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殺人館の不死鳥  作者: かなかわ
乱世編
27/38

第四章【裏】七回死んだ女 第一部

「アタシが幼い頃には、ママはアタシとパパを捨てて出て行った。

 でもまあ当然よね。働かないパパと、ブサイクに生まれた娘。住まいはボロアパート。アタシだって嫌よ、捨てちゃうに決まってる。

 当然じゃない、虫唾が走る。

 すぐに逃げ出しちゃうわ。

 だけど、捨てられた娘である私には耐えられなかった。

 私が味わった生活は底辺中の底辺だった。

 ランドセルすら買うお金もなく、小学校はリュックで行った。

 だけどランドセルの代わりに一生分の嫌な思い出を背負ったわ。

 アパートにはお風呂もなかったから、銭湯に行けない日はお風呂にも入れなかった。

 だけどシャワーの代わりに一生分の罵倒を浴びたわ。

 誰にも助けてくれない。誰にも見てもらえない。誰にも誰にも、誰にも優しい言葉をかけてもらえないの。わかる? わかんない? わかんないわよね。次の一日が真っ暗なあんな気持ちは。

 だけど、そんな思いは六年生になった時終わりを告げた。

 パパが大きな仕事を任されるようになった、って言い出したの。これからは楽に生きさせてやれるぞ、って。

 どうして? 私は聞いたわ。どうして今になって?

 パパが言うには、アタシが小学校に上がる前に一人で行ったホテルが火事になった時、コネを作っておいたんだって。そのコネに縋りつき続けてたら、大きな仕事をもらえたんだって。

