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殺人館の不死鳥  作者: かなかわ
乱世編
29/38

第四章【裏】七回死んだ女 第三部

 ドンドンドンドン!

 時刻は八時。部屋の扉は外から強く乱打され、四人の死亡者組はとうとう始まったと顔を見合わせ、頷いた。

 大神狼華の姿の鳳凰堂椿は、扉の前で深呼吸をして、開く。どうやらノックの主は八木だったようだ。

 扉の死角にいる森子たちの姿を見せないためにも、すぐに扉は閉められた。

「……行ったわね」

「鳳凰堂様、大丈夫でしょうか」

 森子は不安気に呟くが、しばらくしてコンコン、と扉が小さくノックされた。移動するという合図だ。少なくとも一瞬でバレて逃げ帰ってくる事態は免れたようだった。

 ノックから数秒経ったところで、森子は薄く扉を開き、外の様子を伺った。朝の静けさが不死鳥館の体内に満ちている。

「問題ありません」

 森子は小声で二人に告げ、足早に、しかし音を立てないように中央ホールを駆け抜ける。

 まずは外、屋根付き廃墟の捜索だ。玄関ホールとを隔てる扉を注意して開き、他二人を先に入れると森子も体を滑り込ませた。

「……これ、なんでしょう」

 すぐにでも玄関を開こうとする兎薔薇を、森子の一言が止めた。

 森子の視線は、玄関ホールの一角に注がれていた。まるで人目を気にするようにして置かれたそれは、木箱のようだった。隠し部屋にて発見された薬品の入っていた木箱より二回りほど大きなそれは、オルゴールのようにも見えた。

 中を確認しようと森子は手に取るが、妙なことに金属に似たもので溶接されていた。

「はんだ付けのようなことがされているみたいですね」

 横から覗き込んだ大神が呟く。

「はんだ……昨日も聞きました。確か、電子工作の時に使う……」

「それははんだごてのことですね。はんだ付けとは、機械の基盤部分にて、コードを繋げる際に行う、溶かした金属で糊をするみたいなことです。はんだが使われているのであれば、そこまで強度はないとは思いますが……」

 言って、森子の手から木箱を受け取り開こうと試みるが、蓋はびくともしなかった。

「重さから見て、何かが入っているようではありますが……」

 そんな二人に、兎薔薇が焦れた声を出す。

「何やってんの、そんなの放っておきなさいよ」

 それもそうかと木箱を置いた大神に続き、森子も玄関扉へと向かった。兎薔薇はなおもブツブツと呟いていた。

「まったく、いちいち変なものに気を取られないでよね。あんなもの、どうせ誰かの落とし物でしょ」

 そして、玄関扉は開かれた。


「それを二人して覗き込んで、まるで爆弾でも見つけたみたいに……」


 ※


 朝から蝉の声がシャワーのように降り注ぐ、敷地の外の森を三人は歩いていた。

「アタシ、森は嫌いなのよ……」

 勇むようにして玄関を出たのは兎薔薇が先頭だったが、今は森子を先頭にして、後ろを大神、かなり遅れて兎薔薇の順に歩いていた。

 森子にとってこの森は庭のように慣れ親しんだ場所であり、大神はもとより体力があり、そして一日目に捜索に訪れた場所である。

「嫌っ! もう、虫じゃないのよ!」

 生存者組がいる館から外に出たからか、一人賑やかな兎薔薇。踊っているのかと思えば、どうやら顔に集まる虫をはらっていたらしい。

「兎薔薇様は虫が苦手なんですか?」

 落ち着かせるためにも尋ねれば、「当たり前でしょ。虫が苦手じゃない女なんている?」と尋ね返された。

 しかし幼少期からこの森で遊び回っていた森子にとって虫は友達であり、子供の好奇心の犠牲者でもあった。今でこそ残酷なことをしたとは思うが、苦手ということもなかった。曖昧に笑う様子を見て兎薔薇は「じゃあアンタは?」と今度は大神に尋ねた。しかし大神もまた「特には」と答えるのみだった。

「じゃああの人……鳳凰堂さんは……」森の行進に息を荒げる兎薔薇は鳳凰堂について思い出そうとして、「むしろ一番好きそうね……」と諦めたように深いため息をついた。森子としても同感だった。

 こんな島、来るんじゃなかったと背後からの声を受け流しつつ、森子たちは目の前に現れた屋根のある廃墟を見上げた。

 石を積み上げるように作られた実に一日ぶりのそれは、風化の片鱗を見せつつもしっかりと立っていた。

「思ったのですが、この建物だけは他のものより後に作られたのではないでしょうか。屋根が崩れ落ちるほどの時間を経験していないから、他のものと違って形を残しているのでは」

 大神が見解を述べるが、生まれた時から今のように古い建物だったように思える。森子はそう告げると、「例えば、百年以上昔に他の建物が建てられてから十年後などに、何かがきっかけでまた新しく建てられた、とか」

 それならば、百年前と九十年前なのだからどちらも古いわけだ。森子は納得した。それと同時に、大神の言う「きっかけ」について、何かに気がつきそうな気配が胸の中に燻っていた。

「なんでもいいけど、探すならさっさと探しましょうよ」

 汗だくになった兎薔薇は後ろからせっつくようにしてぼやく。

 そうして中に入ると、中はやはりこれといって見るものは無さそうだった。何かを隠せる場所もない。

「……ていうか、あれ何」

 指を向けられたのは、二つ並んだバッグだった。鳳凰堂がくすねた防災バッグだ。

「これ何よ!」

 返事も聞かずにバッグは開かれ、中身がひっくり返される。中から缶詰などの防災グッズ、そして鳳凰堂が中から持ち去った分のもう片方の、懐中電灯が転がり出た。

「あーっ! あ、あ、アンタたちだったの……これがたった一本でもあれば、昨日の夜は……」

 アンタたち、というか、決断と実行は鳳凰堂だったが、もう怒る気力もないらしく放心する兎薔薇に、森子にはかける言葉もなくただ「も、申し訳ございません……」と、謝るだけだった。

「仕方ありません。懐中電灯は回収し、それとなく生存者組が見つけることのできる場所に置くことにしましょう。それよりも、この廃墟から薬物の証拠を探しましょう」

 反論する気も無くなったのか、兎薔薇は缶詰の一つを開けて食べ始める。

「ちょっと休憩しましょう。疲れたわ」

「……そうですね、次いつ食事の機会があるかわかりませんし」

 森子も同意し、兎薔薇がばら撒いた中のカンパンを取り、蓋を開ける。大神は逡巡する様子を見せたが、輪に加わった。

 二日目の晩に似た光景であったが、こちらは太陽が登っているにもかかわらず、雰囲気が暗かった。

 復讐者と被復讐者。そして殺戮の舞台の主人の娘。

 明るくなるわけがなかった。

 森子はふと、ここに鳳凰堂がいたらと考える。

 プラス、人外。

 それはなかなか、楽しい光景になりそうだった。

「兎薔薇さん」

 不意に大神が呼びかける。「何?」と目も合わさずに返事が返された。

「あの防犯ブザー、活動一周年記念のライブで販売されたもの、ですよね……私、同じものを持っています」

「……確かにそうだけど、よく覚えてるわね」

 話題に出た防犯ブザーとは、二日目に的羽天窓の部屋の扉が開かれた際、それを知らせるために設置されたものだろう。派手なシールが貼ってあると思ったが、それを取り出した兎薔薇の自身のグッズだったのだろう。彼女はようやく目を合わせて、言った。

「キッモ」

 重苦しい空気が、さらに痛々しさを孕んだ。

「そのグッズが売れ残ってるから、アタシが今持ってるのよ。一周年記念なんて名目つけておきながら売れ残ってるのよ、他もどんな売れ行きだったか少しは察しなさいよ。そもそもあんなチャチなブザーにシール貼っただけで二千円もするやつ、買う方がおかしいけど」

「……」

 大神は俯いた。長い前髪の下の表情を、想像したくない。

 森子は今すぐにでもこの空気から逃げ出したくなった。

 せめて、話題だけでも変えなくては。

「そ、そういえばなのですが、私と鳳凰堂様は二日目の夜、この場所で寝泊まりをしたのです」

 俯いていた大神が瞬時に顔を上げ、尋ねる。

「森子さん、では、何か気づくことなどありませんか。何かおかしなところがあるなど、変わったことがあったなど」

「え、ええと……」

 あの晩のことを思い出しつつ、改めて廃墟の中を見回した。

「あ……関係があるかはわからないのですが、あの夜、眠る直前に……波の音を聞いたような」

 朧げな記憶で気のせいのようにも思えたが、大神はそれを聞くとすぐに立ち上がり、目を閉じて音に集中した。

 釣られるように森子も耳を澄ますが、蝉の声と木々の葉が擦れる音が邪魔をして、波の音など感じられない。

「気のせいでしょ、聞こえないわよそんな音」

「……森子さん、眠った時に身体はどこにありましたか?」

「そこに、こう……」

 実演しようとしたが、ばら撒かれた缶が邪魔をし、結局は頭の位置を指で示すだけにとどまった。

 しかし、大神の行動は早かった。床に転がる缶を腕で端に乱暴に寄せると、次の瞬間には片耳をそこへ付けていた。

「……聞こえます」

「えっ!」

 思わず森子と兎薔薇は立ち上がる。大神は石が並べられた床を未開封の缶の一つで強く叩くと……床の石の一つが、微かにぐらついていた。

 ガン、ガン、と何度も叩きつけ、最後に大神が手を添えると、その石は乳歯が抜けるように軽く抜けた。

 森子と兎薔薇が見守る中、大神の手は止まらなかった。次の石は缶を叩きつける必要はないらしく、最初の石が嵌っていた穴から抉るようにして一つ二つと外れ……最後には、縦横一メートル分の石が取り除かれた。

 そして、その下から現れたのは扉だった。

「マンホールと言うより、床下収納の扉みたいね」

 ボソリと呟く声が聞こえた。

 だがそれと違うのは、大神は扉の取手に手を添え力を込めると、横にスライドして開いた点だ。

 廃墟の床に、大穴が開いた。

「……相当深そうですね」

 大神が見つめる穴は円形であり、中は暗黒だった。兎薔薇が不意にライトの光を向けたが、底が見えない。辛うじて穴の周囲が廃墟と同じく石で壁ができているとわかるくらいだ。円形であることといい、井戸のようでもあった。

