不自然に跳ねた肩と、咄嗟に声の主へと向き直った体。
カウンター手前のイスに腰掛けてフレデリカを見ていたのは、フードを目深にかぶり、笑みを浮かべた口元だけの見える男性だった。
「あはは、驚いてる。
大抵のお客は皆そうだけど」
どうぞと示されたのは、店主の向かい、テーブルを挟んだ椅子。
「お嬢さんも魔法を望むのだろう?」
一緒についてきてくれたネロリーから小声で店を出るか聞かれたが、首を横に振って椅子へと座る。
「ふーん、安い服を着ているけど、一緒にいるお嬢さん達が座る場所を確認しない。
そういう気遣いをしなくていい仲良しってわけでもなさそうだから、いい所のお嬢さんと女中さん、それから護衛って感じかな?
まあいいさ。こちらは商売だから詮索はしないよ」
「そうして頂けると助かります」
店主は店の隅にも椅子があるから、他の者はそこに座って待っているといいと言ってくれたので、ネロリーと護衛にそうするよう伝える。
少し心配そうだったが、店の端にある椅子からフレデリカのことは見えるので問題はない。
主人が見えるのでよしとしたのか、離れた席で待っている護衛が少しソワソワしながら周囲を窺っているのから視線を外し、店主に向き直る。
店主が男性なのは意外だった。
こういった怪しげな店の店主ともなれば、読んだ絵本などのイメージからか老婆であると思い込んでいたけれど。
「お願いしたいのは、私の婚約者に対する想いを消し去る魔法です」
「おや、婚約解消するだけではいけないのかい?」
意外そうな声で返すけれど、店主の唇は笑みのまま。
表情が読めないせいか、驚いているのか驚いていないのか、さっぱりわからない。
こういった相手は普段なら苦手だが、今日は自身の不安を訴えにきているのだ。取り繕う必要などないだろう。
おそらく店主は口が堅い。
噂の尾ひれの中に店主の性別がなかったからだ。女性の行く店で男性の店主と差し向いというのは、それなりにプレッシャーを強いられるし、気弱な女性だったら避けるものだ。
だから行ったことのある者は、危なそうだったら行くことなど勧めない。
「ええ、婚約解消はすることになります。
けれど、私の気持ちがこのままでは次に進めません」
そうして長くなると前置きし、フレデリカは語り始めた。
話し終わる頃に1時間以上過ぎていた。
なるべく簡潔にとは思ったが、それでも心情を説明するには正しく語る必要があり、ついつい話し込んでしまった。
お疲れさま、と店主がグラスにお茶を注いでくれる。
「試飲用なんだけどね、今日はもうね、客はこないだろうから」
グラスを手にすれば程好く冷えていた。店主の魔法だろうか。
人の心を操れるのは事実で無かったとしても、店主は魔法が使えるのだろう。
口にすれば、清涼感のある味が喉を通り過ぎていく。
「美味しいです」
「よかった。お店で販売しているんだけど、暑い時期によく売れるんだ。
まだ秋というには暑いからね、欲しいなら売ってあげるよ」
商売上手だと思いながら、もう一口お茶を飲む。
「それを飲んだら、相手への気持ちは忘れていく。
清涼感が熱を消すように、君を焦がす小さな灯を消してくれるさ」
思わず手の中のグラスを見つめた。
琥珀色のお茶に何が入っているというのだろうか。
「話は聞いたけど、お嬢さんの心の整理はきちんとできている。
後は気持ちだけと言ったけれど、それだって時間の問題だ」
店主の手元にあるピッチャーで、カランと氷の音がした。
「嫌なことを思い出す度、このお茶を飲むといい。
きっと、ここでの会話を思い出す。お嬢さんが傷ついたこと、思ったこと、ちゃんと考えていることも。
