第三章【裏】#生存者とかくれんぼ 第三部
「とはいえ、どうするべきかな」
鳳凰堂は書斎の扉を薄く開け、中央ホールを覗いて呟く。
「奴ら中央ホールから動かなくなっちゃったぞ」
「これでは出ることができませんね」
現在八木らは停電が起きたことで、来る夜の闇を集団で固まることで乗り切ろうという作戦を実行しているところだった。まだ日は落ちていないが、だいぶ傾いているのも事実。下手に動くことをやめていた。
しかしそんなやりとりがあったことを知らない鳳凰堂と森子たち死亡者組は、動かなくなってしまった中央ホールの生存者組にヤキモキし始めていた。
「どっか行ってくんないかな、このまま外に出たら見られてしまう。邪魔だ」
生存者組の知らないところでひどい言い草であった。
「もうすぐ日没です。停電ですし、暗くなったら動き出せるかと」
「それもそうか。しかし闇に包まれてしまえば、犯人も動き出すかもしれないな」
「……結局、犯人が次誰を狙っているのかは分かりませんでしたね」
「そうだな、だが方法は分かっている。隠し部屋の毒を使うはずだ。あの部屋で唯一無くなっていた薬品は【昏倒薬】。おそらく犯人は相互監視状態でもターゲットを行動不能にさせるため、どうにかして昏倒薬を飲ませるはずだ」
「どうにかして……例えば、飲み物に入れるとかでしょうか」
鳳凰堂は頷き、考えを話す。
「相互監視状態の中で一人が倒れれば、少なからず騒ぎが起こる。そうなれば犯人に動くチャンスが生まれるはずだ」
「では、その倒れた人がターゲットとなるんですね」
「その通り。あとはどさくさに紛れてターゲットと私が入れ替わる。問題は……それがいつ起きるか、だ。あいつら今日はもう食事をしないと決めたらしいし、どうするつもりなのだろう。どちらにせよ、犯人も私たちも動けるのは暗くなってからだな。森子、少し気を張らなくて良いぞ」
言って、絨毯の上に寝転がる。
その絨毯は一応土足で歩くのだが、気にしないらしい。
「そのどさくさ……というのがどういうものかまだ考えていませんけれど、大丈夫でしょうか」
「うーん、それも今考えているんだが……入れ替わるところを見られてもまずいんだよな」
「皆さん、中央ホールのテーブルに置いた蝋燭を灯りとするようです。あの蝋燭を何とかしてしまえば、暗くなると思うんですが」
「だが、それにはかなり近づかないとならない。その時点で明かりに照らされてバレてしまうだろうな。そうだ、なら今いる上階からバケツの様なもので水をぶちまけて火を消してしまうというのはどうだ?」
「いくら暗いとはいえ、大きな動きをする必要があります。見つかってしまうかもしれません」
ううん、と二人は首を捻る。
生存者組が全員蝋燭に照らされる範囲に居る以上、そこにいる誰かと入れ替わるためにはまず蝋燭の火を何とかしなくてはならない。
「水で火が消せて、なおかつ小さな動きで、火の光が届かない遠くから消せる物……」
「あっ!」
突然、鳳凰堂が飛び起きた。
「ひとつだけ良い方法があるぞ、森子! しかもこの方法なら、そもそもターゲットが昏倒するまで待つことも無い!」
鳳凰堂の顔は沈もうとしていく太陽の代わりの如く明るく輝いていた。
だが森子はやや不安であった。この不死鳥、共に過ごした時間は長く無いが、やや物事の考え方が大雑把な気がするのだ。
そしてそれは、的中することになる。
鳳凰堂の考えた【良い方法】、それはまさしく三日目の夜を大混乱に陥れる、文字通り引き金となるのだから。
※
「作戦はこうだ」
鳳凰堂は完全に日が沈んだ書斎で森子に説明する。
「まず、お前と私は二手に別れる。私はここ、書斎で待機。お前は暗闇の中一旦私の部屋に行く。そしてベランダから外に降り、脱衣所へと入りこむ。そこで高圧洗浄機を回収、水道に取り付けホースを伸ばす。お前はノズルを持って、今度はリネン室へと行き、そこで待機。タイミングが来たらお前は蝋燭目掛けて水を撃つんだ」
「はい、椿ちゃん」
森子が手を挙げる。
「何だ、森子」
「無理です」
「まあまあ、最後まで聞け。先ほど言ったタイミングというのは、漆田などが紅茶やコーヒーを用意するといった動きが始まってから。だがお前が撃つのはこの時じゃない。漆田などの飲み物を用意すると言い出した者が、戻ってきた時だ。お前はそのタイミングで蝋燭を消す。暗くなったら私が書斎から飛び出し、その飲み物を相手から取り上げてしまう。こうすることでそもそも毒物が存在しなくなり、犯人の作戦を根本から挫くわけだ。少なくとも次の殺人までの時間稼ぎにはなるはずだ。そして作戦の成功、失敗は問わず、水を打ち出した時点で撤収。お前はホースを回収し、脱衣所の窓から外へ出てガレージへ行け。私もベランダから降りてガレージへ向かうことにする。そこで合流し、ほとぼりが冷めるまで身を隠すんだ」
聞く分にはかなり理想的ではあるが、理想論すぎる。森子は賛成する気にはどうしてもなれなかった。
それに、成功してもしなくても、大パニックは必至だ。
だが、森子にはそれに代わる案も無いのも事実だった。
「もし思うところがあるなら、私とお前の立場を入れ替えても良いぞ。私、深夜のテレビの通販番組とかで見る高圧洗浄機を一度でいいから撃ってみたかったんだあ」
「やります。やらせてください」
こうして、恐るべき殺人事件妨害作戦が決行されることになるのだった。
「では……作戦開始だ」
※
『的羽森子が、どのようにして死ぬに至ったか。その考えを話そう』
『獅子噛さん、やめてください。今そんなことをする意味はありません。ただ混乱を招くだけです』
『それはどうかな。少なくとも私には、犯人が分かったんだがね』
空気がざわめくのを感じた。そのざわめきの中には森子の息を呑んだ音も混じっていたはずだ。
現在、中央ホール上階の回廊にて、森子は匍匐前進していた。少し前床に寝転がった鳳凰堂をとやかく言える身分では無い。
何やっているのだろう、私。
もしもこの光景を俯瞰して見ている存在があるならば、こんなに滑稽な世界もないはずだ。
階下で殺人事件の議論が行われている。被害者は的羽森子。だが現在、彼らのすぐ頭上には森子本人が匍匐の姿勢でゆっくりと移動しているのだ。
ふと、森子は鳳凰堂の様子が気になり、書斎に振り返る。
薄く開いた扉の向こうで、第一の被害者である鳳凰堂が歯を見せて笑いながらサムズアップで森子を見送っている。状況を楽しみすぎだ。ため息を吐いて匍匐前進を再開する。
『見たんだったら早く言いなさいよ! 誰よ、誰が犯人なのよ!』