「私が降りて確認してきます。お二人はここで」

「えっ、ここを降りるつもりですか? 無理ですよ!」

「そうよ、絶対無理! 第一どうやって降りるつもり?梯子とか階段があるわけじゃないのよ!」

「梯子ならば、そこに」

 それも確かだった。大神の視線の先には、防災バッグに備えてあった縄梯子が入っていた。

「確かに、降りることはできそうですが……」

「危険だって言ってんのよ!」

 兎薔薇の張り上げた声は、穴へと転がり落ちていった。

「心配してくれてありがとうございます。ですが、私としても二人を危険に晒すわけにはいきません」

 強情な態度の大神に、残る二人はこれ以上引き止める言葉を持たなかった。

「……大神さん、ならば私も降ります。この島に住む者として、何があるのか見ておきたいのです」

 森子は名乗り出る。それを横から驚愕の顔で兎薔薇が見ていた。大神も目を見開いている。

「お願いです」

 再度頼み込むと、大神は穴の底へ視線を落とし少し考えるそぶりを見せ、最後には頷いた。

「わかりました。ですが最初は私が降ります。安全を確認したら合図を出しますので、続いてください」

 そして縄梯子がかけられ、大神は地下へと降っていく。

 数分後、中から大神が森子に対して呼ぶ声が響き、森子もまたその穴へと体を潜り込ませた。

 縄梯子はただの梯子と比べ、縄と名の付くように不安定で、それはそのまま森子の不安へと繋がっていた。

 暗闇の中を降りていくのは自らの父である的羽天窓の部屋の隠し階段を下っていく時にも感じたが、やはり慣れない。

 永遠に降りて行くことになるのではないかと不安になる頃、懐中電灯が森子の足を不意に照らした。

「森子さん、お気をつけて」

 先に底へと降りた大神は縄梯子の先の地面を照らし、終点がどこまでかを示した。どうやら底は穴よりも広い空間らしい。

 こうして久しぶりに地面へと降り立った森子だったが、森子が縄梯子からその身を離しても大神は縄梯子を懐中電灯で照らしたままだった。

 妙に思い振り返れば、その縄梯子は未だくねくねと揺れていた。

 そしてしばらくそのくねくねが続いたかと思えば、やがて現れたのは兎薔薇の足だった。

 おぼつかない動きで不便そうに降りるうちに全身を見せ、やがては穴の底へと降り立った。

「兎薔薇さん!」大神が叫ぶ。その声は空間内を酷く反響した。「どうしてここに!」

 だが、兎薔薇は反響する大神の声を無視して、呟くように言った。


「アタシ、この島に来て気づいたの。一人で残されると碌なことが起きない、って。犯人扱いされたり、牢屋に閉じ込められたり、殺されかけたりね。連続殺人の舞台では一人になるべきじゃないって、身に染みてわかったわ」


 ※


 地下の空間は縦と横がかなり広く、乗用車なら敷き詰めるように並べて十台、高さは五台以上積み重ねることができるだろう。

 地上で聞いた波の音が、この空間にひどく反響しており、ここが海底の下に位置すると言われても違和感はない。

「何のための場所なのでしょう」

 大神が懐中電灯を振り回し呟くが、そこは人工的に作られたようには思えなかった。

 侵入してきた穴こそ壁が石で作られ補強されていたが、今三人が立つこの空間は自然のままだった。

「……わっ!」

 森子は思わずひっくり返りそうになり、近くの兎薔薇がその腕を掴んだ。森子が体を強かに打ち付ける音の代わりに、乾いた軽いプラスチックのような音がガランガランと転がり廻る音が響いた。

「なにそれ、プランター?」

 大神が照らした先には、古ぼけた空のプランターが体を横倒しにしていた。

 奇妙なことに、その傍らにも似たようなプランターが光の円の縁に現れ、それに光を当てれば、更に別の……。

 この空間には、大量のプランターが転がっていた。

「……もしかしたら、見つけたかもしれません。これ、薬物の原料となる植物の栽培に使われたものではないでしょうか」

 大神が慎重に言葉を紡ぐ横で、兎薔薇が対照的に甲高い声を上げた。

「そうよ……これよ、これが証拠じゃない!」

 森子にとっては薬物の原料がどのように作られているのかを知らなかったため、こうして無造作に転がるプランターがその証拠だと言われてもピンと来なかった。

「これが……証拠ですか? 空っぽでも証拠として判断されるのでしょうか」

 はっ、と大神が息を呑む音が響く。その理由を語る前に、大神は全てのプランターを確認するが、土塊一つ付着していない。

「このプランター……全て綺麗に洗われているようです」

「それじゃ、ダメってこと?」

 恐る恐る尋ねる兎薔薇に、光の外の大神の影がこくりと頷いた。

「ですが、妙です。的羽天窓さんは薬物の原料を作ることをやめてしまったのでしょうか」

「詳しくは知らないけど、そうなんじゃない? アタシのパパが密売人として動いたのは、十五年前のホテルでの人との出会いがきっかけだったけど、その時何かトラブルがあったらしいわよ。なんか、元締めは二人いて、そのうちの一人がもう薬物の製造をやめたがってたらしくて、もう一人と揉めてるところに、アタシのパパが巻き込まれたわけだし」

「やめたがっていた一人は、おそらく的羽天窓さんでしょう。この空のプランターが根拠です。残る一人は……」

「ああっ、私わかります!」

 森子は声を上げた。そのもう一人は、深く考えることもない。あの日あの時、自分から言っていたではないか。

『私と的羽は旧知の仲でね、的羽がこの島で栽培されていた薬物の原料となる植物を私が本土で加工して売り捌いていたんだ』

「し、獅子噛様です!」

 森子は二日目、八木と共に聞いた獅子噛の話を二人に伝えた。

「それを聞くと、なんか、見えてきたわね」

 兎薔薇はしばらく考え込むと、やがて自分の考えを話し始めた。

「獅子噛のやつは、元々この島で採れて的羽さんが持ってくる植物を加工し、薬物として売っていた。だけどあの十五年前のホテルで、的羽さんはもう栽培する意志は無いことを伝え、揉めることになった。結局交渉は決裂、獅子噛のやつは自分でやって行くことにした。そこでたまたまそこにいたアタシのパパを捕まえて、仕事を与えた……そうよ、アイツよ、アイツがアタシのパパにあんなことをさせた張本人なのよ!」

 次第に息を荒げる兎薔薇は、最後には叫んでいた。

「アイツ、アイツが全部、全部全部悪かったのね!」

「う、兎薔薇様……」

 不安げな森子の声を聞き、兎薔薇は自分の気が昂っていることを自覚したように、数回深い呼吸を繰り返した。

「……大丈夫よ、今すぐに暴れ出したりしないから。でも、結局どうする気? 証拠は全部無くなってるみたいだし」

 その答えは誰からも出なかった。

 暗黒の空間を、波の音だけが跳ね回っていた。

「そういえば、波の音はどこから聞こえるのでしょうか」

「他に通じている道などがあるのではないでしょうか」

「そんなの、壁に手をついて回ってみればわかるわよ」

 兎薔薇の発案に最初に動いたのは懐中電灯を持った大神だった。

 右手側の壁に手をつき、慎重に進み始める彼女の後ろに、二人が続く。

 広い空間の内周を回るのは時間がかかると思われたが、意外にも早く大神は足を止めた。

「ここ、通れそうですね」

 見れば、岩場の影に人が十分通れるだけの広さを持つ切れ込みがあった。そこへと近寄れば、潮の匂いが混じった風が微かに吹いていた。

 外だ。森子はこの地下空間が閉鎖された場所では無いことを知り、少しだけ気が晴れた。

 同時に、森子はこの空間が外へ通じていることを知ってもいた。

 それを教えてくれた人物がいたからだ。

 かつて炎の鳥は、この島に流れ着くと洞窟の中へと身を隠した。

 その洞窟というのが、ここのことなのだろう。

 外へ繋がる穴へと進む直前、森子は一度だけ、後ろを振り返った。

 こんな、光の届かない寂しい場所にいたのか。

「何してんの、逸れたらまずいんだからちゃんと来なさいよ」

 前方から呼びかける兎薔薇の声に、森子は再び歩き出した。

 三人は一列になり、手を繋いで歩いていた。しかし枝分かれすることもなく続くその通路は、何度か曲がりくねるだけで迷わせることもなかった。

 その内の一つを曲がった時、不意に通路に光が差した。光に向かって進めば、通路もやがて幅を広げていく。波の音は大きくなり、吹き込む風が三人を包んだ。

 外だ。

 懐中電灯など要らないほどの陽の光に、思わず目を細めてしまう。

 目が慣れると、そこには広大な海が広がっていた。森子たちの足元を海水が濡らさないのは、ここが岩礁であるからだった。

「ここ、あの崖の下のようですね」

 カチリと懐中電灯のスイッチを切り、大神が言う。崖の下と言いつつ彼女の視線は上を向いていなかったが、その先にはここが崖の下と示す根拠があった。

「アタシたちが乗ってきた車、これじゃもう使えないわね」

 かつては宿泊客を乗せ、昨晩は森子が運転し、そして鉄柵ごと落としたバンが、酷い有様で横倒しにされていた。車の裏から何かの液体が溢れ、海に垂れて鈍い虹色に輝いていた。