 それからというもの、人生にようやく色がつき始めたの。

 ご飯にはおかずが毎回あった。

 布団がお父さんと二人で一つじゃなくなった。

 お風呂に毎日入れるようになった。銭湯が休みなら遠い銭湯に行くタクシーまで捕まえられた。

 ランドセルも買ってもらった。六年生だからいらないって言ったけど。

 そして、アタシは初めて夢を話したの。

 誰にも言えなかった。

 笑われると思ったし、口にした瞬間叶わないと自覚しちゃうと思ったから。

 だけど、変わり始めたその時なら、きっと。そう思っちゃった。

 だから、パパに言ったの。


 アタシ、アイドルになりたい、って。


 パパはそのために動いてくれた。

 今思えば馬鹿よね、まだ十二歳の子供の夢に、大人が本気になっちゃって。

 アタシが歯並びを矯正したいって言ったら歯医者に通わせてくれた。

 アタシがレッスンを受けたいって言ったら歌と踊りのレッスンを受けさせてくれた。

 アタシが整形したいって言ったら整形手術をさせてくれた。

 本当、馬鹿すぎよね。アタシも、パパも。

 何にもわかってない子供の言葉にすぐに金出しすぎよ。

 だけど、アタシはそれでも一つ、わかってることがあった。

 今の幸せは、パパの頑張りの上で成り立っていて、パパが出してくれたお金で形を成している。

 それに感謝しなきゃならない。お金を出してくれたからには頑張らなきゃならない。お金を稼いで、パパに倍以上にして返さなきゃならない。

 そうしろって言われたわけじゃない。

 だけど、幸福にあぐらをかいた瞬間、あの生活に逆戻りするってことだけはわかってた。

 それだけはどうしても嫌。

 どうしても、アタシは上を目指さなきゃいけないの。

 どうしても、現状より上じゃないとダメ。

 どうしても、どうしてもよ。


 ダンスは毎回死ぬ気で体に叩き込んだし、歌だって声が枯れても歌い続けた。流行ってるキャラを把握したし、SNSでフォロワーを増やすにはどうしたらいいか考え続けた。

 それでも足りない。

 アタシは性格が悪いからきっとそこを見られたら悪印象が付くから内面から変えようとした。養成所の友達、先生、見学に来た人全員に心の内を悟られないようにした。

 だけど、その頃。

 アタシが中学を卒業する頃、だんだんわかってきたの。

 パパはちゃんとした仕事をしていない、って。

 警察の人が家に来たの。

 パパはいるか、って。

 居ないって答えたら帰っていったけど、本当は家で寝てた。

 こっそりパパのスマホを覗いてスケジュール帳を見たら、すぐにわかっちゃった。

 パパは薬物を売る人だ、って。

 アタシが食べるご飯も着ている服も通う学校も直した歯並びもメスが入ったこの顔面も、全部全部、ぜーんぶ、パパが誰かに薬を渡したことでできている。

 吐きそうになったけど、堪えたわ。

 それでもパパからの愛情があるから今幸せなのだもの。


 その日から、少しずつ世界が壊れていった。

 レッスンが終わってもパパは迎えに来れなくなったし、ご飯はコンビニで済ませることの方が多くなった。

 それでもアタシは頑張った。馬鹿だと大人に騙されるから、学校の勉強だって疎かにしなかった。

 学校に警察が来たことだってあった。

 でもアタシは頑張ったわ。パパはアタシ用にホテルを借りさせて、家には帰れなくなったけど。

 ようやく三人でユニットを組んで、地下の小さな箱で歌わせてもらえることになった。地下アイドルって奴。

 何度かステージに立つうちに、そのうちの一回がネットでバズって人が増えた。

 もっともっと良いパフォーマンスができるように、アタシは頑張った。努力した。

 パパと連絡がつかなくなっても、頑張ったのよ。

 そしたら、高校卒業と同時にメジャーデビューだって所まで行ったの。

 アタシ、本当に嬉しくて。

 嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

 居てもたっても居られなくて。

 パパが住んでるアパートに帰ったの。

 そしたら。


 パパが首吊って死んでたの。


 なんで?

 なんでパパが死ななきゃならないの?

 パパの足元に、一枚のメモがあった。

 パパがこぼした糞尿に塗れて茶色くなってたけど、それでも読めた。

 そのメモには、アタシの幸せを奪った人間の名前が書いてあったわ。


 通報したら、すぐに警察が来た。

 調べを受けて、事情を聞いた。

 パパは、やっぱり薬物の売人だった。

 それでついに警察に足がついて、逃げられないと悟って、首を吊ったんだって。

 大人たちはみんな言ってくれた。「君は悪くない」「君は悪くない」って

 じゃあ聞くけど、誰が悪かったの?

 アタシの幸せは木っ端微塵に打ち砕かれたけど、誰が悪いの?

 SNSではフォロワーを増やした分だけぶっ叩かれたけど、誰が悪かったの?

 レッスンは続けられなくて、事務所から追い出されて、高校にも居られなくて、パパが首攣って漏らしたおしっことウンチのシミが広がるアパートで、明日食べるものにも困ってる最低最悪の世界に戻ったけど、誰が悪かったの?


 アタシが悪かったの?

 無相応な夢を見て、無駄に高みを目指しちゃったせいで、落っこちる時にその分苦しむことになった、アタシ?


 それともパパが悪かったの?

 薬物の売人となって、道ゆく人をラリらせるのがお仕事の、子供の戯言間に受けてお金をじゃぶじゃぶ使っちゃう親バカのパパが悪かったの?


 かもしれない。

 かもしれないわ。


 ふざけるな!


 認められるか!


 そんなの認められないわよ!


 アタシはアタシを悪かったなんて認めない! あの努力が、あの苦痛が、あの頑張りが、悪いことをして稼いだお金だから壊されていいなんて絶対に認めない。


 アタシにとってパパは底辺の生活から出してくれたし、夢のために頑張らせてくれた。そんなパパを、アタシは悪かったなんて絶対に認めない!


 だったら誰が悪いの?