大丈夫、飲むたびに今日の冒険を思い出して、きっとお嬢さんの背を押してくれる」
手を、と言われ、少し躊躇うも手を差し出す。
恭しくフレデリカの手を取り、掌を上に向けると小さな小瓶を置いた。
小さな淡くて優しいオレンジ色の花が砂糖をまぶされて詰められている。
「金木犀の砂糖漬けだ。花言葉は気高い人。
今のお嬢さんに相応しいと思わないか?」
手元の伝票に店主が何やら書きつけていく。
「夜に嫌なことを思い出したら使うといい。
お茶に入れてもいいし、そのまま食べるのだってありだ」
そうしてから伝票を一枚切り離すと、フレデリカに差し出した。
銀貨一枚。
お茶代にしては随分高く、けれど相談料としては随分安い気がする。
いいのかしらと首を少し傾げるも、平民の相場寄りだと説明されたら納得するしかない。
銀貨を一枚と、それからネロリーにお願いして茶葉と金木犀の砂糖漬けの代金として、普段目にすることが少ない銅貨を払ってもらう。
心付けとして悪くない金額だと店主は言い、そうして店の出口まで見送ってくれた。
「お嬢さんの強さに敬愛を。
また、どうなったか聞けるのを楽しみにしているよ」
路地を抜けた通りに戻り、辻馬車を探しながらネロリーに尋ねる。
「こんな手の込んだ茶番を言い出したのはお父様?それともお祖母様かしら?」
ネロリーが苦笑して、ご本人に直接聞かれるのはお止めになってあげてくださいと答えるので、いつまで経っても子離れが出来ない人だとフレデリカも笑う。
遅かれ早かれアーネストとはこうなるのだと先を読まれていたらしい。
けれど。
「ちゃんと問い詰めないと、あの店主さんのお名前もわからないままになるもの」
初対面の顔合わせは悪くなかった。
今夜からは泣くこともないだろう。
「購入したお茶は、昼下がりに頂くことにするわ」
胸にある残り火は、早くに消えていきそうだ。
- * - * -
アーネストは自分のことを優秀な人間だと思っている。
子爵の次男ではあるが父親似の兄とは違い、伯爵家の三女だった母に似て、濃い金髪と淡い青の瞳が自慢だ。
ささやかだが魔法も使え、水から手のひらサイズの氷の彫刻を生み出せば誰もが喜んでくれる。
学園での成績だって試験をすれば30位以内に入り、上の爵位の家から婿入りを望まれるだろうと父が自信たっぷりに言い切る程。
だからアーネストがフォスター伯爵家から婿入りを望まれるのは当然であり、フォスター家の唯一の娘であるフレデリカが貴族らしい外見の娘で、生真面目で穏やかな性格だったのもアーネストの望む条件に丁度良かった。
3度のお茶会で会話はそれほど弾まなくても、フレデリカがアーネストに対して好意的であることがわかり有頂天になる。
これで将来は安泰だ。
学園で優秀な成績を残しているのだから、文官として王宮に出仕しながら適当な時期に結婚し、伯爵領のことはフレデリカに任せて王宮での出世に専念すればいい。
描く未来のビジョンは明るく、どこにも問題はなかった。
ある日、既に王宮に出仕している兄が休暇なことから、久しぶりに家族が揃う日中に盤遊戯を持ち出して勝負しようという話になり、弟に負けて恥をかいても知らないぞと兄と差し向う。
けれど指し始めは良かったものの、すぐに思いもかけない手で崩され、気づけば兄にコテンパンに負けたことにアーネストはショックよりも怒りを覚えた。
兄が学園にいた頃の成績はいつだって大したことなかったからだ。
そんなに難しいのかと思いながら入学したアーネストは、こんな問題が難しいと思う兄は愚かなのだと思い至り、それ以来心の中で馬鹿にしていたのに。