 バンはその後部を海に浸しており、少しばかりの浸水が見てとれた。

「後ろ、トランクの扉が開きそうです」

 足を海水に浸しながら、回り込んだ大神が言った。

 森子も続き、足が冷たい海水に洗われた。

 兎薔薇は来なかった。海の水が届くギリギリで屈み、膝に肘を乗せて顎を支えている。言葉は無くとも参加する気がないことを全身で示していた。

 大神と森子はひしゃげたバックドアに手をやり、力を込める。水圧に引っかかるそれを何度か引っ張れば、やがて大口を開ける。

 思わぬ力仕事に滲む額の汗を拭いつつ、中を物色する。が、少し見回すだけでトランクルームに何もないことはすぐにわかった。

 気落ちする森子の横で、大神は横の、車が元の体勢だったならばの床面の端に手をかけ、遠慮なく貼られていたカーペットを引き剥がした。

 廃墟の隠し扉を見つけた時と同じく、その行動は正しかったようだ。隠し扉というよりも、上に敷かれた絨毯で隠されていただけの標準の扉がそこにはあった。

 すぐに手をかけ、大神は開いた……その時、重力が横転している場合までは考慮していなかったらしいその扉は手前側へと開かれ、その中身がボロボロと外へと転がり落ちた。

「あっ」

 森子は中のものを慌てて受け止めたが、一つだけ取り落としてしまった。

 中から現れたのは書類をまとめたファイルでありそれを優先して手を伸ばした結果、形も材質も違うそれには手が回らなかったのだ。

 それは、ドボンと音を立てて海に沈み、材質のためかすぐにプカリと浮かんだ。

「すみません森子さん、不注意でした」

「いえ……でも、あれが……」

 それは森子たちの隙をついてあっという間に波が攫って行ってしまった。

「あれって、似たものをどこかで見ましたよね」

 呟く森子に、大神は答えた。

「少し前に、玄関にあった木箱……あれに似てますね」


 それはもう二度と、手が届かない。


 ※


「これ、契約書ですね」

 あの大冒険の後、森子たち三人は屋根のある廃墟へと戻ってきた。床の扉は閉め、外された石も元に戻されていた。

 疲れたらしく寝転がる兎薔薇の横で、大神は手に入れたファイルをめくって中を確認している。

「かなり表現が婉曲されていて一見わかりづらくなっていますが、前提知識があれば薬物の製造と販売に関する契約書のようにも読めます」

「前提知識があれば? ようにも読めます? まさかまた、これだけじゃ証拠にならない、なんて言わないわよね」

「いいえ」

 兎薔薇の難癖に首を振る大神は、どこか自信に満ちた声で否定した。

「元々的羽さんは薬物の関与を疑われていましたし、獅子噛さんも関与していると分かっています。この契約書は、二人を薬物と結びつける、決定的な証拠です」

 はああ、と森子と兎薔薇から安堵のため息が漏れた。

「って、いいの? 森子さん。あなたのお父さんの話じゃない」

「……ええ、私はお父様のことを、あまり知りませんから」

「ふーん」

 軽く流したらしい兎薔薇は、その身を起こす。

「じゃあ、これで第一段階は完璧ね!」

「ええ。ですが念のため、森子さんが昨夜言っていた書斎の隠し部屋も確認しておきましょう。もしかするともっと決定的な物、例えば薬物そのものが見つかるかもしれません」

 それはつまり、昼間の館への侵入を意味していたが、意外にも乗り気の様子を見せたのは兎薔薇だ。

「それって、あの獅子噛の首を絞めることにも繋がるのよね? 良いわ、乗った。言い逃れもできないくらいのやつを見つけましょう」

 自らの父を、そして自分を破滅させた根幹となる者の正体を見つけたらしい兎薔薇は、身を乗り出して勢い込んでいた。

「私も、鳳凰堂様が上手くやれているのか知りたいですし……」

 兎薔薇の勢い込んでいた顔が、曇る。

「不安ね」

 同感だった。

 ともあれ、こうして三人の死亡者組は再び不死鳥館へと戻る道を歩き出したのだった。

 やがて敷地の門扉まで辿り着き、昨日とは違い一直線に玄関ポーチへと滑り込む。

「先程、門の外から食堂内にいくつか動く影を見ました。時間的に食事をしているかと」

 時間的には、遅めの朝食、早めの昼食になるのだろう。朝に兎薔薇の死体を見つけたならば、その混乱から食事の時間が遅れても不思議ではない。

「なら、人気は無さそうね。慎重に行きましょう」

 兎薔薇は玄関扉を開き、そして中央ホールへの扉へと慎重に進む。途中、床に落ちたままの木箱を森子は見つけ、大神に視線を送る。大神もまた、先程海へと流れていった物と同じだ、という様子で頷いて見せた。

「何してんの、行くわよ」

 薄く開いた扉から人気が無いことを確認した兎薔薇が、二人に呼びかける。

 中央ホール、朝と違い太陽が高く昇り人が活動している中で隠れて行動するには心許ないほど広く、影が無い。

 今にも食堂の扉が開き、下を覗き込まれればその時点で即アウト。あるいは、食堂にいる人間は生存者全員ではない可能性すらある。

 三人はすぐさま階段へと向かい……森子が、足を止めた。

「ちょっと!」

 数段上がったところで兎薔薇が小声で叫んでいた。

 だが森子は一瞬、別のことに気を取られ、そして今も足を止めていた。

「あの、まずはあれを見てみませんか!」

「なんで!」

「私たち、まだ、あれを、見ていません!」

 小声の叫びの応酬に、大神は兎薔薇に一度降りるよう促した。

「あれ、ですか?」

 階段の下に降りた大神にも問われるが、森子は言いにくい言葉のために口籠る。代わりに森子は一点に指先を向けた。それを見て、二人も納得がいった様子を見せる。

「確かに、いずれ回収する物ですからね」

 森子は聖堂の扉を指差していた。

「アタシ、自分の生首を見ることになるのか……」

 未だ森子たちは新たに増えた生首を見ていない。もしも回収する段になって思わぬ手違いがあってはまずい。見ておく必要はあった。

 三人は目的地を変え、長い廊下へと足を向ける。

 現れる巨大な石扉の隙間は、確かにその奥から血の匂いを漂わせていた。

「兎薔薇様、大丈夫ですか」

「別に平気よ。それに、実際に死んでるのは、アタシじゃない」

 扉を開いたのは、兎薔薇だった。

「アタシが痛みを受けたわけじゃ、ないんだから。ちゃんと、向き合わないと」

 聖堂の中心、四つ並んだ供物台。

 その上には、それぞれ三つ生首が置かれていた。

挿絵(By みてみん)

 第一の被害者、鳳凰堂椿。

 第二の被害者、的羽森子。

 そして。

 第三の被害者、兎薔薇真美実。

 それを、兎薔薇は目を逸らさずに見ていた。

「これまで通り、生首はここにあるようですね」

 扉を閉めた大神が、現状を把握するように呟く。

「あと、一つ……」

 空いている供物台には、きっといつか自分の生首が乗る。聞こえた大神の声は覚悟を決めていた。

 重要なのは、それが不死者のものか、それとも非不死者のものか。

 鳳凰堂が化けた大神か、それとも大神本人か。

 残り一度の殺人が、この連続殺人の最後を決めるだろう。

 森子は今一度胸に刻みつけるように並んだ生首を睨んでいた。

 その時、不意に森子は妙なものを目の端に捉えた。自らの違和感の正体のため、生首、そして供物台へと歩み寄る。

「森子さん、そろそろ行きましょう」

 大神が呼ぶが、森子の耳には入らなかった。違和感の正体は、数歩近づいた森子の目にはっきりと写っていたからだ。

 だが、違和感は解消されない。

 これがどんな意味を持つのか、森子は考える。

 手で触れる。

 指先に、微かに溝の感覚があった。

 森子が見ていたのは、生首。それが置かれた、供物台。

 聖堂の中心に四角を描くように並ぶそれの一つの表面に、【傷】があった。

 指先には供物台の材質である石の粉が付着している。傷は、新しい。

 傷は供物台のちょうど真ん中辺りに、横一文字に床と並行に伸びている。

 しかし、その傷は供物台を一周しているわけではなく、半周したところで消えている。

 不審に思い、残り三つの供物台を見れば、どれも床と並行の傷が残っていた。

 たった一つだけ、傷が半周ではなく一周している。この違いはなんだろうか。そもそも、傷の存在する意味はなんだろうか。

 森子は、深い思考の海に潜った。

 この感覚は、二度目だった。

 一度目は、昨晩。兎薔薇を救出することで死亡した鳳凰堂が復活するまでの間、目を覚ました兎薔薇と共に身動きが取れずにいた森子は、事件を一から考えてみたのだ。

 その時はどうしても考えが霧散してしまった。

 それは例えば、完成図のないパズルを解いていたとして、何度組み上げてもどうしても抜けているピースがあり、そこからボロボロと崩れてしまうような感覚。

 だが、森子が今見ている供物台に一直線に刻まれた、【傷】。

 それは、正しく、最後の一ピースだった。

 首切り、凶器、アリバイ、密室、監視、牢屋、被害者、毒物、不死者のルール……そして、【傷】。

 そのピースは森子の思考の中、他のピースとしっかりと組み合い、一枚の絵となった。

「……あっ!」

 瞬間、頭の奥が爆発するような感覚に囚われた。その爆発の振動は、体の表面、皮膚を電流のように走り、鳥肌を浮き立たせる。

 だが、これに至るのは死亡者組の森子であるべきではない。死者がそれを主張するのは、大きな矛盾を孕むこと。それほど大きな意味を持つものだった。

 それはたった一つ。


 犯人が、わかったのだ。


 森子は二人に伝えるべきか悩んだ。だが、余計な混乱を与え、今後に響かせるわけにはいかないと、胸に秘めておくことにした。

 何度も頭の中に完成した絵をあらゆる角度から見直した。

 だが、綻びは無いように思える。

 改めて見れば、傷はあくまでピースの一つ。このパズルの重要なピースは傷ではなく……【アリバイ】だ。

 それも、【第一の事件のアリバイ】。それこそが決定的な意味を持っていたのだ。

 訝しげに見る兎薔薇と大神の元へ戻りながら、森子は犯人の名前を胸の中でつぶやいた。


 犯人は、【月熊大和】。

 あの人しか、いない。


 ※


 聖堂から三人が出て中央ホールへと戻り、当初の目的地である書斎へと階段を上がった時、それは起こった。

 大神が階段を登りきり、兎薔薇と森子が並ぶようにして今まさに最後の一段へと足をかけようとした時。

 食堂の扉が動き出したのだ。

 最初に気づいたのは食堂の扉を警戒していた大神。どうやらドアノブが捻られた瞬間すら察知していたらしく、「静かに」と森子の耳元で囁いたかと思うと、二人の手を引いて走り出した。

 書斎に身を隠すには扉の開閉に関する音と動きに注意を払う事はできないと判断したのか、大神は女性の個室が並ぶ廊下へと走る。兎薔薇が声を出して文句を言わなかったのは、本人からしても奇跡のようなものなのだろう、彼女が食堂から人が現れたのだと事態を察知する頃には三人は廊下の影へと姿を潜ませていた。

「あ、危なかったじゃない……もう、アンタが聖堂でモタモタしてるから」

「す、すみません……」

「ひとまず、中へ入りましょう」

 それでも結局は小声で小言を言われてしまう始末だったが、大神の判断により廊下の最奥、大神の部屋へと入り込む。その判断は正しかっただろう。ドアを薄く開け、そこから外を眺めるという二日目に大神が夜通し行ったことと似たことをすれば、食堂から外へと出る人影のうちの二つ、八木のものと大神に変身している鳳凰堂は回廊を回り、今森子たちが潜む大神の部屋の方向へと歩き出したからだ。