 それは、アンタよ。


 パパが死ぬ間際、メモに残した文章。


 それはアンタだって示してる。


 アタシはアンタを、絶対に許さない」


 ※


 鳳凰堂椿は、胸から流れ出て汚してしまった兎薔薇の服を見遣りながら、全ての話を聞いていた。

 兎薔薇真美実を地下牢にて成り代わり、殺された、その晩。

 的羽森子、鳳凰堂椿、そして兎薔薇真美実は、今いるこの部屋へと逃げ込んだ。

 しかし兎薔薇の感情の爆発により、隠し持っていた包丁が、鳳凰堂の胸元に深々と突き刺さった。


 それから、一時間後。


 部屋の隅に蹲る兎薔薇の言葉を、復活した鳳凰堂も含めた三人は黙って聞いていた。


 今も兎薔薇はこちらを睨んだままだ。


 兎薔薇に殺されて、生き返ったばかりの鳳凰堂は一つため息をつき。

「父親を殺した奴を絶対に許さない、かあ。それは随分な恨みようだな」


 そして、呼びかけた。


「だそうだぞ。大神」


 兎薔薇に睨まれたままの大神狼華は、ゆっくりと口を開いた。


 ※


 私は、貴方ほど劣悪な状況に生まれたわけではありません。

 普通の親の下で生まれた、普通の子供でした。

 ただ少し体が大きくて、足が早くて、力が強くて。

 だけど、子供というのは残酷で、そう言った特徴を持った私はからかいの対象でした。

 貴方ほど辛い思いをしていたというわけではありません。

 ですが、それでも辛かったです。

 出来るだけ周りから目立たず、目に留まらないように身体を縮めて生きてきました。

 自己主張もせず、したいこともしたいと言えず、周りに流されるように生きてきました。

 高校生になっても大した目標もなくて、そんなだから大学も先生が薦めるままに進学してしまった。

 日々を無気力に惰性で生きている私は、友達からの誘いにもまた、惰性でついて行ったことを覚えています。


 そこで、貴方に会いました。


 名前も聞いたことのないアイドルの、地下コンサート。演者は高校一年生。

 本名は本人たちの意向で隠され、貴方は「マミミン」という名前で活動していました。

 コンサートホールにはあまり人がいなくて、私は勝手に、自分ならこの状況だったら逃げ出してしまうと気分が落ち込んでました。

 ですが、お腹の底に響くような音楽と共に貴方たちが現れた時、私は人生を丸ごと変えられたような衝撃を受けたのです。

 ステージの上で光り輝きながら飛び跳ねる貴方は、人の入りが少ないことも、ステージ自体が小さいことも、何も気にしていないように歌を歌い、踊っていました。それは、私にはあり得ない力のように見えたのです。