まだまだだなと笑う兄に対して、アーネストが伯爵位となったら弟であろうと頭を下げることになるんだぞと言ったら、両親にきつく叱られたし、兄からはアーネストが伯爵になるわけでもないのに偉そうだと言い返されてしまった。
そうだ。アーネストは伯爵になれない。
どれだけ頑張ったとしても、フレデリカよりも優秀だとしても伯爵家の当主は彼女である。
おかしくないか、と思う。
アーネストはとびきり優秀なのだ。ならばフレデリカが爵位を継ぐのだとしても、伯爵家の采配をするのはアーネストの役割ではないのか。
あの大人しいだけの令嬢如きに、伯爵としての務めが果たせるとも思えない。
だったら、フレデリカは名ばかりの伯爵として領地に引っ込ませて、そんな妻と伯爵家の面倒を見てやるアーネストが表舞台を引き受ければいいのだ。
本来なるべきだった伯爵としてアーネストが社交で腕を振るい、フレデリカは夫を立てて慎ましやかに伯爵領で暮らしていればいい。
たまに帰れば子どもなんて勝手にできるものだし、子どもができれば劣ったフレデリカに任せずにアーネストが選んだ優秀な乳母に任せれば、アーネストの血を継いでいる以上は立派に育つはず。
駄目なら領に帰して次の子を育てればいい。
子どもは男が二人に、女が一人いれば足りるか。
せめて一人くらいはアーネストの優秀さを受け継いでくれるだろうから、伯爵として立派にやっていけるだろう。
そうなるとフレデリカには自分よりも劣ることを、それゆえアーネストの言うことを聞かなければいけないことを教え込む必要があった。
男友人達に相談すれば、誰もが率先して助言をしてくれた。
立場をわからせるために、お茶会に土産など持って行く必要はない。むしろ手土産を持たさないことを詰った方がいい。
相手の淑女ぶりを試すため、こちらから話題を振ることなどせず、知的な会話を提供できるか確認する。
何より一番に、自分より下であることを毎回言い聞かせる。
場合によっては婚約を解消してもいいのだと、自分の立場をわからせる。
彼らから出される提案は、どれもアーネストの立場を確固とするのに必要なものだった。
同じクラスの女生徒からは止めるように言われたが、伯爵になるアーネストの気を引きたいだけだと友人達に言われると、一斉に話しかけてこなくなった。
たかだか男爵家の娘と平民風情がと口にすれば、その調子だと友人達が笑って背中や肩を叩く。
クラスでの呼び方は未来の伯爵様に代わり、下位貴族と平民で構成されたクラスの中で、アーネストはヒエラルキーの頂点にいた。
助言の通りに行動する度に、暗い顔をするフレデリカを見て気分が良かった。
アーネストの言葉に反論の一つもできないなんて、貴族社会で生きていけるはずがないのだ。
必要なだけ子どもを産んだら、さっさと引退させてアーネストが後見役として伯爵代理となればいい。
妄想は膨らむばかりで、けれど確実に手に入る未来。
この時までアーネストはそう信じていた。
- * - * -
「この婚約は破棄とさせて頂こう」
次のお茶会の約束まで、後一週間もあるという日の早朝。
季節の挨拶でも述べるかのように、笑顔のままに婚約破棄を言い渡した父の横で、フレデリカは澄ました顔のままに向かいのコリンズ子爵とアーネストを眺める。
どちらの顔にも浮かぶのは驚愕で、まさか婚約破棄を言い出されるなんて思ってみなかったようだった。
「そんな、急に婚約破棄などと言い出されても。
うちのアーネストを選んだのはフォスター伯爵ではありませんか」
焦った声を上げるコリンズ子爵と対照的に、こちらはどこまでも涼し気な顔だ。
「とんだ見込み違いだったものでね」
さらりと言われた言葉に、アーネストが真っ赤になった。
おそらく羞恥と怒りだろう。