 それを確認し、そっと扉を閉じた。

「あの二人、こっちに来るわよ。この部屋に入ってくるんじゃないでしょうね」

「おそらく……事件現場である鳳凰堂様の部屋に行くのではないでしょうか。この大神様の部屋はまだ大神様自身が問題になっていませんから、入る理由も無いかと」

 兎薔薇は黙って納得を示すように頷き、張っていた緊張の糸を緩めるようにため息をついた。

「なんでアタシたち、こんなことやってんだろ」

 呟き、ベッドに腰掛ける。彼女の言葉に返せる物は何もなかった。

「……でもね、なんか、ちょっと楽しいかも」

 だが、呟きこそ悲観的だったが、彼女の顔は少しだけ穏やかに笑っていた。

「楽しい、ですか」

「ちょっとだけ、ね。宝探しみたいだし、かくれんぼみたいだし。それに、アタシたちが悪いことをしてるわけじゃないんだし」

 その言葉には、森子も賛成できるところがあった。だが、悪いことはしている。その中の一つは今こうして隠れていることだってあるのだ。不要な心配を彼らにかけ続けている。だが、それは兎薔薇も分かっているのだろう。

「アンタの部屋、何にもないわね。そりゃそうか」

 ごろ、と寝返りを打つように兎薔薇は大神の部屋を眺め回す。スーツケースが一つある程度だ。

「まだここに来て少しだしね。アタシの部屋もおんなじ。だけど……そうね、元々はアンタの部屋なんだっけ」

 ごろり、と半回転を果たした兎薔薇の目は、やがて森子を見て止まった。

 森子は少しだけ口の中が冷たくなった。この部屋の殺風景さは何も大神と部屋を交換したからではない。元からこの程度だ。

「この家には……この島には、何もありませんから」

 切なげな言葉を聞いた兎薔薇は、数秒口を閉じたが「でも、これが終わったら違うんでしょ?」とベッドのスプリングを利用して身を起こす。

「そこの警察もこの事実を知ったわけだし。ずっとこの島から出られないなんてこと、なくなるわよ。良かったじゃない」

 そこには皮肉もない、彼女にしては珍しい言葉があった。

 森子は曖昧に微笑みを浮かべて返す。

「……二人が、部屋から出るようです」

 先ほどから何度か間隔をあけて扉を開け、外の様子を見ている大神が森子たちに呼びかけた。

「ほんと? ならやっと書斎へ行けるじゃない」

「いえ、それが……」

「それが?」

「次は書斎に行くと会話していました」

 だああっ、とちゃぶ台を返すような仕草と声でベッドへひっくり返った。


 ※


「ねえ、まだ?」

 三十分が経過し、ベッドに転がる兎薔薇が電源のつかなくなったスマートフォンを握りしめながら呟く。

「まだ出てきません」

「兎薔薇様のそれ、電源が切れてしまったのですか」

「そうなのよ、もう最悪。死んじゃうわ」

 物騒な言葉を吐き、それを仕舞い込む兎薔薇。

「しかし……遅いですね」

 三十分、それは人が二人で書斎に閉じこもるには少し長すぎるようにも思えた。

 じっくり見るべき何かが見つかったのか、それとも、何かが起きたのか。

 大神の不安げな呟きに、森子も緊張が走る。

「様子が気になりますね」

 思わず出た率直な気持ちに、大神は頷き、言った。

「では、私が見てきます」

「は? 何言ってんの?」

「私だけならば、あの二人以外に見つかっても言い訳が立ちますし、書斎は防音というわけではありません。外からでも人の気配ぐらいは感じることができるかと思います」

 つまり、大神は単身書斎の扉の前まで行き、中の様子を探ろうというのだ。

 絶句する二人だったが、それ以外に今できることもないかもしれない。

 大神は慎重に扉を開け、廊下へと歩き出す。

「森子さん、アタシ、不安でいっぱいなんだけど」

「まあ……書斎はすぐそこですし、すぐに終わるかもしれません」

 その背を追うように、二人は再び扉の隙間に顔を寄せ合い、大神の後ろ姿を見つめていた。

 廊下はやはり薄暗く、電気のない今は影に満ちていた。

 大神は影から中央ホールに注ぐ光の下へと一歩ずつ歩いていく。

 それはあっけないことのようでいて、それでもやはり、罪深いことだった。

「おや」

 その証拠に、廊下から出て中央ホール二階の回廊へとあと一歩のところで大神の前に人影が現れた。

「大神様、八木様と一緒かと思いましたが」

 漆田だった。

 おそらくは食堂の後片付けが終わったのだろう。

「今お一人ですか?」

 ひゃああ、森子は喉の奥から音にならない絶叫を上げた。

 ぎゃああ、兎薔薇は森子の耳元で口を押さえて絶叫した。

 当の大神も少なからず衝撃を受けているはずだ。その大きな背が一度びくんと跳ね、漆田の問いからも硬直したままだ。

「あ、え、ええ。そうです」

 突如、大神は扉側の壁へともたれかかった。漆田は小首を傾げていたが、それは扉の隙間からこちらを覗く死亡者組を、自らの体で隠そうという試みなのだろう。

「今、二手に分かれて昨日の夜の皆様のアリバイを聴いているところでして」

「でしたら、私はまだでございます」

「そうでしたか。ではお話を……!?」

 ぎゃああ、森子は絶叫を噛み殺す。

 ひゃああ、兎薔薇も同様らしい。

 森子たちの視線の奥、大神の視線の先、漆田の背後で。

 書斎の扉が開いたのだ。

 当然の如く、中から現れたのは八木と大神……に変身した鳳凰堂。

 森子の視界内に、今再び大神の姿が二つになった。

 八木が少しでもこちらを向けば、漆田が少しでも向こうを向けば、その時点で全てが崩壊する。

 しかし不幸中の幸いか、八木は手に持つファイルのようなものに集中しているのか、こちらに振り返る気配もなく背を向けたまま階段を降りていった。漆田もまた、背後の二人には気づいていないのか、大神の表情に訝しむようにしながらも振り向かない。

「う、漆田さん、貴方にもお話を聞かせてもらってもよろしいですか?」

「ええ、私は大丈夫ですが……」

 聞こえてくる大神の引き攣るような小声が、痛々しい。

 彼の手を引き、ゆっくりと廊下へと引き込む。

 そうして二人の影がずれたことで、森子と兎薔薇は驚愕すべきものを見た。

 階段を降りる八木と鳳凰堂のものの内……鳳凰堂の目が、こちらに向いた。

 大神と、廊下の奥の二人分の目玉を見て、彼女もまた、大きく驚いた。

 当然その表情は兎薔薇と森子と同じく、口をあんぐりとあけて飛び上がってしまうのではというほどの驚愕の表情だった。

 それを察知したのか、八木の足が止まった。

 妙な気配を感じたのか、漆田の視線が動く。

 まだ大神の体は二つ晒されている。

 その状態で。


 八木の頭がこちらへ回転し――。

 漆田の頭が向こうへ回転し――。


「う、漆田さん。話はこちらで」


 大神が手を引き、近くの部屋、兎薔薇の個室へと引き摺り込んだ。

 間一髪セーフ……かと思われた、大神と漆田の姿が視界から消えたその先で。


 八木が宙に浮いていた。


 犯人は鳳凰堂だ。こちらへと向かせないようにするため、階段の上で八木の背を強く押したのだろう。力士のつっぱりのような体勢の彼女が見えた。

 そして彼の体を追うように抱きしめると、そのままズダンズダンズダンズドドドド……と、とんでもない音を立てて二人は消えていった。

 転がり落ちる直前、漆田は防音の部屋へと消えたため、この音は聞かれていないだろう。

 今度こそ、セーフか。

 一部始終を見ていた二人はそれでもしばらく扉に張り付いていたが、誰ともなくフラフラと離れては、二人同時にベッドに倒れ込んだ。

「はぁあ……」

 ため息しか出ない。

「ふざけんじゃないわよ……」

 文句しか出ない。

 これで何度目かのニアミスに、森子の寿命は縮みっぱなしだった。

 だが、その寿命はまだ、断たれてはいない。

 しばらくして、大神が部屋へと戻ってきた。

「も、申し訳ありません」

 深く頭を下げる大神に、「アンタ、マジ、ふざけんじゃ、ないわよ!」と兎薔薇は何度も枕を叩きつけ続けた。

「漆田とは何を話されたのですか?」

「言ってしまった手前、昨晩のアリバイを尋ねました。結果としては、疲れてすぐに眠ってしまったらしいので、重大な意味はないかと」

「アンタ、次、やったら、ぶっ飛ばすから!」

 ぼすんぼすんと未だに枕を大神に叩きつける兎薔薇。

 殺す、という言葉が出なくなったのは、喜ばしいことなのだろうか。

「八木様と鳳凰堂様は……無事でしょうか」

「おそらくは。私が外に出る頃には二人ともいなくなっていました」

「じゃあ、どこに行ったのかもわからないのね。あー、疲れた。少し休憩しましょう。アンタは罰として外の監視を継続なさい。森子さん、あんなのは放っておいてお話ししましょうよ」

 兎薔薇はようやく、振り上げた枕をベッドへと放り、言葉の端々に大神への文句を忍ばせながら、むしろ顕にしながら、森子へとわざとらしく声をかける。

 だが、三人に休息はまだ訪れないらしい。

 兎薔薇の命令通り、大神が監視のために薄く開いた扉から、生存者組の大きな声が響いた。

『――ギロチンが、使われていました。誰かが死んでいる可能性があります!』

『なんだと!』

『漆田さんと天窓さんを探しましょう!』

 三人は再び硬直した。

「ギロチン? ギロチンが使われたってどういうこと?」

「そ、それよりも!」

 森子は慌てて、今起きている問題の要点を二人に告げた。

「漆田様とお父様を探しに、ここに誰か来るかもしれません」

 大神と兎薔薇は顔を見合わせたが、森子の言葉を裏付けるように、大きな声が響く」

『獅子噛、お前は男の部屋を見てこい。俺は女の方を見てくる!』

「……月熊さんが、階段を登ってきます……今、兎薔薇さんの部屋に入りました」

 大神はそこまで言って、完全に扉を閉めた。

「この部屋に、来ます!」

「ちょっと待って、あの大男にアタシの部屋見られるわけ? 勘弁してよ……」

 何もないのではなかったのか。そんなことを聞く時間もない。月熊大和はすぐにでもこちらへやってくる。

「外に逃げましょう!」

 森子がベランダへ続く窓扉へと飛びつき、鍵を開けて開く。

 それと同時に、二つ隣の部屋。森子の部屋の窓扉が、森子の目の前で閉じた。

 危なかった。森子は息を呑む。あと少し早かったら月熊と鉢合わせしていただろう。

「皆様! こちらへ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ。今から下へ降りるわけ? む、無理よ。アタシ、落ちちゃうもの!」

 その意見も最もだ。

 三人が下へと降りる時間はない。

 ならば上か?