 そして……その歌も、私にとっては、まるで自分自身のことを歌い上げているかのように思えたのです。

 私が抱えたままどうしようもなかったコンプレックスを、軽く持ち上げて放り投げてくれるような……。

 コンサートが終わる頃、私はグッズとCDを抱えて帰りました。

 どうしてもあの感動を、たった一日だけのものにしたくなかったのです。


 それから、私は何度もコンサートに足を運びました。

 やがて最初の友人は着いて来なくなりましたが、それでも行きました。

 貴方のファンになったことを自覚する頃には、就職活動を控えていました。

 私は、自分を変えたかった。

 貴方に貰った力で、遠くからでも何かに貢献したかった。

 そう思い、私は……警察官になることを決意したのです。

 表舞台に立つのは、やはり性格的に難しかったですから。貴方が生きる生活を、守る仕事が良かった。

 国家公務員採用総合職試験を受け、国家公務員として卒業と同時に刑事事件を扱う部署に配属が決まりました。

 貴方のコンサートに行けない時期もありつつ、それでも刑事としてついて行こうと必死に働きました。

 ですが、あの事件だけは必死になるべきではなかった。

 違法薬物に関する捜査を厚生労働省との連携で行っていくうち、私は強引な方法を取ろうとしてしまった。

 捜査対象は、兎薔薇羅人。

 先輩の忠告を受けつつ、私は何度か警察という身分を隠して彼に近寄ってしまった。

 薬物を買いに来たという体で。

 向こうもやがて私が何か隠していることに気づき、逃げるように距離を置かれては、無理に近づくことを繰り返していました。


 彼の家を見張り、そして動向を確認し続ける内、やがて、それは起こりました。

 私が強引な捜査の果てに手に入れた、薬物を元締めから彼が受け取る瞬間の写真。それを本部に持ち帰ろうとした時、私は愚かにも、再び彼に接触してしまった。

「証拠はある。これを然るべき場所に持っていく一時間の間に、今すぐ自首してほしい」

 なぜそんなことをしようとしたのかは、今でもわかりません。それが何か、良いことのように思えたのかもしれません。

 ですが、本部に持ち帰り提出しても、彼が自首したという報告はなかった。

 代わりに、あのアパートの一室で、男性が首を吊ったという報告だけが。


 兎薔薇さん。貴方が見たというメモを、私はその後すぐに見たのです。


【オオカミに食い殺される】


 私のことだとすぐにわかりました。

 そして、兎薔薇という名前の本当の意味を。


 数日後、貴方たちが解散したという話をネットで知りました。

 貴方たちは本名を隠して活動するグループであることは言った通りですが、解散報道の際に公開された本名を見た時、私は、自分のしたことに気がついたのです。

 私に力を与えてくれた、貴方の名前。それは……。


 兎薔薇真美実。


 兎薔薇羅人さんの、娘だったのです。


 それからの私は、死んだように生きていました。

 自分の行いを何度も後悔して、後悔して、後悔し続けました。

 自分があのように動かなければ、自ら命を絶つことだけはなかったはずなのに。

 薬物のネットワークの尻尾を掴んだことは高く評価されましたが、私にとってはどうでも良かった。

 それから数年、無気力な私はやがて警察内での評判も落ち、仕事を回されることも減りました。


 そんな時、あの時に共に行動していた厚生労働省の職員からある噂を聞いたのです。

 かつて検挙した薬物グループ、その売り手の娘が、薬物の大元である、とある島へ行くらしいということを。

 詳しく聞くうち、十数年前のホテル火災の被害者に、島に建てられるホテルのゲストとしての招待状が配られていることまで知ることができました。

 さらには、そのホテル自体に怪しい噂があることも。

 私は居ても立っても居られず、ホテル火災の被害者の一人にコンタクトを取り、招待状を譲り受け、仕事を同僚に押し付け休みをとって……ここ、極楽島へと訪れたのです。

 兎薔薇真美実さん。貴方をどうしても、守りたくて」


 ※


 大神の長い話もまた、終わりを迎えた。

 兎薔薇をどうしても守りたかった。その一言は彼女の耳に入っただろうに彼女は部屋の隅で塞ぎ込んだままだった。

 この部屋は兎薔薇が地下牢へと入れられた晩、大神狼華に改めて当てられた、的羽天窓の隣の部屋。

 それを知らなかった死亡者組の三人は大神との遭遇に大いに驚いた。

 続く兎薔薇真美実による、鳳凰堂椿の不死性による疑問の問答の果てに、兎薔薇は懐からナイフを抜いた。

 鳳凰堂たちにより死を免れたものの、残された血痕と頭部により既に死亡扱いは免れることができないと知った兎薔薇はその状況を逆手に取り、この極楽島、ひいては不死鳥館に滞在するメンバーの中に居る復讐を誓った相手へと振り上げたのだ。

 その相手は大神狼華。

 だが、そのナイフが大神の胸へと下ろされた時。間に割って入ったのは鳳凰堂だった。

 大神を庇う形で胸にナイフを突き立てられた鳳凰堂は、心臓が止まり死亡した。

 しかしそれから一時間後、その胸の傷が回復するところから復活するまでを目撃されることにより、一度は兎薔薇の指摘によって揺らいだ鳳凰堂の不死性の真偽が、兎薔薇と大神にも確信させられることとなった。

