第終章【裏】そして誰もいなくなったとしても
どれを間違えたんだっけ。少女は傾きかける太陽に向かって心の中でつぶやいた。
どこで間違えたんだっけ。少女は乾ききった口の中でつぶやいた。
どうしてこうなったんだっけ。少女はポケットの中で薬を包装したアルミを握る。
きっかけは、覚えていない。
それは静かに、いつの間にか始まっていた。
教室に入って、いつものように友達グループに声をかけた。友達はいつものように返事をしてくれた。
それなのに、友達グループで話題に上がったのは、自分の知らない日に集まって遊んでいたということだった。どうして? 少女は心臓が止まった気がした。誘われてすらいない。
気にしていない風を装って、なんてことのないように口を動かして、「それなんの話? 私誘われてないんだけどー」と尋ねても、「いやホラ、みんなで行こうって決めた時あんたトイレでいなかったじゃん?」という下手なはぐらかししか返ってこない。その場にいなくてもメッセージアプリで聞くくらいできたはずだ。彼女達はそれをしなかった。
その日の夜は、布団の中、自分が彼女達にしたこと言ったことを思い返す内に朝が来た。
朝が来て、また学校へ行った。
その日から、少女は少しずつ自分の世界が狭くなって行く思いに押し潰されていった。
昼休みに席を寄せて弁当を開こうとしても、友達らはそこで自分の知らない遊びの話をしている。「次は誘ってよ、これで何回目?」と茶化すように尋ねても「ごめーん、次こそはね」と向こうも茶化すように返すだけだ。
母が作ってくれた弁当の味が、しない。
頭の奥底が騒がしいくせに、物を考えるところはひどく静かだ。ただひたすらに無意味に何かに焦っている。
自分以外のグループチャットがあるらしい。
自分以外のみんなで撮った写真が増えていく。
自分以外の全員で遊んでいる間、自分は家にいる。
学校へ行くごとに、自分が呼吸できる範囲が狭くなっていく。
自分は、いじめを受けているわけでは、無い。少女はそれだけは確信していた。
せめて酷い言葉を言われていたら。
せめて暴力を振るわれていたら。
せめて物を隠されていたら。
せめて……。
少女はそのどれにも当てはまらない。
どれか一つでも当てはまれば、少女は被害者として声高に訴えることができたかもしれない。
しかしインターネットの安い広告によって表示される漫画のような酷いいじめなど、本当は無いと少女は知った。
現実は、もっと静かだ。
あるいは彼女達だって、少女を陥れようと思っているわけでは無いのだろう。
ただ、少女の何かに飽きた。それか、何かを不快に思った。あるいは、何かが見えなくなった。
だから少女を無い物として扱っているだけだ。
何かって、何? 少女にはわからない。
ある時、勇気を出した。少女にとってそれは本当の勇気だった。
少女は尋ねた。
「あのさ、私……もしかして何か悪いことしちゃった? 酷いこと言っちゃった……とか」
それは首に刃物を突き立てる方がもっと簡単だったかもしれない。しかし返ってきたのは「なんのこと?」たったそれだけ。
「いや、ホラ……私、最近みんなと一緒に居ないことの方が、多いじゃない?」
「たまたまだって。そんなことよりさ、みんな知ってる?」
その時、少女は自分の居場所など、本当は既に無くなっていたと察した。
現に昼休みに机を動かさなくたって、誰もこちらを気にしない。
この薬を手に入れるのにどれだけ苦労をしたんだっけ。少女は思い出す。母親が風呂に入っている時に財布を漁り、カードを抜き取った。番号をメモして、通販サイトに打ち込んだ。履歴を消して、注文完了メールを消した。
母親が風呂から出てくる。冷蔵庫の麦茶を飲みながら、仕事の愚痴と、次の日の夕食のリクエストと、弁当の感想を尋ねてくる。それに引っ張られるように、「というか、弁当箱出しなさいよ。洗えないでしょ」と文句を言われた。いつも通りの会話なのに、少女の背中に影が差す。
「ところで学校、どうだった?」
「いつも通り。楽しいよ」
そんなことを言うのは、誰?