 その時間はもっとないだろう。

「いえ……横に逃げます」

 森子は一度、二人を部屋の中へと押し戻し、ベランダへの窓扉を薄く開く。

 その直後、隣の部屋。鳳凰堂の部屋の窓扉が開かれる音が聞こえ……閉じる音もまた、耳に入った。

「今です!」

 森子は二人を引き連れ、ベランダに現れる。太陽が傾き始めていた。ベランダの手すりに、足をかける。

「まさか、そういうこと?」

 何をするつもりか察した兎薔薇は大神に背を押されるようにして森子の後ろに並んだ。

 ベランダとベランダの間は一メートル。

 大した距離では無いが、ここを跳ぶとなると一気に足元がすくむ。

 二階とはいえ、落ちたらタダでは済まない。

 足の裏に滲む汗を感じながら、森子は意を決して、隣の部屋のベランダへと跳んだ。

 その長い浮遊感の果てに、硬いベランダと激突した。幸いなのは、それが手すりに弾き返されたわけではなく、床面に叩きつけられたことだけだ。

 続いて二人がこちらへと飛び移ると、月熊と入れ替わるようにして鳳凰堂の部屋へと飛び込んだ。

 窓扉を閉じようときた瞬間、隣から『クソ! どこにいんだよ!』と悪態が聞こえた。

 探されているのは自分達では無いはずだ。だが、追手を撒いた実感だけは確かだった。

 またしても、セーフ。

 これなら、鳳凰堂と書斎に閉じ込められていた三日目の方がまだ平和だったといえる。一体生存者組の間で、何が起きているのだろうか。森子は案じた。

「ここもまた、ひどい部屋ね……」兎薔薇が鳳凰堂の部屋を見回して言った。「もう血は乾いてるとはいえ、踏みたく無いわ」

 血を迂回して扉へとたどり着けば、いつものように薄く開いた。

『居たーッ!』

 すぐさま、月熊の怒号が飛び込んだ。

 まさか見つかったのか? そんなことを考えて飛び上がったが、そうでは無いらしい。

 すでに大神の部屋、そして倉庫も調べ終わったらしい月熊は、食堂へと向かったのだろう。そこに何かが『居た』らしい。

 扉の向こうを、多くの人影が現れる。その中には鳳凰堂が変身した大神の姿があった。

 皆、食堂の入り口にたむろしていたが、やがては呑み込まれるように消えていった。

「何が、あったのでしょう」

「アンタのお父さんがギロチンで殺されてて、その死体があった、とか?」

 兎薔薇の仮説に、森子は震え上がった。まさか、そんなはずがない。

 その様子を見て、他の二人も決心を固めたらしい。

「確かめに行きましょ。大神さんがやろうとした方法で。今度はアタシと、森子さん、貴方も」

 おそらくそれは、父の死の可能性を確かめるには本人を連れていくしか無いとの判断だろう。

 三人は休む間も無く、廊下へと出た。

 日は傾き、赤が混じり始める。

 中央ホールはまるでそこで殺人事件が起きたかのように、赤い陽に満たされていた。

 影は濃く、長く伸びる。

 食堂から、中央ホールへと飛び出す人影はなかった。

 三人は食堂の扉に、耳をつけた。

 中からは、生きている的羽天窓の声が漏れ出ていた。


『――それは皆様にとって、僕にとって、君にとって――最後の晩餐になるのかもしれないのだから』


 ※


「ねえ、アンタのお父さん、こう言っちゃアレだけど……怖いわね」

 食堂の中で的羽天窓は、『この島での計画を立てたことは自分である』『そして、殺人鬼を呼んだ』ということを認めていた。

 本来ならそんなことを聞けばきっと怒り狂っていたはずの兎薔薇ですら、震え、怖いとしか形容のできない声だった。

 あんな声が、自分の父に出せるのか。

 森子は父の一言毎に、心臓が凍りつく思いだった。

 だが、それは思わぬ言葉で溶けていく。

『的羽さん。僕にはもうすでに分かっています。貴方が誰を呼んだのか』

 それは何とも、光が差すような言葉だった。

 森子の胸の中には、たった一つの名前があった。

 事件を裏側から見てきた森子が到達した、その名前。

 月熊大和。

 彼の名前をあの探偵も指し示すはずだ。

 そんな思いを知らぬ八木は、自らの考えを語り始める。

 しかし、それが向かうのは森子にも予想外の方向だった。


『兎薔薇さんの体を切断した凶器は、フランヴェルジュではない。それは獅子噛さんも考えていたことです。牢屋の中にいる人間を牢屋の外から殺し、首を切るには、フランヴェルジュでなくピアノ線も使えたはずだ、と。

 しかし、これこそが犯人の仕掛けた罠だった。

 あの牢屋は……殺害現場ではなかった。

 犯人はそれを隠すために牢屋に血を撒き、そして牢屋の中に入れないように鍵に細工をしたのです。

 本当の凶器とは、先程僕と大神さんが見た……隠し部屋の【ギロチン】です』


「え、ギロチン?」

 小さく声を上げたのは当の兎薔薇だった。

「ねえ、森子さん。アタシが殺されそうになった晩。アタシの体に変身した鳳凰堂さんの体って運び出されたんだっけ?」

「いえ、そうは思えませんが……」

 当惑する兎薔薇だったが、森子も同じだった。

 あの晩、鳳凰堂は牢屋から運び出されてはいない。

 それを目撃することだけはできなかったが、すぐ近くにいた森子たちならわかった。

 まずい。森子は歯噛みした。

 これは森子の中の推理には無い展開だ。

 森子も自分の推理に絶対の自信があるわけではなかったが、それでも確信していることがあった。

 それは、兎薔薇を殺した凶器はフランヴェルジュであるということだ。

 ギロチンは確実に使われていない。

 それを口出しすることもできず、なおも八木の推理は続く。


『――だからこそ、鍵に細工をした。

 では、それが可能だったのは誰か?

 まず一人目は僕です。頭を殴られたと言う証言が嘘である可能性があります。

 そして、昨晩自室に帰った四人の男性。

 最後に……貴方です。大神狼華さん』


 兎薔薇が息を呑む音が聞こえた。

 食堂の扉に耳を当てる大神の目が大きく見開いている。

「私、ですか?」

 偶然なのか、扉の奥の大神もまた同じ言葉から弁明を始める。


『私、ですか? 話によれば、私の部屋の前には八木さん、貴方がいたはずでは。そんな状況で貴方の後頭部を殴りつけることなどできないのではないでしょうか』


 彼女の言葉も最もだ。そもそも、あの晩大神の部屋には全員がいた。

 八木は大神に頭を殴られたと主張するようだが、奇妙な相互監視の状態にいた死亡者組ならば確実にわかる。

 あの晩、誰も扉を開けることはなかった。

 おかしい、自分の予想外の方向へ突き進んでいる。森子は焦りを感じていた。

『わ、私は!』

 扉の奥の大神が声を荒げた。

 今ここで大神が犯人だと断定されるわけにはいかない。それは森子たち死亡者組の目標の一つ、犯人を断定することと大きく離れてしまう。

 犯人は月熊大和。彼しかいない。

 森子は胸元まで込み上げるその言葉を飲み込むことに必死だった。

『私は、警察としてここにいます。決して、殺人のためにでは……!』

『では、大神さん』

 何を言う気だろうか。森子の緊張感が高まった中で、その一言は告げられた。

 それは、森子たちが犯した致命的なミス。


『もう一度、警察手帳を見せていただけませんか。前に見せていただいた時は、明かりのない聖堂のことでした。それが偽物だった可能性は充分あります』


 しまった。扉の外の三人は一斉に顔が青ざめた。

 見せるも何も、持っているわけがない。なぜならば彼女は、鳳凰堂が変身して同じスーツを着ただけの、偽物の大神狼華なのだから。

 本物の大神は、胸ポケットから警察手帳を取り出した。

 森子は見たことがないが、兎薔薇はそれを偽物だと言わなかった。

 彼女の話によれば、過去に父親のことで訪ねてきた警察から別の手帳を見せられていたはずだ。

 ならば、大神は本物の警察だ。

 ぐ、ぐぐ、と食堂の中から鳳凰堂の唸る声が聞こえる。

 いくらその身を探しても、あるわけがないのだ。

『い、今は……持っていません。へ、部屋に……』

 目を背けたくなるほど下手な言い訳だ。

『では、どこにありますか? 僕たちが取ってきます』

『ど、どこにあるかって……それは』

 答えられるわけがない。ここにあるのだから。

 鳳凰堂は、答えられなかった。

『ちょっと待ってください、こんなのは……想定、外……!』

 終いには、素が出てしまっている。

 そして八木は探偵らしく、犯人の名を告発した。

『大神さん、貴方が的羽天窓さんによって呼ばれた殺人鬼役ならば、第一の殺人にはアリバイがなく、そして第二の殺人において監視役という立場を利用して自由に動けたことから、全ての殺人に辻褄が合うのです!』

『ぐ、ぅうううううっ!』

 鳳凰堂のその呻き声は、いかにも犯人が探偵に告発された最後の足掻きのようだった。

「お、終わった……」

 兎薔薇が肩を落として溢す。

 この事件の裏側を知らない探偵によって、犯人にされてしまった大神は、苦虫を噛み潰したような顔で、それでも中の様子を探っていた。

 日はすでに落ち、暗闇が再び館を満たしていた。

 中では的羽天窓による告白が始まっていた。

 おそらく、的羽天窓にとって告発の正否など関係ないのだろう。

 ただ、聞かれたから答えているだけだ。

 だが、それこそがある意味生存者組にとって答え合わせになってしまっている。今更大神犯人説に異議を唱えるものはいないようだ。

 まるでお経のように滔々と続く的羽天窓の過去と現在の告白。

 それを聞くたびに森子の胸に空洞が開いていくようだ。

 この島の地下に広がる、あの空間のように。

 そこにいたはずの不死鳥すら、今はもういない。

 森子の顔が再び上がったのは、的羽天窓の言葉の一部を耳にした時だ。


『ただ、僕は【僕が不死鳥に出会ったと誰にも知られたくなかった】。僕の、僕だけの答えを他の誰にも勘づかせたくなかった。独り占めしたかった。だから――全部消すことにしたんです』


 全部消すことにした。

 その一言は、どこか重要な意味を持つような気がした。

「ねえ、今、聞いた……?」

 一瞬意識が上の空であった森子は、聞き逃した続く言葉に愕然とする兎薔薇の意味を掴み損ねていた。

「ええ、聞きました。迎えの船は……来ないと」

 鳳凰堂と立てた作戦が、大きく崩れていく。

 その言葉が本当ならば、この作戦は全く意味を成さない。

「アタシたち……帰れないって」

 兎薔薇はまるで年端もいかない少女のように怯えた表情を浮かべた。

「大丈夫です」大神がその手を握る。ふと、森子の方へと大神の片手が差し出されていた。

「私が、必ず全員を島から帰します」

 この手を握る資格など、自分には果たしてあるのだろうか。

 森子の胸の空洞に冷たい風が吹くと同時に、それは起こった。


 ドンッ。


 この島で初めて聞くような、巨大な音。

 それから車で柵に突っ込んだ時と似た、巨大な衝撃。

 それは食堂の外、扉に守られていた三人すら吹き飛ばされて床に倒れてしまうほど。

 食堂のどこかで何かが爆発したのだと気づくのに時間はかからなかった。

「い、今の!」

 大神が立ち上がり、食堂の扉を少し開いて中を覗く。森子も並んで中へと視線を潜り込ませた。

 そこは、妙な景色だった。

 あまりにも見慣れた食堂のはずが、長テーブルはほとんど横転し、男は全員積み重なるように倒れていた。この中で足で立つ物は何一つなかった。

 あの人は?