「さて、これからどうするか」

 口を開いたのはその鳳凰堂だった。

「どうするって、何が」

「決まっているだろう、お前たち二人のことだ」

 もぞり、と兎薔薇の丸められた体が動いた。

「何言ってるの、アンタには関係ない。それにこれからも何も、もう終わったことよ」

 刃を向け、向けられた者同士である以上、そこに何かが起こるべくもない。

「終わったなんてことないだろう」

 だが、不死身の鳥はそうは思っていないらしい。

「お前たちはまだ生きてるじゃないか」

 そう、あっけらかんと言った。鳳凰堂もこの場で彼女たちの話を聞いていたはずなのに。

「生きてる限り何かが終わることなんてない。何かが起きたとして、それで何かが変わったとして、綺麗なまま、輝いたまま、壊れたまま、汚れたまま、続いていくだけだ」

 その言葉の意味を掴みかねるかのように兎薔薇は口をはくはくと開いたり閉じたりを繰り返すが、結局は首を傾げた。

 だが、森子にはなんとなくわかるような気がした。

「生きている限り、自分も他人も世界も変化し続ける。もう終わったなどと決めつけず、最後まで変化を楽しんでみるのはどうだ。そうだな、手始めに私と友達になるとか」

「は?」

「友達の友達は友達と言うだろう。私と兎薔薇が友達になって、私と大神も友達になる。そうすればホラ!」

 何が「ホラ」? 兎薔薇は顔いっぱいに怪訝な顔を、悪く言えばドン引きの表情を浮かべているのを森子は見た。フォローをしてやりたいが、かける言葉も思いつかない。そもそも鳳凰堂はこの世の真理を告げたりといった顔で大神と兎薔薇の顔を交互に見ている。

「では早速、下の名前で呼ぶとしようかな。真美実」

「やめて」

「じゃあマミミン」

「やめろ」

 ついに現れた強い拒絶に、鳳凰堂は少したじろぐ。

「第一、アンタが不死身だったとはいえ、アタシはアンタを殺したのよ。よく友達だなんて言えるわね」

 それについては、とうとう鳳凰堂は口を閉ざした。痛いところを突かれた、というよりは、兎薔薇にかけるべき言葉を慎重に選ぶような、そんな顔だった。鳳凰堂は部屋の隅に蹲る兎薔薇に歩み寄り、屈んだ。

「私は不死身だ。死ぬことなど……なんとも、思わないよ」

 慎重に、言葉をゆっくりと選んでいく。

「それに私は、お前のことが酷い人間だとはどうしても思えない。これまでのお前を見てきて、そしてお前の話を聞いて、やっぱり思えない。お前はただ、自分の得た幸せを守ろうとして、取り返そうと必死だっただけだ」

 違う、違う、兎薔薇は鳳凰堂の言葉から耳を逸らすように首を振る。

「なら、復讐を最後までやるか?」

 森子は不意に出たその言葉に目を見開いた。復讐のために刃を握った兎薔薇も、それを向けられた大神も。

 言葉の意味は恐ろしいものであるのに、鳳凰堂は優しく促すような口調だった。

「さっきは私が邪魔をしてしまったからな。もう邪魔はしない……どうだ?」

 その時、森子は見た。大きく開いた兎薔薇の目が涙を湛え始め、窓から差し込むかすかな光に反射していた。

「いい、いい……もういい!」

 溢れる瞬間、腕で顔を隠すように深く蹲る。

「もういい、もういい! こんなのもう嫌!」甲高く喚く兎薔薇の言葉を、鳳凰堂は横に座って全てに耳を傾けていた。「アタシだって殺したくなんか無い! でも、でも、だったらどうすればいいのよ! アタシがずっとずっと受けてきた理不尽はどうすればいいのよ! 誰が責任取ってくれるのよ! 誰にぶつければいいのよ! 誰かのせいにしてそいつを殺すくらいのことをしなきゃ終わんないのよ!」