『では、私の考えを話させてもらおう』
階下では獅子噛が森子が殺害された状況を推理している。
森子は気になり耳を傾けたことで、自分がどの様に殺されたのかということの一部を把握することができた。
血のついたピアノ線、それで首を切るには大きな力が必要で、月熊が怪しいこと。
『――私はそれがどうも信用できなくてね、私も扉を開けていたんだ。そして私は音だけじゃなく……そこから廊下を覗いていたんだよ。一晩中ね』
『……はあっ!?』
獅子噛も一晩中廊下を感じていた? 森子は気にかかるが、鳳凰堂の部屋にたどり着く頃にはそれが嘘であることが明かされた。
『君は何を知っているんだい?』
『あなたが、嘘をついていることです』
『聞かせてくれないかな?』
そして、大神は一晩中監視していたことを明かした。
『……だ、だけど、アンタもそいつに脅迫されてそう言ってるだけかもしれないじゃない! ま、まだどっちが嘘か、信じられないわよ!』
『あ、ごめん。嘘は私の方だよ。私は外なんか見てない』
結果的に大神が監視していたという情報が場に引き摺り出された。
森子は鳳凰堂の部屋の扉を開きながら、獅子噛の恐ろしさを感じた。自分の欲しい情報のためなら嘘をつき混乱させることも厭わない男。
鳳凰堂の部屋の扉を閉める時、森子には彼の言葉を聞きたくない思いもあった。
しかし今度森子を出迎えたのは、血の絨毯だった。一日目の夜に鳳凰堂が殺され、首を切られた現場だ。
今はもう乾いた血の海に、波打つ刀剣フランベルジュが浮かんでいた。
森子は血を踏まない様にしながらも改めてベッド際の絨毯に目を落とす。鳳凰堂の死が発覚した際に八木と大神、漆田を引き連れてこの部屋を訪れた時に感じた違和感を、森子はまだ覚えていた。
「やっぱり、無い」
もし犯人が鳳凰堂の体をベッドに乗せ、フランベルジュで首を切り落としたというのならばあるべきものがそこにはなかった。だが血の量から首を斬られた現場はここで間違いないはずだ。血の広がり方から、体がベッドの上にあったのも事実。この矛盾は、一体。
しかしいつまでも事件の再検証をしていても仕方がない。森子はベランダへの窓扉を開いた。
ここから降りること自体に抵抗はなかった。二日目の夜、大神の監視の目から逃れるために使ったルートとほぼ同じだ。むしろ慣れた為に一度目より早く降りることができた。
そして、脱衣所の窓までやってきた。
昼間と同じ様に、静かに開き、体を滑り込ませる。鳳凰堂のアシストが無い分手こずったが、結果的には大きな音もなく脱衣所への侵入を果たすことができた。
「ふう、次は……」
森子は隅のラックの下段に置かれた派手な色合いのカタツムリの様な物体に手を伸ばした。高圧洗浄機だ。充電式である為、停電中の今でも使えるだろう。持ち手の部分を手に取り電源を入れてもランプのようなものは無く、狙撃に問題はない。目一杯ホースを引き出し、洗面台の蛇口に接続。試しに一瞬だけ引き金を引けば、ジュッという音と共に凄まじい勢いで水が噴き出た。問題ない、これで狙撃のための準備は整った。
脱衣所の扉を慎重に開く。上階と違い、生存者組と視点の高さが同じ為に一層見つからないかと緊張が走る。蝋燭の灯りがこちらに届きそうだ。
森子は脱衣所の内側で大きな深呼吸をして、静かに廊下に身を差し出した。
壁と一体化する様に出来るだけ背をつけ、まるで狭い足場の崖を落ちないよう移動するための横移動だ。
『――わかりました。僕の考えでよければ』
『もう誰の何でもいいわよ!』
『……まず、昨晩の状況を整理します。大神さんの監視により、月熊さんが【二十二時四十五分】に個室を出ています。そして次に――』
どうやら向こうは八木による推理が披露されているらしい。森子は静かに移動しながらも話を聞いてみた。
昨晩、八木と月熊は廊下に出ていたらしい。そして森子を殺害することもおそらくは可能。だが、首を斬る時間はなかったはずだという話だった。
森子はようやく辿り着いたリネン室のドアに手をかけ、倍の時間をかけて中へと入り込む。
「はぁ……し、死ぬかと思った」
緊張の糸が切れ、壁に背をつけたままへたり込んでしまった。このまま立つことなく倒れ込んでしまいたかったが、まだ終わりではない。
もし犯人が動くならば、生存者組の誰かが行動を起こすはずだ。
そのタイミングを見計らい、蝋燭を撃ち抜く。
ポジションについた森子はホースが挟まり完全に閉じていない扉の隙間から目標を確認する。
暗闇に光る動かない一点なのだから、狙うことは容易い。だが撃ち抜けるかは完全に一発勝負だった。もし失敗すれば全てが崩壊する。ノズルを持つ手が否応なく汗で滲む。
『――人の力ではなく、機械の力を使ったと考えればどうでしょうか』
八木の解説を聞き続けてきた森子だが、機械の力というワードにさらに耳を引かれた。
そうか、元は一本のピアノ線を結びつけ、機械の力を使えば首切りは可能だ。だが、機械とは何だろうか。
疑問を抱く森子に、八木はそうと知らずに答えを出した。
『――そうです、犯人は車を使ったんです』
「……車?」
八木の出した答えは、森子の疑問を解消するものではなかった。
森子は思わず飛び出して彼らに言いたくなった。「車を使ったわけがない」と。
何故なら、首切りが始まってから終わるまで、森子はステージの演説台の中で息を潜めていた。
ならば、森子の周りが静寂に包まれていたのはおかしい。
防音の個室に入っていた他の人間ならわかる。
監視していた大神も、何枚もの壁が遮り距離的にも遠いため、まだわかる。
だが、あの場にいた森子には、聞こえていなければおかしい音があった。
「あの時……車のエンジンの音なんて、私には聞こえなかった……」
八木の推理通りのことが起こったならば、パーティホールとガレージはかなり近い。車を動かした時点で、そのエンジン音は森子に聞こえるはずだ。
ホールは防音加工もされておらず、現に森子はこの館で生活していてパーティホールにいる時に漆田が運転する車の音を聞くことは多かった。
あの夜、神経を過敏なまでに研ぎ澄ませていた森子が聞き逃したなど、絶対にあり得ない。
しかし、それを知らない生存者組は、犯人は車を使ったという意見で纏まってしまった。
そして、『犯人はわからない』という結論を持って、中央ホールは静まり返った。
森子はその間、考える。
犯人は森子の首切りに機械を使ったはずだ。
だが、それは車ではあり得ないことは分かっていた。
音の出ない何かが使われた。
それは一体、何だ?