 森子は倒れる人影の中から鳳凰堂を探す。すぐに見つかった。男性たちよりはかなり手前側に、二つ目の大神の体は横たわっていた。

「つば――」

「火事だ!」

 思わず呼びそうになってしまったその名前は、不意に聞こえた大神の声にかき消された。

 火事? 視線を再び食堂の奥へと向ければ、厨房から幾重もの紐のような物が、闇の中ゆらゆらと光っていた。炎だ。炎が踊っている!

「火事だ、火事だ! 皆さん! 起きてください!」

 大神が今まさに食堂へと飛び込もうとした瞬間、その肩を引いた者がいた。

「兎薔薇さん、皆さんが危険です! 助けないと!」

「あ、あそこも」

 震える指で兎薔薇が指し示したのは、中央ホール一階、玄関ホールへの扉だった。

「あそこも燃えてる!」

 夜の中、はっきりとわかる。

 玄関ホールへの扉の下から、小さな手が振られるようにして、中からの光が漏れていた。

 見紛うことなく、炎だ。

 玄関ホールまで火が放たれている!

 いつのまにか退路を塞がれていたと知った森子は、ふと鳳凰堂のことが気になり食堂の中へと視線を移動させると、火は大きさを増し、それに照らされてもう一つの人影が蹲るようにしていた。

 自らの父、的羽天窓だ。

 彼は鳳凰堂が変身する大神の体を眺めると、その襟首に手をかけた。

 ダメ! 叫びかける森子の前で、もう一つの人影が動き出す。


『お前、何してんだ!』


 フラつきながらも立ち上がった月熊が、まさに熊のように突進してきたのだ。このままでは、まずい。

「大神様、兎薔薇様!」

 未だに玄関ホールの火事に呆然とする二人の肩を掴み、女性用個室方面の廊下へと走り出す。しかしいきなりの重心移動について来れなかった二人は廊下の影に転がり込むようにして倒れ込み、それに躓いて森子もまた転んでしまう。

 ふぎゃっ、と小さくカエルが潰れたような声が聞こえたが、直後にもっと大きな音が響く。

 月熊が的羽天窓と共に食堂の扉を突き破るほどの勢いで中央ホールへと躍り出たのだ。

 二人はそのまま格闘を続けるが、このままではいつこちらに視線が向くかわからない。

「書斎へ行きましょう。状況が見れますし、個室よりも人は来ません」

 森子の提案に、でも、と言っている時間はないと分かっていた二人は頷いた。

 暗闇に紛れ、三人は書斎へと姿勢を低くして向かう。それはまるで、二日目の夜の再現だった。

 果たして月熊と的羽天窓にこちらの姿は見られたのか。見られていないことを願いながら、書斎へと最小限の動きで飛び込む頃、森子は対岸の食堂の奥で八木を守り、そして炎の中で獅子噛に暴行を受ける漆田の姿を見た。

「漆田!」

 彼は遠い食堂の火の海で倒れ伏せると、やがて脱出した八木が扉を閉めたことで見えなくなる。

 まさか、そんな。と悲観的になる暇はなかった。

 八木は月熊から何事かを聞き、そして鳳凰堂扮する大神の体を抱え上げ、森子たちが隠れる書斎の近くまで来ると、階段を降りていく。

 しかしそれを阻止しようとするのか、大きな音と共に獅子噛が食堂から現れ、どこにそんな気力があるのか、八木たちの背後まで追いつけば、その背を強く押した。

 森子が八木と大神の転落を見るのは、これで二度目だ。獅子噛が大きく笑いながらそれを追いかけていく。

「様子を見ましょう!」

 大神の言葉に、再び三人は書斎から飛び出す。もはや炎が目を惹き、そして闇が彼女たちを隠すことを祈るほかなかった。

 月熊と的羽天窓は対岸にて未だに取っ組み合いを続けていたため、反対から回るようにして位置をとった。

「こ、こ、これ、どうすんのよ……」

 下ではどこかフィクションめいた光景が広がっていた。まだ意識が戻らないのか、倒れたままの鳳凰堂。その傍では逞しい体の男性と、そして決して戦闘向きではないであろう青年が殴り合っていた。

 だが、森子にとっては殆どそれはどうでもよかった。

 姿勢を低くすることも忘れて走り出すと、炎が燃え盛る食堂へと飛び込んだ。

「漆田!」

 森子は叫んだ。叫んだがしかし、煙を吸い込んでしまう。二度目は叫べなくなった。

 それでも森子は姿勢を低くし、その人影を探す。

 漆田は厨房の近くにボロ雑巾のように倒れ、足の先を炎が品定めするように舐めていた。

 全身を包む熱波に押し負けまいと這い、やがては漆田の体へとたどり着く。息も脈もわからなかったが、揺られる体に漆田の瞼が薄く開き、森子のことを見た。見られてしまった。それなのに、森子はそれが喜ばしくてたまらなかった。

「お、じょ……」

 何かが爆ぜる音に混じり、漆田の口から声が漏れる。

 それを聞く時間はない。森子は漆田の脇に手をかけ、引きずっていく。

 食堂から出て、漆田を休ませることができる場所を探した。

 どこでもいい、しかしどこだろう。

 かき混ぜられる脳内で、森子は短絡的とも似た休ませる場所を決めた。

「森子さん、アンタ、その人どうする気?」

 一階の格闘を眺めていた兎薔薇が、大荷物を抱えて現れた森子に目を丸くする。

「すぐに……戻りますので……!」

 森子が選んだ場所は個室だった。ベッドがあるからという発想ゆえだが、大神と兎薔薇の傍を通って個室の並ぶ廊下へとたどり着く。

 この際、誰の個室でもいいだろう。

 手近な月熊の部屋へと運び込む。

 扉を閉めれば、音が切り取られたように無音に変わった。

 外の火災と乱闘など、無かったかのようだ。

「漆田、漆田……」

 漆田の体をベッドに横たえる。外傷は多かったが、折れているところもなければ火傷もなさそうだった。実際には、肋骨が折れてはいるのだが、森子にはわからなかった。

「漆田……私これから、どうしましょう」

 枯れ枝のような手を取り握る。

 森子の心は折れかけていた。

 火事が起きたからではない。迎えの船が来ないからでもない。

 もっと根本的な所で、森子の心は折れそうになっていた。

「私、貴方が言うほど、良い子になれなかった……せっかく、友達になってくれたのに……」

 漆田の手を離す。

 彼は神ではなく、懺悔する相手ではない。

 ここに、神などどこにもいない。

 森子は自らの身を焼くであろう炎が燃え盛る中央ホールへと、戻って行った。


 ※


「獅子噛さんは!」

 森子が戻った時、未だに格闘の雰囲気が残っていることに森子はどこかうんざりした。

 だが、階下に人影は倒れたままの鳳凰堂と、八木しか無い。

「あそこ!」

 兎薔薇が指し示した先は、一階中央ホールに扉がある倉庫だった。あの倉庫の中を森子は知っていた。

「大変です、あそこには!」

 案の定、直後倉庫から姿を現した獅子噛の手には、大きな斧が携えられていた。

 かつて漆田に『マスターキー』などと冗談を言われた記憶が蘇る。

 だがそのマスターキーは今まさに八木の脳天を開こうとせんばかりに光っている。

 八木は何度か振り回される斧を掠めながらも逃げ回り、やがて獅子噛が斧を壁に突き立てた隙をついて飛び掛かる。

 だが、それも数秒のこと。八木は顎を殴られたのか、くるくると回転するようにして仰向けに倒れ込んだ。

 その視線から森子たちは身を隠すこともできない。

 獅子噛は動けない八木へ斧を高く上げ、振り下ろそうとしていた。

 今更、どうすることもできなかった。

 二階から見下ろす森子たちにその斧を止める手立てなど無い。

『死ねッ!』

 階下で獅子噛が叫んだ。

 しかし、それは振り下ろされることはなかった。

『やめなさい!』

『があっ!』

 その声は、大神のものだった。ならばおそらくは、鳳凰堂だ。大神に変身している大神が目を覚まし、そして獅子噛の凶刃を止めたのだ!

 森子はそう確信したが、同時に視界内に映る強烈な矛盾点に血の気が引いた。

 館の中を猛烈な熱波が吹き乱れているというのに、まるで氷点下のように感じる。

 何度目かの絶叫を堪えているのは、隣の兎薔薇も同じで、しかしさらにその隣にいるはずの影がそこにはなかった。

 それもそのはず。


 階下には、大神が二人いた。


 未だ倒れたままの鳳凰堂扮する大神と、獅子噛の斧をもぎ取ろうと奮闘している本物の大神だ。


 大神が二人いる!


