第三章【裏】#生存者とかくれんぼ 第二部
「ん……」
森子の意識は覚醒する。
瞼を開くと、すぐに鋭い日光が差し込んできて思わず顔を手で覆ってしまう。思いの外深く眠り込んでいたようだ。眠りについてから目が覚めるまで一瞬の出来事のように感じた。
覆った手が何度か目を擦り意識を覚醒させると、次に沸いた疑問は「今何時?」だった。
やけに陽が高い気がする。
執事の漆田の教育により生活リズムの整った生活を心がけてきた森子にとって、目が覚めてこの陽の高さは少し違和感を抱くものだった。
いささか無防備に寝過ぎてしまったかもしれない。だが森子に大きな動揺は無い。鳳凰堂が見張りを買って出てくれていたのを覚えている。何かあれば鳳凰堂が気づくだろう。
そこで鳳凰堂に声をかけようかと思い身体を起こすが、森子の視線は空を切る。
一瞬、見当たらなかった。
心がざわめきそうになったその時、森子は鳳凰堂の姿を見つけた。
石床の上に姿勢良く身体を横にし、胸の前で手を組んでいる鳳凰堂。その顔は目を閉じ薄く微笑みを湛えていた。あまりに美しい寝姿に一瞬死んでいるかのようにも見えたが、胸元が小さく上下しているため、生きているようだ。
森子は小さくホッと息を吐き、呟いた。
「えっ、見張りは?」
慌てて鳳凰堂の体に飛びつき、揺り起こす。
「椿ちゃん! い、今何時でしょうか!」
何度か肩が揺さぶられた後、鳳凰堂の瞼がパチリと開く。寝起きは良いようで、身体を起こし伸びをすると「おはよう」と手を振る。
「お、おはようございます……その、椿ちゃん。見張りは……?」
「見張り?」
森子に言われキョトンとすると、「ああ!」と合点がいったように手を叩く。
「ごめん」
三文字で片付けられてしまった。
「起こしてくだされば交代しましたのに……」
「いやあ、悪い悪い。よく眠ってる姿を見てたら起こすのも忍びなくて」
「それで、今何時なのでしょう? 朝になってしまうと館の方たちが私の頭を発見してしまうと思います。その時それぞれの反応を物陰から見ておくべきだと思うのですが」
「ちょっと待て」鳳凰堂は森子と交換した服装のポケットに手を入れると、中から携帯電話を取り出した。
「今はな、【十一時】」
朝はとっくに過ぎていた。
「ええっ!」
「ごめん」
三文字で謝られても時間は戻らない。森子と鳳凰堂は急いで乾パンを水で流し込み、森の小道を走って館へと戻る。
だが、門の前まで来て二人は足を止める。ここから先は夜の闇も木の陰も無く、森子たち、いわば【死亡者組】を隠すものは何も無い。それに昨夜とは違い、全員が目を覚ましているはずだ。
もし外をうろついているところを中の誰かが偶然窓越しに見てしまえば、死亡者組の存在があっという間にバレてしまう。
「慎重に行くぞ」
鳳凰堂が小さく門を開く。日の当たる庭を踏みしめること自体が罪なことのように森子は感じた。
身を屈めて走る鳳凰堂の後に続き、玄関ポーチへとたどり着く。すぐに扉を開こうとする鳳凰堂を制し、「まずは窓から中を覗いてみましょう」と耳打ちする。小さい頷きで了承を得ると、二人はまず不死鳥館の翼の部分、的羽天窓の部屋の窓へと向かう。ベランダの陰であるため、少なくとも二階の部屋に居る誰かから目撃されることはないだろう。
「的羽天窓が居るかもしれない」
鳳凰堂の読みは当たった。中には実の娘が殺されたと判明したばかりであるはずの天窓が、いつも通りの表情で何か鉄の棒を握り、小さな木の板に突き刺す素振りを見せていた。
分かってはいたが、それでも期待した自分が情けない。
森子は表情に出さないまま、少しだけ俯いた。
「はんだごてだ。何か作ってるな」
「はん……?」
不意に鳳凰堂が発した単語に、耳馴染みのない森子が首を傾げる。
「電子工作に使う道具だよ。お前の父親はそう言った趣味でもあるのか?」
「いいえ……わかりません」元より、普段父が何をしているかなど、気になっても知る術などない森子だった。
天窓にこちらに気がつく様子は無い。二人は窓から離れ、次に不死鳥館の頭部、聖堂へと向かう。
窓から覗けば、聖堂の供物台には新たに森子の生首が飾られていた。何度見ても自分の生首というのは気味が悪い。
「中に誰かいるか?」
「八木様と大神様でしょうか」
森子は目を凝らす。
聖堂の倉庫の前で何やら話し込んでいるらしい。
「何か手に持っていますね。紐みたいなものです」
「なんだろうか、もしかして私が殺された時に使われたのかもしれないな」
「椿ちゃんは自分が殺された後、どうやって首を切られたかはわからないんですか?」