※
それからしばらく、生存者組に会話はなかった。目立った動きをする者もおらず、森子は何度も姿勢を変える。
手の中の高圧洗浄機のホースは脱衣所の蛇口から隅を這うように伸びているため、中央ホールの生存者組からは意識して見ることがなければ分からないだろう。
それは幸いではあったが、森子の緊張の糸は次第に緩んでいた。
時刻ももう遅いだろう、次第に眠気が森子を襲う。あくびを噛み殺し、集中しようとするが。
椿ちゃん、まさかまた寝てないよね。
ふと、そんな疑念が湧いた。昨晩見張りをすると言って爆睡をかました前科がある。
森子がそんな疑念に内心苦笑いをした時。
『漆田さん。そろそろお話ししていただいてもよろしいでしょうか』
八木の声に森子は再び緊張した。漆田が? 親しい名前に背筋が伸びる。
そして、森子は聞いた。
『――告白させていただきます」
漆田の【告白】を。
『八木黒彦様、兎薔薇真美実様、月熊大和様、獅子噛皇牙様。そして、鳳凰堂椿様。十五年前のスカイウィンドホテル全焼事故を引き起こし、皆様に多大なご迷惑をかけたのはこの私、漆田羊介でございます』
森子は目を見開いた。
まさか、漆田が全焼事故の犯人だったなんて。
信じられない思いだったが、漆田の続く話に、森子はそれを受け入れてしまっていた。
こうして告白したということは、もし仮に全てがうまくいったとしても、漆田は捕まってしまうのだろうか。
ハッピーエンドが遠くなっていくのを、暗いリネン室で感じていた。
しかし、告白が終わり兎薔薇に『何故島に居続けるのか』と問われた漆田が話した答えもまた、森子の耳に入っていく。
『――私にも、わかっておりました。旦那様が教えてくださらずとも、母は今は既に亡くなっていることを。ですが、この島には……あの子がいました』
『あの子……森子さんですね』
森子は不意に出た自分の名前に俯きかけた顔を上げる。
自らの母を人質に取られたような漆田が、亡くなったとわかっても島を離れない理由が、自分?
森子の困惑をよそに、漆田は話を続けていく。
『――私がこの島に来た時のことです。あの子は当時二歳でございました。ですが、あの子は二歳になっても服も着ていない上に言葉も話せない状況だったのです――』
その時のことを、森子は覚えている。
自分の記憶がハッキリして最初に思った感情は、怒りや悲しみだった。
自分の周りにいる人間は的羽天窓一人しかおらず、森子は助けを求めるかのように叫び続けていた。だが声は届かない、言葉も無い。闇へと石を投げる様な気持ちで永い時間を過ごしていたことを覚えている。
無限に続く様な日々の中、現れたのは漆田だった。まだ髪も髭も黒かったことを朧げながら覚えている。野生児の様な二歳の森子を見た瞬間、驚愕の顔をしていたことも。
『――やがて私は耐えられなくなったのです。渡される給料を使い、本土に遣いを命じられるたびにあの子のための物を買い揃え、言葉を教え、料理を作り始めました――』
そして、それから森子を人として育て始めたことも。
漆田が島へ来てから、森子は初めて服を着た。料理を食べた。言葉を知った。
服は窮屈で、料理は嫌いな食べ物が混じり、言葉を覚えるのは難しかった。自分の状況と漆田の心情を知らない幼い森子は何度も嫌がり抵抗した。それでも、漆田は根気強く森子を人にした。勉強をこなせば褒め、疎かにすれば叱る、漆田がいなければ善悪すら分からなかっただろう。
『――私にはもう島を離れることのできない理由が生まれてしまっていました。私がいなければ、あの子はどうなるのだろうか。また服も与えられず、食事も与えられない動物のような扱いを受けるのではないか。そう考えれば、どうしても今の立場を守り続けるほか無くなってしまったのです――』
ごめんなさい。森子は謝りたくなった。
自分が居なければ、漆田はこの島に囚われることはなかったはずだ。
ありがとう。森子は飛び出したくなった。
漆田が居なければ、自分はこの島で人になることはできなかっただろう。
『――今の今まで、今日の朝まで行動できずにあの子をこの島に閉じ込めていたのは、私なのです。私はどこまでも愚かで……最後の最後まで、間違い続けていました』
そして、森子は否定したくなった。
漆田が自分にしてくれたことは、それは終ぞ実の父からすらもたらされることのなかった愛だったはずだ。それが間違っていたなど思わない。他に方法があったなどと思わない。森子にとって、漆田から受けたものはただひたすらに正しかった。そこに他者の意見などが介入する余地はなかった。他ならぬ森子自身が唯一正しいと信じていたからだ。疑わなかったからだ。私に謝らないでほしい。間違っていたなんて言わないでほしい。愚かだったなんて絶対に言わないでほしい。
だが、森子の想いは届かない。
森子は死んだことになっていたからだ。
まるで、幽霊になった様だ。森子は涙を流す。
できることなら、今すぐにでも飛び出して漆田に抱きつきたかった。
言葉をあげることもできず、姿を現すこともできず。まるで幽霊だ。
だけど。森子は涙を拭う。
自分は死んで無い。
幽霊なんかじゃ無い。
自分にはやるべきことがあり、終われば漆田にまた会える。
その為にも。
今は謝罪も感謝も否定も我慢する。
漆田の話は終わり、獅子噛に促され大神と共に席を立った。
さあ、いよいよだ。森子は高圧洗浄機を構え直し、蝋燭の光に狙いをつける。あとは引き金を引けば、水が噴き出るだろう。その水が火を消してくれるかは、運だ。
『うるさいって言ってるのが、何でわかんないの』
『直接火事に巻き込まれたのではない、それなのによく漆田くんに『死んでも恨み続ける』だなんて言えたもんだ。あの火事で死者は出ていないから家族が死んだわけでもないというのに。おっと、この話題は月熊君も怒らせてしまうかな』
『ふざけんな、お前の言葉はもう聞かねえよ』
『なら好き勝手に話させてもらおう。兎薔薇くん、そういえば君のお父さんは逮捕されていたね? もしかして君の人生が狂ったというのは火事そのものではなく、それによってお父さんが逮捕されるきっかけになったからかな?』
『黙れ! それ以上喋ったらアンタをブッ殺すわよ!』
その時、森子に見える奥の階段から漆田と大神の足が現れた。ゆっくりと一歩ずつ階段を降りていく。
『皆様、お待たせしました』
今っ!