 いつそんな声が飛ぶのか分からなかった。少なくとも森子と兎薔薇は我慢したが、他の人間ではこうはいかないだろう。

『八木さん! 大丈夫ですか!』

『大神さん……もういいんですか!』

『ええ!』

「何が、ええ! なわけ……?」

 兎薔薇の声も届かない大神は、返事をしながら獅子噛の手を後ろ手に拘束している。

 おそらくあれは指錠だ。獅子噛はもう斧を持つことすらできないだろう

『指錠をさせてもらいました。八木さん……私は少し別の場所に行きます。後は……ああっ!』

 その瞬間、大神の体が大きく吹き飛ばされた。

 獅子噛が拘束されていない足で蹴り飛ばしたのだ。

 幸か不幸か、大神が飛ばされた先は階段の近くであった。

「行くわよ!」

 兎薔薇は森子の手を引き、階段へと走り出す。大神を回収するのだ。

 階段の前まで戻り、下の大神と目が合った。

 本物の大神も行われようとしていることに気づき、頷いて返事がされた。

 だが、そこへ獅子噛を締め落とした八木が現れた。

『大神さん、大丈夫ですか!』

『え、ええ、なんとか……』

『今すぐ逃げましょう!』

『え、でも私は……』

『いいから!』

 そして、八木は大神の手を引いて玄関ホールへと走り出す。

「あああっ! もう!」

 兎薔薇は髪をかきむしる。

「どうしましょう、二人はすぐに戻ってきます。そうなれば今度こそ鳳凰堂様が見つかります!」

「分かってるわよ!」

 言うが早いか、兎薔薇は一気に階段を駆け降りる。

 鳳凰堂の体は、聖堂の廊下に体を半分伸ばしていた。

 だから混乱の中見つかることがなかったのかもしれないが、それよりも八木や獅子噛が大神を探そうとした時、視界に本人が現れたことでまさかもう一人いると考えるわけがなく、探すのをやめたことが大きいだろう。

『そんな、こんなこと……!』

 とにかく、八木が本物の大神と玄関ホールの炎を見て呆然としている間、森子と兎薔薇は鳳凰堂の体を二人で持ち上げ、そして開かれたままの倉庫へと飛び込んだ。

 本物の大神は首を最小限に回し、森子たちの動向を見ていた。そして倉庫の中へと体が完全に隠れた所で、八木へと呼びかけた。

『別のところから!』

 さて、こうして倉庫の中へと隠れた森子と兎薔薇だったが、難所を乗り切りひと心地つく訳には到底いかなかった。

 森子たち死亡者組が立てた計画の大前提。【不死者と最初から入れ替わっておく】がこの大乱戦の時になって崩壊したのだ。今、大神が死ねば、大神が死ぬ。どこか不思議でありつつ至極当然な現象に、二人の少女は顔を青くしていた。

「起きて起きて起きて起きて!」

 倉庫の外を伺う森子の傍で、兎薔薇は小さなビンタを鳳凰堂に浴びせかけていた。ぴしぴしぴしぴし、今は大神の頬が揺れている。

「ん……お? 兎薔薇と森子じゃないか」

 その甲斐あり、鳳凰堂が目を覚ました。能天気な声で手を振っている。

「どうだ? 順調か?」

「な訳ないでしょうが! 大神さんがアンタの代わりにあっちにいるのよ!」

 状況を聞いた鳳凰堂は呑気な顔を引っ込め、真剣な顔つきに変わる。

「これはまずいな。なんとかしてまた入れ替わらないと。どうにかして先回りできないか?」

「無理よ、あの二人がこれからどう動くのか分からないもの」

「それに、今二人はパーティホールにいます。会話も聞けません」

 森子と兎薔薇の言葉に鳳凰堂は腕を組んで少しだけ考えると、「どちらにせよこの場所に居続けるわけにはいかない。あいつらがパーティホールに居る今の内に移動するぞ」と立ち上がる。

 倉庫の扉を開けば、未だに獅子噛が斧の傍で伸びていた。

うめき声が聞こえることから、意識はありそうだ。急いで移動せねばなるまい。

 斧をどうするかについて少しだけ森子は足を止めたが、重いそれを抱えて動くのは難しい。獅子噛も指錠によって持つことはできないだろう。先へと走る二人の背を追いかけた。

 三人は階段を登る。玄関ホールの火の手がとうとう中央ホールへと延びる中、煙が昇る高い場所への移動は危険であったが、この状況はどこだって危険だ。

 回廊を走る中、突如鳳凰堂が進路を変えた。そもそもどこへ走っているのかも分からないためにそれが目的地なのかと思われたが、鳳凰堂は立ち止まり、睨むように回廊の先を見ていた。

 視線の先では食堂の前で気を失っていた月熊が意識を取り戻したのか、這うようにしてこちらへと向かってきていた。

 彼との鉢合わせを避けるために咄嗟に身を隠したのだろう。

 だが身を隠したこの先もまた、袋小路である。

 女性用の個室が並ぶ廊下の影に隠れ、三人は動けずにいた。

『月熊さん! 月熊さ……ぐ』

 さらに運の悪いことに、パーティホールから飛び出した八木と大神が、月熊を探しながら二階へと上がってきていた。

 月熊は森子たちの潜む廊下と食堂の間にいる。

 こちら側へと来る可能性はかなり高く、兎薔薇は慌てて二人を自分の個室へと引き摺り込んだ。

 扉が閉まると、やはり外からの音が聞こえなくなるから奇妙に思える。

 兎薔薇の自室は少々散らかっていたが、気に留めている時間はない。

「こっちだ!」

 鳳凰堂は床に転がるトランクケースを飛び越え一足で窓扉へと飛びついた。

「ベランダから外に行くんですか? でもまだ大神様は中に……」

「外には行くけど、下には行くわけではない。ましてや横へ行くわけでもないぞ!」

 窓扉を開けば海からの風が入りカーテンと鳳凰堂の髪を揺らした。

「上だ!」

 言うや否や、鳳凰堂はベランダに出ると手すりに足をかけていた。

 残された二人は鳳凰堂の「早く来い!」との声にようやく動き出す。

「ちょっと、アタシ、こんなことしたことないんだけど……」

 兎薔薇の呟きも最もだ。夕方、月熊の目から逃れるために行った隣のベランダへの立ち幅跳びの方がよっぽど気が楽に感じる。

 鳳凰堂は簡単に雨樋に足をかけて屋根の上へと消えていき、顔を出したかと思えば二人目の兎薔薇へと手を伸ばす。

 それを掴んだことを確認すると、強い力で引っ張り上げる。残される森子は兎薔薇が万一落ちた時のために受け止めることのできるよう構えをとった。

「もう最悪。二度とこんな島来ない」

「次はお前だ、森子!」

 鳳凰堂が手を伸ばす。

 森子は逡巡し、それでも最後には掴んだ。

 今は大神の姿であるが故にその手も大神のものではあったが、炎のような優しい暖かさはきっと鳳凰堂自身のものだろう。

「せえ、の!」

 屋根の上に引きずり上げられれば、海からの風が一層激しく渦巻いていた。

 屋根は平坦であり、よほどで無ければ落ちることもないだろう。

 起伏があるとすれば、館中央に覆い被さるように存在する天窓と、塔となっている聖堂くらいだ。

 一見して見晴らしは良いのだが、屋根の上からでもわかるほど厨房の炎は大きくなっていた。

 煙が盛大に噴き上がり、夜の闇へと溶けていく。

「こんなところに連れ出してどうする気?」

「あの窓から、下を覗くんだ」

 すぐに鳳凰堂は走り出す。障害物もない屋根の上に星明かりに照らされて、連続殺人の舞台において死んだはずの女が三人走っていた。

 天窓の下を覗けば炎により室内の方が明るいらしく、中の人影がはっきり見えた。

「あれが月熊だ」

「大神様と八木様も来ました」

 鳳凰堂が指し示す。眼下で合流した彼ら三人は廊下を塞ぐ形で何かを話していた。

「声までは聞こえませんね……」

「ここ、なんか砂埃がすごくない?」

 兎薔薇が手に付着した砂埃を払う。

「声は聞こえないが、奴らが次どこへ向かうかの動きは観れるだろう。だが、結構話してるな」

 館内の二人は何やら月熊の話を聞いているらしい。

「なんか、最初の事件みたいだな」

 不意に鳳凰堂が森子に笑いかけていた。

「最初の事件……鳳凰堂様が被害に遭ったあの事件ですか?」

「そうだ、あの夜のことはよく覚えているぞ。死から復活した私は自分が死んだことに気づいた。すぐ近くにあの刀剣フランヴェルジュが置かれていた。コレはまずいと思って外へ逃げようとしたら……扉を開く直前、お前たちの悲鳴が聞こえたんだ」

「ああ……聞かれていたんですね」

「うん。お前は私の名前を呼んで叫んでいたし、兎薔薇はドッキリじゃないかって疑ってたな」

「緊張感ない話はやめてよ」

 だが、鳳凰堂の言葉はあの夜を森子たちに思い出させていた。まさか、数度の夜を迎えた後でこんなことになるとはその時は思いもよらなかったが。

「だが、あの時は焦ったな。もしあと少し早く外に出ていたら、きっと誰かに見つかっていた」

 それはなんだか、間抜けな話だ。

 束の間の談笑に、兎薔薇も口角を上げていた。

「いいから、集中しなさいって」

「だが、ここにいると話も聞こえないからな」

 確かに、炎の爆ぜる音と厨房が爆発する音、吹き荒れる風、そしてベキン、という甲高い音だけがここにはあった。

「ん? なんだ?」

 ベキン。それは初めて聞く音だった。

 まるで卵の殻を割る音の数倍重たいその異音は、なおも連続して続いていく。

「何の音……?」

 音が一つ重なるごとに、館全体が縦に揺れるように響く。

 森子は思わず、伏せた体制から身を起こしてしまった。

 だがそれにより、森子は見た。

 館を揺るがした爆発の衝撃のためか、厨房の方向から伸びる何本ものヒビが天窓の頂点へと進んでいた。

「……伏せてください!」

 咄嗟に叫び、鳳凰堂と兎薔薇を抱き抱える。

 直後、けたたましい破裂音と共に、目の前で天窓がまるでシャボン玉が爆ぜるかのように崩壊すると、巨大なシャンデリアをともなって落下していった。

「な、何……何が起こったのよ!」

「ガラスが割れた!」

 伏せた顔を上げる頃には、目の前にあった大きなドーム型の天窓が消滅していた。マジックショーでも見ているかのようではあったが、眼下から噴き上がる熱波、そしてシャンデリアとガラスが砕け散る音はどこまでも上品さがなかった。

『僕たちは漆田さんがいると言う部屋へ!』

 ガラスが砕け散ったことで、中から声が響いた。

「漆田がいる部屋! 二人はそこへ行きます!」

 森子は飛び上がる。

 説明する間も惜しく、屋根の上を全力で走っていく。後方を二人が追いかけてきていた。

「ちょっと待て、ここから降りるのか?」

 森子がベランダへと降りようとしたところに声がかかる。

「漆田の部屋は向こうだぞ」

「私、漆田を月熊様の部屋に入れたのです! そこへ八木様と大神様が向かうならば、隣の部屋から大神様だけに呼びかけることができるかもしれません!」

「あ、なるほどね! 入れ替わるチャンスよ!」

 兎薔薇が先に理解し、足場も気にせずにベランダへと飛び降りる。

 月熊の部屋の隣、そこはトランクが一つ傍に置かれただけの質素な部屋だった。必要最小限のものだけを出しているのだろう。

 三人は窓扉の鍵がかかっていないことを幸運に部屋へと侵入すると、急いで部屋の扉へと掴みかかる。

 この時、最後に続いた鳳凰堂が窓扉の鍵を閉めていたのを森子は見た。

「行きますよ。鳳凰堂様、よろしいですか?」

「うん、いつでも代われるぞ!」

 そして部屋の扉を薄く開き、近くの大神へと声をかけ――。

 森子の目の前を、人影が通り過ぎた。

「……あれ!?」

 八木が、漆田が寝かされている月熊の部屋の前を通り過ぎて走り去る。

 瞬時に思い至る。八木は先ほどの鳳凰堂と同じく、勘違いをしたのだ。漆田が寝かされている部屋は、漆田の部屋だと。

 すぐに絨毯に吸収しきれなかった走る足音が響く。大神が来たのだ!