子供の頃、宅配便のチャイムはまるでサンタさんの到来だった。例え自分の興味のない家電だったとしても、家族の誰かの素敵な何かが家に増えるのは好きだった。
目の前の男にハンコと引き換えに渡されたものは、小さな包みだったが、手に持っていたくないほど重たく感じた。
印字された英語ですら無いアルファベットが、異常さを物語る。
母を騙して、目を盗んで、金を勝手に使って、手にした物がこれか。
荷物を受け取るため、仮病を使ってまで母の居ない時間に立つ玄関は、ひどく寒い。
せめて、最後に誰かに聞いて欲しかった。
家族には言えない。教師にだって話せない。カウンセリングにも行きたくなかった。
この自分の中に渦巻く何かに、誰かに名前をつけられたくなかった。
どうしようもなく傷む痛みにつけられた名前が軽いものだったら。それにのたうち回る自分が馬鹿に思える。
せめて、自分くらいは、自分を馬鹿に思いたくない。
少女は考え、玄関の扉を開いた。
遠い記憶に、少女には祖父と共に暮らした時の物があった。
昔母が病気で入院している間預けられていた、祖父との記憶。
祖母は少女が産まれた頃には死んでいたらしく、祖父とは二人だけだったが、厳しくも優しい祖父とは多くの話をした。
子供の時分にありがちな、突拍子もない空想を事実のように話しても、祖父は少女の言葉を全て否定せずに聞いていた。
世界のどこかにはドラゴンがいる。地球の裏側には喋る犬がいる。すぐそこにはお化けがいる。未来にはいつか人間と同じように生きるロボットが現れる。
どこかには……不死鳥がいる。
今では笑えてしまうような空想を、どうしてあんなにちゃんと聞いてくれたのだろうか。
今、その祖父は墓の下にいる。
祖父になら、自分の話を聞いてもきっと軽んじない。
そう信じて、歩き出す。
どれを、どこで、どうして――。
考えながら歩く少女は、しかし答えなど出せずにやがて街のはずれの霊園へとたどり着く。
祖父に全てを打ち明けたら、少女は薬を飲むと決めていた。
決めて、いた……のに。
霊園の入り口から、少女は動けない。
十七年、少女は生きてきたのだ。
それが今から少し後には終わる。
産まれてから今日まで当然のように続いてきた日常が、明日はないのだ。
目の前に見える風景が、聞こえる音が、感じる風が、無くなるのだ。
呼吸が終わる。感覚が終わる。思考が終わる。人格が終わる。
目の前に終わりがあるのだ。終わりが、終わりが来る!
明日が来ない、明後日も来ない、未来は来ない!
少女は叫びたかった。なぜ叫べないんだろう。
少女は泣きたかった。なぜ泣けないんだろう。
ならば引き返すか?
あの呼吸のできない教室に?
騙した母の優しい視線に刺されながら?
頭の上の雲が地平へと滑って行くほどの時間が過ぎた頃、少女の足はついに霊園の砂利を踏む。
じゃく、じゃく、と砂利に沈む足はそのまま地下深くへと沈んでいってしまいそうだ。
浅い呼吸に思考が沈澱して行く。
冷たい口に舌が張り付く。
乾いた眼球は動かない。
なんだかすでに、死んでいるみたいだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
灰色の墓石をいくつも横目で見遣りながら、少女は祖父の眠る一角へと近づいて行く。
その角を曲がれば、そこが祖父の墓だ。
少女は、今にも転がり落ちそうに重い頭をぶら下げながら、祖父の墓の前に立った。
しかし、そこに居たのは――。
「貴方、誰?」
見知らぬ少女だった。
同年代だろうか。黒い髪は長く、整った顔立ちをしている少女は、今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気を纏っていた。
まるで眠っているかのように祖父の墓石にもたれかかり、静かに目を閉じるその少女は突如かけられた声に反応して顔を上げ。
目を開いた。
「貴方……誰?」
もう一度問いかけると、目の前の少女はこちらに向ける目を見開き、それから弓形に歪めた。
口角も上げて、笑っている。ニヤニヤと。
「私の名前は鳳凰堂椿」
鳳凰堂、と名乗る少女に、当然の如く覚えがない。
聞いたことのない苗字に、見たことのない姿。
親戚の繋がりが薄いとは思っていたが、祖父の墓にもたれかかるようにしていたことから、親戚の誰かなのだろうか。
「お前の名前は?」
考えるうちに尋ね返されてしまった。どうするべきかと考えるが、鳳凰堂の興味深げに向けてくる視線から、逃げれる気がしなかった。それに向こうに名乗らせたというのに名乗らない無礼を働けるような性格でもなかった。
「私、は……桜です」
「サクラ……」