『もしかして、図星かな?』
『殺す!』
森子は引き金を引いた瞬間、兎薔薇が立ち上がった。しかしもう引き金は引かれてしまった。ビュッ。大きな音が湧き上がる。
凄まじいスピードで高圧洗浄機から放たれた水は、直線を描きながら――兎薔薇の脇をすり抜け――蝋燭に命中した。火を消すだけでは飽き足らず、蝋燭を吹き飛ばし、完全な暗黒が中央ホールに満ちた。
当たった……当たった! 完全な暗闇の中、森子は信じられない想いだった。どこか達成感に似た高揚感が胸に湧きながら立ち上がる。
『ぐ、グァアアアアアッ! ――う、撃たれたッ!』
……あ、当たっちゃった! 森子の高揚感は吹き飛んだ。どうやら森子が放った水の弾丸は火を消すだけでは飽き足らず、蝋燭を吹き飛ばすだけでもまだ飽き足らず、最終的には獅子噛の胸に着弾したらしい。そこまでは想定外だった。
『何これ……何が起こったの!』
『あの女、何をした……ぐっ、血が……血が出ている!』
『兎薔薇! お前今どこだ!』
『アタシ知らない……知らないわよ!』
『皆さん! 動かないで、じっとしててください!』
『知らないってば!』
いよいよパニックが膨らんでいく。とんでもないことをしてしまったと森子の足は竦むが、竦んでいられない。後はホースを回収して脱衣所からトンズラしなければならない。森子はリネン室から飛び出した。幸か不幸か、脱衣所へはホースを手繰り寄せれば確実だ。腕の中に巻き込む様にして回収していく。
「それっ!」
『あっ!』
森子の背後から食器が盆ごと落ち、割れるような甲高い音が響く。
森子は作戦通り鳳凰堂が昏倒薬が入っているであろうコーヒーあるいは紅茶を取り上げたのだろうと思った。というより、音から察するに漆田の手から盆を叩き落としていないか? それに、直前の「それっ!」に至っては思い切り鳳凰堂の声だ。森子は振り返って確認したくなかった。
しかし、そんな阿鼻叫喚の中、森子の背中に鋭い声がかけられた。
『誰だ! そこのお前、止まれ!』
一瞬、その声は別の誰かにかけられた様に感じた。だが、すぐにその誰かは自分だと確信した。完全に自分の背に向けられたと感じていたからだ。
おそらく大神だ。この暗闇にいち早く目が慣れたというのか、とにかく森子は走り出した。ホースを回収して脱衣所へと飛び込む。接続された蛇口からホースの反対の口を引っこ抜き、しかし巻き上げる時間など無い。慌ててホースを抱えたまま脱衣所の窓から飛び出した。考える間も無くガレージへと飛び出した背後で、ガチャリという扉を開く音が響いた。
※
「はぁ、はぁ、はぁ……し、死ぬかと思った……」
ガレージの中で、森子は一人肩で息をする。
抱えている伸びきったホースを放り投げ、その場にくず折れる。
「あとは椿ちゃんが来るのを待つだけ、だけど……」
しかし、当の鳳凰堂はなかなか現れなかった。
手元に時計もなく、時間経過がわからない森子にとっては緊張状態の今は時間が長く感じてしまう。
「うう……早く来てください……」
結局、鳳凰堂が現れたのはさらに五分後であった。
「無事かっ! 森子!」
「はい……椿ちゃん!」
意図せず鳳凰堂が森子を救った時と同じやりとりが起きていたが、森子は内心不服だった。
「随分遅かったですが、どうしたんですか?」
「うん、実はな森子。私この後すぐに気を失うから気をつけろ」
「はい?」
突然の発言に面食らう森子。「ど、どういう意味ですか?」と説明を求めた。
「さっきのことだ。お前が蝋燭の火を消して暗闇になっただろう? 漆田の手からカップを叩き落とした時に私は気付いたんだ。コーヒーならまだしも紅茶に薬が入ってるとしたら、ティーポットも危ないのではないか? とな。それに気がついた私は厨房へと走った。案の定、まだ熱いティーポットが残っていたんだ。もしここに薬が残っていたら、おそらく犯人に再利用されてしまう。流しに捨てたとすれば、匂いや紅茶の跡が残り、誰かがここに来たことがバレてしまう。だから私は……」
「まさか、飲んじゃったんですかっ!?」
「うん」
鳳凰堂は頷いた。
「そ、そんな危ないものを……」
「だが存外問題ないかもしれんぞ。昏倒薬が入っているなら、その場で気絶してもおかしくなかったが、私の意識は今もハッキリしてる。どうやら、ティーポットには入ってなかったようだな」
鳳凰堂はやれやれといったポーズでガレージに座り込んだ。
「お、それで蝋燭の火を撃ち抜いたんだな?」
傍の高圧洗浄機のホースを見て鳳凰堂は気づいた様に言う。鳳凰堂が来るまでの間に森子が巻き取った為に、カタツムリの様な姿でちょこんと鎮座していた。
「ええ、緊張しました」
「いいなあ、私もやりたかった」
どんな思いだったかと知らず、鳳凰堂は笑う。
しかし、これで昏倒薬を使った殺人は防げたはずだ。
ようやくひと段落したと思うと、どこか清々しさすら森子にはあった。
「だが、すごいぞ森子。完璧じゃないか」
「ふふ……椿ちゃんも、薬が入ってるかもしれないお茶を飲んじゃうなんて、凄いです」
鳳凰堂は森子の言葉に胸の前で手を振って笑う。
「そうらろろ?」
「……え?」
鳳凰堂の振る手は止まらない。振る、というより震えている。
「わらしはふじびらか……ごほっ、げほ……」
「ど、どうしたんですか、椿ちゃん」
どた、と鳳凰堂の体がガレージの床へと倒れ込んだ。震えはどんどん勢いを増し、まるで床を泳いでいるかの様だ。
「つ、椿ちゃん!」
「ゲホッ! がは、がぁあっ!」
鳳凰堂の体は苦悶に歪み、白目を剥いて喉をかきむしる。
「げ、ぐ……げえっ!」
そしてとうとう、何度目かの咳で鳳凰堂の口から夥しい鮮血が噴き出した。
「きゃあ! 椿ちゃん! 椿ちゃんっ!」
何が起きた? 森子は考える。思い当たるのは一つだけ、ティーポットの中にはやはり薬が入っていたのだ。
だが……森子はげこげこと血を吐き続ける鳳凰堂を見て思う。これは昏倒薬の症状ではない。むしろこれは……。
『大神さーん!』
森子の思考はその声で途切れた。遠くから八木の声が聞こえた。
『今そちらに!』
『来ないでください!』
森子はとうとう硬直した。八木の後の声は大神のものだ。その声はガレージのすぐ前から聞こえたのだ。心臓が口から飛び出そうだ。
「ど、どうしよう……」
森子はまず、鳳凰堂を隠そうとした。しかし鳳凰堂は両手両足をバタつかせ、森子が伸ばした手を弾いてしまう。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」
ザッ、ザッ、ザッ……ガレージの外で大神の足音が響く。彼女の持つスマートフォンの明かりが、窓から一瞬ガレージの中に入り込んだ。慌てて窓の脇に隠れてしまったが、森子の目の前には未だ血を吐きながら暴れる鳳凰堂がそのままだった。
「つ、椿ちゃん!」
森子の小声での叫びが届いたのか、鳳凰堂は手足の震えを無理矢理に抑え、立ち上がった。
そうして森子に向けられた顔面は、口から噴き出た血で真っ赤に染まっていた。白目を剥き、ヨタヨタと立ち上がるその姿は、まるで……。
「げぼっ、ゲコっ!」
しかし鳳凰堂は森子の元へ二歩ほど歩いたところでガクンと片膝が折れてしまう。バランスを失い、フラついたままに鳳凰堂は――窓へともたれかかった。
「ゴボッ、がぁあ!」
『……キャァアアアアアアアアッ!』
バンッ! という鳳凰堂に叩かれたガラスの音が響き、瞬間絹を裂くような絶叫がガレージの中を震わせた。
鳳凰堂はガラスに弾き飛ばされるようにして背中から再び倒れ込んだ。
「は、はは……」
目の前の信じ難い光景に、森子の口の端から乾いた笑いが漏れていた。
『お、大神さん!』
だがこちらに近づいてくる八木の声に森子は正気を取り戻す。
足音からしておそらく複数人がこのガレージを取り囲んでいる。
考えねばならない。森子は頭を抱えた。考えねば!