「胸を刺されて即死したと言っただろう? その後のことは分からない」
見ていると、大神と八木は何事かを交わして聖堂から出て行った。
「何か分かったんでしょうか」
「さあな。だが警察と探偵なんだ、捜査はあいつらに任せておけば良い。次は反対の翼の一階部分に誰かいないか見てこよう」
二人は窓から離れ、崖へ向かって伸びる翼へと向かう。慎重に走り、ベランダの影へと飛び込む。
一つ一つ窓を覗いたが、リネン室から大浴場まで人は居なかった。
正確に言えば、人の気配は無かった。大浴場とその隣の脱衣所においては、覗き見防止のためだろう、磨りガラスになっていたために中を完全に覗けたわけではない。
「そういえば、昨日の昼に獅子噛はこの脱衣所に居たんだったか」
二日目の昼に起きた、八木や漆田が謎の人影を見たという騒ぎが起きていた。実際は館に潜り込んでいた鳳凰堂が正体だったわけだが、鳳凰堂がベランダから逃げていないことを証言したのが、この脱衣所の窓から人影は見えなかったと言う獅子噛だ。
「磨りガラスで中が見えないな。いっそ開けちゃうか」
「多分大丈夫だと思います。それから、この窓は他と違ってかなり大きく開くんですよ」
森子が取っ手を掴んで引っ張ると窓は外側へと開き始める。それもかなり静かだ。
「本当だ、人一人通れそうだな。だがまあ、今は閉めておいていいだろう」
こうして聖堂と左右の翼の窓を確認した二人は、パーティホールへと向かう。
道中、崖側の翼に沿って歩くと崖に大きく近寄ることになる。
「椿ちゃんが話してくれた洞窟って、この下にあるということですか?」
「そうだよ、それであの子の首が切られてたのがあの辺」
鳳凰堂が指差した先には聖堂があった。
「ということは、この一帯に木がなくて開けている理由は……」
「動揺して大騒ぎした私が燃やしちゃったからだろうなあ」
特に気にすることでもないらしい。鳳凰堂は翼の影から崖の下を覗き込むようなポーズをしている。
「あれ、ちょっとヤバいぞ森子」
不意に鳳凰堂が森子の動きを制す。
「どうしました?」
「パーティホール、人が多い」
森子も翼の影から顔を出すようにして不死鳥館の尾羽、パーティホールへと顔を向ける。
見れば、並んだ大きな窓の奥で三つの影が動いているのがわかる。
「八木様に月熊様、それに獅子噛様ですね」
三人はパーティホールに備え付けられた厨房と繋がるエレベーターの扉を前にして何やらを話し合っていた。
「大神はどこへ行った?」
先ほどまで八木と行動を共にしていたはずの大神がそこには居なかった。
その位置を確認したかったが、パーティホールの窓は他のものと比べて大きく、さらにはその上の食堂に客室と違ってベランダも無い為、最悪食堂にいる人間に見られてしまう可能性が大きい。
「うーん、三人の位置はわかった訳だし、一旦戻って館の中に入るタイミングを測るか」
森子が頷いた、その時。
ガチャリ。
不意に頭上から音が響いた。誰かがベランダに通じる窓扉を開けたのだ。
二人は慌ててベランダの陰へと飛び込み、様子を伺う。
『……はぁ』
すると、小さなため息が聞こえた。
兎薔薇の物だろう。
こちらに気づいた様子はなく、二人も小さく息を吐く。
だが、これで完全に身動きが取れなくなってしまった。
パーティホール側から回って玄関へと向かおうにも、大きな窓から中の三人に見られてしまう。
では聖堂側から回ろうにも、今度はベランダにいる兎薔薇から見られてしまう。
鳳凰堂は静かに首を伸ばしてベランダの陰から上を覗く。そしてすぐに首を引っ込め、顔を顰めて天を両手の指で差し、森子に「上に居る」というジェスチャーで伝えてきた。そんなことは分かっている。無駄に危なっかしくて森子はヒヤヒヤさせられてしまう。
兎薔薇がどのタイミングで部屋に戻るかも掴めず、そうこうしているうちに人が来てしまうかもしれない。森子は焦り、先ほどの脱衣所の窓のことを思い出した。
鳳凰堂の注意を引き、脱衣所の窓を示す。意図が伝わったらしく、頷いて再び脱衣所の窓を開けていく。
先ほど確認した通り、脱衣所の窓はかなりスムーズで静かだ。
だが、その窓は人の出入りのために作られたわけではない。当然のごとく、外からは少し高い位置にあった。足をかける場所もない。
不安げな顔を浮かべる森子。しかし鳳凰堂にとってはなんてことない高さらしく、脱いだ靴をぽいぽいと脱衣所に放り投げてから、窓枠に手をかけて一瞬で音もなく登ってしまった。