「私は成績優秀で将来性もあると自負しています」
声が震えている。
アーネストが睨みつけてきたが、フレデリカ自身も驚くぐらいに醒めた感情しかなく、心の表面でさざ波が立つこともない。
正面に座る婚約者を見ても、打ち消すように爽やかなお茶の思い出が胸に広がっていく。
大丈夫、これできちんとお別れできる。
「我が家の乗っ取りを触れ回っている方を、婿として迎え入れることはできませんわ」
声音に感情は乗せず、事実だけを淡々と述べると、コリンズ子爵の目が丸くなった。
どうやら次男は優秀だという盲目から、普段の素行がどうなのか管理できていなかったらしい。
「既にコリンズ子爵令息のクラスメイト、特に女生徒の大半から証言を貰っていてね」
父の言葉に顔色を変えたアーネストを見て、コリンズ子爵の額に大粒の汗が浮かぶ。
「しょ、証言とは……?」
「私の娘が子爵令息より劣る存在だと教え込むために、いかに貶めるかという行為を男子生徒から教わって実践していたとか。
あまつさえクラスでは伯爵と呼ばれているようで」
ヒュッと息を吸い込んだコリンズ子爵が隣に座るアーネストを見る。
「アーネスト、今の話は本当か!」
もはや叫びに似た声に、隣のアーネストが仰け反りながら口を開いた。
「誤解です!別に呼ばせていたわけではないし、あれはクラスメイト達が勝手に言い出しただけです!」
「でも、否定もしなかったのだろう?」
笑顔で吐く言葉は鋭利な刃物のよう。
細めた目が少しも笑っていないことに、彼らが気づいたとしても既に手遅れだ。
「ああ、それと。学園でそういう態度なのだから、私が留守の間にもフレデリカに何かしていないか心配でね。
侍女と護衛だけでは証言にならないとか言い出されても厄介だから、事前に申請を出して公的な第三者に依頼して記録してもらっていたんだ」
私の後ろに立つジェナが軽く会釈をしてから、王宮記録官見習いを名乗る。
聞かされたときにはフレデリカも驚いたが、確かに新しい侍女とはいえ仕事慣れしていない様子を不思議に思っていたのだ。
てっきりどこか裕福な家の行儀見習いかと思っていたのだが。
彼女から渡された報告書に目を通し始めたコリンズ子爵の顔色は、青くなるよりも先に土気色にまで到達し、報告書を持つ手がブルブルと震えだした。
「月に一度でのお茶会ではろくすっぽ交流もせずにフレデリカを罵り、婚約解消をちらつかせて脅す始末。
こんな人間を婿に迎える家があるかは知りませんが、令息は他にも当てがあるのですから困らないでしょう」
父の言葉にフォスター家から同伴していた家令が、音もなく書類をテーブルに広げた。
「さあ、こちらの書類に署名を。婚約の際の契約書では問題を起こした場合、有責側による慰謝料の支払いでしたね。
私も人でなしではないので、子爵家が傾くような額は請求していないからご安心を」
高額を吹っかけて、払えず逃げ出されたら元も子もないのだという本音は欠片も漏らさない。
けれど領地も持たない子爵家からすれば、それなりの大金だ。すぐにの用意が難しい場合は、どこかで借り入れる必要がある。
「え、いや、そんなことを言わず、アーネストの行動も若気の至りゆえですので!
今回の事はやり過ぎだとよく言い聞かせますので、反省したらフレデリカ嬢の良き伴侶となって支えるでしょう!」
コリンズ子爵の言葉に便乗するように、アーネストが言葉を続ける。
「優秀な私を婚約解消したと噂になれば見る目のない家だと笑われて、フレデリカ嬢の次の相手なんて見つかるはずがないでしょう。
それにフレデリカ嬢は私のことが好きだろう?今まで何を言っても、私を慕っていたじゃないか!