今のこの状況から脱出するには、どうすればいいか。
裏口から出る? いや、複数人に取り囲まれては無理だ。第一裏口などこのガレージにはない。
どこかへ隠れる? いや、このガレージに隠れる場所は無いし、鳳凰堂が暴れる以上すぐに見つかるだろう。
鳳凰堂と共に逃げる方法。更には鳳凰堂が暴れても問題はなく、姿を隠せる、【移動する密室】の様なものが……。
「あ、あった!」
顔を上げた先にあったものはガレージの主、大型バンだった。
森子は助手席の扉を開き、暴れる鳳凰堂を担ぎ上げて頭から放り込んだ。
『……ぞ』
『ぞ?』
『ぞ、ゾンビ……!』
『えっ……は、はあっ!?』
外からそんなやりとりが聞こえる。
森子は運転席へと飛び込んだ。
「え、えーと、えっと……」
飛び込んだまではいいものの、当然森子には運転の知識など皆無だった。
とりあえずハンドルを掴んでは見たものの、走り出すわけがない。
『ガレージ、開けるぞ!』
月熊の声が聞こえ、目の前のガレージの扉がガタガタと揺れる。
『内側から鍵がかかっています!』
今や懐かしき、漆田の声だ。
思えば漆田の運転で島をドライブしたこともあったっけ。懐かしい記憶が蘇る。確かあの時、漆田は発進のために鍵のようなものを捻って……。
「あっ、エンジンキー!」
思い当たり、森子は右手側に突き刺したままの鍵を見つける。泥棒が現れようがないとはいえいささか不用心だが、この時ばかりは幸運だった。思い切り捻ればブルルンとバンが脈動し始める。
「で、えっと、次は……アクセル!」
森子は一気に踏み込むが、バンがブォオオオオオオオオオン! と嘶くだけで進まない。
「あれ、え……なんでっ!」
彼女はシフトレバーの存在を知らない。
「なんでなんでなんで……動いて動いて動いて……!」
手当たり次第にボタンやハンドル脇のレバーをいじくり回すが、ウィンカーが瞬きエアコンから心地の良い風が吹きワイパーが元気に動き始めた。
「違うってばーっ!」
やがてヘッドライトが灯り、更にはハイビームとなる。非常に明るく照らされたガレージのドアはズガンズガンと外からの衝撃で歪み始める。
「う、動いてよっ!」
その思いが通じたのか、あるいは助手席で暴れる鳳凰堂の腕がシフトレバーを手前に倒したか。とにかくバンは突然前方へと走り始めた。
「――ぎゃああっ!」
人間初めて車を運転するとなった時、不思議な感覚に陥るものだ。それは自分の少ない力で大きな物を動かすという感覚。足先の力だけで自分より大きな物が強い力で動く。自転車でも味わえないそれはなんとも初心者ドライバーを妙な気持ちにさせるものだ。それに気を取られ事故を起こさないためにも、教習所というものはあるのだろう。森子は残念ながらぶっつけ本番であったが。
「ああああっ!」
バンはアクセルがベタ踏みされているためかガレージの中の少ないスペースで大きく速度をつけ、木製の扉を突き破る。
後方へ流れていった景色の中に人影は多かったが、轢いてはいないだろうか。森子は少し心配になったが、それよりもすべきは自分の心配だろう。目の前には不死鳥館の翼が迫っていた。
「ひ、ひいいっ!」
森子はハンドルを左に切るが、今度は門へと突っ込みかける。
「いやーっ!」
慌てて右へ切れば、やはり翼が。
『一体これは、何の騒ぎだ!』
遠くでそんな声が聞こえた。そんなことを聞かれたって森子にもわからない。
何度かハンドルを回し、どうにか翼を避けることができた。しかし今度は不死鳥館の聖堂がある頭部を大きく曲がらなければ柵に突っ込んでしまう。
スピードが上がる車の中、ハンドルを握りしめ覚悟を決める。そもそもスピードが上がることが嫌ならばアクセルから足を離すべきだが。
「え、えいっ!」
ギリギリまで柵へ近づいてから直角に折れる様にカーブを切れば、バンの片輪が一瞬宙に浮いた。ともあれ、難は逃れた訳だが、次の難が現れるスピードは加速度的に早くなる。加速しているのだから当然だ。
その次の難というのが一番の難題だった。
不死鳥館の海へと伸びる方の翼は柵との間が非常に狭い。相当気をつけなければ通り抜けることはできないだろう。
「ふ、うぅっ!」
そして深呼吸して隙間を睨む森子に魔の手が伸びる。
魔の手というより、鳳凰堂の手だ。
痙攣は未だ酷くなるままに助手席で血を吐きながら暴れていた鳳凰堂は、うっかりハンドルを掴んでしまったのだ。
「あっ! 椿ちゃん、だめーっ!」
しかし既に遅く、大きくバランスを崩したバンは凄まじいスピードのまま……柵へと突っ込んだ。
……ズガァアアアン!
森子の視界は白く染まる。意識を失ったわけではない。エアバッグだ。
幸いにも、衝撃はそれほど強く無かった。老朽化した柵はまるでネットの様にたわみ、バンの勢いを殺したのだ。
「う、うう……」
森子はエアバッグの中で呻く。流石にアクセルからは足が離れていた。
「つ、椿ちゃん……」
逃げなくては。それだけが森子の頭にあった。
血を吐き痙攣する鳳凰堂の身体を抱き抱え、バンから引き摺り出す。
その時、自分達が恐ろしい場所にいた事に気づいた。バンはその車体の半分ほどを、崖から大きく外へ飛び出させていたのだ。
森子は血の気が引きながらも鳳凰堂の身体を引きずっていく。げほ、ごほと苦しげに咳を続けていた。
遠くから話し声と足音が聞こえてきた。逃げなくては、逃げなくては……。だが、どこに?
あてもなく進み、不死鳥館の尾羽、パーティホールの陰にバンが隠れそうになったその時。バンの重みに耐えられなくなった柵が再び歪み始め、それごと崖へと落ちていった。
そして続く地震の様な衝撃にも構っていられない。森子は一先ず館の中へと鳳凰堂の身体を運び入れた。しんと静まり返った中央ホールは荒れ果て、廃墟の様だ。
どこに隠れようかと頭を巡らせていると、声が聞こえてきた。
『もう嫌……全部、終わりにしてやる……っ! せめて、アイツだけでも……!』
頭上からだ。どうやら上階に兎薔薇がいるらしい。このままでは見つかってしまう。咄嗟に扉を開き入ったのは、パーティホールだった。大きな窓から八木らが歩く陰が見える。
完全に逃げ場がなくなった。森子は絶望した気持ちだった。
『ひっ!』
『う、兎薔薇さん……』
八木らは館の中へと入ってきたらしい。だが様子がおかしい。何か揉めているようだ。
だがそれよりも。森子はステージ側へと鳳凰堂を引きずっていく。せめて遠くへと思ったのだ。
鳳凰堂は喉や胸を掻きむしっている。声を上げることもできない苦しみが彼女を襲っているらしい。
どうしてこんな症状が。使われるのは昏倒薬のはずではないか。これではまるで……【拷問薬】ではないか。だけど、拷問薬は確かに捨てたはず……森子は考え、そしてあることに気づく。
「あっ!」
思わず大きな声で叫びたくなったが、口を手で塞いで堪える。
鳳凰堂はあの時、なんと言っていたか?