脱衣所の中から得意げな顔の鳳凰堂がニヤニヤこちらを見ている。
どうして彼女の所作は度々腹に据えかねるのだろうか。森子は内心不思議だった。
ともあれ、森子も中に入らなくてはならない。窓枠に手をかけると、中から鳳凰堂が少し持ち上げた森子の体に手を回し、引き上げようとする。
慣れない動きに、足が壁を何度か擦る。その度に小さな音がなってしまう。
だが、それはある音に掻き消されていた。
どこかで誰かが歌っていた。
『……もし、世界のどこかで影が一人だけを曇らせているのなら――』
森子の窓枠に足がかかった時、その歌声にようやく気がついた。
まるで透き通るような声。曲調からして元はもっと勢いのある曲だったのだろうが、今歌う声は静かに海へと伸びていく。
『――私はきっと、その人を助けるために手を伸ばすの』
明るい歌詞なのに、どこか悲しげな印象を受けるのは歌っている彼女の心情が表れているのか。
森子は身体の全てが脱衣所に降りた時、ふとそう感じた。
『……全く、皮肉ね。このアタシが誰かに救いの手を差し出すの。だなんて』
歌は止まった。
鳳凰堂によって閉められる窓の隙間から、そんな言葉が滑り込んでくる。
『助けてよ……パパ』
窓が閉ざされた時、外の音は完全に聞こえなくなった。
「今の、兎薔薇さんでしたね」
「そうだな、いい声だった」
この島での兎薔薇の印象は、とにかく声を荒げていると言うものだった。金切り声をあげ、常に不平不満を漏らし。
しかし、この島に来る前の彼女は。
このような極限状況に置かれる前の彼女は、どのような人物だったのか。
森子の胸に少し、残った。
「……さて、中に入ってきちゃったけども」
鳳凰堂は脱衣所の外へつながる扉の前で呟く。
「そういえば、この窓だけなんで大きく開くんだ?」
「この館には外に蛇口がないので、車を洗うためにここからそこにあるホースを伸ばすんです」
森子が指を向けた先には、ホースがカタツムリのように巻き取られて鎮座していた。先端には、何やら物々しい機械が取り付いている。
「それは高圧洗浄機です。凄い勢いで水が出るんですよ」
「へえ……やってみたい。森子、貸してくれ」
「ダメです」
あまりの即答ぶりに鳳凰堂は口を尖らせる。
「……これからどうしようか」
「今分かっているのが、兎薔薇様とお父様が自室にいること、八木様を初めとする三人がパーティホールにいるということですね」
「うーん、犯人が次に誰を狙うかも分かっていないんだよな」
その問題もまだ残っていた。森子たちが館へと潜入しているのは次の殺人の阻止、つまり入れ替わりのためだが、それにはまず次は誰がターゲットなのかが分からない限り、方法も立てられない。
「お前の時はメッセージがあったから良かったものの……館の奴らはどうやって次の殺人に対処しようとしてるんだろうな? そもそも次があるって考えてるのかな」
「それは間違いありません。少なくとも獅子噛様と八木様は、不死鳥伝説に準えた連続殺人であると推測しています」
「なら向こうも考えてるか……それにしても、なんで不死鳥伝説に準えると女を殺すことになるんだろうな? 女を四人殺すことに何か意味でもあるのか?」
そもそもなことを当事者が言い出し、森子は絶句してしまう。
「え、ええと……伝説にもある通り、女性が同時に四人死んだ時、不死鳥が現れたから……ではないんですか?」
「でも私、死体も生首もいらないし。呼び出されなくてもここにもう居るし」
「かもしれませんが、少なくとも他の方はそう思っていません。真実と伝説には齟齬がある訳ですから……あれ」
森子は不意に、言葉を切った。
伝説と言っても、森子も聞かされたのは初日のディナーでの断片的な話だ。
「私たちが伝説について知っているのは、お父様から聞かされた簡単な説明だけです。もし伝説の全文を読めば、次に殺されるのが誰かという目星はつくのではないでしょうか?」
「それだ! なかなか冴えてるぞ、森子。で、その伝説の全文はどこで読める?」
「そこまでは……ですが、心当たりはあります」
森子は脱衣所の斜め上の隅を見つめる。
言うまでもなく、見つめる先はその壁の向こうにある部屋。
「私、この館の書斎には隠し部屋があると思うんです」
※
時刻は【十二時】。
脱衣所の扉の隙間から、二対の目が覗く。
鳳凰堂と森子は中央ホールの様子を伺った末に、八木と月熊、獅子噛が階段を昇り食堂へと向かう姿を見届けた。
しばらくすると、食堂の扉が閉まる音が聞こえ、館の中に静寂が満ちた。
「行ったか?」
「行きましたね」