さくら、サクラ、と鳳凰堂は口の中で転がすようにして、こちらに微笑む。いや、微笑むと言うよりまるでニヤニヤと笑っているような表情だ。「何がおかしいんですか?」桜は尋ねる。
「ていうか、貴方うちの家のお墓で何してるんですか? 親戚とか……ですか?」
「どうだろうなあ」
くすくす、と鳳凰堂のニヤニヤ笑いの口の端から笑い声が漏れる。
なんだか見ていると腹が立ってくるのはどうしてだろうか。
「そういうお前は何しにきたんだ? 桜」
「別に……参拝です」
「こんな時間に?」
「そうです」
「一人で?」
「貴方もでしょう?」
なんとなく、鳳凰堂に自分のことを話したくないと桜は思った。自分の予定が大きく狂ったことに胸の中で舌を打ちたい気分だ。
二人の少女は霊園の一角で見つめあっていた。
桜は鳳凰堂の緋色の目を見続けていたが、どこか独特な雰囲気があると気づいていた。まるで瞳の奥、体内が燃えているような。
そんな静寂は、やがて鳳凰堂の一言が拭き取った。
「桜、お前は今生きていて楽しいか?」
それを聞いた時、今度こそ桜は叫びたくなった。そんなわけない。そんなわけないのだと。
だが、それを言ってどう返されるのだろうか。
もし「死ねば悲しむ人がいる」だとか、「死んだら負けだ」などという陳腐な言葉を吐かれたら。そんな風に差し伸べられる手は、乱暴だ。
きっと自分が惨めで耐えられなくなる。
誰かの物語の脇役になる。哀れな自殺志願者に手を差し伸べた誰かが主役の、物語。
既に壊れかけのプライドが、桜の胸の奥でなおも主張し続ける。
だが、目の前の優しくニヤニヤと微笑む鳳凰堂は、桜の言葉をじっと待っていた。
どれだけ時間をかけてもきっと鳳凰堂は待ち続けるのだろう。黙って踵を返して家に帰っても、ここにずっといるような安心感があった。
「……いいえ」
「うん。それはなぜだ」
「なんでも、いいでしょう」
それでも全ては話せない。突き放すようにして会話を断ち切った。
「私は今日、ここに来たらもう終わりにしようと思っていた」
ふと、まるで自分の口が勝手に動いたのかと桜は思った。
しかし話しているのは鳳凰堂だと気づき、ならば自分の心のうちを読まれたのだと思ったが、それは鳳凰堂の告白だと気づく。
「自分の居場所は、ここには無いとどうしても思わずには居られなくなってしまったのだ。こんな風に思うのは過去に何度もあったし、何度もそんなことはないと思えてきたが……私はどうしても、輪の中に居られない。みんなが居る場所に、みんなが行く場所に、私は居られない、行けないんだ。耐えられないほど……胸が痛む」
輪の中に居られず、居場所がない。行くこともできない。桜も似た思いを抱えていた。
「おかしな話だろう?」
「……いいえ」
桜の否定は鳳凰堂には少し予想外だったのか、言葉が切られた。
「私も、似た話なので」
鳳凰堂はなおもきょとんとした表情で桜を見ていたが、表情を戻してまた笑う。このような笑顔を浮かべることのできる鳳凰堂が、何故「終わりにする」と言えるのかは、桜にはわからなかった。
鳳凰堂は腰を上げた。そうしてひょいひょいと飛石を渡るように桜の元へと数歩で歩き着く。
唐突な行動に少し面喰らった桜は、何かを言おうとしたが、それより鳳凰堂の言葉の方が早かった。
「桜、私と友達になろう」
ポケットの中のアルミをいじっていた右手と違い、居所のなくぶら下がっていた左手を取られ、握られる。
目の前に迫る鳳凰堂の顔は、どこか切なく、優しかった。
「お前が今何を思い悩んでいるのか、私は知らない。知ったところで、きっとその重さはわからない。だけど、それでいい。教えてくれなくてもいい」
鳳凰堂は空いている手で自らのポケットを弄り、中から何かを取り出した。よほど大事な契約の時にしか現金は現れない完全キャッシュレスのこのご時世に珍しい、長財布だ。
「だけど友達になろう。一緒に楽しいことをたくさんしよう。たくさん知って、見て、考えて、そして、死ぬまで生きよう」
その長財布から、鳳凰堂は紙片を一枚取り、桜の左手に握らせた。
「もしもお前の命を理不尽に奪う奴がいたら、私が代わりに殺されてやる」
その一言は、なんだか気が抜けてしまうような間抜けなセリフだった。
代わりに殺されてあげるだなんて、できるはずもないことをどうして自信満々に言えるのだろうか。桜は張り詰めていた肺が緩んでしまい、変な声が漏れる。
「そんなこと、できるわけないでしょう」
「どうして?」
「死んだら、全部終わりなんですから」
言われ、鳳凰堂は目を閉じてくすくすと笑う。いいや、その声は大きく、やがて高らかに笑い出す。
「ははは! そうか、死んだら全部終わりか! そうだな、そうだとも! 死んだら、お前と友達にもなれないし、代わりに殺されるなんてもってのほかだ! こんな当たり前のこと、どうして忘れかけていたんだろう! どうして受け入れかけていたんだろう!」