「お、大神さん!」

 呼びかけるが、聞こえなかったのか大神は八木の背を追いかけ走り去ろうとしていた。

 声は届かない、ならば。

 森子は刹那のうちに思い切りをつけると……。


 扉から大神の足に飛びついた。


『ぎゃっ!』

 突然足に掴み掛かられた大神は激しく転倒し、不恰好な悲鳴をあげる。

 何事かと首をひねった彼女と目が合い、そして頷かれた。魂胆を見抜かれたのだろう。

「森子!」

 肩から上が露出している森子を、兎薔薇と鳳凰堂が引き寄せる。

 事態を飲み込んだ大神も、腕の力を使ってそれを助けていた。

『大神さん?』

 しかしあと一歩で森子の腕が部屋の中へと入るところで、八木の声が聞こえた。

 それをきっかけに三人は大神を強く部屋へと引き摺り込むと、八木が部屋の扉に辿り着く直前に扉を閉めることに成功した。

 咄嗟に扉に背をつけると、激しくドアノブが捻られ、強いノックが始まった。

「ど、ど、どうすんのよ!」

 久しぶりに四人全員が揃ったわけだが、再会を喜んでいる場合でもない。

「皆さん、とりあえずバスルームへ!」

 大神が指示し、まず兎薔薇がバスルームへと飛び込んだ。

 ここで入れ替わる鳳凰堂は残り、大神も中へと入る。

「森子、お前もバスルームの中へ。後は私が上手くやる」

 一人扉を押さえつけていた森子だったが、鳳凰堂がその役を代わろうと歩み寄る。

 それに気が緩んでしまったのが、最悪だった。

『わあっ!』

 背後の扉が猛烈な勢いで開き、森子を扉の影へと叩き込むと廊下から八木が飛び込んできたのだ。

 最悪だ。

 この場の全員が息を呑んだ。

 森子はまだこの場に晒され、本物の大神と兎薔薇がいるバスルームの扉も閉ざされていない。

 八木が気まぐれに部屋を見回すだけで、全員がその視界に収まってしまう。

 飛び込んだ勢いで体制を崩した八木を、大神に変身した鳳凰堂が受け止めた。それはさりげなくも視線を制御するためだろう。

 そして森子を隠していた扉が閉まり、森子を隠す影も消失した。

 完全にこの場に死亡者組が晒されていた。

 バスルームに視線をやれば、不安げにこちらを睨みつける大神と、見てられないと目を塞ぐ兎薔薇がいた。

 どうにかしてあそこに行き、バスルームの扉を閉めなければ。

『お、大神さん! 大丈夫でしたか!』

 八木は森子の目の前で大神の体を見回し、怪我の有無を確認していた。

『あ、あれは誰でしたか! 貴方を引き摺り込んだ、あの人!』

 ゆっくり、ゆっくり、森子は足を移動させる。

 壁に背をつけるようにして、少しずつバスルームへと向かう。

 ふと、森子はその視界に妙なものが煌めいたのを見た。

 ベッドの下に隠されるようにして置かれた、金具のようなものだ。

 一瞬その違和感に囚われ、足を止めてしまう。

 キノコ? 森子はそれを見て連想した。

 笠の部分が平たく、大きめのハンバーガーほどの大きさのそれは、一体なんだろうか。

『八木さん、すみません……咄嗟のことで、姿は私も見ていなくて……あの窓から、外へ出て行きました!』

 誰がどこへ行ったか、との問いに、鳳凰堂は口から出まかせを吐く。

 あの窓から、と窓に目を向けたのは、今のうちに隠れろと言うメッセージだろう。妙な金具から目を離し、足を動かし続ける。

『……あれ、大神さん。内側から窓の鍵を閉めたんですか?』

 窓扉を調べる八木が疑問の声を上げる。

 そういえば森子が大神に飛びつく直前、鳳凰堂が鍵を閉めていた。

『え……え、ええ。そうです。犯人が戻ってきたらと思って。私がかけました。その……鍵を』

 痛々しくて見ていられない。

 森子はようやくバスルームに辿り着き、その足を中へと入れようとした瞬間。

『大神さん、早く次の部屋に――』

 八木が振り向いた。

 その目がまだ半身が晒されている森子へと向けられた、その時。

『――ぎゅむ!』

 八木の顔面が、鳳凰堂の体へと埋もれた。

 森子の姿を見させるわけにはいかないと、鳳凰堂は大神の体を持ってして強く抱きしめることでその視界を塞いだのだ。

『むぐ、ちょ、大神さん……!』

『ごめんなさい、八木さん……もう少しだけこうさせてください』

 その『もう少し』のうちに、ついに森子は完全にバスルームへと逃げ込むことに成功した。

 大神が迎え入れ、兎薔薇がゆっくりと扉を閉める。

 静かに扉が閉ざされた時、大神が呟いた。

「私、八木さんに勘違いされないでしょうか……」

「既に犯人扱いされてるんだから、今更どうってことないでしょうが」

 そのやりとりを聞いて、苦笑いを浮かべる森子だったが、その笑みは途端に凍りつく。

 森子の脳天から胸へと、大きな雷が落ちたような錯覚に陥ったのだ。

「どうしたの?」

 心配する声をかける兎薔薇に、返事をすることもできない。

 森子はこれに似た感覚を、数時間前に感じたはずだ。

 それは、そう。

 聖堂の供物台の傷を見た時だ。

 あの時も森子はあの傷を見たことで、まるでパズルのピースが揃い、一枚の絵を完成させ、雷のような衝撃に襲われたのだ。

 だが、今の森子はあの時とは対照的だった。

 まるで、既に完成されているパズルの一枚絵に、新たなピースが無理やり嵌り込もうとして、その圧力に耐えきれず弾けて全てが崩壊するような。

 なんだ? 一体自分は何を見た?


 いや……何を聞いた?


 重要なのは見たことではない。聞いたことだ。

 何気なく聞き逃してしまった言葉の中に、それまでの全てを壊してしまうような何かがあった。

 森子はそれを意識せずに掴み取ったのだ。

 犯人は月熊大和。そのはずだ。どう考えてもそれしかあり得ない。

 だが、新たに現れたピースが、そのたった一片が、当てはまらない。

 森子の全身を冷や汗が垂れる。

 これまで確信していたものがたった一言で崩壊してしまう感覚は、耐え難い不快感だった。

「二人が、外へ行きました」

 森子の胸中を知らない大神が告げる。

 バスルームの扉を開き、二人が先に出る。

「森子さん、どうしたの?」

 外から兎薔薇が声をかける。

 衝撃に放心したままの森子はバスルームの外へと一歩出て、そして、気づいた。


 的羽森子は、そして鳳凰堂椿すら。


 あまりにも大きな勘違いをしていることに。


 ※


 火の手は留まることを知らず、廊下に出た三人の瞳に赤く映った。

「これから……どうする?」

 呆然と兎薔薇が呟く。館の中に人の気配はなかった。

「書斎に向かいましょう」

 久しぶりにその名前を聞いた気がする。こうして鳳凰堂と入れ替わり、そして書斎付近から人が居なくなったのだ。当初の目的である、違法薬物の証拠をダメ押しで抑える。

 それだけのために一体どれだけの遠回りをしたのか。

 廊下を渡り、回廊へと出た途端。

 その書斎の扉が開いた。

「あれって……」

 咄嗟に廊下の影に隠れた三人の視界の中で、書斎から現れたその人影は階段を降りていく。

「お父様……!」

 それは、的羽天窓だった。

 更に、彼の手には大きな斧が携えられていた。

 明らかに嫌な予感がする。

 悪いことが起きる。

 森子たちは目で追いつつ、書斎の扉へと歩く。

「あいつ、聖堂に行くみたい」

「まずは書斎に行きましょう。せめて少しでも証拠を手に入れなくては」

 大神の呼びかけに書斎の中へと入り、走って隠し部屋へと突入する。

 だが、そこは空っぽであった。

「どうして……!」

 ありとあらゆる棚が、その内側を晒していた。

 不気味な書類の棚から、薬品棚。

 全てががらんどうであった。

 薬品も残らず取り出されているらしく、木箱がデスクの上に散乱していた。

「あいつが持っていったのよ!」

 兎薔薇が叫び、再び注意が的羽天窓へと向いた。

「もう的羽さんが聖堂へ着く頃です。私たちも向かいましょう」

 大神が先導し、三人は燃え盛る館を進む。

 天窓が割れたために、煙が充満していないことだけが救いだった。

 階段を降りると、その天窓の割れたガラスとシャンデリアが転がっている。

 全てが、崩壊を始めていた。

 燃え盛る鳥、不死鳥を模ったこの館は、今や全身が炎に包まれている。

 しかし復活はしないだろう。これはあくまでただ模っているだけだ。本物ではない。

 そして、聖堂へと続く廊下に足を踏み入れる。

 ここまで炎が腹の中で暴れ狂っているというのに、この廊下は長く、奥まで光が届かない。

 森子たちが歩く背後で、退路を断つように炎が廊下と中央ホールの境に立ち上がった。

 石でできた大きな扉に辿り着く。

 扉の奥から、肉を骨ごと叩き切るような音が響く。

 ああ、鳳凰堂様。森子は結局死なせてしまったことに、胸が痛む。

「もう逃げ場なんかないわよ」

 兎薔薇が不安げな声をあげる。

 この、たった一枚の扉の表と裏に、生者と死者がいる。

「兎薔薇様、大神様」

 森子は二人に向き直り、告げる。


「私に、作戦がございます」


 第四章 乱世編【裏】

〜七回死んだ女〜

 終

挿絵(By みてみん)

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