「行こう!」
そして二人は脱衣所から飛び出した。与えられた時間は少ない。
久しぶりの自由に、それまで脱衣所に拘束されていた二人は小走りで進む。深い絨毯が彼女たちの足音を消してくれるのは好都合だった。
階段を駆け上がり、書斎の扉を開く。高い書架がこちらを見下ろしていた。
「で、隠し部屋ってのはどこだ?」
「わかりません。ですが部屋の大きさからして、書斎と聖堂の塔の間にスペースがあるのは確かです」
「よし、探すぞ!」
こういう時、鳳凰堂は行動が早い。書架に飛びついては本を引っこ抜き、奥を確かめる。本の順番を検め、並んだ本のいずれかがスイッチになっていないか一つ一つ押して見るという八面六臂の健闘を繰り広げた。問題はそれが一番手前の書架であることだけだ。
「椿ちゃん! 部屋が隠されているとしたら一番奥です!」
手当たり次第に本をひっくり返す鳳凰堂に小声で叫び、森子は問題の書架へと取り掛かる。
実際に見て見ると、書架の右の空間に観葉植物が置かれていた。一見自然に見えるが、今となってはどことなく不自然に感じた。
まず森子は、観葉植物が塞ぐその空間に目をつける。植物の鉢を退かし、奥の壁に触れた。こんこん、と叩いて見るも、森子にはそもそも違いがわからない。押してみても変化はなく、やはり隠し部屋などないのかもしれないと俯いたことで床を見た時、観葉植物の置かれていた箇所だけ絨毯が無いことに気がついた。
観葉植物という土の入った鉢がある以上、絨毯を汚さないための配慮かもしれない。だが、そのために絨毯を切り取るとは思えない。観察を続けると、そもそも一番奥の書架自体が絨毯に乗っていない。観葉植物は、この絨毯が無いことへの違和感を隠すためか、あるいは……。
「この書架が動くことを隠しているのか」
「なるほど、この本棚が怪しいんだな。任せろ」
そして鳳凰堂は一番奥の書架に飛びついては本を引っこ抜き、奥を確かめる。本の順番を検め、並んだ本のいずれかがスイッチになっていないか一つ一つ押して見るという八面六臂の健闘を繰り広げる。
「椿ちゃん、まずは静かに探しましょう」
「ごめん」
だが、鳳凰堂が本棚に対して大暴れを繰り広げたためか、本棚が横方向へと小さく揺れたことに気づく。森子は自分の読みは間違っていないと確信し、本棚に手をかけると右方向へと力を込める。
とても重たい本棚がゆっくりとスライドし、その背後に隠された扉を晒し出した。
「本当にあった……」
本棚の裏に隠されていたという事実さえなければ、見落としてしまいそうなその扉。
だが森子は人生の全てをこの館で過ごしていても、一度も見たことがなかった。
その扉に手をかけ、押し開く。
奥は、窓の無い空間だった。
ひやりとした空気が森子と鳳凰堂の首を撫でた。
一歩踏み込むが、一見は暗さ以外は書斎と変わらない。書架も壁に背をつけて並び、足が隠れるデスクが置かれているくらいだ。
「なんか、変なところだな。私のいる研究機関みたいな匂いがする」
「それってつまり、薬とかでしょうか」
「そう、薬の匂いだ」
鳳凰堂が鼻を鳴らし、懐から取り出した懐中電灯を付ける。途端に隠し部屋の暗闇が丸く切り取られたように光が現れる。
それに続き、森子も懐中電灯を取り出した。
二本の光がくるくると隠し部屋の壁で踊りだす。
その内の一本が隠し部屋の奥の壁の棚にて止まった。硝子の戸が閉じる、その棚。
「おい、森子。これなんだ?」
鳳凰堂は硝子戸を開けて中の木箱の一つを取り出した。振れば中からカサカサと小さく音が響く。
「昏倒薬……って書いてあるけど」
「こ、こんとう……ですか」
戦慄する森子の目の前で、鳳凰堂はその木箱の蓋を開いた。中には小さな紙が入っていた。
「ええとなになに。『飲ませると気絶、人体にその他の害なし』だって、簡潔だな。多分薬が入ってたんだろう。側面には成分表が書いてある」
「椿ちゃん……こちらの箱には英語が書かれていますよ」
森子が手に取った木箱に貼られた紙には、アルファベットが書き込まれていた。
「……これ、英語じゃ無いな。多分スペイン語だ」
森子の持つ木箱に書かれていたのは『veneno』。
「意味は闘牛の名前とか、あとは車の名前に使われたりするな」
「それは……なんだか飲んだら走り出してしまいそうな印象です」
「ああ、確かにそうだな。そういえば、外の世界には赤い牛という意味の名前がつけられた飲み物があってな、なんでもエナジードリンクとかいう物らしい。これも案外、そうかもしれないな」
「かもしれませんね」