笑い声の中に含まれる意味のわからない言葉に、もしかしたら揶揄われているだけなのかもしれないと思うと、やはり腹が立ってくる。
「なんですか? これ」
桜は左手に握らされた紙片を見てつぶやいた。
紙幣かと思ったが、紙質は安っぽく、縦横比も違う。やけに色褪せた印刷面は、駅前の老舗カフェの名前の文字が踊っていた。
「クーポン。その店の何かが安くなる筈だ。何が安くなるかは忘れた。多分ケーキか紅茶かコーヒーかカレーだ。モーニングだったかな。とにかくお前にやる。来週の土曜日、そこで会おう。約束だ」
存在しなかったはずの来週に、予定が現れてしまった。
「そこで、作戦会議をしよう。これからどうやって楽しく生きるかの作戦会議だ」
桜は握らされた紙片をポケットにねじ込んだ。
「どうやって、死ぬまで生きるか一緒に考えよう」
それを見て満足したように頷くと、鳳凰堂は歩き出す。すれ違い様、鳳凰堂は桜に。
「お前が生きていてくれて良かった」
そう、はっきりと言った。
「私もまた、生きるよ」
一人残された桜は、呆然と立っていた。
本来の予定では、何をしようとしていたんだったか。桜は考え、ああそうだと思い至る。
自分は祖父に全てを話し、薬を飲もうとしていたのだ。
だが、今の桜はそんな重大なことを忘れてしまっていた。
存在しなかったはずの明日以降に、なぜか約束まで増えていた。
なんだか気を削がれてしまった。桜は思い出したようにため息をつく。
祖父の眠る墓石に向き合おうとしても、つい先ほどまであの鳳凰堂が居座っていたのだから、姿がちらついて仕方がない。
桜は諦めて日を改めることにした。
霊園から出て、桜は帰路を歩く。
そして霊園と自宅への道を分断する大きな川に架かる橋を歩く頃、桜は鳳凰堂の言葉を思い出していた。
「友達になろう」
それはなんとも陳腐で間抜けで、ちっとも桜の悩みを解決する物ではなかった。
桜が帰る家には自らが騙した母がいて、明日向かうのは居場所のない教室だ。
鳳凰堂の言葉には、なんの力もなかった。
いつか、必ず薬を飲む日が来る。それがたまたま、今じゃなかっただけ。
ポケットの中のアルミが、桜の指に食い込んだ。
ふと、思い出して反対のポケットに手を入れて、中の紙片を取り出した。
約束など、守らなくても良かった。守ろうとする気も、桜にはあまりなかった。
この紙切れひとつ、今すぐに手を離せば川を渡る風に乗って、すぐに桜の手の届かないところへと消えて行くだろう。
親指と人差し指の二本で摘み上げて、風が吹くのを待った。
しかし、桜はふと紙片の端に刻まれた数字を見た。
それは今から三十年も昔の日付だ。
その意味を探せば、数字の頭に「有効期限」と付いている。
よく読めばそのクーポンはあの老舗カフェのオープン記念に発行された物ではないか。
そんなものを何故あの少女が持っているのだ?
数々の疑念が浮かんだが、桜の口の端は少し上がっていた。
何も鳳凰堂の可笑しさに笑ったわけでもない。
ただ、来週の土曜日、この店で。
何も知らない鳳凰堂に、このとっくに期限の切れたクーポンを使わせてみたくなった。
自信満々に店員に見せ、そこで使えないと知った時。あのニヤニヤ笑いはどう崩れるのか、意地悪ながらも桜は少し気になった。
クーポンを摘む指が、少しずつ増えて行く。
風が一瞬強くなったが、桜の髪を揺らすだけで紙片はポケットの中に入れられていた。
桜は歩き出す。
再び現れた明日と、それでも残ったままの薬を持って。
いずれ薬が開けられる日は来るかもしれない。
だが、桜はどこか、その次に「来ないかもしれない」と続く気がした。
人は死ぬ、いつか死ぬ。
不死鳥は死なない。いつまでも死なない。
この世界に敷かれた絶対のルールだ。
不死鳥がどれだけ人と接しようと、交友関係を持とうと、それはいつか必ず不死鳥を残して死んでしまう。
それに抗うことは絶対にできない。
絶対に。
友達も、家族も、敵も、全て。
絶対に死ぬ。
そうして生によって始まり、死によって終わる物語のほんの一片を、それでも不死鳥は愛おしそうに抱きしめる。
いずれこの世界に生き物はいなくなる。
だが、一人残される不死鳥はその時、悲しみつつもきっと生き続けるのだろう。
この地球という巨大なクローズドサークルから、人が減り、生き物が減り、自然が減り、減り続け。
そして誰もいなくなったとしても――不死鳥は生き続ける。
桜はふと顔を上げ、遠い曇天の空にそれを見た。
曇天を切り裂き、その奥に覗く真っ赤な夕日の中。
まるで鳥の姿をした巨大な炎が、踊るように空を飛び回る姿を。
【完】