私との婚約を解消すれば、フレデリカ嬢はショックで伯爵を継ぐどころじゃないでしょうとも!」
父が私を見るので、微笑んで頷く。
それを同意と取ったのか、アーネストがこちらへと身を乗り出してきた。
「フレデリカ嬢、父君に伝えるんだ。
私を愛しているから婚約解消などしないと」
「お断りします」
アーネストが頷こうとして、ピタリと動きを止めた。
「フレデリカ嬢?」
「お断りすると申し上げているのですわ、コリンズ子爵令息」
扇を広げて嘆息してみせる。
「何か勘違いされているようですが、私達は単なる政略結婚の相手。
確かに政略結婚であろうとも愛は育めると申し上げましたが、どうして私に好意を持つ気の無い相手に愛情を持たねばならないのですか」
それから、と言葉を続ける。
「婚約解消ではなく婚約破棄ですので。
今までに何を言っていたのか自覚がおありなのでしたら、当然だというのに何を勘違いされているのだか」
「私だったら恥ずかしさで家から出られないね」
ちゃっかり便乗した父がアーネストを煽れば、握ったこぶしはコリンズ子爵同様に震え、射殺さんばかりに父を睨むも平然とした顔で笑みを崩すことのない父が署名を勧めるだけ。
「ほら、選択肢は沢山あるのだろう?
それとも見栄を張っただけで婿入り先など一つもないとか、まさかそんなことあるまい?」
「もう結構!フォスター伯爵家では私の価値など見いだせないのでしょう!
父上、さっさと署名をしてお帰り頂きましょう!
そして、どうか今度こそ私に見合った婿入り先を選んでください」
正面の父からのプレッシャーと、横からのアーネストの勢いに押されてか、この短時間でやつれたコリンズ子爵が緩慢な動きでペンを取る。
のろのろと署名を書き終えた書類を、素早く家令が手元に運んで確認し、父に頷けば親子揃って立ち上がった。
「それではお暇を申し上げよう。
これより私達は赤の他人。慰謝料さえ払ってもらえれば特に何かするわけでもないので、そちらもフレデリカに関わろうとしないように」
子爵家の家令が蒼褪めた顔で扉を開けている。
彼だけが正しく、コリンズ子爵家の末路を想像できているのだとフレデリカは感心し、何かあったら雇用を検討してもいいか父に確認しようと心の片隅にメモを取る。
何かあるとしたら、コリンズ子爵家が傾くことぐらいだけれど。
フレデリカが先に部屋を出、父が出ようとして足を止めて部屋の中へと振り返る。
「何度もお伝えしますが、我が家は何もしませんよ。ええ、する必要がないのだから」
こちらに背を向けている父の顔は容易に想像できる。
先程とは違う笑みを浮かべているだろう。
喧嘩を売ってきた相手が不幸になるのを愉しみに待つ、嗤いを宿した笑顔。
「学園での子爵令息の態度は、既に高位貴族のクラスにまで話が伝わっていましてね。
いえね、私も親馬鹿を自覚しているのですが心配で周囲に聞き回ったせいで、大抵の家が知っているのですよ。
家の乗っ取りを企てる下位貴族の子息を欲しがるなど、そんな奇特なご令嬢は本当にいるのかな。
まあ、私が心配することではあるまい。早く新しい婚約者ができるといいですな」
わざとらしいまでの棒読み。
既に手遅れだということを暗に仄めかす父と共にコリンズ子爵邸を出た。
「さて、この書類を提出したらおしまいだ」
馬車の中で父はご機嫌だ。
「フレデリカ、半年は間を空けることになるが、ちょうど良縁を得られそうでね。
安心しなさい。次こそはフレデリカも好ましいと思う相手を選ぶから」
美味しい茶葉を取り扱う方かしらと聞いたら、ニッコリと父が笑う。
「この国の貴族ではないが、きちんと他国で貴族位を持つ家の者だ。
物珍しい異国の品々に詳しいから、きっとフレデリカを楽しませるだろう」
ポケットから小瓶を出す。
「さて、後は私が上手くやるから暫く学園は休みなさい。
せっかくだから領地に戻るといい。弟家族もお前に会えるのを楽しみにしている。
そして私に手土産を渡した相手も」
砂糖漬けの入った小瓶を受け取れば、あのお店のことを思い出す。
次に会う時にはフードで隠れていない姿を見れるのだろうか。
あの清涼感のあったお茶の味が少しだけ甘く変わった気がしながら、そっと外の景色へと目を移した。