「こういうのは大体解毒薬があるんだよ。じわじわと増していく痛みに怯えさせて、『解毒薬が欲しければ情報を吐け』って感じでな」
であれば、解毒薬があるべきだ。
ならば……ならば。森子は思い至る。
「死んでは回復し、死んでは回復し……二度と味わいたくない苦痛だな。この毒も似ている、人に長く痛みを与えるだけの薬など、ゾッとする」
「……では、こんな薬捨てちゃいましょう」
あの時捨てた瓶に入っていたものこそが、【解毒薬】だったのではないか?
「は……あ、ああ……!」
眼下の鳳凰堂は苦痛に身を悶えさせて血を吐き続ける。
彼女を救う方法は、どこにもなくなった。
「あぁ……あぁあ!」
彼女は死ぬまで苦しむ事になる。死ぬより恐ろしい、毒に侵されて。
救うための解毒薬は、もう無い。
「私は、私は……なんてことを……!」
森子はせめて、どこかへ隠れる場所がないかを探した。
しかし、それも見つからない。
暗闇の中で森子は一人、頭を抱えていた。
※
長い、長い苦痛の果てに、鳳凰堂が目を覚ました時、目の前には森子が縋り付く様にして突っ伏していた。
「ん……森子……私は、あれ……」
「目が、覚めたのですね……鳳凰堂、椿……様」
顔を上げた森子は、酷く泣き腫らした顔をしていた。
「あぁ、私は……死んだのか」
「ごめんなさい、私、私……」
「良いんだ、森子。勝手なことをした私が悪かった。心配かけたな」
なおも謝り続ける森子に、鳳凰堂は頭を撫でてやる。
「大丈夫だ。私はなんとも無いよ。だから……私の名前はちゃんと呼べ」
「え?」
「椿ちゃん、だ」
一瞬呆けた様な顔をして、「……はい」と森子は微笑んだ。
「私が死んでる間、何があった?」
「それが……兎薔薇様が」
森子は鳳凰堂が復活するまでの間に、気を失った兎薔薇が的羽天窓の部屋へと大人数で運び込まれたことを伝えた。
「なんだと? それはいつのことだ」
「今から三十分前のことです。兎薔薇さんを抱えて入って行ってからはかなり長い間出て来ず、しばらくすると兎薔薇様以外の方が出てきました」
二人はパーティホールの扉をそっと開く。人気は無く、静かだった。
「お前の父親の部屋、私は入ったことないんだが……大人数で入る様なところか?」
「皆さんの個室よりは広いのですが、全員で入るような理由は思いつきませんね……」
「……行ってみるか」
鳳凰堂は中央ホールに身体を滑らせ、的羽天窓の部屋の前まで進む。
「兎薔薇は中にいるのか?」
「おそらくは」
「ううん……最悪、私たちの事情を話すか。おそらく今一番危ないのは、アイツだ。防犯ブザーも無い部屋に入れられ、全員解散しているということはなんらかの出来事が起きてアイツが犯人扱いを受け、中で拘束されているのだろう。なら犯人はそこを狙うはずだ」
森子は頷き、部屋の扉を開いた。
しかし、中に兎薔薇の姿は無い。
「ん? 森子、本当に兎薔薇はこの中なんだよな?」
「そのはずですが……」
森子が視線を彷徨わせる間に、鳳凰堂は行動素早くデスクの引き出しなどを開けている。
「お、なんか出てきた」
持ち上げているのは、木札だった。かなり簡素な作りであり、一見子供のおもちゃに見える。
「これ、なんだかわかるぞ。これは鍵だ」
鳳凰堂は得意げに解説を始めた。
「銭湯とかの、靴を入れるロッカーの鍵がこうなってることが多い」
はあ、森子は感心したが、そんな鍵はこの館では見たことがない。何故そんなものがここにあるのだろうか。
尚も引き出しを漁る鳳凰堂を置き、視線を後方に向ければ、入った時には気づかなかったが、本棚の位置が記憶と変わっていた。
「あ、これを見てください」
森子が指で示した本棚は、ずらされて奥に階段があった。隠し階段だ。
「こんなもの、私知りません」
「先に続いてるぞ……降りてみよう」
鳳凰堂たちは懐中電灯の光を頼りに階段を降り始めた。狭い階段がギシギシと呻く。
「通路のようになってるぞ」
そして現れた狭い通路を歩き始める二人だが、道中口数は少なかった。人が一人通れるほどの狭い塹壕のような通路は一寸先を見ることもできないほど暗く、どこまで続いているのか、どこへと続いているのかすらわからない。懐中電灯の光は先を照らすが、通路は大きく左へと曲がっているために依然奥は見渡せない。一瞬後、もし道の先から化け物が現れたらきっと森子たちはなすすべなく襲われるだろう。人外ならば森子の目の前に一人いるが。
「……ん、曲がり角だ」
螺旋の如く永遠にカーブを描き続けるかと思われたその道は、不意に変化を見せる。先導する鳳凰堂の照らす先は右へと直角に折れていた。
頭を差し出して光を振り翳せば「おや?」と素っ頓狂な鳳凰堂の声が響いた。
「どうかしましたか?」
「なんかあるぞ」
慎重な足取りで鳳凰堂に続けば、森子もまたその「なんか」を目にすることができた。
「なんかって、これは……牢屋?」
通路の行き止まりには、一面に鉄格子が嵌め込まれていた。
中央に見えるのは右へとスライドするであろう格子扉。左下にもまた小さな格子扉が付いていた。
そして、その中央には。
「兎薔薇だ!」
背の低い女性が、その身を横たえていた。
鳳凰堂は扉に飛びつき何度か力を込めて引くが、ガシャガシャと甲高い音を立てるのみで開く気配が無い。
「もしかして、お父様の部屋にあったこの木札じゃないですか? そこのポケットに入りそうです」
森子は天窓の部屋で発見した木札を取り出した。
格子扉の一部にはポケットのような受け皿が開いており、木札が嵌まりそうだった。差し込んでみれば、カシャンという軽い音が響き格子扉が開く。森子が中に横たわる兎薔薇を確認すると生きていることがわかった。
「こいつがこんなところに拘束されている以上、犯人はこのチャンスを逃さないはずだ。森子、私は今からこいつと入れ替わる」
鳳凰堂は森子の目を見つめて言った。
「こ、ここでですか」
「そうだ、変身して服を交換する。終わり次第お前はこいつを抱えて外へ出ろ。どこでも良いから身を隠し、兎薔薇が目を覚ましたら事情を説明してくれ」
そういうと鳳凰堂はその場に体を横たえた。昨夜森子を救った時の変身シーンを思い出す。
「それから、森子はその間にこの木札を向こうへ戻して来い。この牢屋の扉は鍵が閉まらないように細工をする」
「何故ですか?」
「いざという時、私が逃げれるようにだ。いいか、作戦としてはこうだ。これから私は鍵のかかっていない牢屋で閉じ込められているふりをする。犯人は木札を使うが、既に開いていると思わない。思ったとしても、最初から壊れていたのだと思うだろう。そして私を殺して首を持ち去る。だが、この時犯人が鍵をかけないとは限らない。さらに木札を処分されたり、肌身外さず持ち歩かれたりしたら、お前が復活した私を迎えにくることができなくなってしまうんだ」
「な、なるほど……わかりました。ではこの木札は向こうへ戻してきます」
鳳凰堂は頷き、目を閉じて変身を開始する。小柄な兎薔薇のために骨格が大きく変わっていくのは見ものだったが、自分にはやるべきことがある。森子は来た道を引き返し始めた。
足早に戻る道は、今度は一人だ。懐中電灯が無ければ完全なる闇であるそこを歩くことに恐怖が無かったのは、これが時間との勝負であると分かっていたからであろう。焦る心に根拠のない恐怖が入り込む余地はなかった。
そして長い道の終点まで辿り着くと、細い階段を登る。天窓の部屋に頭を出した時、新鮮な空気が森子を出迎えた。一瞬の開放感に浸る余裕もなく、森子は木札を元の場所へと戻した。出来るだけ記憶の通りに、寸分も狂っていないよう祈りながら。
そして森子は再び地下へと戻る。階段を下まで降りた、その時。
ガチャ。
音が、響いた。
物が落ちた音でも誰かの声でもない。明らかに、ドアノブが捻られる音。
誰かが、入ってきたのだ。
三十秒前まで森子がいた部屋に、誰かが入ってきた。
森子は口を押さえた。心臓が口から飛んでいってしまいそうだ。
こんな時間に誰が?