「あとは毒という意味もある」
どう考えてもそっちだろう。森子は手の中の毒薬を取り落としかけた。
「うーん、木箱の紙は全部手書きの筈なんだが、どうも言語がバラバラだな。これなんかはロシア語、これは古い中国語だ。日本語の物の方が少ない」
そう言って森子の手から木箱を取ると、中の物を取り出した。小さな紙と、液体の入った小さな瓶。
「あれ、こっちには瓶が入ってる」
先ほどの『昏倒薬』には紙しか入っていなかった。しかし、むしろ『昏倒薬』の木箱に瓶が入っていなかったことこそが異常だったのではないか。鳳凰堂と森子は手当たり次第に木箱を開け始める。すると確かに、中には紙に加えて必ず小瓶が入っている。
「もしかして、『昏倒薬』は既に誰かに持ち去られたんじゃないでしょうか?」
「かもしれな――」
鳳凰堂が瞬時に隠し部屋の入り口に振り返った。
「どうしました?」
「シッ……誰か、入ってきた」
「えっ」
「ドアの音が聞こえた」
隠し部屋を隠す書架はそのままにしてきてしまった。森子と鳳凰堂は扉を睨む。その誰かはこの扉を発見したとして、中へ入ってくるのだろうか。
そして、扉の向こうから声が響く。
『はあ?』
入ってくる気だ! 森子は懐中電灯で壁を照らすが、逃げ場はどこにもない。
「ここに!」
鳳凰堂に背を押され、と言うよりも押しつぶされるようにして身を屈ませられる。そして森子はデスクの下へと押し込められたのだった。
椿ちゃんは! 森子は尋ねようとするも、既に鳳凰堂は消えていた。
そして、森子が懐中電灯の灯りを消したのと、扉が開いたのはほぼ同時だった。
こつ、こつ、こつ。
中に人間が入ってきた。その人物の持つライトの光がサーチライトのように森子の視界に映る壁を滑っていく。幸い、森子が押し込められたデスクは椅子側にしか空いていない。回り込んで覗き込まない限りは問題ないはずだ。
ガシャ、コト……かぽ。
おそらくは硝子戸を開けて中の木箱を開けた音だろう。
『なんだよ、これ……』
森子のすぐ傍に立つ何者かが呟いた。
何者かは手を早める。どうやら先程までの森子たちと同じように、棚の中の木箱を検めているのだろう。
やがて森子の視界に、その人物の足が現れた。手の届く位置に、呼吸がかかる位置に。
口を抑え、少しでも呼吸を浅くする。
椿ちゃんは上手く隠れただろうか。森子はそんなことを考えていた。
心臓が高鳴り、その音が相手に聞かれてしまいそうな緊張感。
その人物はこちらに気づく様子もなく棚をいじり、何度目かの木箱が開く音が響くと同時に、それは起きた。
『ちょっと! どういうこと? 電気がつかない!』
この隠し部屋まで届くような大音声に、その人物の動きが止まった。
声の元へと向かうためか、棚に木箱を押し込み硝子戸を閉めるような音が響き、その人物は足早に出ていった。
最後に聞こえたのは、隠し扉の閉まる音。
森子は恐る恐る、デスクの下から顔を出した。
「つ、椿……ちゃん?」
完全な暗闇の中に声をかける。果たして、鳳凰堂は如何にしてあの人物の目から逃れたのか。
「ここだ」
言って、鳳凰堂は懐中電灯を点ける。彼女は、おそらく扉が開いた時の陰になる部分に立っていた。
あの人物が扉を開いたままにしておいたのが幸運だった。お陰で暗さと物理的な陰で目に入らなかったらしい。
「そ、そんな安直な……」
「だが見つからなかった。いやあ、流石にもうダメかと思ったぞ。ハラハラしたな」
再び点灯させた懐中電灯を振り回して鳳凰堂は笑う。
「今の、おそらく八木様ですよね」
「だろうな、見つからなくてよかった」
「そうですね、特に八木様には。でしょう?」
「む……どういう意味だ」
「いいえ、なんでもありません」
鳳凰堂は首を傾げて再び棚に向き直る。
「さて、思わぬ邪魔が入ったが、改めて何があるか確認しよう」
「ですが、椿ちゃんが言っていたように使われている言語がバラバラなのですよね……」
「そこは心配ない。私に任せろ」
頼もしく胸を叩くと、ガラス戸を開けて中の木箱を取り出しては文字を読んでいく。
「麻酔薬に痺れ薬……お、これは日本語だな……拷問薬」
「拷問、ですか」
鳳凰堂がその木箱を開いて中身を出した。やはり小さな瓶と小さな紙。
「『拷問に使う薬。服薬して少し後に体の痺れ、震え、激痛を伴う体内の破壊による喀血が起き、三時間後に死に至る』……だって」
「どこが拷問なんでしょうか、最終的に死んでしまうのですよね?」
「こういうのは大体解毒薬があるんだよ。じわじわと増していく痛みに怯えさせて、『解毒薬が欲しければ情報を吐け』って感じでな」
