ゆるゆるな話
「使い古したユルユルダルダルな衣服っていいよね」
私のこの主張はきっと多分世の中の半分ほどの皆様にはご賛同いただけると勝手に思っています。
私は自分の衣服を主にみっつのグループに分けております。
一軍は『新しめの(自分的には)お洒落なよそ行き服』
二軍が『すでに3~4シーズン目だけれどまだまだヘビロテの現役バリバリ服』
そして三軍『そろそろ捨てよっかな、どうしよっかな、あと一回着たら考えよう服』ですね。
しかし!しかしですよ。その先には新たな地平が待っています。
三軍の契約解除を乗り越え、今後裏方のスタッフとして別の意味で主力になっていく皆さんです。
私はこの襟元がユルユルに広がった、裾がベロンベロンに伸びた、袖がダルンダルンに広がった、生地の張りが無くなってフニャフニャの、そんなTシャツは下着はサイコーだぜ、と声を高らかに言いたいわけでした。
この裏方がいなければ私は家でリラックスできない。そして家時間の多くなった私にはもはやその裏方達のほうが「真の主力」とといってもいいくらいなのです。
一昨年リフォームを行った私はマンスリーマンションに一時避難し、その機会に家具や衣服、雑貨書籍の大々的な処分を行いました。
これも経験がある方には同意していただけると思うのですが、『処分』というものは痛みを伴う反面、相当の快感があります。
例えば書籍、長年捨てられず本棚に二重三重で積み重なっていた本を捨てるのは断腸の想いです。こういうサイトに投稿している私ですが、紙の本への愛着は人一倍、と自負しています。
それでもこの機会に思い切って!という強い意志、そしてリフォームしている高揚感でかなり処分しました。これが快感なんです。ものを捨てるのは気持ちいい。
そしてうっかりしました。古着の半分以上を捨て去ってしまったのです。アウターもインナーもです。まあ、私が持っている服など大した量ではないのですが、それでも思い切った処分ではありました。
…で、リフォーム後に自宅に戻りまして初めて気がつくわけです。私を支えてくれていたあの裏方がいない。ダルダル軍団がすっかり姿を消しているのです。マジダルビッシュとはこういうことです。使い方あってますか。古いですか。
当たり前ですがユルユルの下着やTシャツは一朝一夕に得られるものではありません。
その昔、「美味○んぼ」という漫画の中で山岡さんが老舗スッポン料理店の土鍋について『この鍋たちは長い時間コークスの炎に鍛えられて、その高温に割れずに生き残ってきた貴重な土鍋なのです』的なことを言っておりました。
そう、ユルくてダルいそのパンツは長い時間かけて私の生活習慣やだらしなくなった体型やコークスの高温に耐えて生き残ってきた貴重なパンツなのです。そこらで売っているモノではない。売っていたら怖いですけど。
私はまた一からユルい服を育てなくてはならず、長い時間をかけて育成に励まざるを得なかった。
「人を駄目にするクッション」上で6時間ネトフリを見ているときも関節のどこかに力が入り、二度寝をする休日にはベッドで身体が突っ張る感覚で逆に疲れを溜め、徹夜でネット麻雀に興じる時も変に力んで打ち込み…と散々な目にあいました。ここまで書いていて気がついたのですが、自分がすごく駄目人間に思えてきました。皆さんはどう思いますか。
古着のことを書いていて、ふと頭に浮かびました。世の中で口に出してはいけない昔の言葉のひとつに『女房と畳は新しい方がいい』というのがあります。今、こんなことを人前で言ったら袋だたきどころか社会的に抹殺されてもおかしくはないですね。類似の言葉で生き残っているのは『スピーチとスカートは短い方がいい』という奴でしょうか。うーん、違う気もします。
で、女房と畳の話です。前述のリフォームで畳の部屋をなくしてしまった私に本来それを言う資格はないかもしれませんが、新しい藺草の香りというものはやはりいいものです。
私には新しい女房の匂いというものがあるかどうか判りません。ですが、こちらは自信を持って言えます。女房はずっと連れ添った今の奥さんが一番いい。もちろん本気の本気です。
「あれ何処いったかな」と聞けば「三番目の棚」とぶっきらぼうに答えてくれ、うぐぐぐと腰痛で呻きながらフロアに倒れると自然に私のお尻の上にかかと落としを入れてくれ、肉じゃがには必ず結んだ糸コンニャクが入っています。
確かに妻と私の間にはもしかしたらつきあって間もない頃や新婚当時のドキドキ感などないかもしれませんが、相互理解という名の下に若干お互いのある部分を諦めたり見限ったりしつつ、その替わりに緩やかな安らぎの関係が築かれたのです。。
「一緒に歩いて格好いい女」なんて新品のブランドものは要らない。「ずっと一緒にいて心地よい君」の方が、あるいはそういう関係を育てていくことの方が尊いと私は思う。
これを書いている途中で奥さんが通りかかったので、つい「君は僕にとってダルダルユルユルのパンツみたいなものだよ」と何だかロマンチックな気分で言いかけましたが、危うく思いとどまりました。恐ろしい勘違いをするところでした。
…それはそうと私はテレビや雑誌のファッションチェック的なものが嫌いです。世界的なファッションデザイナーが血と汗と涙を流しながらの経験を通して言ってることならともかく、そこら辺の読者モデルごときが「お洒落といわれてる人が着てるからお洒落」くらいの基準であれこれダメ出ししやがってとか、私の普段着が基本的に周囲から「ダサい」といわれるのにムカつくとか、こいつらにユルユル服の良さがわかるのかとか、テレビ局の「目上でもタメ口枠」に需要があると確信してる感じが嫌いだとか、そういったことに腹を立てて八つ当たりしているわけじゃないんです。…いや、もしかしたらそういうわけかもしれません。
この文章を書くにあたって当初、最終的な結論にしようと思っていたことがありましたが、何だかうまくそこまで辿りつきません。私はよくそういうことがあります。おかしいですね。
目指す結論は「自分の好きなモノは人に決められたくない。自分で決めたい。何ならそういう好みのモノや関係にじっくり育てていきたい」でしたが。
えー、そしてこのユルユルな話も「意味不明なとこはあるけど、何となく解釈して読んであげました。気持ちはまあまあワカッタわかった」とあなたの方で私に合わせてくれればいいじゃん。
最後はタメ口にしてみました。居心地が悪いです。
読んでいただきありがとうございました。
書いているうちにどうも自分で何を言いたいのか忘れることが多いです。
読みにくかったら申し訳ありません。