考えるまでもない、犯人だ。
鳳凰堂を殺し、森子を殺そうとした犯人が、兎薔薇を殺しにやってきたのだ。
森子は静かに歩を進め、長いカーブの通路に着いた時……走り出した。
静かに息を殺し、出来るだけ音を無くして走り続ける。懐中電灯の光が後方にいる何者かに届いてしまう気がして、消してしまう。左右の壁に手をついている限り、きっとぶつかることはないだろう。
そして道が牢屋の前へと折れた時、点灯されたままの鳳凰堂の懐中電灯は、二人に分裂した兎薔薇真美実を映していた。
「わっ!」
思わず声を出してしまう森子に、兎薔薇の片方。変身した鳳凰堂が「おお、おかえり」と呑気に手を振る。
「見ろ、鍵のスプリングが剥き出しだったから引っこ抜いてやった。これで鍵はかからないぞ。じゃあ私はここにいるから、あとはお前が兎薔薇を抱えて戻り、館のどこかへ……むぐっ?」
森子は鳳凰堂の口を抑え、声を止める。
「そ、それどころではありません!」
耳元で小声で叫ぶ森子に鳳凰堂もただならぬ気配を感じたのか森子の手を剥がし、「どうした?」と声を落とす。
「き、来ちゃいました」
「来ちゃいましたって、誰が?」
「姿は見てないんですが……犯人だと思います」
「なんだと?」
鳳凰堂は立ち上がり、通路の先を睨む。兎薔薇の顔が真剣な形へと変わった。
「ど、どうしましょう……」
的羽天窓の部屋からこの牢屋までは一本道だ。途中の分岐点も、隠れられる場所もなく、人が一人通ることが精一杯の狭さだ。
この牢屋には一切の物がなく、身を隠す陰もない。
そんな中で、この先から誰かがやってくる。
森子は考えた。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
その誰かから隠れるためには、どうすればいい?
これまでに見たものと起きたこと。それら全ての記憶をかき回して考える。
隣の兎薔薇の姿をした鳳凰堂も黙って闇を睨んでいる。
ふと、森子の脳内に一冊の本が現れた。
それは書斎の隠し部屋で見つかった、日記であり、リストとなっていたあの本だ。
闇の向こうから何者かが現れたのは、それから数分後のことだった。
※
暗闇の中に、森子はいた。
ひどく狭い世界、ひどく暗い世界。
だが、そこは死後の世界などではないことを、森子は知っていた。
この世界で、自分を友達だと言ってくれた人が戦っている。
逃げ隠れすることしかできない自分の代わりに、戦ってくれる人がすぐそばにいた。
だから、せめて弱音は吐きたくなかった。
永い時間が流れ、暗い世界に光が差し込んできた。
森子を照らすその光の先には、見慣れたと言うにはまだ早い、兎薔薇の顔があり。
「無事かっ! 森子!」
「はい……無事です!」
そんなやりとりをするのだった。
「それから……」
鳳凰堂の光は森子の顔から隣へとスライドした。
「お前も無事そうだな……兎薔薇真美実」
そこには、不機嫌そうな女の顔。
「……これってどういうことなのか、ちゃんと説明しなさいよ」
※
「全っ然、意味わかんないんだけど」
「だから、私は不死身の不死鳥なんだ」
「そんなわけないじゃない。アンタ頭おかしいんじゃないの」
「だが、そうでなくてはお前を助けたことに説明がつかないだろうが」
「アタシが助けられた? いつ? どうやって?」
「お前の姿に変身した私が、さっき代わりに殺されてやったんだ」
「ならなんでアンタは死んでないのよ」
「だから、私は不死身の不死鳥なんだ」
「そんなわけないじゃない。アンタ頭おかしいんじゃないの」
話が全く進んでいない。森子は傍で苦笑いを浮かべた。
三人は地下牢から抜け出たあと、的羽天窓の部屋から脱出し、手頃な部屋へと身を潜めることにした。
鳳凰堂は森子達が隠れている間、またも殺されたらしく、その証拠に、兎薔薇の服には穴が一つ開いていた。
状況説明を求める兎薔薇に、二人は言葉の限りを尽くして応えたが、兎薔薇は最後まで聞いた後、「ありえなさすぎ。ふざけてんの?」と一蹴したのだった。
「死んだ人間が生き返るなんて有り得ない。もしかして最初から殺人鬼なんていなかったの?」
「いいえ違います! この館には確かに鳳凰堂様や兎薔薇様、そしてこの私を殺そうとした人がいるんです!」
「森子、椿ちゃん」
「あ、すみません……」
鳳凰堂がしつこく訂正する。兎薔薇の顔で言われると今まで以上に違和感が強い。
「アンタのその顔、気味が悪いんだけど。特殊メイク?」
「話のわからないやつだな、変身能力があると何度言ったらわかるんだ。私は再生能力と、変身能力がある不死鳥なのだ」
「じゃあ今ここで不死鳥とやらの姿に戻ってみなさいよ」
「無理だ。鳥の形をした巨大な炎だからここだと館が燃える」
「下手な言い訳ばっかり用意してるのね」
鳳凰堂の口を掌を向けることで制し、兎薔薇は深いため息をついた。
「これってつまり、テレビか動画のドッキリだったってこと? 無人島企画、流行ってるものね。それで何? まだアタシを笑い者にし足りないってわけ? 悪いけど責任者呼んでもらうわ。今何時? 犯人扱いされて変なの飲まされたのが確か二十二時ちょっと前だから、今はちょうどテッペン回ったくらい?」
「テレビも動画も分かりませんが……私はこんなことが起きるなんて、思っていませんでした」
「だったらアンタも騙されてんのよ」
兎薔薇のナイフのような言葉が森子に突き立てられた。
「え……?」
「アンタたちの話が仮に本当だとして、的羽森子さん、アンタはそいつが生き返るところをハッキリ見たの?」
「そ、それは……」
「そいつが殺された時、当然アンタは見てなかったわよね? そしてアンタが殺されそうになったっていう時、アンタはどこにいたんだっけ?」
森子は答えることができない。あの時森子はステージの演説台の中にいた。暗闇の狭い世界で、鳳凰堂に外を見るなと釘を刺されていた。