「はあ……ならばその解毒薬も、この木箱のどこかにあるのでしょうか」
「かもな。だが、ある意味これは私に取って一番恐ろしい薬かもな」
「それは何故ですか?」
「今人の体を持つ私は、人と同じく痛みを感じるのだ。何度か話したと思うが、一瞬で終わる痛みならまだしも、炎で焼かれたり水で溺れたりと言った苦痛には耐えられない」
ホテルの火災に巻き込まれた話と、不死鳥伝説にて海に飛び込んだ話だろう。森子は頷いた。
「死んでは回復し、死んでは回復し……二度と味わいたくない苦痛だな。この毒も似ている、人に長く痛みを与えるだけの薬など、ゾッとする。まあ、溺死と少子と違って、生き返った時に体内の毒物は消えるのだが……それでも、長い苦しみは、苦手だな」
「……では、こんな薬捨てちゃいましょう」
森子は事もなげに鳳凰堂の手から薬を取り上げると、蓋を開けて部屋の隅に流してしまった。
「これで安心ですよね」
森子は、拷問薬を見つめる鳳凰堂の目が、らしくもなく怯えているように見えたのだ。
突然の行動に鳳凰堂は何も言えなかった。だが、森子の行動の意味を悟ると、「うん」と頷いた。
「薬品棚はこれであらかた調べ終わった。だが不死鳥伝説のことは分からずじまいだったな」
「残るはそちらの棚ですが……」
むしろ、そちらを先に調べるべきだったのかもしれない。その棚には書物が並べられていた。
だが、並んでいるのはどう見てもまともな製本がされていない本だ。
紙を束ねただけのようなものから、妙な革の装丁のものもある。
そのうちの一冊を、森子は手に取った。革の手触りから一瞬人間の皮を連想してしまう森子だったが、そういうわけでもなさそうだ。
ただ古いことだけが特徴の本。図書館の隅にでも放り投げて仕舞えば、たちまち見つけることができなくなるだろう、ただの本。
「読んで、みましょうか」
森子は鳳凰堂に尋ねる。無言の首肯で答えられた。
ごくり、と生唾を飲みくだす。
森子は、ゆっくりとその本を開いた。
「……」
開いた。
「……えっと」
開いた、のだが。
「これ、何語、でしょうか」
しかし、それは森子には読むことができなかった。それもそのはずだろう、英語と日本語がせいぜいである森子にその本を読めるわけがなかった。なぜなら――鳳凰堂も本に目を落とし、その異常性に気がついた。
「何だこれは。ぐちゃぐちゃだ」
そう、これもまた、薬品棚の木箱たちのように言語が混ぜられてぐちゃぐちゃだった。木箱と違うのは、その本に書かれるすべてのページすべての文章すべての単語すべてが、様々な言語体系で書かれていたことだ。
一つの文章に、アルファベットとひらがなと漢字とハングルが使用されている。
「日本語、中国語も混ぜて書いてるな。こんな文章、誰がこんなものどんな理由で書いたんだ」
「えっと、椿ちゃん」
本と睨めっこを開始した鳳凰堂に、森子が口を挟む。
「私にはアルファベットと漢字、仮名文字、ハングルが使われていることしか分からないのですが、文法の方はどうでしょう」
前述の通り、森子は英語ならばある程度読み書きができる。しかし、ならばとアルファベットのみの文章に目を滑らせたが、そのまま滑り切ってしまう。単語の意味は分かれど、それがどう組み合い意味になるのかがわからない。
「そうだろうな、アルファベットだけでもドイツ語もフランス語もスペイン語もある。そしてどうやら、一文節ごとに文法を入れ替えてるんだ。そのせいで読んだとしても意味が通らないままになってるところすらある。これは……読み終わるには相当な時間がかかるぞ」
「そんな……あれ。今、読んだとしても、とおっしゃいましたか?」
「おっしゃいましたが?」
「読めるのですか?」
「うん、読める」
その首肯は、あまりに軽々しかった。森子は思わず大きな声が出そうになるのを喉元で押し殺す。
「よ、読めるのですか!」
「同じことを何度も聞くな……薬品棚の木箱の時も言っただろう。単語が読めるんだから文章も読めるよ。私は世界中を飛び回っていたからな。現地を楽しむには現地の言葉を知っておいた方が絶対にいいだろう? 大体の言語は知っているぞ。マルチリンガルだ、すごいだろ」
鳳凰堂は腰に手を当てわざとらしく胸を張り、ポーズを取る。
「だから、本は任せろ。だがさっき言ったように、それでも時間がかかる。だから文法が読み取れない場合は単語だけを抜き出して、何となくで意味を読み取る方向でいく」
「わ、わかりました」