 鳳凰堂は言葉をかけなかった。ただその言葉を聞いていた。

「この島に来て、殺人鬼と同じ屋根の下で過ごすだなんて、本当に最悪! だけど、ようやく見つけた……パパを追い詰めた奴! アタシ思ったの、ここでそいつを殺せば、殺人鬼のせいにできるって! ……そう、思ったのよ、アタシ……誰かを殺したいってすごく強く思ってたけど、どこかで自分はそんなことしないって思ってた。心の中で思うだけで、人を殺すなんてできないって。なのに、アタシ、アタシは……」

 森子は思い出す。

 兎薔薇が大神に包丁を突き立てたあの瞬間を。

 この島では、兎薔薇にとってどこまでも普通ではあり得ない条件が揃ってしまっていた。

 偶然復讐を誓った相手と偶然同じ島に訪れ。

 自分の罪を隠せる殺人鬼が現れ。

 自分は死んだと思われたまま、実は生きている状況が生まれ。

 そして、同じ部屋で。

 復讐相手がそこにいて。

 ナイフが手にあった。

「アタシは……殺せるんだ。人を、殺せちゃう人間なんだ。人の命を奪える人間なんだ。人の体に包丁の刃が入っていって、人の体に流れる血が外に溢れ出て、人の血が……手にかかった」

 兎薔薇の腕の先の両手は、血でべったりと濡れていた。

「そして、目の前で……アタシが死んだ。アタシは、アタシを殺した」

 それは、比喩などではなかった。

 事実として兎薔薇真美実は、兎薔薇真美実を殺したのだった。

 兎薔薇が、大神に刃を向け、鳳凰堂が間に割り込んだ時……。


 鳳凰堂は、兎薔薇の姿に変身したままだったのだから。


 森子は鳳凰堂が復活する場面に、何度か立ち会った。

 そして繰り返す内にまた一つ、鳳凰堂の不死性に関するルールを発見したのだった。


・ルール【鳳凰堂椿が死から復活する時、死ぬ直前の姿と同じ姿で復活する】


「それでも、アタシはやっぱり誰のことも許せない。今も殺してやりたいって思うくらい許せないの。でも、もう……自分のことも許せなくなっちゃった」

 言って、もう兎薔薇は何も言わなくなった。ただ、啜り泣く音が響くだけだ。

 全てを聞き終えた鳳凰堂は、「意地悪なことを聞いて、悪かった。ごめん」と謝った。

「お前はやっぱり、良い人間だ」

 ふと、二人に近づく人影があった。大神が、硬い足取りで恐る恐る近づいていた。小さな足音の主を兎薔薇はわかっていたはずだ。しかし今はただ、睨むことも拒絶することも、一切をしない。

「兎薔薇、さん」

 大神が続けて吐いた言葉は、慰めでもなんでもなかった。

「自首を、してください」

 そう、促した。

「兎薔薇さん、貴方は本当に、環境に振り回されただけだったと思います。その中でより良く生きるために必死だった。貴方の元ファンとして、強く分かっています。それを、私が壊してしまったことも、分かっています。ですが、手にした刃物を向けてしまうのは……それは、それだけは、犯罪なのです。警察として見過ごすことはできませんし、それよりも貴方が、貴方として生きるためにも……その罪は、灌がれるべきです」

 大神の声は震えていた。

 けれど夜の闇の微かな光は、大神の涙は映さなかった。

「私のことは……許さないでください」

 二人の関係は壊れたままだった。

 たとえ胸の内を互いに明かしても、壊れたものが直ることは無いこともあるのだろう。森子の目の前の二人の関係は、直らなかった。

 直らないまま、続いていく。

 治らないまま、生き続ける。


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