「そしてさっきのこと。私が殺されそうになったっていうけれど、そいつが生き返るシーンをハッキリ見たの?」
見ていない。森子は兎薔薇に変身した鳳凰堂が殺される瞬間を、そして生き返る瞬間を見ることはできなかった。
「そして、アタシが犯人扱いされることになった蝋燭が水鉄砲で消された事件、あれは誰が言い出した作戦なの?」
それもまた、鳳凰堂だ。
「だったら、答えは一つよ。この島で起きた丸ごとぜーんぶ、ドッキリだったってこと。そこのそいつは番組側のグル。例えばアンタが演説台に入って見てない間、大勢のスタッフが血糊を撒いてあらかじめ製作しておいた生首を転がしておくの。そして生きていると矛盾するアンタは、そいつに連れ出されて隠されてたってわけよ。毒を飲んで血を吐いた? そんなのいくらでもお芝居できるわ」
鳳凰堂は兎薔薇の話を否定も肯定もせずに黙って聞いていた。
「全てお芝居だとしても、何故首切り殺人などというものが三回も行われているのですか? 私たちを舞台から遠ざけるような面倒をするくらいならば、グルだという鳳凰堂様の殺人だけを行うはずでは?」
「その方がショッキングだからじゃない? 事件だって一回きりじゃなくて何度も起きた方が画面映えするって判断なんでしょ。せっかく島を貸し切った企画なんだから、そのくらいしないと損なんでしょ」
「何のためにそんなことをするんですか?」
「知らないわよ。だけどこの島に呼ばれてる奴らはみんなどこか何かありそうじゃない。あるいは、よっぽどアタシを笑い者にしたいか。冗談じゃない、冗談じゃないわよ。アレだけのことをしておいて、まだ足りないの? ……アンタだってそうなのよ、的羽森子さん?」
兎薔薇の顔は険しくなる。そんな中で向けられては、無意識に警戒してしまう。
「椿ちゃん、だっけ? 面白いわね、アンタたちってもうお友達になったの? だけどそれって本当かしら?」
「どういう、意味でしょう」
「向こうはお友達なんて思ってないわよ。アンタを被害者役として動かしやすくするための嘘。まだわかんないの?」
鳳凰堂は、黙ったままだ。
「ほら、図星なんでしょ。本当に不死身だっていうなら……今ここで死んでみなさいよ!」
「やめてください!」
森子は思わず叫んでしまっていた。
「何よ、ならアンタは見たの? そいつが生き返るところを!」
「それは……答えることができません」
「ほら見なさいよ! アンタだって結局――」
「ですが、私は信じています。彼女が不死身の不死鳥であることを」
それは、兎薔薇の勢いを全て削ぐ一言だった。
「何それ……根拠もなく不死身だってこと信じるなんて、変すぎでしょ。何これそういうシーン? 人外と無垢な少女の友情ってこと? はいはい、最近ありがちよね、そういうの」
ぶつぶつと呟き、最後に兎薔薇は「気持ち悪い」と言った。
だが、森子もまた根拠もなく信じているわけではなかった。
それに、鳳凰堂との間に友情などあり得ないこともまた、森子自身も気づいていた。痛いほどに。痛くて痛くて、涙が出るほどに。
「まあ、どっちでもいいけど」
兎薔薇は気だるげにため息をついた。
「どっちにしろ、アタシには好都合よ」
好都合。今の兎薔薇から出る言葉としては違和感のあるものだ。
「これがくだらない番組でも、本当の殺人事件でも、どっちでもいいわ。アタシのずっと会いたかった人に会わせてくれたんだから」
言葉だけ聞けば、それは嬉しい話であるはずだった。だが、兎薔薇の顔は凪いでいた。この島に来てから見せていた、不機嫌そうな顔でも攻撃的な顔でも悲観的な顔でもなかった。ただ、凪いでいた。
「会いたくて会いたくて堪らなかった人。殺したくて殺したくて堪らなかった人」
兎薔薇の様子がおかしくなっていく。
森子はふと、車を崖から落としたあと血を吐く鳳凰堂を抱えて館の中へと戻った時のことを思い出していた。突如現れた兎薔薇の声から逃れる様にしてパーティホールへと逃げ込んだ、あの時。兎薔薇は何か言っていたはずだ。
『もう嫌……全部、終わりにしてやる……っ! せめて、アイツだけでも……!』
アイツだけでも?
その後、兎薔薇は何故全員から犯人扱いを受けたのだろうか。何かを持っていたからではなかったか。
「それはアンタよ」
一転、兎薔薇の顔が恐ろしいものへと変わっていった。凪いだ顔はそのままだったが、どこかが変わった。その場の全員が、気迫に気圧されたかのように硬直する。
「アンタのせいで、アタシの人生はめちゃくちゃになった。夢は潰され、笑い者にされて、たった一人のパパさえ死んだ。ねえ、知ってる? 人間の首ってね、一晩ですごく伸びるのよ。見たことある? アタシはね、見ちゃったわ」
一歩、一歩と兎薔薇はこちらへと近づき始める。
「兎薔薇さん……どういうことですか」
「ごめんね、アンタは知らないと思うけど……アタシは本当は、アンタのことずっと前から知ってたの。自分のこと、誰も知らないと思った? でもアタシはアンタと会った時、運命だって思ったわ。クソみたいな神様がくれた、運命だって」
一歩、一歩。
「そしたら何? こんな茶番に巻き込まれて。でも好都合って言ったのはね、最後に何かをぶち壊してやりたかったの。こんな番組を成立させなくしてやれるならスカッとするわ。それに、もしこれが本当の殺人事件だっていうなら、最高じゃない。アタシは死んだってことになってるなら、こんなにステキな隠れ蓑もないわ」
兎薔薇は足を止め、最後に一言零した。
「包丁は取り上げられちゃったけど、念のためにナイフも盗んでおいて、よかった」
言って、兎薔薇の身体は弾かれる様に跳んだ。
そして、一時間後。場の全員が鳳凰堂の不死性を認めることになる。
なぜならこの瞬間、鳳凰堂の胸には――。
兎薔薇によって深々とナイフが突き立てられていたからだ。