言うなり、鳳凰堂はペラペラと本をめくっていく。
「……半分日記なのか、これは」
ならばもう半分は、と気になったが、後で聞くことにした。
それから森子は、隠し部屋の中に鳳凰堂を残し、書斎へと戻った。いつ再び八木のように入ってくる人間が現れるかわからない。せめてそれを直ぐに察知できるようにはしたかった。
だが、鳳凰堂は中々本から顔を上げなかった。
度々隠し部屋を覗いてみるが、本に当てた懐中電灯の光が反射し暗闇に浮かぶ鳳凰堂の顔は、見る度に険しくなっていく。
そして二十分が過ぎた頃。鳳凰堂は顔を上げた。
彼女らしくもない、真剣そうな、何かを迷うような顔。
「何か、わかりましたか」
「……ああ、一応」
これもまた彼女らしくない、煮え切らない答えだ。
「不死鳥伝説の全貌と、それがどのようにして伝わったか、ですか?」
鳳凰堂は黙りこくり、しばらくしてようやく口を開いた。
「この本からわかるのは不死鳥伝説についてでは、無かった」
鳳凰堂は、もったいをつけて森子に明かす。いや、もったいをつけている訳ではないのかもしれない。判明した事実を伝えていいのかと迷うような。
「簡単に言おう、この本はな、お前の先祖が残したレポートだよ」
「私の、先祖、ですか?」
「ああ。中を、話すぞ」
そして、鳳凰堂はその本の中身を話し出した。
「本は、半分日記になっていて、もう半分が技術書やレポートになっているようだ。
おそらくこれを書いた人間は、日記を書きつつ、自らの持つ――いや、自らのコミュニティが持つ技術を後世に伝えておきたかったのだろう。
そう、お前の先祖はな。ある集団だった。的羽天窓も話していた不死鳥伝説にもあったな、この島にはかつて百人を超える人間が居たらしいということが。
奇妙なことに、彼らには国籍が無いらしい。いや、あったようだが、捨てたらしいことがわかる。さまざまな国から、国籍を捨てた人間が集まったコミュニティ。それがかつてこの島にいた。だからこの本の著者は言語を織り交ぜて書くことができたのだろう。あるいは、この本を簡単には解読させないためにわざわざ学んだのかもしれないが。
とにかく、そんな彼らもこの島で生まれた訳でも、どこかからこの島に集まった訳でもない。元々彼らは遠い国の片隅に寄り集まっていたらしいが、どうやら追放だか、追放されかけて船で亡命だかをしたらしい。その国の名前は書かれていないな。徹底してる。
何故彼らがそんな目にあったのか? 問題は、彼らが持ち、彼らが伝えようとした技術なんだよ、森子。
この本を書いた人間が属するコミュニティがやっていたことは宗教的とも言えるが、どうやら研究者の集まりだったとも言えるんだ。
その研究内容っていうのは――。
――生と死の研究だ。
輪廻転生……とは、また違うな。そこまでスピリチュアルでも無かったようだ。
人の産まれ方、人の死に方を研究していたらしい。
どう効率よく人が死ぬのか、どう効率よく人が産まれるのか、死んだら人はどこへ行くのか、生まれる前はどこにいたのか、それを探るために試行錯誤していたらしい。
そう、試行も、したらしいんだ。生まれる方ならともかく、死ぬ方も。試行して、錯誤していた。この本には、その研究の過程まで事細かに載っていた。医者から助かる見込みのない人間を譲り受けただの、ホームレスをさらっただの、あるいは純粋に誘拐を行なっただの。
だが、先ほど言った通り当然のことだが、お国にバレて追放しただか亡命しただかどっちかをすることになった。
船にありったけのものを詰め込んで、遠い遠い、海の向こうへと旅立った。
そして、二百日ほどの漂流の果てに、この島に流れ着いた。
ありったけのものを詰め込んだ、船が」
鳳凰堂は一旦そこで区切った。
森子はただ黙って聞いていたが、その顔は白かった。
鳳凰堂の話によれば、自らのルーツ、父のルーツ、会ったことのない祖父のルーツを辿れば、異常な殺人集団だった。その結論に行き着かないほど、森子は鈍くなかった。
「あ、あ」
心のどこかで平常を保っていたはずが、声がもつれていることで、それすら思い込みだったと気づく。
「あ、あ……ありったけのものって、なんですか」
「うん。続けてもいいか?」
「だ、大丈夫です」
「……ありったけのものとは――」
「――それは、人殺しの道具だ。人を殺すものと聞いて連想するものがあるか? なら、それの全てと、それからお前が知らないであろうありとあらゆるもの。単にナイフから、処刑道具や、刀剣の類も。
中には、動物の類も船に積んでこの島に持ってきたらしい。その中にはライオンなんかもいたらしい。雄雌あわせて四頭。どうやって保管していたのか……話が逸れた。
そして直接的な凶器から、毒薬や爆薬、暗器と言ったものまでこの島に持ち込まれたらしいな。」
「どうして」森子が口を挟む。
「どうしてそんなこと、わかるんですか。椿ちゃんは単語を呼んだだけ、でしょう? そんなに事細かに、どうして」
「正確には単語をメインに読み、文法が明らかなものはそのまま読んでるだけだが……そうだな、これを見ろ」
鳳凰堂は森子に本を開いて見せる。奇妙なことに、裏表紙から。
「これ、後半からこの島に持ち込まれたもののリストになっているんだ。ご丁寧にもイラスト付きで」
ペラペラと鳳凰堂は簡単にページを捲っていくが、そこには確かに、刀剣、処刑道具、獅子のイラストがあらわれ、次のページの影へ消えていく。やがて毒薬のリストにあたり、瓶のイラストが並んでいく。
「……わかったか」
「……」
「もし無理ならなんでもいいから態度で示せ。続けるぞ」
「追放され、この島にやってきた彼らは、ただ呑気に過ごしていた訳ではない。彼らはこの島でも研究を続けたらしいのだ。
そう、やはり試行して、錯誤した。
実験材料となる人は……まだ百人ほどいた訳だからな。
そうして、彼らは研究を続けていた。
ここからは何十年も飛ぶぞ。
彼らの数は半分近くにまで減ったらしいその時。研究の過程で、あるものが生まれたんだ。
その時の研究材料は、女性四人。
その果てに生まれたものは、生首四つ。
……わかるな?
ここで不死鳥伝説と繋がる。
昨日、お前に話したな。
その時、その場に現れたのはこの私だ。
私が、燃え盛る鳥、不死鳥として現れた。
この時の私は……まあ、なんだ、その。非常に錯乱していた。友を殺されてしまったわけだからな。発狂したと言ってもいい。私は大暴れして、周りを全て燃やし尽くした。彼らにはそんな私のみっともない姿が神秘的に映ったのだろう。
生と死の研究を続けていたら、最果てに至る鳥が現れた……なんて書かれているよ。全く……。
本の内容に戻ろう。ここからはあまり大したことは書いてない。この伝説を語り継ぐことに決めたらしい彼らは、研究の最果てを私に見出した彼らは、目立った動きをしなくなった。あとは緩やかに、ただ人口が減っていった。そして、この著者も六十五という年齢でこの本の執筆をやめている。日記のページは空白が続き、あとはリストだ。
これが、この本の全てだ。いや、かなり端折ったし、読み違えてるところはあるだろうが、うん、大体全てだ」
森子は全てを聴き終えた時、その場にへたり込んだ。
自分の父、的羽天窓はこの島で生まれた。
そして天窓の両親もこの島の生まれだ。
おそらく彼らの両親も。
ならば、森子の先祖こそが生と死の研究を行ない、祖国から追放を受けた異常者集団だったということになる。
自分の中に、その血が入っている。
森子はこれまで、どこか自分のことを主人公の様に思っていた。産まれてからこの歳まで孤島に拘束されている、悲劇の主人公。
いつか誰かが迎えに来てくれると思って、その誰かを待ち続けているつもりだった。
だが、結果はどうだろうか。これではまるでこの島は森子を外に出さないための檻ではなく、異常者集団の最後の一人を閉じ込めるための檻ではないか。
それは森子の勝手な思い込みではあった。だが、当事者である森子にとっては、自分自身という存在が大きく揺らぐ出来事でもあったのだ。
冷たくなった唇を結び、床を見つめる森子に、鳳凰堂は声をかける。
「……お前が今何を考えているか少し分かるよ、森子。だがな、何度だって言うがお前は彼らとは関係無いよ。彼らがしたことと、しようとしたことはお前には関係無いんだ」
自分を慰めようとする鳳凰堂の言葉を、森子は黙って聞いていた。
「それに、私はお前がお前で嬉しいよ。もしお前がこのコミュニティの子孫ならば、お前はあの子と血が繋がっているかもしれないんだ」
「あの子……ですか」
「そうだ、私の初めての友人であり、助けることのできなかった、あの子」
鳳凰堂は森子の手を取り、立ち上がらせる。
「今度こそ助けたい。お前を生きてこの島から外へと出したい。その時、お前が辛い顔をして欲しくない。だからそんな顔をするな、私は神では無いが、予言してやる」
その手を引いて、暗い隠し部屋から二人は書斎へと出た。高い位置の窓から差し込む日光が、二人を照らす。
「この館での出来事、それら全て最後にはハッピーエンドで終わると」